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  作者: 長谷川暁
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第1章 その3 part1

その3


 施療院の前に集まったレビたちを見た途端、ユッドを本能的な恐怖が襲った。なにか、とんでもなくまずいことが起きているらしかった。カンテラをさげたレビの民は全部で五人いた。彼らは窓に首を突っ込んで病室の中を覗くと、やおら扉を開けた。三人が中に入った。二人はそのまま外にいて、あたりに油断なく目を配っている。幸い、通りの反対側で屋根にへばりついているユッドには気がついていない。闇夜のおかげだった。すると部屋の中にいたレビのひとりが扉から出てきて、見張りたちになにかを告げた。彼らは屋上に飛びあがり、庭園の上を目まぐるしく旋回し始めた。

 ユッドの心がなにか決める前に、体が勝手に動きだした。彼は傾斜した石の壁に覆いかぶさり、狭い足場を横這いで進み始めた。壁に顔をこすりつけるようにして、すぐ背後で落ちこんでいる断崖も、その反対側で彼を探しまわっているレビたちも目に入らないようにした。心臓がバクバクと鳴る中で、ユッドは必死で自分に言い聞かせた。(あせるな。奴らは俺が橋を渡ったなどとは夢にも思わないだろう。まずは庭園を徹底的に探し回るはずだ)

 高所に立つ恐怖に、もっと大きな恐怖が打ち勝った。ユッドは巨大な居住棟の屋根の縁をカニのように這い進み、鋭角に尖った屋根の角にたどり着いた。ところがその途端、ユッドの背中を戦慄が駆け抜けた。曲がった先の壁は垂直にそそり立っていた。もう体をもたせかけることができない。おまけに足場の幅はずっと狭くなり、つま先を乗せれば踵がはみでてしまうほどだった。その下には底知れない闇が口をあけている。居住棟の側面には窓がなく、隣の建物との間は真っ暗だった。前方で細い橋が渡されているが、小さなかがり火が焚かれているたもとまでは、ここから50アンマ(約25メートル)は離れている。更に悪いことに、しばらく静かだった夜の風が勢いを盛り返しつつあった。見えない空気の流れは気まぐれに渦を巻き、右から左からユッドの体を揺すぶった。ユッドは屋根の角にしがみつきながら自分がこの世に生まれてきたことを呪った。(なんてことだ!俺はここで、虫けらのように吹き飛ばされて死ぬのか?この俺が?なぜ?)

 その時ひときわ強い風が起こり、ユッドの体を横に押しやった。彼はあわてて屋根にとりすがったが、平らですべすべした石の壁は無情にも彼を突き放した。彼は悲鳴をあげながら手をバタバタさせた。両足が狭い縁からすべり落ち、体ががくんとさがった。と、闇雲に振り回した右手がなにかを掴んだ。ユッドは必死でその固くて冷たい物にしがみついた。

 ドッドッと心臓が打っている。ユッドはぎゅっと目をとじたまま、両腕に力をこめて体を持ちあげた。足が狭い足場に引っかかった。彼は大きく喘ぎながら目をあけた。真っ暗でなにも見えない。左を向くと、大通りの灯がぽつぽつと目に入った。彼は屋根の側面に入りこみ、壁に鼻をくっつけていたのだ。彼が掴んでいるのは、コの字型をした鉄の取っ手だった。光が射しこまない影に隠れていたので、こんなものが壁に打ちこまれているとは今まで気がつかなかったのだ。ユッドはすがるような気持で壁の奥を見つめた。この先にも同じような取っ手があれば、それを伝って橋にたどり着けるかもしれない。だが灯りのない壁面は、いくら見つめても真っ暗闇のままだった。ユッドは体を壁にぴったりとくっつけると、左手に力をこめ、取っ手をがっちりと握った。そして右手を離すと、そろそろと壁の上に這わせた。なにも触らない。彼は足をぐっと開いて体をできるだけ横にずらし、右手を精一杯伸ばした。やはりなにも触らない。細い足場の上で突っ張っている腿がじんじんと痺れてきた。屋根の角に引き返そうにも、この体勢からはとても無理だった。ユッドは両手両足を開いた格好のまま、絶望のうめきを漏らした。「もうだめだ…」

 と、通りから誰かの喋り声が聞こえた。大声で助けを呼ぼうと、ユッドは腹に力をこめた。すると男の声が言った。「いくらなんでもやり過ぎだろう、長老会は」屋根の角のすぐ外で喋っているらしい。ユッドは叫ぶのをやめにして聞き耳を立てた。すると別の声が言った。「決めたのはアリクだって言うぜ。長老たちが反対するのをひとりで押し切ったらしい」嫌な予感にユッドの心臓が早鐘のように鳴り始めた。最初の男の声が吐き捨てるように言った。「狂ってる。仲間を死刑にするなんて」すると相方ががため息をついた。「最後は猫のご機嫌次第だけどな。嫌な世の中になっちまった」二つの羽音が遠ざかってゆく。ユッドは闇の中で目を見開き、大きく喘いだ。落下の恐怖と「死刑」の言葉が頭の中で渦を巻き、彼の胸を押し潰そうとした。彼は震えながら(ああ、全部夢であってくれ!)と祈った。

 その時、誰かに軽く腿を叩かれたような気がした。ユッドはぎょっとして目を下にやった。暗くてなにも見えない。右手で恐る恐る探ってみると、なんのことはなかった。腰に縄で結わえた二足の鞜が風に揺れているのだ。だが、すべすべしたフェルトに指で触れると、その感触が電流のように背骨を駆けのぼり、ユッドを正気に戻した。彼は震えた声でつぶやいた。「俺は死なないぞ。死んでたまるか!」

 ユッドは腰の縄をほどき、鞜を一足取りだした。片方の踵の部分をつまんで持つと、腕を壁沿いに精一杯伸ばした。鞜の先で、取っ手があるかないか探るのだ。だがなにも触らない。彼は取っ手を握っていた左手をゆるめ、指三本だけ残すと、ガクガクする両足を狭い足場の上で突っ張って、体を目一杯横に伸ばした。全身の筋肉がぎちぎちと痛んだが、ユッドはうめき声を漏らしながら手の先の鞜で壁を探った。すると、鞜の爪先になにかがぶつかった。間違いない。そこに取っ手がついているのだ。ユッドは腕を戻して大きく深呼吸すると、持っていた鞜を口にくわえた。ためらっている時間が長引くだけ勇気が萎れてしまう。彼は暗闇に向かって思い切って跳んだ。右手が固い鉄の棒をがっちりと掴んだ。その途端、両足が足場からすべり落ちた。心臓がぎゅっと縮まったが、ユッドは必死で取っ手にしがみついた。

 鉄の取っ手は、その先も同じ間隔で打ちこまれていた。ユッドは血も凍るような思いをしながら何度も暗闇に向かって身を投げだし、ようやく橋のたもとにたどり着いた。小さな貨物橋は長さは20アンマ足らずだったが、大通りの橋よりも狭く、幅はユッドの腰ほどしかない。それでもかがり火に照らされた橋板に跨がった時、彼は我が家に戻ったような心地を覚えた。ここにしがみついてさえいれば、当座は命の心配がないのだ。

 ようやく心に落ち着きが戻り、ユッドははたと気がついた。自分を救った鉄の取っ手はカエルが打ちこんだものなのだ。彼女は何年もかけて、こつこつと町の中に自分の通り道を作ってきたのだった。カエルの生活上のちょっとした工夫は、表向き大目に見られていたが、内心迷惑に感じている者も多かった。壁に打ちつけられた鉄屑や廃材は、明らかに町の美観を損ねていたのだ。ユッドもそうした思いを持つひとりだった。だが彼は今や、カエルに感謝を捧げなければならなかった。

 もっとも今のユッドにそんな気持の余裕はない。早くどこかに身を隠さねば、たちまちレビに捕まってしまうだろう。その先にあるのは死だ。気まぐれ猫の温情など当てにはできない。今や全宇宙がユッドに牙を剥いているのだ。彼にはまるで理解できない理由で。

 短い橋を腹這いになって渡った先は小じんまりとした庭園で、冬枯れした果樹の枝の間から大通りが見渡せた。暗い谷間をホタルのような光の点がちらほら舞っている。夜半の勤めに向かう天使たちだ。まもなく通りはカンテラをさげたケルビムでごった返すことになる。そもそもユッドは人気のないうちにラメッドの部屋に行って戻るつもりだった。自分の無様な格好を他人に見られたくなかったのだ。彼の誤算は(自分がお尋ね者になってしまったことは別にして)、移動にかかる時間を甘く見積もり過ぎたことだった。だが、ラメッドは今日は非番のはずだ。ユッドははやる心で考えた。人通りが多くなる前に、なんとか彼女の部屋にたどりつき、一時でもいいから匿ってもらおう。いや、彼女の顔をひと目見るだけでもいい。それから先は後で考えよう。

 ユッドは狭い庭を小走りに横切って反対側の縁に出た。そこから見える景色は大通りの整然とした眺めとはがらりと変わる。灯りの点る大小の部屋部屋が不規則に積み重なり、沢山の塔をなしているありさまは、まるで酔っぱらった神が積木遊びをしているようだ。だが、これらはすべて、同じひとつの岩盤から切りだされたものなのだ。カクカクと折れ曲がった輪郭を持つ塔の間には、細いアーチ橋が無数に渡されている。それらは聖山の泉に湧く水を各部屋に届ける水道で、幅は半アンマに満たない。夜間は不注意な通行人がぶつからないようにと、等間隔にかがり火が燃やされている。これらの橋は、華奢な姿からは信じられないような強度と耐久性をそなえていた。重力の法則を無視したような住居群は、水道橋に串刺しになることで支えられ、千年もの間、倒れもせずに存続しているのだ。

 ラメッドが住む三日月館は、ユッドのすぐ目の前にそびえ立っていた。(マル)や四角の部屋が少しずつ横にずれながら積み重なっており、全体が直立したバナナか三日月のような形をしている。ラメッドの部屋は最近つけ足された木の小屋で、館の天辺から鎖で吊りさがっている。こうした部屋は、昔ながらの石の住居よりも風通しがよく、おまけにちょっとおしゃれだったので、女性に人気の物件なのだ。だが今のユッドの目には、ひどい悪意の産物としか映らなかった。彼が立っている屋上の縁から10アンマほど下った所に城館へと続く水道橋のたもとがある。それは絶壁から直接突きだしていて、50アンマほど宙空を伸び、三日月館の背に当たる部分に繋がっている。そこから部屋部屋の壁を這いあがって館の頂上に行き、ラメッドの部屋をぶらさげている鎖を伝っておりねばならないのだ。

 躊躇している時間はなさそうだった。ユッドのいる屋上公園は木々が落葉していて丸裸だ。レビがここまで探索の手を伸ばしてくれば一目で見つかってしまう。彼は腰に結わえていた縄をほどいた。それは施療院の物置で見つけた麻の縄で、長さは20アンマほどある。彼は縄を自分の腰にしっかり結わえ直すと、屋上の縁から突きだしていたニレの木の幹に引っかけた。こうしてもう片方の端をたぐりながら水道橋までおりようというのだ。ところが屋上の縁に腹をかけ、腰から下を壁の外に垂らして、いよいよ縄一本に体重を預けた瞬間、ユッドはひどい恐怖に襲われた。予想していたよりも、自分の体は重い!握っている両手の中を麻の縄がずるずると抜けてゆき、その速さはどんどん増した。体が急激に落ちてゆく。ユッドは手元をすり抜けてゆく縄を、あわてて輪にして手に巻いた。がくんと体が止まり、締めつけられた手に鈍い痛みが走った。彼は歯を喰いしばりながら両足を絶壁に突っ張り、揺れる体を止めた。下を覗くと、橋のたもとまではあと5アンマほどだ。跳びおりるには距離があり過ぎる。細い橋の両側は底知れない暗闇だ。ユッドはじんじんと痺れる腕で、少しずつ、少しずつ、縄をたぐっていった。


 暗い部屋の中、粗末な木の卓の上で、ロウソクが一本だけ灯っている。アレフ=シンはテーブルの縁に手をついて、小さな炎を見つめながら言った。「あいつは一体どこに逃げたのだ」すると部屋の隅の暗がりで声がした。「いずれにせよ、状況は決してよくありませんな」声の主がテーブルの側に歩み寄ってきた。ロウソクの光に浮かびでたのは髭面の赤ら顔だ。ベー=レーシュだった。「なぜそう思うのだ」とシンが聞くと、レーシュは考え深げに言った。「もし大長老が真に恐れているのが、神の怒りではなく我々の行動だとすれば、これを機にベー=ユッドを殺そうと考えるのでは?彼が逃亡中に落下して死亡したことにすれば、神明裁判を開くまでもない。アリクの懸念はなくなります」レーシュはシンに向き直り、語気を強めて言った。「そして我々の計画はすべて振りだしに戻る。次の機会は百年後か、二百年後か、それとも千年後かもしれません」ロウソクの炎がレーシュの目に映え、てらてらと燃えている。そこに見えるのは不安や動揺ではなく、梃子でも動かないような強い意志だった。「ふむ」シンは顎に手をやって答えた。「わしもそれは考えた。ウリムとトンミムがもし無罪の判定を下せば、我々には希望が残るが、向うにすれば災厄の種が残ることになるからな」そして低い声でつけ加えた。「だが、あの婆さまの考えはなかなか読めぬ」レーシュが言った。「とにかく事は一刻を争います。非番の仲間に声をかけて、彼が立ち寄りそうな場所を探させましょう。あの体では、それほど遠くへは行っていないはずです。どこかで落ちて死んでいなければですが」最後のひと言にシンは顔をしかめた。だが、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。「いや、奴は死なぬ。それはわしが一番わかっておる」彼はレーシュに振り返って言った。「急げ。もし彼を見つけたら、身の危険が迫っていると言って、一番手近な者の部屋に匿うのだ。それからケリポートの外に送る手だてを講じればよい。だが近衛兵に気どられるなよ。今は奴らもあわてているだろうが、油断は禁物だ」髭のレーシュは黙って頭をさげると、静かに部屋を出ていった。

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