20 再度国境へ
アンジュをハヤーの寝室に送り出してから、ヒエイは落ち着きなく時間を過ごした。
アトラスとともにパーティー会場を抜け出し、カンゾウの用意してくれた服に着替えて屋敷のスタッフになりすましたものの、当面やることはない。アンジュに動きがあるまで待機。しかし寝室のある三階は静まり返ったままだ。
三階に続く階段の下に立って警戒中のスタッフを装いながら、時々イライラと懐中時計を取り出してはポケットに戻す。
「もうちょっと落ち着けよ、ヒエイ」
アトラスが肩に手を置いてなだめようとしてくれるが、それで言うとおりに静かになるヒエイではない。
「だって、遅いじゃないか。アンジュのやつ、何をやってるんだ。まさか、ナニかあったんじゃ……」
「そりゃ、まあ、ナニかしてるんだろうよ。ハニートラップなんだから」
「君はよく、そんな言い方ができるねぇ! よしてくれないか」
声が思わず大きくなった。そんな彼を、アトラスは怪訝そうに見つめる。
「なにを、そんなに苛立っているんだ」
「苛立ってなんかないよ」
慌てて否定したが、ヒエイは内心動揺していた。アトラスの言うとおりだったからだ。アンジュがあの老人にベッドでいやらしいことをされているんじゃないかと思うと、いてもたってもいられなかった。そんな自分の心の内を彼に見透かされているような気がして、体が熱くなった。
「悪かったよ」
アトラスは神妙な顔つきで一言ヒエイに詫びた。
「お前さんは優しいな。だけど……」
今のヒエイよりよっぽど優しい笑みをその髭面に浮かべて言いながら、ポケットに手を突っ込んで体をひねり、階上をみあげる。
「あいつも覚悟をきめてここに来てるんだと思う」
「どういう意味だい」
「あいつを信じて、あいつのやることを、受け止めてやろうぜ。ってことさ」
ヒエイは押し黙った。反論できなかった。もちろん彼だってアンジュのことは信じている。信じているからこそ仲間に誘い、彼女もそれに応えてくれたのだ。だけど、コロネルで仲間になって以来、どこか彼女に危うさを感じていたのも確かだった。ほおっておけばどんな無茶でもしそうだった。だからヒエイはひそかに願っていたのだ。アンジュにあまり無理をしてほしくない、と。とくに彼女自身を傷つけるようなことは。だって、今までだってずいぶん傷ついてきたのだろうから。
それがアトラスの言うところの優しさなのだろう。そしてその優しさが彼女に対する目を曇らせているのかもしれない、とも、アトラスに言われて思った。思いやるばかりで、自分はアンジュを抑え込もうとしてるのではないか。彼女の覚悟や気持ちを受け入れようともせずに。
「ありがとう。アトラス。君の言う通りかもしれない。僕は……」
もっと仲間の気持ちに寄り添えるようになりたいよ……。そう言おうとしたとき、三階フロアが突然騒々しくなった。
アトラスが三階を見上げながら身構える。
「おいでなすったぞ」
階段の上に人の姿が現れた。長身の恰幅のよい老人と、それに寄り添う赤いドレスの女。ハヤーとアンジュだ。
なぜかハヤーは上機嫌だった。酔っぱらったみたいに顔を上気させ、おぼつかない足取りで階段を下りながら、追いすがるスタッフたちを追い払っている。
「よいよい。お前たちはついてくるな。ネネコちゃんだけいいところに案内してあげるんだから」
「うれしい、おじさま。はやく連れて行って」
アンジュが猫なで声ですり寄りながらハヤーのたるんだ頬を指先でつつく。ヒエイとアトラスの存在に気付いた彼女は、一瞬視線を鋭くしてふたりにうなずいてみせた。
どうやら、聞き出すことに成功したようだ。
「いくよ、アトラス」
「ああ」
アトラスの声が若干震えているのは、どうやら笑いをかみ殺しているからのようだ。口に手を当て、肩まで震わせはじめる。
「おじさま。この方たちには守ってもらいましょう」
アンジュの言葉にハヤーはおとなしく従い、ヒエイとアトラスはふたりの両脇をかためた。これで、愛人連れのハヤーとその護衛という構図ができたわけだ。あとは四人で目的地へと向かうのみ。
アンジュの傍らに寄ったアトラスが、彼女に顔を近づけて訊ねた。
「それにしても、これはどういうことだよアンジュ。どうしてこいつ、お前の言う事きいてるの?」
「ちょっと、素直になる薬を盛ったのさ」
アンジュは得意げに答えて、ハヤーの二重顎を指でなでてやる。
「ねえ、おじさま。私の言うこと、なーんでもきいてくれるのよね?」
「うんうん。何でも教えてあげるよ、ネネコちゃん」
「ぷっ。気持悪りぃ」
噴き出したアトラスに、アンジュの刃のごとき視線が向けられる。それと同時に彼女のヒールがアトラスの足を容赦なく踏みつけた。
「あんた。なに笑ってんのよ。後で覚えておきなさい」
「いてて。わりいわりい」
「まあまあ、ふたりとも……」
ふたりをなだめようとしてヒエイは表情をこわばらせた。うっかり目にしてしまったのだ。ハヤーの手がアンジュの尻を撫でまわしているところを。
収まりかけた怒りがふたたびヒエイの胸の内に燃え上がる。
この野郎。あとで覚えておけよ!
〇
三人が連れていかれたのは、屋敷の裏手の菜園だった。その隅に鎮座する小さな管理小屋の前でハヤーは歩みを止めた。
「ここが、防毒マスクと解毒剤の保管場所だよ」
鍵を開けてもらい中に入ると、冷気が体にまとわりついてきた。しかし湿気てはおらず黴臭くも埃っぽくもない。この小屋はけっして封印の間などではなく、常日頃から使用されている場所のようだ。
ランプの灯りに、大きな棚と机が浮かび上がる。棚にはたくさんの本と、紙の束と、そして布のようなものがつまっていた。
「これだよ」
ランプを机の上に置くとそう言って、ハヤーは棚から布切れをひとつ取り出し、ランプの傍らに無造作に置いた。
「これが、その防毒マスクだ」
「この布で、口を覆うのか」
「そう。このように装着する」
ハヤーはその細長い布の中央部で鼻と口を覆い、両端を頭の後ろに回して結んだ。なんだか強盗みたいだなと思うヒエイに、さらに説明を付け加える。
「この布には解毒の成分が染み込ませてある。だからこの布を通して吸い込む空気は、あの花の毒の影響をうけない」
「それにしても……」
アトラスが不審そうに棚をみやった。
「俺はマスクは三着しかないって聞いたぜ。この布がそうなら、結構な数がここにはあるようだが……」
「ああ。二十着ある。わしが増産したんだ」
「作ったのか。なぜ」
「それはもちろん、山の向こうの世界と密貿易するためさ」
そう言ってグフフとハヤーは笑った。ねばりつくような嫌な笑いだった。
「なにせ山の向こうには珍しいものがたくさんあるらしいからな。王宮からくすねた本を読んで知った。いまは王室だけが独占している山の向こうとの行き来をわしもやって、密貿易で富を蓄え、それをもとにゆくゆくは……」
「それで、山の向こうにはもう行ったのか」
ヒエイが眉をひそませながらハヤーの言葉を遮った。この権力者の野望には興味はない。そのためにカンゾウの父を殺しその研究成果を奪ったのかと思うと、反吐が出そうだった。今、彼が知りたいことはただ一つ、このマスクが使えるのか。あの山を越えられるのかということだ。
ハヤーはヒエイたちの期待に反して、悄然と肩を落とした。
「いや。まだ越えたことはない」
「なぜ。このマスクで毒を相殺できるんだろ。あのお花畑を抜けられれば……」
「花の毒だけじゃ、ないんだ。あそこには……」
言いかけたハヤーは、しかし皆まで話すことができずに舌をもつれさせた。その上半身が不安定に揺れ、目の焦点が合わなくなり、瞼が何かを吊り下げられたみたいに閉じてゆく。
「ああ、だめだ。もう、時間切れだね」
アンジュが舌打ちをしてハヤーを床に寝かせた。
「この薬は服用した者を素直にさせて何でも吐かせるが、一方で脳の機能も衰えさせていく。つまり、質問に答えられる時間には限りがあるんだ」
「ってことは、こいつはもう、何も教えてくれないということか」
「ああ。少なくとも、今日この時間はもう無理だね。薬がぬけるには一日二日かかる。しかもそれで正気に戻っている保証はない」
「日を改めて、というわけにはいかんな。次の機会を待っている余裕はないし、ハヤーが生きていても、もう俺たちを近づけないだろう」
「そう。思いっきり害意があることがばれてるからね。もう機会はないと思ったほうがいいよ。つまり、私たちがこいつから聞けることは、これが全てということさ」
アンジュとアトラスが確認するように、ヒエイを見つめる。その問いに答えるようにヒエイはうなずいてみせた。
「じゃあ、死んでもらうか」
吐き捨てるように言って、アンジュは衣装の胸から小さな瓶を取り出した。ハヤーの頭を掴んで無理やり口を開けさせたかと思うと、瓶の中身を一気に流し込む。
「カンゾウさんの親父さんに、あの世で詫びな」
アンジュが手を離すと、ハヤーの身体は力なく床に倒れた。
ハヤーの死体をアンジュが隠している間、ヒエイとアトラスは棚の布を何枚かとりだし、ついでに文字と図がびっしり書かれた紙の束と何冊かの本も持参のカバンに入れた。最後にハヤーが言いかけたことが気になったが、それを考えているゆとりはない。とにもかくにもお花畑攻略のアイテムを手に入れ、カンゾウの親父さんの仇を討った。あとは速やかに退散するだけである。
外に出、ハヤーから最後に奪った鍵できちんと小屋に施錠してから、人気のない菜園を雨に隠れて横切る。もちろん本館には戻らない。警備の目を盗みながら敷地をぬけると、城門の傍に停車していた馬車の御者台で、小太りの親父が手をあげて彼らを呼んでいるのが見えた。
〇
荒涼とした草原の先の山のふもとには今日も、色とりどりの花々が、どこまでも、どこまでも咲きほこっていた。
見渡す限りのお花畑のただ中を、ヒエイ、アトラス、アンジュの三人はまっすぐに突っ切っていく。何度も繰り返された光景だ。しかし今回は、三人の顔半分が大きな布で覆われていることだけが違っていた。
「調子はどうだ。アトラス、アンジュ」
「よく、わからんな」
「とりあえず、今のところまだ、スージーは見ていないよ」
ヒエイもうなずいて周囲を見渡す。見える風景に変わりはない。地平までつづくかのような広大な花の園。その先にそびえる山脈。今日も雨脚は弱く、高い雲のところどころには隙間ができて白く光っている。
いつもならそろそろ、ここにいるはずのない、懐かしい人が姿を現すはずだ。そしてあたりが靄で覆われ、その中をさまよううちに村に戻っている……ということになる。
しかし、この日は違った。どこまで行っても誰も姿を現さない。スージーにも両親にも出会うことなく、靄があたりに立ち込めることもない。相変わらず視界は良好で、花はただきれいに咲きほこり風に揺れているだけだった。
「これは……うまくいったかな」
「ああ。この防毒マスクは効果があったね」
アトラスとアンジュが口々に楽観的な発言をする。ヒエイもそれを否定することはなかった。視界の先に、石ころだらけの地面が見えてきたからだ。それは永遠に続くかと思われたお花畑の尽きる場所だった。
もうすぐだ。あそこまで行けば。
三人の足取りが強くなった。その時だった。
「あれは、だれだ」
アトラスが立ち止まって前方を指さす。
言われて足を止めたヒエイは体をこわばらせた。そこに人がひとり立っていたから。
両親でもスージーでもない。しかしその人物は、ヒエイもアトラスもよく知っている人物だった。
金髪の若い女。少女のような容姿に似つかわしくない物憂げな表情。病的なほどに蒼白い肌。杏仁型の大きな目。引きずり込まれそうな深い水色の瞳……。
天使の付き人、メルラだ。
「お久しぶりですね」
彼女は相変わらずその見た目にそぐわぬ億劫そうな調子で言った。
「ここまでよく来ました。もういいでしょう。そろそろお家にお帰りなさい」




