1 天気の天使
フレイア王国には天からの使い……天使が君臨していた。
天使は天候を自在に操り、いにしえよりこの人間の王国に恵みと災害をもたらしてきた。故に人はその力を恐れ敬い、常に崇拝の対象としてきたのである。
崇拝は信仰を生み、そのための組織をつくった。
この国における王室とはすなわち、天使を祀るための、民の代表とそれを補佐する者の集団である。そして国の繁栄を祈る場として王国の各地に教会が設けられた。
長い年月、人々は天使に祈りを捧げ、感謝し、讃えてきた。王も、廷臣も、教会の僧も、庶民も……。皆等しく天使の前にひれ伏し、その存在の人間に利益をもたらすことを信じた。数々の暴虐と、たびたび巻き起こされる災害と、幾多の犠牲にもかかわらず。それが年々苛烈さを増し、人々の平穏な生活がむしばまれていくことにも目を背けて……。
※ ※ ※ ※ ※
雨はもう、うんざりだ。
どす黒く汚れた雲を見上げながら、ヒエイはひとりごちた。街は今日も雨の底に打ち沈んでいる。もう何日降り続いているのだろう、この雨は。五階建ての建物が軒を連ねるこの教会前の石畳の通りは、灰色のフィルターがかかったみたいで、もとがどんな色彩をしていたのか思い出すことができない。きっと美しい街並みだったはずなのに。
建物の中にいても外にいても常に耳にまとわりつく雨音がうっとうしい。こうやってフウドつきの僧衣を身にまとって街路に立っていればなおのことだ。国教会の紋章の刺繍のはいった僧衣は防水加工が施されているが、雨音や風景の陰鬱さを軽減はしない。湿気や、苛立ちも。
「おい。ヒエイ。この薄ノロ。ボケっとしていないで、任務をこなせよ」
同僚のイワンからそう声をかけられてヒエイは視線を下げ、フウドの下の眉をひそめた。その視線の先で、同じ僧衣を身にまとった同僚のイワンが、目の前の建物の扉を足で蹴った。
「教会に寄付を。天を支配し奉る使いに感謝の意を表しましょう」
開いた扉から小太りの男が転げるように出てきて、イワンの足もとにひざまずき祈るように手を組んだ。
「どうか、ご勘弁を。今月は生活が苦しくて……」
言い終わらぬうちに、イワンは男を蹴り倒した。
「なんだぁ。天使様に逆らうのか」
そして地面に倒れ込んでうめく男をなおも蹴ろうとする。
「おい。やめろよ」
イワンをとめようとヒエイが彼の肩に手をかけたが、イワンは意に介さなかった。それどころか振り返りざまヒエイの頬に拳をたたき込んだ。
「お前が俺に指図するなよヒエイ。この落ちこぼれが。文句があるなら一度でもノルマを達成してから言え」
路上に這いつくばったヒエイに嘲るような一瞥をくれ、イワンは粗末なその家へと押し入った。
「ああ、どうかお許しを。それは娘の形見なんです……」
やがて小さな懐中時計を手に出てきたイワンの足もとに、男の妻と思しき中年の女が縋りついていた。
「どうかそればかりは。どうか……」
「やかましい!」
イワンは一喝すると、女の腹を蹴りあげた。夫の隣にうずくまって石畳の上で背を丸める女には見向きもせず、彼はヒエイをにらみつける。
「なんだヒエイ。文句でもあんのか」
「おおありだ。こんなやり方は間違えている」
路傍を這って中年夫婦に寄り添いその背中に手をあてながら、ヒエイははっきりとそう答えてイワンを見上げる。
イワンは鼻で笑って三人の前に立ち、威圧するように胸をそらした。体が大きくレスラーのように筋肉のついた彼が立ちはだかると、目の前に壁ができたようだ。
「間違えているのはお前の方だ、ヒエイ。この無能め。天使様に財を捧げてその御力を請うのが等しく国民の勤めであり、その橋渡しをするのが我々国教会だ。寄付をするのは国のためだぞ。それを拒むのは国への裏切り。万死に値する。よく覚えておけ、クソどもが」
腹の底に響くような低い声でそう怒鳴ると、もう一度ヒエイの肩を蹴りつけて、のしのしと街路を去っていった。
〇
イワンの姿が雨煙の中に消えたころ、ヒエイはようやくゆらりと身を起こした。中年夫婦はまだ己の自宅の玄関先でうずくまっている。
「……すまない」
「いえ……。僧侶様のお役目はわかっておりますから」
夫はそう答えてくれたが、妻はすすり泣いていた。
ヒエイたち国教会の下っ端僧侶の任務……。それは天使の為に祈りを捧げ、国民から寄付を募ることだ。寄付とはいうものの、天使の名のもとに徴収される実質的な税金。
その寄付金の収集について、各教会員達には厳しいノルマが課されていた。僧たちの能力とはつまり、その達成率の数字ではかられる。イワンはたびたび成績優秀者として表彰され、有能な教会員として仲間たちから一目置かれていた。一方ヒエイは一度たりともそのノルマを達成したことはなく、ゆえに落ちこぼれの無能というのかがれの大勢からの評価であった。
もっとも、ヒエイは他者からそう思われることを気に病むことはなく、ノルマとやらを達成してみせようという気持ちもない。
バカバカしい。何が任務だ。と、彼は思う。
それでなくても重い税に人々は苦しんでいた。そのうえ、このような金まで巻き上げていることに、ヒエイは疑問をいだかずにはおれない。どうしてこんな金を納める必要があろうか。国はその金を人々の幸福のためには使わないのに。どんなに寄付金を集めたところで、この雨ばかりの狂った天候が改善することはけっしてないのに。
「どれ。けがはしていないか」
「私は大丈夫です。しかし、妻はさっきから腹をずっと抑えています」
「よし。今、治してあげよう」
ヒエイは中年女の傍によると、彼女の腹に向けて左手のひらを掲げた。
目を閉じ、長くゆっくりと息を吐く。
雨音が遠ざかり、彼らの周囲の空間にだけ静寂が訪れる。やがてヒエイの手もとが緑色に発光し、それは蛍の腹の光のように明滅を繰り返してから消えた。
「どうかね」
問いかけると、女はうめくのをやめて身を起こし、キョトンと瞬きをした。
「不思議です。痛みがすっかり消えました」
「おどろいたな。僧侶様は魔法をお使いになるので?」
男もまた茫然としながらヒエイをみる。
「魔法を使える人間なぞ、この国にはデロス司教様と天使様の付き人しかいないと思っておりました」
「なに。私のは大したものではない」
女の目尻に残る涙から目を背けて、ヒエイは自嘲する。こんな力があっても、人の心の傷をなくすことはできないのだから。
ただ、デロス先生ならば……。
己の師であるデロス司教の白髭に覆われた温厚な顔を思い浮かべながら、ヒエイはわずかな期待を込めて教会の方を振り仰いだ。教会の後方には高い丘がそびえ、その丘の上に壮麗な宮殿が鎮座している。王室と貴族たちの館が立ち並ぶ丘。完璧な排水設備が張り巡らされ、どんなに雨が降ろうが冠水の恐れのない特別地区。
明日、ヒエイはあそこに行くことになっている。上司であるデロス司教のお供だ。民と国の窮状を王と天使に訴え、天候と税制の改善を嘆願するのが目的だった。
もっとも、それは初めてのことではない。ヒエイが教会に勤めるようになってからももう何回か行われている試みだ。今まで天使から反応があったことはない。今回こそ少しでも話を聞き入れてもらえるといいが。
宮殿の上空にも黒雲が渦巻き、所々で稲妻が黄色い光を瞬かせている。それはその交渉が難航することを暗示しているようで、ヒエイの心を暗澹とさせた。
〇
王宮の黄金の柱の立ち並ぶ玉座の間には、王室の人々と、何人かの国務を司る大貴族が集っていた。
緋色の敷物の敷かれたその広間の奥に玉座が置かれている。五年前に即位したこの青年王は、たしかヒエイと同じ二十二歳だったと思うが、その年とは思えぬほど老け込み、無気力な虚ろな表情で虚空を見つめていた。
玉座の背後にはステージのような段がある。その段の上に立つのは天使の腹心の二人だ。
メルラとゼノ。
白い顔をした金髪の美女であるメルラは物憂げにその大きな目を伏せ、赤い皮膚を持った筋骨隆々の偉丈夫のゼノは威圧するようにその巨眼を一座に向けていた。彼らも天からの使いなのかそれとも人なのかはわからない。半々の血を持っているのかもしれない。ただ、二人のはなつ空気にはただならぬものがあった。やはり人ならぬ力を持っているのかもしれない。
ヒエイとあと何人かの僧を従えたデロス司教が広間のはるか下座から嘆願書を読み上げる間、広間は静まり返っていた。誰もが無言。貴族も王も、メルラもゼノも。皆息をつめて、司教の激しい糾弾と懇願の言葉に耳を傾けていた。
司教が演説を終え、深々と首を垂れた後も、しばらくは誰も声を発さなかった。
とどいたのか。民の声が、あの天使に。
司教と同じように首を下げたヒエイは、絨毯に浮かぶ花模様をみつめかたずをのみながらその時を待った。司教の言葉に応じて天使が何かしらの決意を示す、その時を。
「天使様からお言葉があります」
やがてメルラがそう、静かに告げた。
広間の全員が息をのんだ。
しばらくして、段のさらに奥に下ろされた幕の向こうから、声が流れてきた。ちょっと高めの、澄んだ美しい声。ヒエイは初めて耳にする。それが天使の声だった。
「我は、我の思うがままに笑い、怒るだけだ。それでどれだけの人間がどれだけ苦しもうが知ったことか。人間どもなどただの塵芥、地面に這いつくばり、ただ我の機嫌に合わせて右往左往していればよい」
沈黙がまた広間を支配する。
少し間をおいてから、段の上のメルラが言った。
「これにて謁見を終えます。司教殿、お引き取りを」
僧の一団にざわめきが生まれる。
なんという傲慢。天からの使いだからって、人を何だと思っているんだ。
ヒエイは思わず顔をあげて段の奥の幕を睨む。その向こうにいる者に言ってやりたいことがたくさんあった。
ほかの僧も、司教もそうだったかもしれない。ヒエイとほぼ同時にほとんど一斉に顔をあげる。しかしヒエイや彼らの口から抗議の声があがることはなかった。
メルラがその杏仁型の眼で一座を睥睨したためだ。静かだが引きずり込まれそうな深い水色の瞳に見据えられていると、背筋に寒気が走ってたちまち気力が萎えた。
「お控えなさい。御前ですよ」
そして再び静まり返った広間に、彼女は改めて宣告した。
「これにて謁見は終わりです」
〇
「どうだったね。天使の謁見は」
教会に戻ると、デロス司教はそう言ってヒエイの目を見つめた。司教の執務室。長い窓を雨水が滝のように流れている、その小さな部屋には司教の他はヒエイともうひとりの僧しかいない。
「失望しました」
短くそう答えると、司教は眼鏡の奥の小さな目を細くした。
「わしもだよ」
そう穏やかな声で言って、司教はにこやかに笑った。それにつられてヒエイも苦笑いをした。ヒエイはこの老司教のことが好きだった。いつも穏やかで慈しみ深く、知識が豊富でそして聡明だった。
その老司教は、しばし弱く笑ったあと、白い髭に覆われた顔を伏せて大きく息を吐いた。
「実はある計画について実行すべきか、ずっと迷っていたんだ。だが、今日の謁見で決意した」
そして顔をあげ、ヒエイともうひとりの僧を交互に見やる。その表情からは笑みもにこやかさも消え、それどころか緊張にこわばっているようにすら見えた。
「天気の天使をその地位から引きずりおろし、ある人と交代してもらおうと思う。ヒエイ。アトラス。君たちにはそのある人への使者になってもらいたい」