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10 刺客

 アンジュが袈裟懸けに斬り下ろしてきた一撃を、ヒエイはかろうじてかわした。


 しかし安心している暇はない。いったん空を斬った切っ先が、間髪を入れずに鋭い突きとなってヒエイの喉笛を襲う。恐ろしく素早く、そして正確な一撃。後ろに飛び退りながら思いっきり身をのけぞらせるヒエイ。その鼻先を、細い鋼鉄の突風がかすめていく。


 避けたはいいが、足が動きに追い付かず、ヒエイは石畳に背を打ち付けて倒れてしまった。そのすきを逃すまいとアンジュが追撃してくる。倒れたヒエイの上に覆いかぶさるようにして、細剣を握った右手を左肩のそばまであげ、今にも刃を横に薙ごうとしている。彼女の漆黒の瞳はいかなる感情もにじませず、そのポーカーフェイスは普段と全く変わりはない。


(なんで彼女は、こんなことを……)


 理由はわからない。わかるのは、アンジュが本気でヒエイを殺そうとしていることだった。今までの二人の時間などなかったかのように。まるで猟師が獣を殺すように。


(こんなところで、死んでたまるか)


 ヒエイはめくらめっぽうに蹴りを繰り出した。見栄も外聞もない。ただ助かりたい一心で、アンジュの攻撃を阻止しようと、駄々っ子のように両足をばたつかせる。手ごたえはない。蹴りはことごとく空振りとなるがそれでも相手をひるませることはできたようだ。


 アンジュの攻撃が止まった。

 その一瞬を逃さず、ヒエイはその場から離れようとする。今の状況は不利だ。不意打ちを受けて心乱れている。精神を整えないと風の魔法はうまく使えない。そのためにはひとまず相手と距離を取らなければ……。


 両手と両足を使い、文字通り脱兎のようにその場所から飛びのく。できるだけ遠くへ。せめて呼吸が整えられる距離。できればこの広場から出て完全にアンジュから逃げてしまいたい。あの階段まで行けば……。


 ヒエイは広場の入り口の門扉を目指して駆けだす。背を向けているのでアンジュの様子はわからない。しかし斬撃は襲ってこなかった。


 一歩、二歩……足を前に進めるたびに目標の門扉が少しだけ大きくなる。


(いけるか?)


 一瞬希望を持つが、それは早計だった。

 脱出がうまくいったかと思えたとたん、風景の動きがぴたりと止まった。足が前に出せない。足元をみると、紐のようなものが右足に絡みついているのが見えた。


 しまったと思って振り返った時には遅かった。

 強い衝撃がヒエイを襲い、彼はまた、仰向けに転がされた。背中の痛みをこらえながら起き上がろうとするも、すぐに押し返されて地面に背をうちつけられる。胸が強く圧迫されて苦しい。アンジュが彼の身体の上に馬乗りになったのだ。


「逃さないよ」


 そう言ってヒエイの顔を覗き込んだかと思うと、アンジュは一本の長い紐を宙に舞わせた。さっき自分の足を止めた紐か……と気づいた次の瞬間、その紐は彼の首に巻きついていた。


「絞殺は趣味じゃないんだ。ひとおもいに殺してやろうと思ったのに。あんたがいけないんだよ。抵抗するから」


 首が紐で締め付けられる。抵抗しようにも両腕がアンジュの膝で押さえつけられているので動かせない。


「ど……どうして」


 もがきながら、ようやくそれだけヒエイは絞り出す。どうして、君は僕を殺そうとするんだ。あんなに僕を気遣ってくれたのに。旅に出てほしくないと言ってくれたのに。やめてくれよ。君はそんな人間じゃあないだろ。そう、必死に視線で訴えながら。


 その時、無表情だったアンジュの頬がほころび、口の端があがった。紅い唇の隙間からは白い歯が覗き、わずかに朱のさした頬の上で切れ長の目が優しく細められる。


 それはヒエイが初めて見る、アンジュの満面の笑みだった。妖艶で残忍で毒々しくてあからさまに美しい。今までの控えめな表情からは想像できないような、嘘のようなその笑みだった。


「まーだわからないのかい。思ったより馬鹿なやつだね」


 アンジュの口から漏れる息が、押し殺したような笑い声になる。


「私はあんたを殺すためにさし向けられた、刺客なんだよ」


 紐に力がこもる。ヒエイはうめき声をあげることもできなかった。頭がしびれる。全身から力がぬけていく。


「そんな……それじゃあ……」


 嘘だったというのか。僕を肯定してくれたことも。僕を一生懸命だと言って励ましてくれたことも。僕に垣間見せてくれた笑みも。そのわずかな表情の変化を貴重だと思ったことも。僕の旅立ちを引き留めた想いも。みんなみんな、嘘偽りだったのか。


 ヒエイの視界が歪む。記憶の中のアンジュの表情が涙に溶け、一粒また一粒と目じりからこぼれ落ちた。


「滑稽だね」


 鼻で笑うアンジュの声は、今までになく楽しそうだった。


「必死で私にすがりつこうとするんだもの、あんた。笑うのをこらえるのが大変だったわ」


 首の締め付けが強くなる。


「馬鹿なやつだよ。とっとと死ね」


 アンジュの声が、妙に遠くで響いた。意識が遠のいていく。ああ、僕は死ぬのか……そう思う彼の気持ちはしかし妙に冷めていた。もういいや……という、投げやりな感情に支配されていく。もういいや。こんなくそな世の中からも、僕みたいなどうしようもない人間のどうしようもない人生からも、早く解放されたい。


 ヒエイは目を閉じる。その視界が闇にのまれる。世界が静寂に包まれていく。


 ああ、これが死か。


 そう思った時だった。

 突然首の戒めが解かれ、体がふっと軽くなった。


     〇


「大丈夫か、ヒエイ」


 意識を取り戻したヒエイの耳に入ってきたのは、アトラスの野太い声だった。


「アトラスか。……どうして」

「どうも様子がおかしかったから、つけ回してたんだ。途中尾行をまかれちまったんで焦ったが、間に合ってよかった」


 そう言って豪快に笑う。

 その屈託のない笑顔を見上げるヒエイの目に、再び涙がこみ上げる。


 こんなにいいやつを、僕は一瞬でも見捨てようとしたなんて。


 語りたいことはたくさんあった。しかし言葉は出てこない。声もまだうまくは出せなかった。ただ、まだ痛む首を抑えながら、これだけは言わなければならないと思う一言を、懸命に絞り出す。


「すまない」


 と。万感の思いを込めて。君を突き放そうとしてしまって、本当にすまなかった。


 それを笑みで受け流して、アトラスは広場の端に目を向けた。


「しんみりするのはまだ早いぜ」


 見ると、そこにはアンジュがいた。胸を手で押さえ、肩で息をしながら、憎々しげにアトラスをにらみつけている。


「大した女だ。俺の黒棒の一撃を叩き込んで吹っ飛ばしたのに、まだ動くのか」

「あとちょっとだったのに。まずはお前から殺ってやるよ、デカ男」


 そう言うとアンジュは制服の腰に右手をあて、何かを引き抜く動作をした。腰に巻き付けられていたものが解かれて、地面に垂れ下がる。刀でもベルトでもない。銀色の鈍い光を放つ、長いロープのようなものだ。よく見れば万年筆ほどの長さの鉄の棒が九つ、小さなリングで繋がれている。


「九節鞭だ」


 いうが早いか、アトラスは地面をけってアンジュに向かっていった。


 同時にアンジュも九節鞭を宙に舞わせながらアトラスにとびかかってくる。


 九節鞭は生き物のように自在に動いてアトラスに襲い掛かる。それをアトラスの黒棒は器用に払いのけ、一撃たりとも通らせない。


「ふん。力だけじゃ、この九節鞭は防ぎきれないよ」


 アンジュの体の動きが速くなる。まるで激しい舞いを舞っているようだ。腕だけではない。脚も、腰も、胸も肩も……全身を使ってその力を、細長い鞭の先端までいきわたらせる。空中に複雑な曲線を描きながら九節鞭は、縦横無尽に動き回って黒棒を翻弄する。


 まずい。スピード勝負にもっていかれたら、アトラスは不利だ。


 ヒエイが危惧したとき、ついに九節鞭が黒棒に絡みついてその動きを封じた。


 九節鞭と黒棒。繋がったふたつの得物をはさんで、アンジュとアトラスが対峙する。


「もらった」


 振り上げたアンジュの左の袖から、ナイフが飛びだす。仕込みナイフだ。解き放たれたナイフは一直線に、身動きの取れないアトラスへと襲い掛かる。


 やられる。


 そう思った時だった。突然アトラスが黒棒を放り投げたかと思うと、ナイフを払いのけ身一つでアンジュへと突進した。かかった時間はほんの一瞬。ほとんど瞬きする間に、彼は彼女の懐にもぐりこんだ。


「これで終わりだぜ、クソ女」


 そう言ってアトラスは、両掌をそろえてアンジュの腹にあてた。

 アトラスの太い腕の筋肉が盛り上がり、血管が浮き出る。


「ふんっ!」


 一声ののち、アトラスの気が手のひらに送り込まれると、アンジュの体がくの字に曲がって吹き飛んだ。背後の壁に激突したアンジュは、口から血を吐いたかと思うと地面に崩れ落ちて動かなくなった。

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