11 彼女の素性
アンジュは生きていた。
しかしダメージは大きいらしく、壁にもたれてうずくまったまま、ヒエイたちが近づいても動こうとはしなかった。
「俺の掌底をまともにくらったからな。しばらくは動けまい。……とどめをさすか」
アトラスはそう言って脇によけ、ヒエイに道を開ける。
前に進み出たヒエイは、手をアンジュに向けてかざした。しかしその姿勢のまま沈黙し、なかなか魔法を発動しようとはしない。
「なにしてんだい。殺しなよ」
やがてうなだれたまま、アンジュが消え入りそうな声でつぶやく。
「ひとつ、君にききたいことがある」
「なんだい」
「君が街で僕に言ってくれた言葉……。あれらはみんな、嘘だったのか」
アンジュは顔を伏せたままわずかにそっぽを向き、自嘲するように鼻をならした。
「もし、あんたがナイアス行きをやめると言っていたら……」
少しの沈黙の後、やがてひとりごとのように吐き出す。
「命をとることだけはやめてやろうと、思っていたんだけどね」
ヒエイの心がわずかに揺れた。そこに、街で一緒にパンケーキをほおばり、頬にクリームをつけてほほ笑んだ彼女の表情がよみがえったからだ。まったくの嘘ではなかったと思いたかった。あのアンジュも間違いなく彼女の一部だと、信じたかった。
ヒエイは歯を食いしばる。しかし彼女は紛れもない刺客だ。彼らの行く手を阻む敵だ。それは動かしがたい事実だった。
「僕はナイアスに行く。それは変えない。だから、それを邪魔する君を放ってはおけない」
「そうさ。私はあんたの敵だから。だから、はやくとどめを刺しなよ」
「最後に、言い残すことはあるかい」
その時ようやく、アンジュが顔をあげた。その目から一筋の涙がこぼれ落ちる。
「スージー……」
〇
スージー。アンジュが発したその言葉が、彼女にとって何を意味するのかは分からなかった。誰のことなのか、そもそも人名なのかも知る由もない。しかしその単語にヒエイは反応しないわけにはいかなかった。
スージー。
ヒエイにとってその単語は特別だ。その言葉の響きを耳にすればいつでも思い出してしまう。あのイルマ村で見上げた星空。そして一緒に星を見た少女を。
「スージーとは……誰のことだい」
ヒエイはかざした手を少しだけ下げて訊ねる。ゆっくりと、慎重に。その言葉が逃げてしまわないように。
一方アンジュは投げやりに答える。
「妹だよ」
そして力なく空を見上げた。
「兄がいるなんて嘘さ。本当は妹なんだ。爺さんと一緒に田舎に残してきた。でも、そんなこともういいよ。いいからさっさと私をころ……」
「スージー! イルマ村のスージーか! 図書館の」
ヒエイが遮るように言うと、アンジュは目を見開いて彼のことを見た。
「なぜ、それを……」
「僕はイルマ村で彼女とおじいさんに一晩世話になったんだ。そして一緒に星空を見た」
そしてかざした手の構えを解き、スーツのポケットからブレスレットを取り出して差し出した。あの日以来、肌身離さず持ち歩き、しかし身につけることができなかったブレスレット。スージーが星空のお礼にくれた、彼女の形見。
ヒエイの手の中で煌めく小さな翡翠に、アンジュの視線が吸い寄せられる。開いた目がさらに大きくなり、その口が声にならない驚きを発してわずかに開いた。
「そう……」
ブレスレットを受け取ると、アンジュはそれを胸に抱いて目を閉じた。
「……この翡翠は、偽物だよ。小さい頃、祭りの露店で買ってあげた、おもちゃさ。こんなもの、あの子はまだ、大事に持っていたのかい」
やっとそれだけ言うと、彼女は目を閉じたまま、祈るように雨空に顔を向けた。
「スージーは、元気だったかい」
アンジュの問いに、ヒエイは答えることができなかった。
言えなかった。殺されたなんて。自分でさえ今でも受け入れられず、信じることもできないのに。
しばらくの沈黙のあと、その悲しい事実を告げたのはアトラスだ。
「彼女は、残念だった。暴漢に襲われて……。やったのは、俺たちを狙った刺客だった。たすけることができずに、申し訳ない」
アンジュは彼の言葉に反応せず、しばらく瞑目したまま空を仰いでいた。まるであの雲の上に昇った妹の魂に語りかけているように。
やがて目を開いたアンジュはゆっくりとヒエイたちの方を向いた。
「妹を殺ったやつは、どうした」
「すぐに俺たちが成敗したよ」
「本当だろうね」
「ああ。誓って」
アンジュの表情にはいつもの冷静さが戻っている。真偽を確かめようとアトラスとヒエイをまじまじ観察する、その切れ長の目の中で、漆黒の瞳が鋭い光をはなっていた。
その瞳の中に映るのは、スージーとの想い出だろうか。それとも、ヒエイの今までの立ち居振る舞いだろうか。彼女はきっと今、目の前の男の言葉を信じていいのか迷っている。たしかに、にわかには信じ難いことだろう。そもそもさっきまで命をかけて闘っていた敵の言葉なのだから、疑われてもしょうがない。ひょっとしたらヒエイたちこそが犯人と間違われるかもしれない。もしそうだとしたらその誤解は心外極まる。しかしスージーを守れなかったのは事実だ。彼女の死に対して何の弁解もできないヒエイは、ただ悄然とたたずむほかはなかった。
しおれきったヒエイをしばらく見つめたアンジュは、やがて手の中のブレスレットに視線を落とし、寂しそうに頬をほころばせた。
「妹の仇を討ってくれたんだね」
ポツリとつぶやいて、ブレスレットをヒエイに渡した。
「これはあんたが持っていてよ。私はすぐに無くしちゃうからさ」
意外な柔らかい声でそう言うと、ほっと息をついて壁にもたれかかりまた空を見上げた。その顔に笑みが広がる。あの妖艶な毒々しい笑みではない。デート中に見せた謎めいた控えめな笑みでもない。解き放たれたような、晴れ晴れとした笑み。今まで見た中で一番自然な彼女の笑みだった。その表情はあのスージーのそれを彷彿とさせた。
「ああ。今日もクソみたいに、雨だね」
そして静かに目を閉じる。
「もう、思い残すことはないよ。はやく妹のところにやっておくれ」
ヒエイはそんなアンジュの傍に寄って膝をつき、右手を彼女の腹にかざした。
息を長く吐きながら念を送る。彼の掌に宿った緑の光が、蛍の腹のそれように穏やかに明滅する。
「どうして……」
やがて立ち上がって立ち去ろうとしたヒエイの背に、アンジュの声がかかった。
「私は刺客だよ。なぜ、助けるの」
数歩歩いてからヒエイは答える。
「スージーの姉には、生きていてほしいと思うから」
「甘いね」
アンジュが鼻で笑うのが聞こえた。しかし、もう攻撃してくることはなかった。その代わりに彼女はやけにのんびりとした声で告げた。
「刺客は、まだまだこのコロネルに潜伏している。何人いるかはわからないが、今夜、一斉にあんたたちを襲う手はずになっているよ。気をつけな」
「ご忠告、ありがとう」
立ち止まって肩越しに振り返ると、まだ地べたに尻をついたアンジュが、いつものポーカーフェイスに戻って静かに彼らを見送っていた。その表情に、ふと唐突に、本屋で棚を見上げていた彼女のそれが重なった。
「天文学の本だったよ」
「えっ?」
「スージーの読んでいた本。彼女は、星空にあこがれていた」
それだけ言い残し、今度こそヒエイは広場から立ち去った。
〇
街はずれの倉庫街は夕暮れ時ともなると閑散としていて、思った通り人っ子一人いなかった。
早急に旅支度を整え、マナウス会長に丁重に礼を述べて迎賓館を後にしたヒエイとアトラスがめざしたのは、ここ、コロネル東の城門付近の倉庫街だった。今夜襲撃があると分かった以上、迎賓館にとどまるわけにはいかない。世話をしてくれたゴードン商会の人々に迷惑をかけたくはなかった。
雨の音が薄暗い空間によく響く。赤煉瓦の長い建物と建物の間の広場に立ち働く人の姿はないが、あちらこちらの物陰に、怪しい気配が充満していた。
「ずいぶんいるねアトラス」
「ああ。どいつもこいつもついてきやがった」
もちろんこんな寂しいところに来たのはこちらの作戦だ。商会の迎賓館や街中で暴れられたのでは住民に被害が出るかもしれない。今夜襲ってくるであろう暗殺者が何人なのかはわからぬが、人気のない広いところにおびき出して、一網打尽にしてやろうという魂胆だった。
作戦の第一段階は成功のようだ。荷箱の陰や屋根の上からにょきにょきと、黒い影法師が姿をのぞかせる。
その数を数えながら、アトラスは低く笑う。
「八人はいるな」
「のぞむところだ」
「ビビってないか、ヒエイ」
今度はヒエイが喉の奥で笑った。不思議なことに、まったく怖くない。それどころか勇気がとめどなく湧いてくる。
「いつになく、僕は調子がいいんだ。今なら、どんな凄い魔法も放てる気がする」
なぜなのか、ヒエイにはわかる。それはスージーの姉が生きていたから。それが、あのアンジュであったから。それはスージーが生き返るのと同じくらいに嬉しいことだった。それから……。
「アトラス。こんな時だけど、笑わずに聞いてくれよ」
ヒエイは周囲に注意を向けながらアトラスに話しかける。
「僕には君のような志はない。それがずっと引け目だった。だけど、そんな僕を君は見捨てなかった。ありがとう。そしてわかったよ。僕は君と一緒に行きたいと思う。たとえ自分の志が弱くても、君が行くから僕も行く。僕を見捨てなかった君の見ようとする景色を、僕も一緒に見たいと思う」
アトラスもまた振り返らずに、前を向きながら照れ笑いをした。
「へへ……。そりゃ、どうも。じゃあ、ますますこの戦いは負けられねえな」
掛け声とともに黒棒を構える。
「さあ、いっちょやったるか」
「おう」
ヒエイも応えて手のひらを掲げ、大きく息を吐きだした。