13 アンジュ 前
夕暮れの倉庫街に、夜の帷が降りようとしていた。
薄闇迫る倉庫前の広場に、ヒエイとアトラスそしてアンジュの他に立っている者はおらず、凶器をふるう者の姿もない。どうやら刺客はすべて倒すことができたようだ。
「終わった……のか」
「ああ、そのようだ」
そう言葉を交わしながらも、ヒエイもアトラスも動かない。戦闘の余韻にひたるようにその場にたたずんで広場を見渡しているばかりだ。
アンジュは二人を置いてその場をあとにしようとした。
「じゃあ、私は行くよ」
九節鞭を腰に巻き付けながら、広場の出口に向かって一歩踏み出す。
「ちょっと待って」
「なんだい」
つい面倒くさそうな言い方をしながら振り返ると、ヒエイが真剣な目で彼女のことを見つめていた。
「僕たちと、一緒に行かないか」
このお人好しの僧侶の発した言葉に、アンジュは思わず「はあ?」と素っ頓狂な声を漏らしてしまった。
「あんた。正気かい? 私は刺客。あんたを殺そうとしたんだよ」
言いながら、アンジュは昨日今日の出来事を振り返る。そう、私はこの男の命を狙った。その悩みに付け入り、純粋な心をもてあそび、嘘をついて取り入って、油断させて殺そうとしたんだ。本来だったらこの場で私が殺されていてもおかしくはない。
「どの面下げて、あんたたちと旅をするってんだい」
自嘲するアンジュに、ヒエイは優しく語りかける。
「でも、君はもう刺客じゃない。僕をたすけてくれたじゃないか」
「それは、借りを返したからで……」
そう、あの丘の上の墓所で命をたすけられた。そして彼らは妹スージーの恩人だった。だからこの戦闘で助太刀した。それだけのことだった。仲間になろうなんて、そんなこと露にも思わなかった。
「でも、いいのか。お仲間を殺しちまったんだぜ。もとの組織にも戻れまい」
そう言ったのは巨漢のアトラスだ。
それにはアンジュは苦笑で応えた。
「あんたが心配することじゃないよ。前から辞めたかったんだ。だから奴らを手に掛けたことは後悔していない。刺客どうし、交流も情もなかった。それにあいつら外道ばかりだったし。私が言えたことでもないけど」
そもそもこんな仕事を嫌々ながら続けていたのは田舎の祖父と妹に仕送りをするためだった。彼らがもういないのなら、こんなことをする理由はもうない。
「これからどうするんだよ」
アトラスの口ぶりはあくまで気づかわしげだ。友達をもてあそんで殺そうとした彼女をあんなに怒っていたのに。
まったくどいつもこいつも……。
急に苛立ちが、アンジュの心につのる。私に優しくなんかするんじゃないよ。私のことは放っておいてくれよ。私は卑劣な暗殺者。ひとりぼっちが妥当だよ。これ以上、関わろうとするんじゃない。
「イルマ村にもどって家族を弔う。あんたたちのやろうとしてることなんか、興味ないね」
冷たく言い放って、今度こそ彼女は歩きはじめた。そう、仲間になれるとも思えない。彼らの計画を信じられないから。ナイアスに行って偉い人を連れ帰り、天気の天使をやっつける? まったく荒唐無稽だね。そんな旅には付き合えないよ。
「明日の朝、東門で待っている」
広場をあとにしようとするアンジュの背に、ヒエイの言葉がかかる。
「気が変わったら、来てくれ」
去り際一瞬だけ振り返ると、ヒエイとアトラスは兄妹でも見送るみたいに名残惜しげな様子で彼女をみつめていた。
〇
アンジュがゴードン商会本店に戻ったころには、日はすっかり暮れていた。
ノックをして会長の執務室に入ると、いくつかのランプの灯りが薄暗い空間に浮いていて、アンジュの胸が一瞬ざわついた。今日の七番街でのショッピングの光景が脳裏をよぎったから。
「もどったか」
マナウス会長の声に我に返ったアンジュは、慌てて姿勢を正す。
「はい会長。ただいま戻りました」
大きな執務机に置かれたふたつのランプの光の間から、マナウス会長が視線をこちらに向けていた。彼はしばらくアンジュの無表情を眺めると、やがて一つ息をついて机上の書類に目を落とした。
「彼らと一緒に、行ったのかと思った」
「まさか」
「いいんだぞ、行っても」
「興味がありません。なぜ、会長はそのようなことを……」
「興味がありません……か」
アンジュの言い方をまねして、会長はささやくように笑った。
「迎賓館に戻ってから彼らの行方を尋ねた後、あんなに慌てふためいて出ていったのに。お前さんがあんな心配そうな顔をするのをはじめてみたよ」
そんなわけない。……とアンジュは思う。私は冷徹無比な暗殺者だ。演技以外では決してポーカーフェイスを崩すことなく、眉一つ動かさずに人を殺める。それはマナウス会長の秘書としても同じ。鉄仮面。それが同僚達から陰でつけられたあだ名だ。その私がまさか……。
会長の言葉に何も返せず、アンジュは黙って彼の机の前に進み出た。そして一枚の封筒を差し出す。
「これは?」
「退職願いです」
「このために、戻ったのかね。優秀な君が、ヒエイ君たちと行かず、会社も辞めて、あとはどうするつもりなのだ」
「田舎に帰り、祖父と妹を弔います」
マナウス会長は封筒を取り上げて、しかし中は見ずにまた机の上に置いた。深いため息がその口から漏れる。
「なぜ、君は嘘をつくのか」
アンジュの胸がひとつ鼓を打つ。背中に緊張が走る。この男、まさか自分の正体を知っているのか。ならば生かしておくわけにはいかない。
制服のポケットに忍ばせたナイフを取り出そうとして、しかしアンジュはその手をとめた。
いいや。私はもう暗殺者はやめたんだ。会長から何を言われようが受け入れよう。偽りの自分はもう、いなくなったのだから。
「一月前、会社にやってきたときから君はそうだった。本当は優しいのに、冷たいふりをしていた。いつも人を気遣っているのに、わざと興味がないように振舞っていた。人から声をかけられて嬉しいのに、不愛想な態度をとって」
「そんなことは、ありません」
「今だって、彼らについていきたいのに、田舎に帰るなどと言って」
「嘘ではありません。私は……彼らについていこうと思いませんし、田舎に帰りたいのです。会長はなぜそんなことをおっしゃるのですか。私は……」
心臓が胸をゆらさんばかりに激しく鼓動している。アンジュは声を震わせて懸命に抗議した。違う。私は優しくなんかないし、人のことなんか興味もない。他人とかかわりたくないしひとりでいたいと思っている。何を言っているんだこの爺さんは。私のことなんか何もわかってない。私は、本当は……。
「アンジュ君。君、泣いているよ」
会長の言葉にアンジュは頬に手をあてる。その指先に水滴が触れる。本当だ。なんで、私は涙なんかを……。
「やれやれ」
会長が苦笑しながら、机に肘をついてアンジュを見つめる。ランプの灯りを映したその瞳は何もかも見透かしているかのようだった。
「もっと自分の心に耳を澄ませたまえ」
「失礼します」
アンジュは会話を切るように頭を下げ、会長に背を向ける。そして逃げるように執務室を後にした。
〇
暗い夜道を、息を切らしながらアンジュは走った。
夕方よりも雨脚は強まっている。道行く人の姿は絶えてない。ただ幾百億の雨粒の、家々の屋根や壁を叩く音だけが暗い空間を満たし、濡れた石畳が街灯の明かりを反射して銀色に光っている。
そんな中を外套も着ず傘もささずに、アンジュは制服のメイド服をびしょ濡れにしながら走った。朝には一糸乱れずに決めていたお団子ヘアーは夕方の戦闘と雨ですっかり乱れ、額や頬にかかった後れ毛からはとめどなく雨水が滴り落ちる。
雨に濡れていないと、どうにかなってしまいそうだった。
彼女の胸に刺さったマナウス会長の言葉が、ぐいぐいと食い込んでくる。認めたくなかった。でも、そのとおりだ。彼女はずっと自分の本当の心から目をそらしてきた。心を殺して生きてきた。
怖かったからだ。
このどうしようもない世界から逃げたがっていることを、この世界が変わったらいいなと思っていることを、認めるのが怖かった。それはかないっこない望みだから。かなわぬ夢を見続けることは、とても苦しく、恐ろしいことだった。
「この世界を受け入れ、与えられた環境での幸福を追い求める。それでは駄目なの?」
アンジュは自問する。ダメなことはない。それだって立派な生き方だ。多くの人間がそうやって生き、命をつないできた。間違ってはいないはず。でも……。
アンジュは力なく首を振る。
私は出会ってしまったんだ。あのふたりに。私は今、選ぶことができる。
気がつくと、自分のアパートの前に立っていた。
石造りの建物の外階段を上りながら、アンジュは逡巡する。
約束は明日の朝。このままベッドに入って眠りにつけばそれで終わりだ。それとも旅支度をして、すぐに部屋を出るか……。部屋のドアを開けるまでに決めなければならない。
だが、決められなかった。
迷ったまま恐る恐る取っ手を掴む。目を閉じ、心を無にしてドアを開ける。
よし。私は……。
「よお、遅かったな」
突然、部屋の奥の暗闇から人の声がして、考えていたことが四散した。思わずアンジュは身を引く。
「そんなに驚くなよ。俺だよ」
部屋の中にランプの灯がともる。橙色の光に照らされたその人物の顔を見るまでもなかった。その声はアンジュがよく知る人物のそれだったから。
「隊長……」
そう言って、アンジュはまた一歩後ずさった。




