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  作者: 長谷川暁
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第1章 その2 part3

 この半年にわたって、ヤコブの梯子はひどい混乱状態にあった。至聖所の前堂で螺旋を描いてのぼっている梯子を、長老たちは疲れた翼に鞭打ってせかせかと上下した。最上部に座る大長老は、皆が意見を口々に述べたてる前で、「はい、それもありますね」と言って、にこにこと頷くばかりだった。ユッドの処遇を神に諮る日取りは、すったもんだの挙げ句に冬至の日と決まった。だがイエスかノーかの返答しかよこさないウリムとトンミムに対し、どのような命題を用意するかという問題が残った。長老たちの議論は紛糾を極めた。とうとう神託が下る日まで一週間を残すばかりとなったが、いまだに解決の見通しは立っていなかった。

 アレフ=シンは梯子の中ほどにある自分の席から離れ、四段下の長老と話しこんでいた。猿面のギー=ベートは皺だらけの小さな顔を横に振って言った。「いや、わしは君の意見には賛同しかねる。彼の処分は神殿への立入禁止で十分じゃ」アレフ=シンはメガネの奥の目をぎょろつかせ、同僚の顔を覗きこむようにして言った。「だが我々が甘い姿勢を示せば、それこそ至高なるお方の怒りを招くぞ。あの若者は勤めを蔑ろにし、あろうことかトーラーの柱を血で汚したのだ。その罪は十分、死に値するものだ」猿面は眉間に深い皺を寄せて、つぶやくように言った。「この千年、我々が同胞を手にかけたという例はない」シンは罵り声をあげる。「その千年が、我々をこうまでふやけさせたのだぞ。ケルビムは神の楯ではないか。それが危急の時に手を汚すことをためらうとはな!」ギー=ベートは深く頭を垂れたまま、低い声で言った。「いや、我々は来るべき慈悲の時代の先触れじゃ。町を同胞の血で汚すことが至高なるお方の御心に叶うとは思わぬ」シンはため息をついて言った。「ならば、残るはアザゼルに委ねる手しかあるまい。贖罪の山羊の例に倣ってな」すると猿面は吐き捨てるように言った。「あの若者をケリポート(胡桃の殻)の外に放りだすというのか!それはあまりに酷い!」

 ケリポートとは、ケルビムの町と外界との境のことだ。その外の世界は野も山も海も一緒くたにされ、ただ「荒野」とだけ呼ばれている。そこでは闇が、無秩序が、虚無が、つまりアザゼルが住まっているとされた。町を守る境界を踏み越えて荒野に出ることなど、天使たちには思いもよらないことなのだ。だが、シンは厳しい顔で言った。「いや。それとて十分な措置かどうかはおぼつかないぞ。第二のトーラー(律法)に記されていたことを思いだすとよい。一旦至高なるお方がお怒りになると、何千何万という者が命を落としたというではないか」ベートはシンの顔を見て訴えるように言った。「だが、過度に厳しい裁きは混乱を助長するだけじゃ。かつてディーン(厳格な裁き)の暴走が天地にシェビラー(器の破壊)をもたらしたというではないか」するとシンは顔を和らげ、諭すように言った。「友よ。裁きを下すのも慈悲を示すのも我々の役目ではないのだ。至高なるお方がもし君と同じ意見なら、ウリムとトンミムに赤の灯を点させるだろう。息子を焼こうとしたアブラハムを止められたようにな。それですべて終いだ。むしろわしも、そうあって欲しいと願うよ」シンは上を指さした。丸天井の真ん中に円形の開口部があり、ねじれた梯子が頭を突っこんでいる。至聖所の入口だ。折しもそこからレビの民がひとり降りてきた。トランペットの吹き手に神託を伝える伝令だ。引き締まった顔立ちをした彼女は、シンの前で止まると、翼をゆっくりと上下させながら、きびきびとした声で告げた。「アレフ=シン、卓越せるツァデクがあなたをお呼びです」梯子の上下に連なる長老たちが一斉にシンを見た。大長老が自分から他の者に声をかけるなど異例のことだった。「ご苦労」シンが答えると、レビは黙礼して下に向かった。あっけにとられている猿面にシンは言った。「とにかく我らとすれば、甘い判断を下すわけにはいかんと思うのだ。評決の際は、そこをとくと考えて欲しい」

 広い縦穴をなす前堂の中心を、シンはゆったりと羽ばたきながらのぼってゆく。周りをくねっているヤコブの梯子の上では長老たちが色々な目つきでシンを見ていた。驚き、疑念、羨望、嫉妬…。シンは苦笑する。あの狸はこういう効果を見越して、わざわざ伝令のレビに言づてを託したのだ。

 円い入口を抜けると、そこはドーム状の広間だ。さし渡しは50アンマ(約25メートル)ほどで、決して狭苦しくはないが、神殿の他の部屋のスケールと比べると随分こじんまりと見える。ヤコブの梯子は入口から10アンマほどの高さに突き立っていて、突端に大長老の席がある。だが豪華な刺繍が施された布張りの椅子にツァデクの姿はなかった。空の椅子の上には金色に輝く丸天井が広がり、中心からウリムとトンミムが吊りさがっている。それは幅1アンマ、高さ5アンマほどの金属の筒で、赤と青の対をなす小さなランプが縦に22組並んでいる。この味も素っ気もない器具が神殿の巨大な機構の心臓なのだ。今は上から15番目までのランプが点灯している。そこを円形の足場がとり囲み、石盤を手にしたレビが何人か待機していた。と、点々と灯っている赤と青のランプの下で、次のランプの組が、チカチカと点滅をはじめた。赤と青の灯が数秒間交互に光った後、青の光だけが残った。レビの裔たちは声を合わせて唄った。「我らは聞きたり。深き淵より呼ばわる声を。そはע (アイン)の位にしてウリムなり」するとひとりのレビが石盤に結果を書きつけ、足場から飛びおりると、燕のように急降下して広間を出ていった。ヤコブの梯子をまっすぐに突き抜けて、トーラーの柱の天辺にいるトランペット手に神託を伝えるのだ。

 長老とレビの民以外のケルビムが、この光景を目にすることは滅多にない。一般の天使たちが至聖所でウリムとトンミムに相見えるのは、七歳の安息年に行われる命名式の時くらいだった。その時に告げられる数字が、第二のトーラー(律法)、すなわちモーセ五書を構成する文字列の番号に当てはめられ、正式な名前となるのだ。ところが儀式に臨んだ小さな天使たちは、大抵がっかりした気分を味わう。頭上にぶらさがっている金物は、至高なるエン・ソフの言葉を告げる器にしては、ちょっと安っぽ過ぎはしないか? だが子供たちは必ずこう教えられる。外に突きでた筒はあくまで表示部にすぎず、ウリムとトンミムの本体は天井の奥深くに隠されているのだと。それは「哲学の薔薇」と呼ばれる大きな赤い宝石で、結晶の中心部に極小の隙間が空いている。物質の基となる微粒子がひとつ入るだけの、この世で最も小さな穴だ。そこでは宇宙生成以前の混沌が渦巻いており、無限なる者の声はそこから響いてくるのだ。

 やがて子供たちは、年長者たちがこの聖なる器具を「猫」と呼び慣わしていることを知る。ランプが青く灯ってウリムの答えがでれば「猫が生きた」と言い、赤く灯ってトンミムとなれば「猫が死んだ」と言うのだ。だが、幼い天使たちが「猫ってなに?」「なんで猫なの?」と尋ねても、大人たちは「さあ」と言って首をひねるばかりだった。この想像上の怪物の素性は既に歴史の闇にまぎれて久しく、今となっては姿形も定かではなかった。そして、この異教の匂いを強く放つ名が、神聖な儀式の最も奥まった部分に居座っている理由も、はるかな昔に忘れ去られていたのだ。

「アレフ=シン、こちらですよ」後ろから声がして、シンはあわてて振り返った。ウリムとトンミムを目にしたのは久しぶりだったので思わず見入っていたのだ。大長老は広間の壁際にいた。シンは磨かれた銀の床を横切って、大きな丸窓の脇に腰掛けている小柄な老女に近寄った。「卓越せるツァデクよ。アレフ=シンがただいま参りました」シンが腰を屈めて挨拶すると、大長老は柔和な笑顔を浮かべた。彼女は挨拶抜きで喋りだした。「いつも思うのだけど、創始者たちはなにを考えて、こんなご大層なものを取りつけたのかしらね」彼女は窓の外を指さした。シンが外を覗くと、塔の外壁から突きだしている真っ黒な砲身が見えた。「(つるぎ)の炎」と呼ばれている兵器で、同じものが六本、至聖所の外壁から放射状に伸び、四周の海に睨みをきかせている。この無骨な装置がどんな働きをするのか知る者はいないが、とにかく恐ろしい力を秘めているとされていた。秘密兵器にふさわしく、蒼古の不思議な業により、至聖所ともども外部の目からは隠されている。一般のケルビムは、その存在をほとんど意識することなく日々を送っていた。ツァデクはシンがなにか言う前にまた喋りだした。「エン・ソフ(無限なる者)は、起こりうる出来事に最大の振幅をお与えになる。祝福された道が、同時に破滅への道になることだって大いにありうることだわ。私はこれを見るたびにそう思うの。そうじゃないこと?」そう言って、ツァデクはシンに面白がるような目を向けた。穏やかな灰色の目の奥で、冷たく厳しい光が一瞬よぎった。「はい。卓越せるツァデクよ」シンはにこやかに相づちを打ちながら、内心は薄氷を踏む思いでいる。三度のヨベルの年を見てきたケルビムの長は、一筋縄でいく相手ではないのだ。老女は椅子からヨロヨロと立ちあがった。離れた所に待機していた二人の従者が、翼を支えようと駆け寄ってきた。大長老は小さく手を振ってそれを止めると、シンを見あげて微笑んだ。彼は恭しく老女の傍らに寄り、銀色の髪が垂れかかる細い肩をそっと支えた。レビの者たちは静かに引きさがり、待機の姿勢に戻った。「ありがとう」大長老はシンに礼を言うと、彼に肩を預けながら、広間の中央から突きだしている梯子に向かった。金糸の刺繍がきらめく僧衣の裾を引きずって、あえてゆっくりと歩きながら、彼女はシンに小声で言った。「あなたはあの若者に、ずいぶん厳しい処分を望んでいるようね。目をかけていた子なんでしょうに」「卓越せるツァデクよ。今は私情を持ちだす時ではないかと存じます」シンは前を向いたまま言った。「至高なるエン・ソフの計画を妨げて、なんの天使でしょうか」

 彼の目線の先には壁に飾られた大きな綴れ織りがあった。純白の地の上で、三対の翼が金色に輝いている。エン・ソフの代弁者にしてケルブ・カドモン(最初の天使)であるメータトローンの印だ。六枚の翼は、六つのメルカーバー(天の車)と、それらが載せている六つの神の顔をも表している。メータトローン本人の像がないのは偶像崇拝が禁じられているためだ。また、天の書記官である彼の玉座は常に天頂にあるが、メルカーバーと違って目には見えないとされていた。描かれている六枚の翼も極度に抽象化され、文様のようになっている。

 綴れ織りを睨みつけているシンに向って、大長老はクスクス笑いながら言った。「模範解答ね。私はもう少し別の考えかたをするわ」「どのような?」シンは思わず尊称を添えずに聞き返した。アリク(忍耐強い者)の異名を持つ大長老は怒りもせずに穏やかに答えた。「ウリムとトンミムに諮る命題は、確かに至高なるお方に委ねるものよ。でも一方それは私たちケルビムの社会に跳ね返ってくる。至福千年が終わってしまった今、皆はこれからどうなるか不安がっているわ。ここで私たちが誤った判断をすれば、とり返しのつかないことになるかもしれない」「卓越せるツァデクよ。確かに長老たちからも同じような意見が出ております」シンは慇懃な顔に戻って言った。「しかし、我々の第一の責務は至高なるお方にお仕えすることであり、内輪の事情などは二義的なものにすぎないではありませんか」こうして頑固者の役を演じている限りは、大長老に反論してもさほどの危険はない。ツァデクもそのゲームに乗り、シンがこの半年うんざりするほど聞かされた常套句を繰り返す。「いいえ、トーラーの流謫がこれからもずっと続くなら、この町の維持に心を砕くのは、結局神の御心に叶うことなんじゃないかしら」

 二人は銀の床に口をあけた丸い穴の縁に来た。大長老はシンにつかまりながら下を覗きこむ。百人の長老たちを乗せたヤコブの梯子が長く渦を巻き、その真ん中をレビの伝令が忙しく上下している。梯子の下は円形の広間で、真ん中に丸い穴が開いている。二人が立っている至聖所の入口よりもひと回り大きい。そのすぐ下がトーラーの柱の頂上で、トランペット手が伝令の告げる神託を音階とリズムに変え、肩を張って吹き鳴らしている。広間の穴はトーラーの柱よりもわずかに狭いので、ここからは柱の周りに群がる天使たちの姿は見えない。彼らの回す計算機の音だけが、遠い潮騒のように聞こえていた。ツァデクが言った。「最近、長生きはするもんじゃないと思うわ」「なにをおっしゃるのです。卓越せるツァデクよ」シンが間の手を入れると、百歳を越える大長老は下界をじっと見つめながら続けた。「私はこの子たちが愛しくてならないの。時おり、その心はシェキナーにも負けないとまで思うわ。でも、これも年寄りの執着なのでしょうね」それは本音だろうとシンは思った。ツァデクはシンに振り返って言った。「だからこそ、私はウリムとトンミムに諮る命題を、票決にかけることにしたのよ。最終的な決定権は私にあるにせよ、こういうことは過程が大事なの」シンは大長老の真意を計りかねて黙っていた。すると彼女はシンをじっと見て言った。「ねえ、あなたは死罪を盛んに主張しているようだけど、本当の落としどころは違うのでしょう」シンはまじまじと大長老の顔を見た。つやのない灰色の目と樫の木のような肌に五十年分の経験の差が表れていた。「図星ね」ツァデクは黙ったままのシンに確かめるように言った。シンは頭を垂れて返答した。「はい、卓越せるツァデクよ」するとツァデクは歌うように言った。「そうよ。あなたはあえて厳しい選択肢を示すことで、長老たちに追放の刑を受けいれさせようとしている」シンはじっと黙っている。今は沈黙こそが金だった。ツァデクは続けた。「難しい舵取りよね。彼に極刑を科すことが決まれば、皆は激しく動揺するでしょう。逆に緩い刑罰を命題として差しだせば、至高なるお方の怒りを買い、それこそすべてが破滅しかねない。彼を贖罪の山羊に仕立てるのは酷い仕打ちではあるけれど、最悪の事態を避けるためのギリギリの選択としてなら長老たちにも受けいれやすい。そういうことでしょ」シンは肩で大きく息を吸ってから、おもむろに答えた。「おおせの通りです。卓越せるツァデクよ」すると老女の顔が急に険しくなった。彼女はシンをひたと睨み据えて言った。「なんて差しでがましい。あなたは至高なるお方の代理人のつもり?」中途半端な言い繕いは、かえって致命的になりかねない。シンはまた頑固な教条主義者としての己を前に出す。「神をお助けするのは、むしろ我々の責務と存じます。かつて地上にあった、あの翼なき者たちですら、エドムの王たちを滅ぼしたシェビラー(器の破壊)に対し、ティクーン(復元)の役目を負ったのですから」大長老はぴくりとも動かずにシンを見つめている。彼女の眼差しは彼の心を貫き通し、その奥底にまで届くようだった。ふと灰色の目が和んだ。アリク(忍耐強い者)と呼ばれる老女は笑いまじりに言った。「ゼーイル・アンピーン(気短かな者)の名に恥じない方ねえ、あなたは」ツァデクは大きなため息をつくと、事務的な口調で続けた。「結論としては、私もあなたに賛成せざるを得ないわね。あなたは今まで通り動いてくれていいわ。これから正式に通達しますが、票決は三日後の晩の勤め中とします。もうあまり時間はないけど、くれぐれもさじ加減を間違えないでね」「かしこまりました。卓越せるツァデクよ」シンはほっとしながら頭をさげた。これで話が終われば御の字だった。「それはそうと、最近気になる噂を聞いたわ」そう言って、ツァデクは上を向いた。「それはどのような噂ですか?卓越せるツァデクよ」シンが尋ねると、大長老は目を彼にやって言った。「聞いたことはない?玉座のメータトローンと直接交信しようという一派があるらしいのよ。彼らは秘密結社を作って、ホクマー(智慧)の書庫の扉の鍵を秘かに探しまわっているというわ。本当なら困ったものね」ツァデクの口調はどうでもいい世間話をしている風だ。シンもそれに合わせて答える。「お言葉ですが、卓越せるツァデクよ。最近はそうした世迷い言にこと欠きません。あまり真面目にとられるのはいかがなものかと思いますが」「世迷い言だからこそ心配なのよ。生真面目なケルブほど、こういう極論に惑わされやすいものだわ。そう、あなたみたいなね」大長老は笑いを含んだ目でシンを見やると、再び穴の下を覗きこんだ。シンはその肩をそっと支えた。ツァデクは暗い顔になり、低い声で言った。「私は、あなたの世代のケルビムがシェキナーの元へと送り返されるのをずっと見てきたわ。誰もが千年目のヨベルの年を前にして、新しいシュミッター(宇宙期)が始まるのを今か今かと待ちわびながら、衰えて息を引きとっていった」彼女の目は梯子が描く螺旋模様の上をあちこち彷徨っている。そこで喧々諤々の議論を繰り広げている百人の長老たちは、皆シンと同じ世代だ。ひとつの世代のケルビムは、ヨベルの年から三十五年目の安息年に、シェキナーの湖から一斉に生まれる。地の底深くに埋もれたケルビムの胎は、その年だけ、毎日三百もの赤子を吐きだし続けるのだ。子供たちにはそれぞれ里親が与えられ、十年の間、大切に育てられる。そして十五の歳で新たなヨベルの年を迎える頃にはすっかり独立した大人になっている。彼らは青年の盛りを神聖な努めに捧げた後、五十の歳で次の世代の里親となる。そして十年後に子供たちが巣立ってゆくと、急速に年老い、死んでゆくのだ。彼らはその運命をごく自然に受けいれ、従容としてこの世を去ってゆく。だが小数の者は二度目のヨベルの年を越えて生き延び、長老となる。彼らは概して長命だが、三度目のヨベルの年を見る者はごく稀だ。その例外的な存在が大長老なのだった。不思議なことに、ケルビムのあらゆる世代が、それぞれ百人の長老と、ひとりの大長老を持ってきたのだ。その二十代目に当たるツァデクは、目を遠くにやりながら、ひとりごとのように続けた。「私は下の湖で日々死出の舟を見送りながら、自分の同輩が死んでいった時よりも切ない気持ちでいたわ。私も間もなく死ぬだろうと思いながら至高なるお方に祈ったものよ。私はもう十分長く生きたから、ヨルダンの河を渡れなかったモーセと同じでかまいません。だけど私の可愛い子供たちには、どうか新しい時代を見せてあげてくださいってね。でもその願いは聞き届けられなかった。私はまた生き延びてしまった。至福千年の境を越えてね。なんてことでしょう。これは罰なのかしらね」ツァデクはそのまましばらく黙ってしまったが、やがて深い水の底から浮かびあがるように、ゆっくりと目をあげた。そして、シンに横顔を向けたまま話を続けた。「私は最近決めたの。自分勝手で軽々しい振る舞いには厳しい姿勢で臨もうって。救いが今すぐ欲しいだなんて子供のわがままもいいところ。そんな態度がエン・ソフ(無限なる者)のお眼鏡に叶うわけがないわ。トーラーの流謫を長引かせるだけよ」ツァデクは振り向いてシンを見た。柔和な笑顔が戻っていた。「だからね」大長老は子供にお遣いを頼む時のように、ひと言ひと言区切りながら言った。「もしあなたがそんな動きを見たり聞いたりしたら、私に即、知らせてちょうだい。もちろん、その愚かな子供たちに警告することも忘れないで。馬鹿なことはおやめなさいって。いいですね、アレフ=シン」シンは深々と頭をさげて答えた。「かしこまりました。卓越せるツァデクよ」

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