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  作者: 長谷川暁
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第1章 その1 part4

 木曜日の夜中過ぎ、ユッドは再び神殿の橋の上にいた。聖なる山の腹の中は、昼間とはまったく違う顔を見せている。百二十の七十人組からなる八千四百のケルビムが各々腰にカンテラを下げているので、あたり一面光の粉をまき散らしたようだ。トーラーの柱を埋める神体はゆらゆらと波打つ光を放っている。昼間吸収した光を放出しているのだ。その乳白色の光の中で、黒く刻まれた文字の列がくっきりと浮かびあがっている。夜間に神聖文字を長く見つめるのは危険なこととされていた。天使の頭脳には目に映った神聖文字を翻訳する働きがあるが、夜は文字の力が強まり、バラバラな文字の集まりでさえも心になにかを語りかけてくるのだ。それらはよく聞き取れないぶつぶつというつぶやきだ。大方の天使は意味のない雑音と見なしている。だが一部の迷信家はそこに畏怖すべき神秘を見ていた。彼らによれば、頭に響いてくる声は神の十の顔の間で交わされる秘密の囁きなのだ。

 だが今日のユッドには、そんな玄妙な声を聞き取る余裕はなかった。隣の赤毛は数字の擦り合わせをするたびに睨みつけてくる。レビたちもおかんむりで、いつもの仏頂面に輪がかかっている。右隣の太っちょでさえ態度が素っ気ない。機を見るに敏であることを誇る彼は、こういう時にはドライなのだ。ユッドは歯をキリキリ噛みながら無言の圧力に耐え、名誉挽回の機会を待っていた。それはもうすぐ訪れるはずだった。

        ※         ※         ※

 時間は少し遡る。火曜日の夜、太っちょとカササギに別れを告げた後、ほろ酔い気分で自分の部屋に戻ったユッドは、窓の外の棚にフェルトの束が置いてあるのに気がついた。鮮やかな緋色のフェルトの上にはコルクの栓をした陶器の小瓶が置いてあり、メモ書きが一枚添えられていた。


メガネ君——

今日は災難だったな。しばらく君を待っていたのだが、用事ででかけるのでフェルトを三束置いておく。この瓶はほんの心づけだ。中身は蜂蜜に薬草のエキスを混ぜた秘伝の薬だ。君は木曜日の勤めでまた槍持ちだろう。槍を受けとる直前に飲んでみたまえ。気つけになるし、なにより声がなめらかになる効果がある。飲めばカケスもナイチンゲールの声で鳴きだすという逸品だ。だみ声の僕はいつもこれを重宝しているんだ。余計なお世話かもしれないが、君はいつも自分の声を気にしているように見える。こんな時こそ、しょぼくれた様を見せちゃいけない。だまされたと思って試してくれ。ただし効き目は10分程度で切れるので注意。君の名誉挽回を祈る。——髭より


  ユッドはこれを読んで戸惑った。親切な心遣いなのは確かだが、髭のレーシュとは時おり軽口を叩き合う程度の仲でしかない。余計なお世話といえば余計なお世話だった。それに得体の知れない薬を神殿に持ちこんだことが知れれば、ゼーイル・アンピーンは烈火のごとく怒るだろう。あの老人のモットーは「命ぜられたことをなす者のほうが、命を受けずになす者よりも偉い」なのだ。

  続く二日の間、ユッドは薬を返そうか返すまいか、ずっと迷っていた。自分のデリケートな領分に単なる隣人がずかずか踏みこんできたことは、決して気分のいいものではない。その一方で薬の力を試してみたい気持もあったのだ。だが肝心の髭はずっと留守のままだった。いよいよ夜半の勤めの時がやってきて、ユッドはカンテラをさげた天使たちの列に加わり、夜の参道を黙々と歩いた。彼はその時もまだ迷っていた。瓶は勤め着の懐に忍ばせてあったのだ。

  ところが神殿の入口に着いた時、彼の気持を決める出来事が起こった。洞窟の脇でアレフ=シンが待ち構えていたのだ。長老の丸メガネは無数に揺れるカンテラの灯を反射して地獄の炎のように燃えあがっていた。「シェモートゥ(出エジプト記)三章十四節の第二子なるユッドよ」彼はわざわざ省略なしの名前でユッドを呼び止めると、大声で叫んだ。「今夜おまえがわずかでもだらしない様を見せたら、即刻尻を蹴っ飛ばしてアザゼルの元に送ってやるからな。心してかかるがよい!」ユッドの顔が真っ赤になった。一人前の天使に対して、あまりに理不尽な仕打ちだ。彼は思わず叫んだ。「あなたのお心のままに。ベレーシート(創世記)二十二章八節の初子なるシンよ!」あたりがどよめいた。目上の者に正式な名前で呼びかけるのは、ひどく無礼な振る舞いなのだ。だがユッドは周りの目が気になるどころではなかった。彼は踵を返し、肩を怒らせながら聖なる洞窟に踏み入った。それを見送るアレフ=シンは、なぜかひどく悲しい顔をしていた。ユッドはそれを知る由もない。

        ※         ※         ※

 いよいよ槍持ちの番が近づいてきた。ユッドは目の前にそびえる巨大な柱を真正面から睨みつけていた。神聖文字が発する声が頭の中でガチャガチャと響いていたが、まるで気にならない。それほどまでに彼は怒り、気負い立っていた。トーラーの柱を覆う光は絶えず不規則に揺れ動いていて、縞模様となってゆっくりせりあがったかと思うと、急に無数の飛沫になって散らばり、柱の上から下まで稲妻のように駆け抜けた。その周りをカンテラをさげた天使たちが火の粉のように飛び回っている。はるか上でトランペットが神経質にペ、ぺ、ピ、ピと鳴り、手回し計算機が立てる音がスコールのように高まった。太っちょは、さっきからユッドをチラチラ見ている。いつもと違う様子が気にかかっているのだ。ユッドは懐から小瓶を取り出した。そして太っちょに見られていることを意識しながら、中身をくいっと飲み干した。甘辛い味が口に広がり、喉元がじんわりと暖かくなった。太っちょが小声で言った。「おい、なんだそれは」ユッドは前を向いたまま答えた。「まあ見てろ」

  数分後、ユッドは兎飼いのテットが目の前で朗々と口上を述べるのを親の仇のように睨みつけていた。(見てろよニンジン野郎。今おまえの鼻をあかしてやるからな!)彼は自分の心に芽生えた反抗心を新しい友のように歓迎した。そして翼をゆっくりと羽ばたかせながら息を吸い、腹の底から声を出した。「友よ。統一と名誉の主なるエン・ソフより出ずる第十の文字を拝命するこの私…」一同がざわめき立った。ユッドの声は、春の風のように柔らかく、沐浴の泉から湧き出る水のように透き通っていたのだ。三人のテットが目を丸くして聞き入っている前で、ユッドはよどみなく口上を終えた。振り返ると太っちょが口をあんぐりあけていた。ユッドは笑って言った。「どうだい」

 驚きから覚めないままの皆を引き連れ、槍を両手に掲げて飛びながら、ユッドの心は高ぶり、はやった。薬の効果が切れる前に、カフたちに槍を手渡さなければならない。そこでもう一度口上を披露できるのだ。その声はひとつ上の橋まで聞こえるはずだ。ラメッドがいる橋まで!するとなんだか喉が熱くなってきた。

 ユッドの羽ばたきが急に乱れた。彼は喉を掻きむしりながら、背中を大きくそらせた。メガネが顔から跳ね飛び、くるくると落下していった。「おい!」後ろを飛んでいた太っちょが追いつき、手を差しのべた。だがユッドは苦悶に顔を歪め、空中でのたうち回るばかりだった。火を呑みこんだような激痛が喉を襲い、叫び声をあげることすらできなかったのだ。レビのひとりが叫んだ。「槍を!」ユッドの手から転げ落ちた槍を、のっぽのアレフ=ユッドが辛うじて受けとめた。その時ユッドの翼がのっぽの腰を激しく叩いた。そこには大きなカンテラがさがっていた。ガラスが砕け、オリーブ油が飛び散った。ユッドの右の翼を二条の炎がさっと走った。「ああ!」ユッドの口から切れ切れの悲鳴が洩れた。「ユッド!」ラメッドが叫びながら急降下してきた。彼女と太っちょと何人かの天使がユッドをとり囲み、押さえつけようとした。だが、炎に包まれた翼が邪魔をして体に近寄ることができない。火が舌でなめるように翼を這い、柔らかな羽毛を焦がしていった。白い翼のあちこちからぶすぶすと黒い煙があがった。ユッドは悲鳴をあげながら闇雲に羽ばたき、トーラーの柱に激突した。額が割れ、文字の上に赤い血が飛び散った。「友よ、許せ!」レビの者が叫び、ユッドの背後で剣を振りおろした。炎に包まれた翼がばさりと背中から離れた。ラメッドの悲鳴が響いた。バランスを失ったユッドは、片方だけ残った翼をばたつかせ、コマのように回りながら落下した。「ユッド!」ラメッドが絶叫しながら後を追ったが、ユッドの体はもう、重力の爪にがっちりと捕らえられていた。彼は気を失い、頭を下にして、必死に追いすがるラメッドからどんどん遠ざかっていった。近くを飛んでいた天使たちは思わず身を避けた。弾丸のように落下するユッドの体を止められる者はいなかったのだ。ユッドは千アンマの距離を垂直に落ち、火口の底に広がる湖面に叩きつけられた。バシッという水音が岩壁に谺し、大きな水柱があがった。やがて暗い水の上に、彼の体がぷかりと浮かびあがった。

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