なんだか雨の日
夏の終わり。
夕方。
雨。
奇妙な安心感と、醜いものを愛おしく感じさせる不思議な空間がそこにはあった。風流とかいったものとは程遠い無機質なマンションからの眺めは退屈でつまらないものではあるが、その残念な風景が何故だか愛くるしい。酒は苦手な方ではあるのだが、こんな時は早い時間からアルコールが欲しくなる。その渇望は心地よく、グッとこらえる感覚を噛み締めながら、ペットボトルのお茶で喉を潤わせた。
雨の音は良い。強弱のある気まぐれで出鱈目な雨音ではあるが、先生に怒られそうな下手っぴなリズムは何故だかストレスを感じさせることなく体中に染み渡る。その居心地の良さと言ったら、それはもう全身を彼女に打たれながら安らかな眠りにつきたい衝動に駆られるほどである。実際したりはしないけれども。
しかし、この苦痛と退屈に塗れた有限空間に現れた薄暗いオアシスで一眠りするくらいのことはしてみたい。如何わしい不快感と共にクラクラとふわふわを足して二で割ったような宙に浮く感覚が引力となって束縛する。ぞわぞわが背筋を伝い頭の天辺から吹き出す瞬間に逝きたい、はっきり意識している訳ではないが確かにそう言う欲求が入り混じっていた。
ひらめき。
直感。
その間くらい。
しかし、残念ながら、こう言うときに限って素晴らしいアイデアが思い浮かんでしまう。そういう仕事をしている人間にとって、それは、ある種の職業病のようなものではあるが、始業の合図となってしまう。その場で形にしてしまうことが必ずしも良いとは限らないが、それが仕事になるように、すなわち、コストパフォーマンスを考えると、それを言葉にし、外部記憶に情報を収納せざるを得ない。そのお陰で、許容範囲の誤差の範疇でコンスタントに創造し続け、それが形を変えてながら社会の中を駆け巡り、生活空間や食料を与えてくれるのであるから当然のことと納得してしまう。だから僕は一流にはなれない。
形にしなければお金にならない。姿がなければ伝わらない。理にかなっていなければ理解されない。正しいと言うのは相対的でどれほどそれと慣れ親しんでいるかに大いに依存するものではあるが、それでも、その正当性はそれなりに強固なものである。若い頃・・・・・・と言うのは今であるから、幼い頃は、自由で創造的であることに憧れたものだ。ありがちな言葉ではあるが、そこには、無限の宇宙があり可能性があり多様性があり個性があると。
ばかばかしい。
くだらない。
良くも悪くも。
もう少し歳を食って、経験を積んで、丸くなれば、ツンツンすることも無いのであろうが、若作りをしているだけと言う説もあるが、そんな大人の振る舞いができるには僕は若すぎる。現在のフェイズでは自由も創造性もチープかつオッカナイものでしかない。無法地帯では恐らく下心を萌やせない。そこそこに秩序だっていてくれた方が良い。一度解き放たれてしまえば、認知は僕を置いて逝ってしまう。クリエイティブを求めたところで、新しいものと言うのは要求を満たすどころかストレスでしかない。文化に、環境に、力学に、支配され、束縛される中でエフェクティブなものを手にしたい。否、少しおかしい。新しく感じられるのは、僕が何か今まで経験して来たことを性質を抽出し、分類し、同値類を定義し、今までと違うものを身勝手にでっち上げているからだ。
そもそも理なるものを考えて眺めているのであれば、不自然なことや不思議な事は起こっていないはずなのに、勝手に自然なものを想定することで、それに反する現象に対して新しいだの不思議だの奇跡だのと言った大きなリアクションを起こすことが理解し難い。あえて言えばそんな感情と概念を作り出すことが、ちょっと不思議な気もするが、しかし、それも想定の範囲内なのであろう。ただそれだけのことなのだ。
いい響き。
おちつく。
ただそれだけ。
別に自由や創造性を否定したいわけではない。どちらかと言うと考えたくないのである。そんなものは端から無いと思いたい。それはとても落ち着く場所だ。居心地がいい。長く触れ、親しんでいるものに影響されて正しいやら好きやらは決まって行くことを考えると、こんなことは相対的なものではあり、僕も例外ではない。単純にそういう考えに至って、暫く頭に置いておくうちに、自動的に、慣れていき、親しみを持つようになり、自分の中で説得力を持ってしまっただけかもしれない。あるいは、自分を肯定するストレスフリーな考え方に価値観やら記憶やら個性やらが落ち着くところに落ち着いたのかもしれない。高々そんなものではあるが、居心地のいい場所に落ち着いただけではあるが、ただ、それだけに、それは自然と優しく心に沁みていくのである。
そのまま。
それだけ。
それがいい。
それがいいにもかかわらず、何でも無いようなことがぽつぽつ浮かんでくるのは集中できていないからであろう。疲れた時は気分転換だ。こんなにいい天気の日には外に出歩くのが一番だ。
臭い。雨は匂いを流してしまうような描写は良く見かけるが、雨自体が無臭であるわけではない。既臭感のある柔らかい生臭さ。傘の死角や足元でバウンドしてネットを揺らす雨粒が体を湿らし分泌液と交じり合って腐り香る。恐らく服を脱ぐ頃には微笑と共に異臭の発生源になっていることだろうが、今は気持ちわるい生ぬるさの安心感と共にフローラルな香りを発している。
雨足が強まり水たまりを避けて通れなくなってくる頃には靴下がたんまり水を吸い込んで、歩くリズムに合わせて、かかる圧力に応じて、チャプチャプしている。視界は豪雨に遮られ、目の裏っ側では虹の乱反射が幻を見せる。鋭く激しい淡いトーンはどこか現実離れをしていて、どこかへ引きこもらせる魔力があって、現世にとどまることを忘れさせる。
ひゃっふぁ、ひゃっふぁ。
ふぉっふぉ、ふぁっふぉ。
しゃらんしゃん、しょろんしぇん、しぇれんしょん。
夢遊する僕は恐らく買い物や街中に出かける時に通る、すなわち、頻繁に使う道路をランダムに巡回していた。いくつかの店の前で足を止める素振りを見せつつ、ただ只管歩いていた。どこかに辿り着きたい気もするが、どこに着いてもなんだかシックリこない。高々シックリこないだけではあるのだが、どれほど疲労し息があがろうとも、立ち止まることができない程度には違和感があった。それでもどこかに行きつく為に家から遠すぎず近すぎない徒歩移動許容範囲内エリアを多少の苦痛をこらえてでも歩き続けた。体内で生存必需品が枯渇して来ているようで危険信号が警告ランプを灯らせる。
どうしようか。
そろそろどこかに。
たどりつきたい。
それでも直感は働かず、ここぞと言うときに発想力は尻すぼみしている。これでもアイデアとコンテンツを売り物にする精神労働プロフェッショナルなんだけどな。プロとアマの差なんて他からの評価と信頼とステータスの問題でそれ以上差はないと考えてはいたが、たまには都合よくプロらしさを発揮して欲しいものだ。そんな経験が増えて行けば少しは僕にも変化が訪れるかもしれない。意図的に経験させることをコントロールすれば自分を別人にすることができるかな。ああ、そうだ、何でも無いようなことがぽつぽつ浮かんでくることは疲れているサインだった。
着いた着いた。
やっとこさ、着いた。
お家に着いた。
これを何と言うのだろう、散歩だろうか。恐らくは無意識的にもっとも心地よい道を直感が、意識以上に膨大な情報を処理してくれる便利屋さんが、優柔不断な僕の尻を叩いてくれるお茶目さんが、選んだことだからそれで良いことだと思う。
何をするために外に出たのか良く分からなかったが、雨の中の散歩が息を抜いてくれることは良く分かった。それから、いつもより僅かに、いつもが大して大きくないからどれほどのものかわから無いが、自分の家が好きになれた。
ざーざー。
ふきふき。
ふわふわ。
お酒買ってこればよかったかな。