第1章 その2 part1
その2
ユッドは夢を見ていた。メガネを落としてしまったらしく、自分がどこにいるのかよくわからない。あたりは明るいが、ぼやけた濃淡だけが見えている。何人かの天使がいるようだ。声が急に耳元に近寄ってきたかと思うと遠ざかり、また近寄ってくる。声の主はラメッドらしいが、なにを言っているのか聞きとれない。ユッドの知らない異国の言葉のようだった。太っちょの声やゼーイル・アンピーンの甲高い声も聞こえてきたが、やはりなにを喋っているのかわからなかった。すると何者かが後ろからユッドに襲いかかった。目に見えないその力はユッドを頭から押さえつけ、地べたに引きずり倒そうとした。巨大な岩が背中に乗ったようで、身動きができず息もできない。あたりがすっと暗くなり、耳元の声が耐えられないほどに大きくなる。すると意味不明の声たちはうねうねと蠢く黒い文字の群れに変わった。それは神聖文字のようだったが、見つめる先から次々と形を変え、蛇のようにのたくりながら視界から逃げてゆくのだ。ふいに足元から地面が消えた。知らぬ間に後ろが崖になっていたのだ。がくっと体が倒れ、心臓がぎゅっと縮んだ。ユッドは懸命に翼を動かすが、なんの手応えもない。まるで真空の中にいるようだ。彼は悲鳴をあげながら闇の中に落ちてゆく。どこまでも、どこまでも…。
ユッドはガバッと身を起こした。心臓が早鐘のように打っている。彼は大口をあけて喘いだ。目覚めた後も墜落の感覚が体に生々しく残っていて、両腕の肌がぷつぷつ粟立っている。何度も肩で息をするうちにようやく体が落ち着いてきた。冷たい汗が裸の背中をびっしょりと濡らしている。みじめだった。守ってくれる翼がないことを、起き抜けに告げられるほど嫌なものはない。こんな目覚めがもう何ヶ月も続いていたが、慣れるどころではない。苦痛はかさぶたを剥がした生傷のように膿み、ユッドを蝕んでいた。彼ははね除けた毛布をたぐり寄せ、肩からくるまると、瞼をぎゅっと閉じ、涙が滲んでくるのにまかせた。この仕草は毎朝の習慣になっていた。泣いた後は多少は気持が楽になるのを経験が教えてくれたのだ。まだ夜明け前らしく、あたりはしんと暗く冷たい。今は秋と冬の境目で、事故からそろそろ半年が経とうとしていた。
※ ※ ※
あの時、ユッドは瀕死の状態で水から引きあげられた。トーラーの柱の中ほどから墜落すれば、たとえ下が水面だとしても固い岩に叩きつけられたのとそう違いはない。彼の命が辛うじて助かったのは残った片方の翼がクッションの役を果たしたからだ。だがその翼もズタズタに折れ曲がってしまい、施療師は根元から切除するしかなかった。ユッドは二週間も生死の間を彷徨った末に施療院の病室で目を覚ました。
意識が戻って最初の一週間は半分夢の中にいるようなふわふわした心地の中で過ぎた。ユッドの体は彼が眠っていた間も背中の傷と休むことなく戦い、疲労し切っていた。強い鎮静剤が処方された。枕元で大泣きするラメッドに、ユッドは呂律の回らない口で声をかけた。「大丈夫だよ。俺は大丈夫だから」
カササギと太っちょは、しばらくの間、毎日欠かさずにユッドの元を訪れた。二人が持ってくる籠には評判の菓子やら初物の果実やらがぎっしりと詰めこまれていた。話題は他愛もない世間話ばかりだった。にぎやかな笑い声がひとしきりはじけた後、ユッドはひとり、空の寝床が並ぶ病室に残された。髭のレーシュはまったく姿を見せなかった。鎮静剤の効果でぼんやりした頭の中に、やがて疑念が湧いてきた。あの瓶の中身はなんだったのか。ベー=レーシュは故意にユッドに毒を含ませたのか。ユッドは訪れた太っちょに事の顛末を語った。決して褒められた話ではないので、その口調はたどたどしく重かった。太っちょは腕組みをして黙っていたが、やがてひどく気乗りのしない様子で言った。「実は、おまえが飲んだ薬の出所については、もうレビの連中が調査済みなんだ」「それで?」「俺たちも含め、おまえとつきあいのあるケルビムは皆、ひと通りの調べを受けた。結果は十分な証言を得られず不明、それだけさ。おまえのお隣さんも嫌疑をかけられたひとりだが、彼はなにも知らないと言っている」「なんだって?」寝床のユッドが気色ばむと、太っちょは苦々しく言った。「長老会にしてもレビにしても、それ以上の追及はできないさ。彼らは聖山の外の出来事には裁判権がないからな」天使の社会には犯罪という概念がない。世俗の生活で生じる細々としたいさかいは、すべて身近にいる長老たちによって調停され、警察も裁判所も存在しないのだ。ただし、事が神事に関わる場合に限って、長老会がレビの民を通して取り締まりを行うことになっていた。「おまえに今こんなことを言いたくはないんだが」太っちょは下を向いたまま続けた。「長老会が気にしているのは薬の出所じゃないんだ。彼らにしてみれば、おまえが自分の意志であれを飲んだことが一番の問題なんだよ。神殿の内部でね」ユッドは黙りこんだ。「ま、おいおい裁定は下るだろうが、彼らも鬼じゃないさ。おまえも十分罰は受けていることだしな」太っちょはそう言うと昼の勤めにでかけていった。「罰」という言葉が深くユッドの胸をえぐったことに、彼は気がつかなかった。
それから数日した夕方、ユッドは初めてベッドから起きあがった。病みあがりなのに、妙に体が軽い。不意に自分が翼を失ったせいだと気づく。施療師は傷跡はきれいだと言っていたが、ユッドはまだ自分の背中の様子を見たことがなかった。ラメッドから贈られた新しいメガネをかけて部屋の中を見回すが鏡はない。病室の窓から西日が射し、暖かい風が吹きこんでいた。もう夏が始まろうとしているのだ。晩の勤めを告げる鐘が遠くでカンカンと鳴っている。ユッドは窓際によろよろと歩いてゆき、外を見た。施療院は大通りに面した公会堂の最上階にある。通りを挟んで巨大な居住棟が壁のように広がっているのが見える。窓のひとつから松の木亭がにょっきりと生えている。老木は赤みが差してきた空にまっすぐ突き立ち、静かに枝葉をそよがせている。ユッドは訝しむ。あそこでラメッドらと食事をしてから、まだひと月もたっていないのだ。自分は一体どこに来てしまったのだろう。目を下に向けると、晩の勤めに向かうケルビムが大勢飛んでいた。通りはもう大方薄闇に沈んでいたが、建物の隙間から洩れる西日がオレンジの縞となって射しこみ、群れ泳ぐハヤのような天使の流れに輝く断面を作っていた。ユッドはぼんやりと、(俺はもう、あそこに加わることはないのだろうな)と思った。だが、その考えはあまりに現実離れしていて、まるで他人事のように思われた。すると突然、目眩が彼を襲った。外に乗りだした体がぐらりと揺れた心地がして、思わず彼は窓の縁にしがみついた。背中から冷汗が吹きでる。今までなんでもなかった風景が突如として強い恐怖を呼び起こしたのだ。ユッドは思いだした。燃えるような喉の痛みと彼の翼を焼いた炎の熱さを。そして突然重力の囚われ人となった瞬間を。高所恐怖症という言葉を天使の社会は知らない。だがユッドを襲ったのはまさにそれだった。彼はその場から逃げだしたい衝動に必死で耐え、大きく息を吸いながら、はるか下に広がる景色を睨みつけた。するとそこにカエルがいた。
カエルはユッドのいる部屋から十階ほど下の窓にぶらさがり、彼を見あげていた。二人の目が合った。カエルは日焼けした顔の中で目を大きく見開いた。二人の間には五十アンマほどの距離があったが、ユッドはカエルが自分に笑いかけたのを知った。ユッドの全身から血の気が引いた。(いまや俺は、あの地を這う虫と同類なのだ!)彼は震えながら叫んだ。「なにを見ているんだ! 失せろ!」ユッドは転げるようにして窓際から逃げだすと、ベッドに倒れこんで激しく泣いた。
カエルはユッドが消えた窓辺を身動きもせずに見あげていた。悲鳴にも似たどなり声が、まだ大通りに谺していた。その最後の余韻が消えると、カエルは静かに頭を垂れて家路についた。
地獄の日々が始まった。翼を失ったことと、額に薄い傷跡が残ったことを別にすれば、じきにユッドの体の傷は癒えた。それでも彼は施療院を一歩も出られなかった。また施療師たちも、長老会がなんらかの判定を下すまでは、彼をここに留めておくのが無難だと考えていた。なじみ深い通い道だった空が、一転、牢獄の壁に変わった。ユッドの薔薇色がかった柔らかい肌は次第に黒ずみ、筋張ってきた。まるで彼の内面の苦悩が表に現れたようだった。ラメッドと太っちょは、友人の目に険しい光が宿っているのを見て、悲しみ、恐れた。彼らの足は次第に遠のいた。
ある日ひとりでユッドの元にやってきた太っちょは、ラメッドも辛いのだと苦しげに告げた。彼は頭を垂れて続けた。「正直、このところおまえの立場は悪くなっているようだ」ユッドが吐き捨てるように「これ以上、どう悪くなるんだい」と言うと、太っちょは言った。「まあ怒らずに聞いてくれ。こんなご時世だ。おまえの起こした事故は、周りにあらぬ噂を呼んでいるんだ」「どんな?」「おまえは儀式の最中に槍を手放し、神体に血を浴びせてしまった。そのせいで、トーラーの柱が取り返しがつかないほど穢れてしまったと考えている連中がいるのさ。しかもおまえが故意にそれをやったという噂が出回っている」「なんだと!」ユッドが大声で怒鳴ると、太っちょは顔をしかめて「シーッ」と言った。「俺だって馬鹿馬鹿しいと思うよ。だがおまえは振る舞いに注意したほうがいい。今は全部が全部、裏目にでているんだ。おまえが前の当番日にエドムの王名を呼び寄せたこともそう。おまえがかねがねカエルに情けをかけていたことも、悪魔と取引していたととる奴がいる。おまけにモーセの癇癪のとばっちりを受けたのは、שじゃなくて実はיだったなんて説まで飛びだしてくる始末さ。俺たちの名に欠陥があるせいで、トーラーの流謫は永遠に終わらない、そしておまえがその失敗を決定的にしたんだとな。昨夜、東の塔でやってた集会に顔をだしたら、顔見知りのベー=アインが大真面目に言うんだぜ。『あんたの字は、本来は両肩の翼みたいに左右対称だったと思うのよ。今は片翼だけど』って。まったく世も末だよ」絶句しているユッドに太っちょは最後のとどめを刺した。「だから申し訳ないが、俺もラメッドも、おまえとの交際はしばらく控えたいと思っているんだ。なに、この馬鹿げた噂が収まるまでさ。これもお互いのためだよ。悪くとらないでくれ」
それを最後に太っちょの来訪は途絶えた。ユッドはそれでもラメッドが来てくれるのを秘かに待ち焦がれたが、虚しい望みだった。それからの日々、ユッドは寝ては墜落の夢に襲われ、目覚めては悶々と思い悩んだ。彼はあの日の軽率な行動を悔いた。だが、どう考えても、翼を失い、皆から理不尽な誹謗を受けるだけの罪を犯したとは思えなかった。すると怒りが溶岩のようにせりあがってきた。その矛先は、不可解な理由で自分を陥れたベー=レーシュだったり、事故以来一度も姿を現さないアレフ=シンだったり、日和見主義者の太っちょだったり、つれないラメッドだったりした。頭の中で相手をひとしきり罵った後は、必ずひどい自己嫌悪に襲われた。だが怒りは、ユッドの意志とは関係なく、隙あらば心の中に入りこんでくるのだ。彼は自分がひどく汚れてしまったと感じた。寒々とした絶望が生まれ、固いクルミの殻のように彼の心をとざした。ユッドは内と外の牢獄につながれ、ただただ凍りつき、萎れていった。
こうしてユッドの日々は、痛ましいどうどうめぐりの内に過ぎた。長老会はユッドになにも言ってこなかった。施療院の外では輝く夏が到来し、天使たちは勤め着を袖の短い薄手のものに替えた。彼らが涼しげに眼下を通り過ぎてゆくのをユッドがうらめしい目で眺めている内に秋が来た。日が短くなって、彼はますます憂鬱に沈んだ。夜は、黒々とした思いが、手を替え品を替えて襲いかかってくる時間帯なのだ。
※ ※ ※
時は再び初冬の夜明け前だ。ユッドは暗闇の中で、動こうとしない体に号令をかけ、無理矢理に寝床から這いだした。起きるにはまだ早い時間だが、二度寝すれば、また悪夢に襲われるに決まっていた。手探りで窓辺に向かい、立てつけの悪い鎧戸を開く。ひんやりした外気が顔に当たり、見あげると空にはまだ星が瞬いていた。ユッドは隣の木の扉をあける。下を見ないようにして慎重に体を乗りだし、扉の脇の梯子に手をかけた。これは施療師たちがユッドのために取りつけたもので、10アンマ(約5メートル)ほどのぼると建物の屋上に出る。ケルビムの町の建物は内部に階段がなく、階をまたぐ移動は外を通してしかできない造りになっているのだ。ユッドは寒さと恐怖に震えながら、ぐらぐら揺れる梯子にしがみついて、ひと足ひと足あがってゆく。梯子を取りつけた施療師は、ユッドの肉体上の不便さは承知していたが、高所に対する恐怖というものをまるで理解していなかった。
建物の屋上は広々としていて、聖山に面した東の半分は庭園、西の半分は果樹園になっている。ここがユッドが自由に往き来できる唯一の場所なのだ。庭園の縁からは石の橋がいくつか伸びて、隣の建物の屋上に繋がっている。だがそれらは、ユッドの行動範囲を広げるどころか、彼に深いため息をつかせるばかりの代物だ。幅は一アンマあるかなしか、上に台車の車輪を乗せるための鉄の溝が二条走っている他はのっぺらぼうの一枚板で、手すりの類いはない。途中を支える橋脚はなく、ただ両端を建物の縁に乗せているだけで虚空に浮いている。町の創設者たちは、大通りを囲む建物の間に、こんな橋をいくつも張り渡した。どれも千年の月日を耐え、今なお堅牢さを保っている。後代の建築家には到底真似ができない技術だ。ただ、それらは専ら天使が荷物を運搬するために作られていて、翼を持たない者が正気を保ったまま渡るのは困難だった。
町の住人が朝の勤めに動きだすまでにはまだ間があった。あたりは薄暗いが、人目を避けて散歩をするにはうってつけの時刻だ。ユッドは曲がりくねる小道に沿って、落葉をはじめた木々の間を歩き回る。空を見あげると、メルカーバーが天頂近くと、西の水平線すれすれにかかっていた。古代の星座群を押しのけ、諸々の惑星よりもはるかに強い光で輝いている天空の覇者だ。黄道帯を囲む六つのメルカーバーは、それぞれの玉座に、神の七つの顔の内の六つを載せているという。残るひとつの顔がシェキナーで、それは地中深くに埋もれているとも、月に宿っているとも言われていた。その月は今、レモンのような半身を聖山の上に浮べていた。
ユッドは心の中で呪いの言葉を吐いた。(シェキナーよ。あなたが俺を、神の眷属の一員として産んだというなら、なぜこんな目に合わせるのだ。誰にでもある不注意と、背伸びをしたい気持が少しあっただけではないか。それとも俺は、いつかどこかで、知らぬ間に罪を犯していたのか。だが、それがどんな罪だとしても、俺が知らない理由ならば、罰になんの意味がある。ただの理不尽な暴力だ)
月の真下では、明け始めた空を聖なる山の稜線が切りとっている。頂上の火口はギザギザに尖ったシルエットを見せており、そこに鎮座しているはずの至聖所は影も形もない。火口内部の神殿から見あげると、天幕の隙間を通して、大きな金色のドームが目に入る。だが蒼古の不思議の業によって、ウリムとトンミムが座しているその場所は、外部の目からは完全に隠されているのだ。ユッドはその不可視の至聖所があるあたりを不安な目で眺める。あそこで一体なにが話し合われているのだろう。どういう結果であれ、自分になんの裁定も下らないということはありえまい。なぜ半年近くも音沙汰がないのだろう。
「ねえ」と女の声がして、ユッドは振り向いた。大通りの上を貨物橋が長々と伸びていて、向い側の居住棟に達している。その上に誰かいた。「誰だい?」ユッドはそのはっきりしない影に呼びかけた。影は無言のまま、細い橋の上をスタスタ歩いてきた。ユッドの鼻先でひょろ長い影は足を止めた。とんでもない高さから、二つの丸い目がユッドを見おろしている。カエルだった。彼女は言った。「困ってるんだけど、私」その厚かましい物言いにユッドは逆上した。薄闇の中で立ちはだかっている大きな影に向かって、彼は声を限りに叫んだ。「帰れ!おまえにそんな口をきかれる筋合いはない!」カエルの目がピクッと揺れた。ごくわずかな動きだったので、ユッドの目には留まらない。カエルは腰に手を当てて言った。「ご挨拶ね。あなたに仕事を持ってきてあげたのに」真上からユッドの顔を覗きこんでいる黒い顔には、なんの表情も浮かんでいない。それがなおさら不気味だった。ユッドは後ずさりながらわめいた。「なめるな!俺と対等だと思ってるなら大間違いだぞ!」するとカエルはきっぱりと言った。「それはこっちのせりふよ。私だって、事故で翼をなくすような間抜けと一緒にされたくないもの」彼女は、返す言葉もないユッドを前に、腰の籠から二つの品を取りだした。色違いに染められたフェルトが一束と四つ折りにしたジュートだ。「これで私の鞜を作ってほしいの。今までは我慢してたけど、もう冬だから裸足はつらいわ」ユッドの目は思わずカエルの足元にゆく。丈の短いズボンの裾から引き締まったふくらはぎが突きだしていて、頑丈そうな踝を挟んで大きな足がある。爪はきれいに切りそろえてあったが、土にまみれ、煮しめたような色になっていた。「さあ、お願いよ」カエルはユッドの鼻先にフェルトの生地を突きだした。ユッドは拳を握りしめ、目をぎゅっと閉じて言った。「断る!」「ただとは言わないわ」そう言って、カエルは腰の籠からもうひとつの品を取りだした。ユッドは驚いた。ユッドの部屋の戸棚の上にあった石だった。カエルは大きな手の平で、ひしゃげた形の石を転がしながら言った。「これ、大事なものなんでしょう」ユッドの驚きが怒りに変わった。自分が密かに大切にしていたものを、この悪魔は取引の種にしようというのだ。しかもその扱いようから、カエルがこれをつまらぬものだと考えているのは明らかだった。ユッドはあまりの屈辱に真っ青になった。「それは俺のものだ!」ユッドは罵り声をあげて石に掴みかかった。カエルはひょっと手を持ちあげて、石をユッドの手が届かない高みに逃がした。彼女は素っ気なく言った。「そうね、確かにこれはあなたのものだわ。勝手に持ちだして悪かったわね」「なら返せ!」ユッドはカエルに跳びかかったが、彼女は空いた片手でユッドの肩を掴み、なんなく押し戻してしまった。そして彼の細い肩を万力のように締めつけながら言った。「いいえ、あなたには渡さない。これは元あった場所に戻すわ。それが筋ってものでしょ」カエルは長い腕をブンと振ってユッドを突き放した。彼がよろよろと後ずさると、彼女は籠に石を戻し、顔にかかった黒髪を振り払いながら言った。「欲しかったら自分の部屋に取りにきなさい。あなたにできるものならね」彼女の口調は静かだった。馬鹿にしたような調子は微塵もない。そして、大きな目でユッドを見つめたまま、決して視線をそらそうとしないのだ。もしユッドが冷静だったら、カエルの言葉はどれも、前もって入念に用意されたものだと気づいたかもしれない。彼女がどんな感情も表に出すまいと、細心の注意を払っていることも。「とにかく、これは置いていくわ」カエルはフェルトの束の縁をそろえ、ジュートの上に重ねて、丁寧な手つきで地面に置いた。そして、大通りをまたぐ貨物橋のたもとにスタスタと歩いていくと、そこで振り返った。「三日後にまた来る。鞜を私にくれれば、石を渡すわ。駄目ならまたあなたの部屋に戻すだけ」彼女の声は大きくはなかったが、朝の冷気そのもののように硬く尖っていた。カエルは踵を返し、橋に足をかけた。そしてユッドが言葉もなく見守る中、肩幅ほどの広さもない板の上をスタスタと歩き始めた。明るくなり始めた空に、彼女の細長い影がまっすぐつき刺さっている。一歩踏み違えば千アンマの高みから落下するというのに、カエルの歩みにはためらいがなかった。朝風が吹き始めた。潮の香りを乗せた西風は、ユッドの傍らを吹き過ぎ、カエルの長い髪をなびかせた。彼女は一度も振り返ることなく、深淵の上を歩いていった。