2 決意
天気の天使を引きずりおろし、ある人物と交代させる。
デロス司教の発したその提案に、ヒエイとアトラスの両僧侶は同時に顔を青ざめさせた。
「天使をひきずりおろすなんて……。そんなこと、可能なのですか」
アトラスが恐る恐る尋ねると、司教は腕を組んで首を傾げた。
「うーん。わからん」
そこは任せておけと自信満々で請け合ってほしいところだ。不安がかきたてられたついでにヒエイはもう一つの不安を口にする。
「それに天使の代わりを頼むとおっしゃいますが、そんなことできる人が存在するのでしょうか」
「ああ、それは大丈夫だよ。そのお方は天使に引けを取らぬお力をお持ちだ。東方のナイアス神聖国におわす。ナイアス神聖国呪術庁長官兼寺院統括大聖人ヴォルヴァ様。わしは昔、そのお方に仕えていた」
ナイアス神聖国。きいたことがある。フレイア王国からは海を隔ててはるか東方にある国。暖かな日差しと適度な降雨により緑豊かな土地が広がっているらしい。穏やかな気候に加えて、海は澄み、山や田園には春夏秋冬、それぞれ色彩あふれる美しい風景が現出するとのこと。
本当に、そんなおとぎ話のような国が存在するのか。
ヒエイは半ばその存在を疑っていた。ヒエイだけではないだろう。話はきいたことがあっても実際に行ったことのある者はいない。このフレイア王国は現在鎖国しており、出入国が厳しく制限されていたためである。それでなくても交通手段と言えば馬車くらいしかなく、交通網も整備されていない上に悪天候が常のこの土地で、遠出をするのは不可能だった。故に、その夢のような国の名は、ほとんど伝説のようなものとして人々から認識されていた。
「先生が、ナイアス出身だとは知りませんでした」
「あの土地のように、この国もまた導けるのではないかと、昔のわしは思っていたのだ。まだ若かった。そして今、己の力不足に打ちひしがれる毎日だ」
「しかし、そんな偉い人が、国を出てここまで来てくれるのでしょうか」
「もちろん、ヴォルヴァ様自ら来ていただくには、大変な困難が伴うだろう。だが、わしは信じてもいる。求めるならば、あのお方はきっと、地の果てであっても救いの手を差し伸べてくださるだろうと」
デロス司教は机の引き出しから一通の封筒を取り出した。
「ヴォルヴァ様への手紙だ。これをおぬしらに託す。頼まれてくれるか」
アトラスもヒエイも、なかなか返答を発することができなかった。ことはあまりに重大で、即答できることではなかった。
先に口を開いたのはアトラスだ。
「まずは……。王や大臣たちにかけあって、この国の政治を立て直し、制度や設備を整えて……。そしたら少しは民の暮らしも良くなるかもしれない。それを目指すのはダメなのですか」
「そなたの意見はもっともじゃ」
司教は白い髭をなでながら遠くを見るような目をした。
「わしもかつてはそれを目指していた。先々代の王の時代から、数え切れぬほど建言し、幾度となく王や貴族連中を諫め、改革の必要性を説いた。しかし、その結果彼らがしてきたことといえば、新たな税の設立と、増税と、寄付のノルマの増加だけだった。あいつらはダメだ。しかしあいつらを駆逐するのは今のままでは至難の業だ。なにせ奴らは天使に守護されているからな。だから、天気を正すにしろ、政治を正すにしろ、どのみち天使の存在は排除せねばならぬのだ」
アトラスは黙り込んだ。沈黙が執務室のがらんとした空間に満ちる。
口の中がからからに乾いている。なんとか何か言おうとヒエイがつばを飲み込んだ時、部屋の扉が激しくたたかれ、若い僧がひとり入ってきた。
「大変です。丘の貯水施設の水門が開かれました」
〇
王都郊外の下町はあちらこちら水浸しで、その細い辻々は川のようになっていた。
丘の上の宮殿と貴族の邸宅街には生活用水のための貯水池がある。その水位が上がると、邸宅街にあふれぬよう、池の水は丘の下へと放流されるのだ。水は排水路を通って丘を下り、下町の各水路へと流れ込んでいく。しかし丘とは違って丘の下の街の貧弱な設備はその勢いを支えることができず、放流が行われるたびに街はしばしば水浸しになった。
せめて放流の勢いをもう少し絞ってくれたら。もしくは街の水路をもっとしっかり整備してくれたら。
それはヒエイでなくとも、この街のほとんどの住人が思うことだろう。
しかし、貴族たちは己の都合ばかりを考えて、下々に気づかいをすることはない。そして重い税と寄付は街の整備のために使われることはなく、そのほとんどは彼らの贅沢と天使への貢ぎ物のために使われるのだった。
「たしかに、司教様の言う通りかもしれないな」
民と一緒になって土嚢を担ぎながら、アトラスがヒエイの隣でぽつりとつぶやいた。
「王様や大臣に訴えて、しっかり彼らに国を治めてもらうようにすれば、なんとかなるんじゃないかと思っていた。まずはそれを目指すのが筋道ではないかと。でも……」
顔をあげて周囲を見渡す。
水浸しになって滅茶苦茶になった街。茫然と肩を落とす人々。その頭上に振り続ける雨。救いのない光景が、そこには広がっていた。
「そんなの、無理だ。王や貴族は自分のことしか考えていない。これは司教様が何十年も見てきた光景なんだ。何十年もかけて改善の策を考え、王や貴族に訴え続けて、それでも変わらなかった光景だ。望みをことごとく裏切られ、この光景を何百回とみるたびに、あいつらを改めさせることが不可能だという思いを司教様は強くしていったに違いない。今、俺は想像できてしまう。このままでは、この光景はこの先何百年も続く。この国は絶対に良くならない」
「うん、そうだね」
「ヒエイよ。俺は行くぜ」
アトラスは突然、決然とそう言った。そして振り向いてヒエイを見つめる。怒りを含んだ、しかし澱みのないその瞳だった。
「俺は、世の中を救いたい。俺たちの代で、こんなことは終わりにさせたい。お前はどうする」
「俺は……」
アトラスから顔を背け、ヒエイは歩き出した。
「すまん。ちょっと、行きたいところがあるんだ」
○
自分がそのような重大な役目を負ってもいいものだろうか。
歩きながらヒエイは悩んだ。
彼はこの国が嫌いだった。この国の気候も、政治も、社会の仕組みも、みんな嫌いだった。小さい頃からずっと願っていたのだ。このクソみたいな世の中から逃げ出したい。何処か別の世界に行きたい、と。
実を言えば今回の司教の提案は願ってもないことだった。堂々とこの国から出ていけるのだから。
だけど……。
ヒエイはデロス司教とアトラスの目を思い出す。心からこの国のために尽くしたいと願う、真摯で混ざりけのない瞳。自分はあんな目をしていない。自分がナイアスに行きたい理由はあまりに不純で、自分勝手だ。そんな自分が、デロス司教の命を奉じてアトラスと行動をともにすることが、許されるのだろうか。
ほとんど途方に暮れるように考えながら歩き回ったヒエイは、貧民街のぬかるんだ道で足を止めた。
教会前の整然とした街の建物たちとは大違いの、藁や布の屋根をかむった粗末な家々。そこはヒエイが幼いころに育った街だ。誰もがボロをまとい、誰もが飢えに苦しむ街。寒さに身を震わせ、病が流行ればたちまち大勢が死ぬ。ヒエイの父も母も、飢えと病で死んだ。デロス司教が拾ってくれなければ、ヒエイ自身も今生きていないだろう。
何回か路地の角を曲がると、小さな公園にでた。そこには一本の桜の木がたたずんでいた。
(この樹は、まだ、立っていたか)
そんなことを思いながらヒエイは桜の老木の前にたたずみ、その枝を見上げた。
両親との思い出はほとんどない。ただ数少ない晴れの日、母はよく彼を連れてこの樹の下に座り、物思いにふけっていた。目を閉じ、大気の香りをかぐようにちょっと顔を上向きにして、気持ちよさそうに深呼吸を繰り返した。
(感じるのよ)
そういうとき、母はよくそう言っていた。風を、空気を感じるの。そうすれば苦しみから精神を解放できる。自分の隠れた力を引き出すこともできるのよ。
そう、あれは珍しく晴れたうららかな春の午後だった。地面に散り敷いた桃色の桜の花弁をひとひら摘まみ上げて、母はそれに息を吹きかけた。するとたちまち地面を染めた花弁のすべてが舞いあがり、渦を巻いて天空へと駆けあがっていったのだ。それはヒエイが今まで生きてきた中で見た、最も美しい光景だった。
(でも、母さん)
ヒエイは桜の木の幹に手を置いて、祈るように目を閉じる。
(どれだけ耳を澄ませても、心を研ぎ澄ませても、僕の心は晴れない。この国に対する嫌悪感も、逃げ出したいという気持ちも)
そのときだった、路地の奥の方から何かが割れる音と悲鳴、そして男の怒鳴り声が響いてきた。
ヒエイは路地へ視線を向けると、音のする方へ駆け出した。
〇
怒鳴り声の主は、同僚の成績優秀者イワンだった。
藁ぶきの屋根が今にもつぶれそうなみすぼらしい家の前で、彼は地面にうずくまる女の背中を蹴っていた。
「とっととそのガキよこしやがれ。金品がねえというのだから、しょうがねえだろ」
「どうかお許しを。この子……この子だけは」
「うるせえ! 嫌なら金品出しやがれ」
よく見ると、若いその女の胸には五歳くらいの小さな子供が抱かれていた。容赦ないイワンの蹴りを受け続けながらも、女は泣き叫ぶ子供を大事に抱えてその盾となり、決してはなそうとはしない。
「この子を……お渡し……するわけには、いきません」
息も絶え絶えにうったえる女に、イワンは罵声と蹴りを浴びせ続ける。
「うるせえ、虫けらが。てめえの気持ちなんざどうでもいいんだ。てめえの生活や家族なんぞより、天使様のご機嫌の方が大事なんだよ」
そして高々と足をあげ、ひときわ強い一撃をおとす。女の口から悲鳴が漏れ、子供の鳴き声が一段と高まる。
ああ、うんざりだ。
その光景を目にしたヒエイは、ほとんど衝動的にイワンに向かっていった。
考えるよりも先に体が動いていた。
相手は国教会の僧。しかも成績優秀者で将来も嘱望されている人物だ。人望もあり身体は大きく力もある。手を出したらどんなことになるかわかったものではない。罰を受けることになるやもしれぬ。しかしそんなことはどうでもよかった。
正義感ではなかった。デロス司教やアトラスのような救国の高い志によるものでもない。ただ……。
その時、一瞬だけ、ヒエイの脳裏に母の笑みがよぎった。感じなさい。そして、風の吹くに任せるのです……。その言葉と共に。
(ただ僕は、あいつをぶっ飛ばさずにはおれない!)
そしてヒエイは走った勢いのまま飛び上がり、夢中で女をいたぶるイワンの背中に渾身の蹴りをたたき込んだ。
女を蹴るために片足をあげていたイワンは、バランスを崩してボロ屋の前のぬかるみに倒れ込む。
「ぶっ。だれだこの野郎!」
泥だらけで立ち上がり怒鳴り散らしたイワンは、ヒエイの姿を認めるとますます眉を吊り上げた。
「てめえかこの落ちこぼれ。俺様にたてつくとはいい度胸だな。この間違いだらけのクズが。俺のやり方に文句でもあるのか」
「ああ。大ありだよ」
「それはお前が間違ってる。俺のやることは何でも正しい。俺の考えは全部正解だ。俺の考え以外はみんな間違いだ。だからお前らクズは、だまって正しい俺の言うことに従っていればいいんだよ」
「ひとつだけ言っておこう」
ヒエイは冷徹に、むしろ哀れむようにイワンを見つめながら、彼に向けて両手をかざした。
「お前は、自分が思っているほど正しくもなければ、強くもない」
イワンの顔が醜くゆがむ。しかしそんなものは、もはやヒエイの眼中には入らなかった。
半目になって集中したヒエイの脳にイメージが広がっていく。地面に散り敷いた桜の花弁。母の吐息と共に渦を巻いて青空へと飛んでゆく、無数の桃色のきらめき……。ヒエイは長く息を吐き、そしてスッと勢いよく吸ってから一声唱える。
「大風よ巻きあがれ。暴虐なるなる輩を天空まで吹き飛ばせ」
目をカッと見開き、溜めていた気を一気に解き放つ。
ヒエイの両手から緑の光がほとばしる。それと同時に風が地面の数か所から勢いよく吹きあがった。
ゴッと大気が鳴り、ボロ屋の前に太い渦が巻きあがる。
恐怖にひきつるイワンの顔を見たのは一瞬のことだ。彼の体は引き千切られながら竜巻にさらわれて、あっという間にかき消えてしまった。
イワンが吹き飛ばされて間もなく、風は嘘のようにおさまった。ただ、上空の雲にはぽっかりと丸い穴が開いていた。
「あ……青空……」
身を起こした若い女が子供を抱いたまま空を見上げてつぶやいた。
(行くか。僕も。ナイアスに)
女と一緒に久しぶりの青空を見上げながら、ヒエイは思った。
志がどうあろうと、賽は投げられたのだ。ゆこう。風の向くままに。