16 魔の山
「あの山を普通の山と思ってはいけない」
そう、小太りの親父が声をひそめて言ったのは、彼の店の奥の客間だった。粗末なテーブルにはランプがひとつのっているばかりである。細長い窓の表面を雨水が流れ落ちているさまは、ふと、デロス司教の執務室を思い出させた。
のこのこと言われるままこの薬屋に舞い戻ったのは、親父の言葉に興味をそそられたからではない。もしこの人物が脅してくるようなら口封じをしなければならないと思ったからだ。なにせ、彼はヒエイたちが山越えをしようとしていることを知ってしまったのだから。
しかし、親父が低い声で告げたのは、ヒエイが予想もしないことだった。
「あの山を越えようと試みたものは今まで何人もいたんだ。しかし、成功した者はひとりもいない。ここ数十年、ひとりもだ」
意外だった。越えようとした人々がいたことも。誰もそれに成功したことがないということも。鎖国しているとはいえ、少しは行き来があると思っていたのだ。
「おかしいじゃないか」
大きな声を出したのはアトラスだ。
「なんで誰も越えられなかったとわかる。無事に向こうに行って、たんに帰ってこなかっただけじゃないのか」
「帰ってきたんだよ。みんな。越えられなくて引き返してきた。だから誰も越えられなかったとわかるんだ」
親父は首を振りながらため息をつく。
「ああ、そうだ。帰ってこなかった者もいる。そいつらは死体になって川を流れてきた」
つまり、山越えに挑戦する者は皆、越えられずに舞い戻るか死ぬということだ。
沈黙が部屋を支配する。
「なんで、そうなっちまうんだい」
次に口を開いたのはアンジュだ。ランプの灯に照らされた彼女の顔はいつも以上に不機嫌そうに見えた。
その鋭い視線に臆することもなく彼女を見返した親父は、我が意を得たりとばかりに口の端をあげた。
「それを、教えてやろうというのだ。わしの頼みをきいてくれるかわりにな」
○
その頼みとは何であろうか。固唾をのんでヒエイ、アトラス、アンジュの三人は小太りのオヤジの次の言葉を待つ。その三人に顔を近づけて、親父は聞こえるか聞こえないかくらいの小声で告げた。
「ある人物を、殺してほしい」
と。
そのセリフに、まず、アンジュの目がキラリと光った。
「誰を、だい?」
「標的の名はハヤー。今、この地方を支配している男だ」
「なぜ?」
「わしの父の、仇なんだ」
ハヤーはこの村を含む国境近辺の地方を支配している男だった。彼は王室の歓心をかうためと私腹を肥やすために村々に重い税を課していた。とくに薬草の徴収に熱心で、しばしば指定の薬草の納品が言いつけられた。もちろん王室に献上するためである。何の薬を納めるかは彼が決め、それの納品は絶対。手に入る入らないは考慮に入れない。彼が納めよと命じたものは必ず納めなければならない。それはしばしば薬屋の運営を圧迫し、庶民への薬草の供給が滞るほどだった。親父の父はかつてハヤーのそのやり方に抗議したたために、ハヤーによって処刑されてしまったのだった。
「ハヤーの野郎を消せば、父の仇を討ったわしの気も晴れ、民も喜ぶ。あんた方は山を無事に越えられる。いいことずくしだろ」
親父はヒエイとアトラス、そしてアンジュを順に見やる。ランプの灯を映す、その目は真剣そのもので、そこに嘘偽りが隠されているようには見えなかった。
「どうだ、旅の方々。あんた方を見るに、この手の仕事も手掛けてきたように見受ける。のってはくれんか」
親父の見立ては間違ってはいない。たしかに、ヒエイもアトラスも刺客を返り討ちにしてきたし、アンジュに至っては殺し屋である。しかしヒエイはどうも気がのらなかった。
「せっかくだが、僕はその話にはのれない」
「なぜ」
「ここいらの地方を支配しているというからには、そのハヤーという男には護衛がついているんだろ」
「まあな。屋敷は厳重に警備されているし、外出するときは一個小隊の護衛が必ず付く。しかも影武者ののる馬車を同行させている。その他に村の政府支局にいるときは、特務支局員がさらに警備に加わるんだ」
「鉄壁じゃねえか。そいつらも相手にするのは骨が折れるぜ」
アトラスが眉をひそめれば、アンジュもポーカーフェイスをわずかに曇らせる。
「ひそかに殺るとしたって、隙をみつけるのも難儀だね」
「そういうことだ。その相手は一筋縄にはいかない。殺そうとすれば必ず騒ぎになる。国境を侵すということはただでさえ大ごとだ。その前にできるだけ騒ぎを起こしたくないんだ。それに……」
いったん言い淀んでからヒエイは告げた。
「もし暗殺がうまくいき、僕たちが無事に山を越えたとして、事件の捜査はここでつづくぞ。親が殺されている君はまっさきに疑われる。動機があるからね。直接手を下してなくても殺害を依頼したことがばれればただではすまない。いや、ひょっとしたらやつらは罪をでっちあげるかもしれない。危険だよ」
「かまわねえよ。それにあいつを恨んでいる奴は大勢いるんだ」
親父は何のためらいもなく、即答した。そんなことは先刻承知だ。それでもいいからハヤーの奴は消してほしいんだ。そう言う親父の顔には、一片の曇りもない。
ヒエイは身を乗り出して親父の顔を見つめた。髭を生やした、小太りの親父。先刻薬草の買取をしたときに見せたこずるさは今、その表情からまったくきえている。彼は目をそらすことなく真っすぐヒエイを見返してくる。しかしヒエイは、信じていいのかわからなかった。
「のれねえな。山の秘密とやらも本当かわからねえし。とにかく登ってみるのが先だと思う」
「私も。リスクが高すぎる」
アトラスとアンジュがつぶやく。ヒエイもそれに同調して深くうなずいた。
「親父さん。申し訳ないが、僕たちはこのままいくよ。話を聞かせてくれてありがとう。このことは他言はしないから安心して」
そう言って席をたった。
〇
村をあとにすると、坂道の先に山はさらに大きくそびえていた。
瓦礫や岩が散乱する坂にいつの間にか道は消え、丈の短い草が心細げに風に揺れるばかりの荒涼とした光景が広がる。人の立ち入らぬ、広大な斜面と荒原。歩いても歩いても、山は近づく様子を見せなかった。
しばらく行くと土の色が視界から消え、草原の緑の中に青や黄色といった色彩が点々と浮かび出した。歩みを進めるうちに、風景に占めるそれら色彩の面積も種類も瞬く間に増えていく。
アンジュが足を止めてしゃがみ込み、一輪の黄色い花をもぎ取った。
「わぁ……」
摘んだ花を抱きながら立ち上がり、辺りを見渡した彼女はため息のような声を漏らす。
それはお花畑だった。青、黄、オレンジ、紫……いろんな色の、天然の花々が地面を埋め尽くして咲き誇っている。誰が手を入れたわけでもない、野生の高山植物のお花畑。その光景は見渡す限りどこまでも広がっているのだった。
「すごいねえ。こんなきれいなところがあるなんて、知らなかったよ」
声を弾ませるアンジュ。その肩をニヤニヤしながらアトラスがつつく。
「おめえさんにも、そんな乙女チックなところがあるとはねえ。ちょっと安心したぜ」
「なによ」
振り向いたアンジュの目が殺気を放つ。
笑いながら飛びすさったアトラスに刃のような鋭い視線を投げながら、アンジュはぶつぶつと独り言のように言った。
「この花の中には毒草もありそうね。摘み取っておこう。アトラス。あんた、食事のときは気をつけておくことね」
「やめておくれよアンジュ。君が言うと冗談にきこえないから」
ヒエイが苦笑しながらなだめると、アンジュもかすかに表情をやわらげて口元に笑みを浮かべた。どうやら本当に怒ってはいないようだ。
「それにしても……」
風になびく金髪をおさえながら、アンジュはまたお花畑の風景を眺める。
「天国があるならきっと、こんな風景なんだろうね」
今日は天気も悪くない。朝から小雨だったがその勢いは山に近づくにつれますます弱くなって、今は細かい水滴がたまに頬にかかる程度だ。山もよく見える。空を覆う雲のところどころには隙間ができていて、そこから白い光が漏れていた。
「あ。あれ!」
アンジュが突然声をあげて前方を指さした。
ヒエイとアトラスも弾かれたようにそちらに顔を向ける。
そこには一人の女の子が立っていた。白いワンピースを着て、何本かの花を胸に抱いて、こちらに笑いかけている。ヒエイは思わず息をのんだ。こんなところに少女がひとりで突っ立っていたからではない。その顔を彼は良く知っていて、そして彼女がここにいることがあり得ないことだったから。だって、その子は……。
「スージー……」
うわ言のようにその子の名を呼んだのはアンジュだ。彼女は吸い寄せられるように少女に歩み寄っていく。すると少女は……スージーは身をひるがえして、笑いながら駆け去った。
「待って」
アンジュも少女の後を追う。
「待つんだアンジュ」
「おい、姉ちゃん。勝手にどっかにいくな」
ヒエイとアトラスもアンジュに続く。いつの間にか靄がかかっていて、それは脚を進めるごとに濃さを増していった。
丘の斜面を駆け上り、尾根をこえたところでアンジュは足を止め、ヒエイとアトラスも彼女の隣にならんで立ち止まった。いつしか少女の姿は全く見失っていた。お花畑は途切れ、目の前にはまた、荒涼とした地面が広がっている。
「本当に、あそこは天国だったのかもな」
しょんぼりと肩を落とすアンジュの頭を、アトラスがポンとひとなでする。
「さあ、先を急ごうぜ。山はもう、すぐそこだ」
周辺にたちこめていた靄も晴れつつある。目の前には空を支える壁のように山脈がそそり立っている。そしてその山々を背景として、赤い瓦を葺いた屋根たちが……。
「ん? 屋根?」
その時、靄が嘘のように晴れた。
「ねえ、これって……」
「うそだろ……」
目の前に広がっている光景が信じられず、ヒエイは目をこすった。アトラスも、アンジュも。みな声も出せずに愕然とその場に立ち尽くすしかなかった。
坂道を挟んで立ち並ぶ石造りの家々。赤い瓦を葺いた屋根たち……。それは彼らが今朝発ってきたはずの、カヤ村の風景だったから。




