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  作者: 長谷川暁
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第1章 その2 part2

 その日はずっと、ユッドの心の中を嵐が吹き荒れた。ひどい屈辱感に襲われて朝昼の食事はほとんど喉を通らなかった。カエルが置いていったフェルトとジュートは今、枕元の小さな机の上にある。あの悪魔の言うことを聞くなど論外だったが、ユッドも職人の端くれなので、素材を野ざらしにするのはしのびなかったのだ。

 悔しかったのは、大事な石を取引材料にされたことでも、カエルにいいようにあしらわれたことでもなかった。ユッドは歯をギリギリ噛みながら思う。(あの呪われた大女は少なくとも自分の行動の主人なのだ。あの目も、ぶっきらぼうな言葉も、迷いのない歩きかたも、全部あいつのものだ。だが俺はどうだ。俺には恨みつらみと役立たずの体以外なにもないではないか。あの石でさえ今は俺のものとは言えないのだ)

 朝、半年ぶりに目にした石。ユッドはこれまでも何度か石のことを思いだし、あれが手元にあれば少しは気持が紛れるのではないかと考えたことがある。だが太っちょやラメッドに持ってきてくれるよう頼むのは気が引けた。あまりに幼稚な振る舞いに思われたのだ。

 ユッドが十歳で里親の元を離れ、南の塔でひとり暮らしを始めた時、石は最初から部屋の戸棚の上に転がっていた。前の住人が置き忘れたものなのだろうが、一体なんのつもりでこんな石を持ちこんだのかはわからなかった。最初は捨てるのも面倒くさいという理由で置きっぱなしにしていたが、ユッドは気がつくと、このなんの変哲もない石に妙な愛着を覚えるようになっていた。始めたばかりのひとり暮らしはなにかと寂しく心細い。特に夜はそうだ。最近のユッドは里親のことをあまり思いださなくなっていたが、十歳のユッドはミミズクのベー=ギメルが恋しくて、よく寝床で泣いた。そんな時、うつぶせになった女性の姿にも見える石を撫でていると少し気分が落ち着くのだ。少年ユッドは秘かに石に名前をつけた。「シェキナー(精霊)の石」というのがそれだ。幼いながらに大それた命名なのは自覚していたので誰にも言ったことはない。彼の部屋を訪れた客からなぜそんな石を置いておくのかと聞かれると、ユッドは「なに、重しにちょうどいいからね。それだけさ」と答えることにしていた。

 もっとも今のユッドにとって、シェキナーの石をとり戻すことは二の次の問題でしかなかった。カエルが今朝彼から奪っていったものは石ではない。彼はある種の椅子取りゲームに負けつつあった。この半年、彼は自分の殻にとじこもり、諸々の現実を閉めだし、なおかつ現実から閉めだされていた。そうやって辛うじて自分の陣地を確保し、死なずにいたのだ。ところがカエルはその殻の中にずかずかと踏みこんできた。魂の最も柔らかく傷つきやすい領域にまで。混乱する頭の中でユッドはうめき声をあげた。俺はもう俺でいることさえできないのだ。あいつが俺の前に立ちはだかるかぎり!


 隣の控えの部屋で、施療師のダー=ザインは壁際の机にじっと座っていた。彼女は病室から漏れてくる物音に聞き耳を立てている。他にやることがないのだ。朝から板敷きの床を木靴で歩き回る音がカタカタと響いていた。そこに時おり低い罵り声が混じった。(今日はとりわけ機嫌が悪いわね)と思ってザインは首をすくめた。

 施療師たちは気難しい患者との接触をなるべく避けていた。ユッドは決して言葉を荒げたりはしないが、余計な会話を拒み、四六時中慇懃無礼な態度を崩さなかった。彼らは朝昼晩の食事を運び、午前と午後に型通りの検診をする他は、小さな控え室に引っこんでいた。二つの部屋を隔てる扉は半開きのままにしてある。一応それで医療者としての誠意が示された格好だった。

 夕方、突然大声が響いた。「そうだ!それしかない!」若い施療師はなにごとかと頭をあげた。すると足音がドタドタと近づいてきてドアからユッドの顔が覗いた。幽霊のように青ざめた顔の中で目だけがギラギラと光っていた。彼はザインに向かって早口で言った。「先生、ハサミと針と糸を貸してもらえませんか。糸は丈夫なやつがいい。そう、僕の傷を縫ったものと同じのがあればちょうどいいのですが」

 夜の当直との交替前に、ザインはそっと病室を覗いてみた。ユッドはベッド脇の台の上に屈みこみ、ランプの下でなにやら一心に作業をしていた。足元の床に空の食器が並んでいる。施療師は呆れた。夕食だけでなく、残してあった朝昼の食事までがきれいに平らげられていたのだ。


 夜がふけるにつれ、ユッドの興奮は静かな喜びに変わっていった。久しぶりにフェルトの滑らかな生地に触れ、真新しいジュートの香ばしい匂いをかぐと、半年の間眠っていた職人の心が目覚め、勝手に手が動きだした。まるで頭の中に独立した人格がもうひとつ生まれたかのようだった。そのユッドはカエルへの憎しみを露ほども知らず、今朝がた見た彼女の足の大きさを思いだしながら無心にハサミを走らせている。もうひとりのユッドはその様を呆れながら見ている。彼が(おまえさん、それはさすがに見境のない奴隷根性じゃないかね)と問いかけると、職人は手を休めずに答える。(こうして形を測り、ハサミで分け、糸で結ぶことは、神の御業のまねびでなくてなんだろう。鞜の底と甲を縫い合わせることは、混沌から分かれた天地を再び結合する喜びでなくてなんだろう。我々にとって、なにか他にやるに値することがあるのかね)

 フェルトとジュートは十分にあった。ユッドはカエルの鞜を今までにないほどの熱意で仕あげると、休む間もなく次の仕事にとりかかった。ラメッドと太っちょの鞜を作ろうというのだ。気がつくと鎧戸の隙間から光が洩れていた。朝の勤めを告げる鐘が聞こえている。ユッドは寝床にもぐりこみ、昼過ぎまでぐっすりと眠った。悪夢は見なかった。


 その翌々日の夜明け前、ユッドは屋上の庭園で鼻息も荒くカエルを待ち構えていた。月明かりにのっぽの影が橋を渡ってくるのが見えた。足元に口を開く底知れない暗闇には目もくれず、まっすぐ前を見て、長い足をコンパスのように前後させている。その迷いのない歩きぶりに思わず賞賛の念が湧きそうになるのをユッドは懸命にこらえた。これからあの不遜な怪物に目にもの見せてやらねばならないのだ。

 カエルは橋からおりると、この間と同じく、ユッドの目をじっと見ながら歩み寄ってきた。ユッドもカエルを睨み返しながら、大きな藍色の鞜を黙って差しだした。カエルは手に持った鞜をじっと見た。ユッドは険しい目つきで言った。「持ちがよくなるように底を二重にしておいたよ。指のつけ根から先は逆に薄くて柔らかい麻を使ったから、足の感覚が鈍ることはないだろう」するとカエルはユッドを穴のあくほど見つめた。どうやら予想外の事態らしかった。だが、そのまん丸な目の背後で、どんな思いが巡っているのかはわからない。長い沈黙の後、彼女は目を落として言った。「ありがとう」カエルは腰の籠に手をやり、のろのろと石を取りだした。そのためらいがちな手つきは、今までの振る舞いとは、まるで別人のようだった。彼女は眉間に皺を寄せ、低い声で言った。「これはお返しするわ」すかさずユッドは言った。「いや、それは受けとらない。元あった場所に戻しておいてくれ」カエルがはっと顔をあげると、ユッドは前もって用意していた言葉を叩きつけた。「おまえなんかと取引はしないし、脅しにも乗らない。その鞜は俺の情けだ。黙って取っておけ!」カエルの目に狼狽の色が現れた。「でも…」彼女はなにか言いかけたまま口ごもってしまった。ユッドはここぞとばかりに叫んだ。「俺は自分の力で家に戻る!誰の助けも借りないでな!おまえなんぞに馬鹿にされる筋合いはない!わかったか!」カエルはしばらくの間、呆然とユッドを見つめていた。やがて頭ががっくりと垂れ、かすれた声が洩れた。「無理よ、それは」ユッドは冷ややかに答えた。「おまえが決めることじゃない」

 不思議なことに、今や立場は逆転していた。カエルは悲痛な顔をして立ちすくんでいる。もはや感情を隠す余裕をなくしていたのだ。なぜ彼女がそんな顔をしているのかをユッドは考えない。ただ自分が今、優位に立っていることだけに満足して、彼は昂然と言い放った。「おまえの用は済んだのだろう。なら早く立ち去るがいい」カエルは目をぎゅっと閉じた。大きな手が握りしめられ、柔らかな鞜がよじれた。やがて彼女は小さな声で言った。「よし、いいわ」そう自分に言い聞かせているようだった。カエルは鞜と石を腰の籠にそそくさとしまい、それからはひと言も喋らないまま屋上から去った。橋の上を遠ざかってゆく彼女の背中は妙に小さく見えた。するとユッドの心にぼんやりとした後悔の気持が生まれた。カエルの後ろ姿を見つめているうちに、それはたちまち膨れあがり、つかの間の勝利感を打ち消して、鋭い錐のように彼の胸を刺した。なにか、とんでもない間違いをしでかしたらしかった。その夜、ユッドは三日ぶりに悪夢を見た。沢山の甲高い笑い声が響く中、暗闇の中を、どこまでも、どこまでも、落ちてゆく夢だった。

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