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  作者: 長谷川暁
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第1章 その2 part4

 カエルに鞜を手渡した三日後の夜、ユッドは大通りに渡された貨物橋の上にいた。彼は腹這いになって細い橋板を抱きしめ、ヤモリのように平たくなっている。空は曇っていて真っ暗だったが、通りに面している建物の屋上にはかがり火が焚かれていて、窓の多くには灯りが点っている。今は晩の勤めの最中で、夜半の当番の出勤時間にはまだ早く、表を飛んでいる天使はいない。静かな夜だったが、時おり突風が起こって石の谷間を気まぐれな向きで吹き抜けた。ユッドはそのたびに恐怖に襲われ、無我夢中で橋板にしがみついた。貨物用の鉄の溝が頬に当たり、鼻から錆の匂いが流れこんできた。ざらざらとして冷たい、まるで死そのもののような匂いだ。「くそ!」ユッドは罵り声をあげて再び這い進み始める。橋の向こう側はまだ遥か先なのに、冷たい石の上に立てた膝小僧が痛みに悲鳴をあげていた。ユッドの部屋がある南の塔にたどり着くまで、こんな橋をあと五つも渡らなければならない。そして最後は見張りの塔を縄一本でのぼらねばならないのだ。その高さは今渡っている橋を縦にして二つ繋いだよりもまだ高い。

 ユッドは自分がやろうとしていることがどれほど困難なことか、まだよくわかっていない。翼を持っていた時の感覚が、移動を実際よりも容易く思わせていたのだ。だが彼も、たった一度の試みで自分の部屋までたどり着けるだろうとまでは思っていなかった。今回の冒険の主な目的は、塔に向かう途中にあるラメッドの部屋に作ったばかりの鞜を届けることだった。彼女の部屋は橋を三つ渡った先の三日月館と呼ばれる建物にあった。そこまでであれば、なんとかたどり着けそうに思えたのだ。

 だが、底知れない闇の上をのろのろと這い進みながら、ユッドは早くも後悔の念に襲われていた。馬鹿げたことを始めてしまったものだ!このありさまではラメッドの部屋にたどり着くまでに命がいくつあっても足りはしない!でも今となっては引き返すことすらできなかった。肩幅よりわずかに広いだけの橋板の上では体がすくんで向きを変えられないのだ。恐怖と寒さに強ばった手足にできるのは、ただ少しずつ前へと進むことだけだった。

 気の遠くなるような時間が過ぎ、ようやくユッドは200アンマ(約100メートル)の橋を渡り切った。降りた先は施療院の屋上と違い、ひどく足場が悪い。居住棟の屋上は奥に向かってせりあがる急な斜面になっていて、縁に幅半アンマほどの細い平場があるばかりなのだ。橋のとっつきには建物への入口があったが、鉄の扉は固くとざされていた。ユッドは壁のように切り立っている石の屋根に両手をつき、狭い足場から滑り落ちないようにしながら、こわごわと後ろを振り返った。窓々から洩れるランプの灯は通りの底にまでは届かず、まるで谷間に黒々とした闇の河が横たわっているようだ。その上に、今来た橋が細く白く浮きあがって見えている。これをまた渡って戻らなければならないのだ。絶望に頭がくらくらとなりながら、ユッドは横に目をやった。足元から延びている細い平場は、闇の中に突っ立っている松の木亭の脇を通り、500アンマほど向うで建物の角にぶつかっている。そこを曲がった先に隣の建物に繋がっている橋があるのだ。だが、なんの支えもなく、この距離を渡り切るのは無理なことに思われた。腰には施療院から持ちだした縄が巻かれていたが、それを引っかけられるような出っ張りはどこにも見当たらない。突風が吹きでもして足を踏み外せば、途端に千アンマの崖を真っ逆さまだ。ユッドは進むことも退くこともできず、呆然と大通りを眺めた。絶壁に並ぶ窓々が色ガラスを通して思い思いの色で光っている。オレンジ色や緑の灯りのそれぞれの下に、安らかで暖かな暮らしがあるのだ。ユッドの目にはいつのまにか涙が浮かんでいる。と、滲んだ光の群れの中になにか動くものがあった。ユッドはメガネをずらして涙を拭くと、じっと目を凝らした。ユッドの病室の前をいくつものカンテラの灯が舞っていた。腰帯が金色に輝いている。レビの民だ。それも、大長老の近衛兵たちだった。


 同じ時刻、ヤコブの梯子はしんと静まり返っていた。螺旋を描いて巻いている梯子のすべての段では、長老たちが起立して投票の結果が布告されるのを待っていた。すると頭上の至聖所からひとりのレビが舞い降りてきた。金色の帯を締めた礼服は、彼が大長老の近従であることを告げている。レビは渦巻く梯子の中心で止まると、ゆっくりと羽ばたきながら携えてきたパピルスの巻物の封印を切り、よく通る声で読みあげた。

「栄光あるケルビムの長たちよ。ただ今の投票の結果を、ここに慎んで申しあげます。シェモートゥ三章十四節の第二子なるユッドの先般の冒涜行為につき、ウリムとトンミムの裁定を仰ぐ命題の候補、および賛同を得た数は以下の通りです。


 1、無罪 ウリムとトンミムに諮る必要を認めず その数 23

 2、有罪 罰として破門すべし その数 29

 3、有罪 罰として荒野へ追放すべし その数 32

 4、有罪 罰として死罪とすべし その数 12

 5、棄権 その数 4


以上です」

 長老たちの間に低いどよめきが起きる。その中にあって、アレフ=シンは腕を組み、目をとじたままだった。と、皆の目が一斉に上を向いた。二人の従者に支えられ、至聖所の入口から大長老がおりてきたのだ。

「皆さん、私はあなたがたを誇りに思いますよ」そう喋りだした老婆の声は、決して大きくはなかったが、長く延びる梯子の上から下まで不思議とよく届いた。ツァデクは柔和な笑みを浮かべながら続けた。「この半年、かの若者の処遇について、皆さんは、なにが最善かを考え抜き、精魂を尽くして議論を交わしてこられました。それが今日の結果です。厳しい選択だったことでしょう。それは、この場にいないすべてのケルビムも知っていることです。あなたがたの知恵と真心は、このシュミッターが続く限りいつまでも語り継がれることでしょう」ツァデクはここで息を継いだ。両脇で彼女を支えるレビのひとりが吸い口がついた容器を差しだした。大長老は水を一口すすると同じ調子で話し続けた。「でもね。ここで皆さんにお伝えしなければなりません。私は今日、諸々のメルカーバーより委託された権限を、この任に就いて初めて行使することにしました」

 アレフ=シンの眉がぴくりとあがった。彼はとじていた目を開き、なにごとかとツァデクを見た。シンの席は梯子の真ん中にあったので、大長老はちょうど彼の真正面に浮かんでいる。彼女はにこやかに言った。「至高なるお方に諮る命題は、かの若者を死刑に処することとします。この決定は覆りません」氷のような静けさが、しばしヤコブの梯子を包んだ。それを破ったのは猿面のギー=ベートだ。「なんということだ!卓越せるツァデクよ。それはどういうことですか?」すると他の長老たちも堰を切ったように叫び始めた。「どうぞお考え直しください!卓越せるツァデクよ!」「これは専横だ!大長老は長老会を蔑ろにされるのか!」大長老は、目を剥いて抗議の声をあげている長老たちを、慈愛に満ちた笑みを浮かべて見回した。やがて長老たちは叫ぶのをやめ、ツァデクの次の言葉を待った。「ああ、優しい子供たち。私があなたがたを蔑ろになどするわけがありません」大長老は静かに言った。「あなたがたの票決は、ケルビムの範となるものです。私はこれを直ちに若い子らに知らしめましょう。でも私はなによりも神の怒りを恐れ、その怒りに触れて町が滅びることを恐れます。その可能性がわずかでもあるならば、私はその選択を受けいれることができません」シンの目がカッと見開かれ、こめかみから一筋の汗が流れた。だがアリク(忍耐強い者)は、目の前のゼーイル・アンピーン(気短かな者)が火を吹くような眼差しで睨みつけているというのに、それがまるで目に入っていないかのようだった。彼女は穏やかな顔で話し続けた。「だから、これは私の独断で決めることにしたの。若い子らにも、その通り伝えてもらって構いません。もしウリムとトンミムの答えが否であれば、私ひとりが咎を受ければいい。ひどいばあさんだって末代まで言われ続けるでしょうけど、私はむしろそうあって欲しいと願うわ」大長老は微笑むのをやめ、真顔で長老たちを見回しながら続けた。「でもね、至高なるエン・ソフが、もし、あの若者を死罪にするよう求められた時には、あなたたちにしっかりしてもらわないと困るの。子供たちは大きく動揺するでしょう。その時は、私をいくら悪者にしてもかまわないから、皆の心をひとつにまとめてちょうだい。大変な仕事になるわ。私のお願いはそれだけよ」

 ツァデクが小さく頷くと、両脇に侍っていた近従が大長老の肩を支え、大きく羽ばたいた。彼女の姿が至聖所の入口に消えると、ヤコブの梯子はたちまち蜂の巣を突ついたような騒ぎになった。その中を、伝令のレビがひとり、まっすぐ降下してきた。こうした最中にも、下のトーラーの柱では粛々と勤めが続けられているのだ。シンは偶然を装って席を離れ、レビと並んで飛んだ。彼女は三日前、シンに大長老の言づてを伝えた者だった。シンはさっとあたりを見回す。梯子の長老たちは喧々諤々の議論の最中で、こちらに注意を払っている者はいない。こわばった顔をして飛んでいるレビに、シンは小声で話しかけた。「近衛兵に動きはあるか」するとレビは前を向いたまま言った。「半刻前に5名の者が席を外しました。票の集計の最中です」「手回しがいいことだ」シンは悔しそうに顔を歪めて言った。「施療院に差し向けたのだ。あいつはもう逮捕されているだろう」「だったら我々も…」レビがなにか言いかけるのを遮って、シンは早口で言った。「よいか、今あわてて動けばアリクの思うつぼだ。あの狸は今の宣言から神託が下る日まで、わざわざ四日の間をあけた。そうして我々に目を光らせ、なにかの動きに出たところで一網打尽にしようというのだ」トーラーの柱は目の前だった。頂上に立つトランペット手がこちらを見あげている。もう話を切りあげなければならない。シンは低い声で言った。「だがあきらめはせぬ。方策を練って追って指示をする。それまではなにも動くな。皆にもそう伝えておけ」レビは黙って頷くと、トランペット手の元へとまっすぐ向かった。シンはそのまま神殿を降下してゆく。綺羅星のように舞っている天使たちの傍らを飛びすぎながら、彼は目まぐるしく思いを巡らせる。(神の怒りはなるほど恐ろしいが、それが果たして実在する脅威なのかは疑いがある。だがツァデクは、あれほどの覚悟で危険な賭けに打ってでたのだ。だとすると、俺の計画はすべて見透かされているのかもしれぬ。だが、その知識をどこで得た?闇の底から俺が拾いあげてきた(いにしえ)の秘密を?)

 その時、トーラーの柱で光を放っている一群の神聖文字がシンの目を打った。


 היהארשאהיהא


 シンの頭の中を奇妙な文句が稲妻のように過った。


(私ハ私デアルモノダ)


 シンは思わずトーラーの柱から顔を背け、頭をぶんぶんと振った。そしてはっと思いだした。この文の体をなしていない文は偶然にできあがったものではなく、元々第二のトーラーにある文言だ。それだけではない。奇しくもこの一文はシェモートゥ(出エジプト記)三章十四節なのだ。ユッドの名は文中に現れる二番目のי(ユッド)に由来している。(これはなにかの符牒だろうか?いや、今は余計なことを考えまい)シンはそう決めて、謎の多い蒼古の言葉の中でも、とりわけ意味不明な一節から頭をもぎ離した。やるべきこと、考えるべきことは、他にいくらでもあったのだ。

 と、下からレビの者がひとり、恐ろしい勢いで宙を駆けのぼってきた。すれ違いざまに見た顔は蒼白だった。シンは群れ飛ぶ天使たちを押しのけるようにして至聖所に急ぐレビを見送りながら、はたと気がついた。あれはツァデクの近衛兵のひとりだ。となると、施療院でなにか予想外のことが起きたのだ。しばし色々な可能性がシンの頭を駆け巡ったが、彼は胸騒ぎを抑えて自分に言い聞かせた。(とにかく情報収集が先決だわい)彼は神殿の出口に向かって急いだ。

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