第1章 その1 part3
「しかしあのハゲ親父、言うことが毎度違うじゃねえか」太っちょは憤然とした顔で言うと、リンゴ酒をぐいっとあけた。小さな木のテーブルを挟んで座っているユッドは、琥珀色の酒がなみなみと注がれたコップを手にぐったりと頭を垂れている。ゼーイル・アンピーンの説教はあれから三時間続いたのだ。バサバサと羽音がしてラメッドがおりてきた。丈の短い平服に着替えた彼女は、焼き菓子やら果物やらで山盛りの皿を抱えている。彼女は皿をテーブルに置いて二人のユッドの間に座った。ギー=ユッドは平たい種無しパンをつかむと、むしゃむしゃ頬張りながら言った。「ま、あまり気にするなよ。よくあることさ」
実際、不注意者のせいで計算が振り出しに戻ることは週に何度もある。だが、ユッドたちの組からエドムの王名が出たのは初めてのことだった。太っちょとカササギは、すっかり落ちこんでいる友人を無理矢理夕食の席に誘い出したのだ。ここは大通りに張り出した松の枝の上だ。その名も松の木亭と呼ばれている巨木は、通りに面した居住棟の窓からにょっきりと生え、そこから空に向かって100アンマ(約50メートル)ほども伸びあがっている。幹から突き出た枝はきれいに刈りこまれ、丸や四角のテーブルが据えられている。どの卓も食事を楽しむ天使たちで一杯だ。色とりどりの服を着た彼らは、齢数百年の古木を咲き誇る花々のように飾っていた。ユッドたちは梢に近い特等席にいた。そこからは町の中央を走る広い通りがよく見渡せた。
大通りといっても道があるわけではない。ユッドらの眼下に広がっているのは石造りの巨大な建築群に挟まれた大きな谷だ。四角い窓が縦横に並ぶ絶壁が向かい合わせになって東西に伸び、町を真っ二つに割っている。その間を大勢の天使たちが通り過ぎてゆく。上になり下になり飛んでいる彼らのほとんどは聖山のある東に向かっていた。晩の勤めの始まりが近いのだ。あと半時間もすれば、ここは昼の勤めから帰ってくる天使でごった返すことになる。太陽はまだ水平線の上にあったが、建物の低い階では、もう窓々に灯りが点っていた。そこから下は建物の壁が天然の岩肌に入れ替わる境目で、そのあたりから急に暗くなり、谷底は完全に闇に沈んでいる。
「それにしても、最近長老たちはピリピリしてるわね」ラメッドがコップにリンゴ酒を注ぎながら言った。「ピリピリしてるのはじいさんばあさんだけじゃないさ」太っちょが口をもぐもぐさせたまま返す。「知ってるか?最近変なサークルが続々できて、夜ごとに集まっては内緒話をしてるぜ」「なにをしゃべっているの?」「決まってるだろ。世界がなんで終わらないのかってことさ。どいつもこいつも大真面目に悩んでやがる」カササギは鼻に皺を寄せて「なーんだ」と言うと、ユッドの背中をポンと叩いた。「ほらユッド、飲みなさい。ぐずぐずしてると世界が終わっちゃうよ」ユッドは無言のままコップの酒をちびりと舐める。彼にしてみれば、今日の午前中に世界が終わってしまったようなものだった。太っちょとカササギは、鬱々としているユッドをほったらかしにして、ああでもないこうでもないと世間話を続けた。太っちょは広く浅くをモットーとし、なにごとにも鼻を突っこみたがる性分だった。町に起こっていることなら大概知っているのだ。だが彼でなくとも、町に不穏な空気が漂っていることに気づかぬ者はいない。それは一昨年のヨベルの年に端を発していた。
ユッドたちの世代に物心がついた頃から、彼らが15の歳で迎えたヨベルの年まで、天使の町は熱に浮かされたような高揚感に包まれていた。50年ごとに訪れるヨベルの年は、奇跡の業によって天使の町が誕生してから、ちょうど20回目を迎えようとしていた。つまり、至福千年の時期が終わろうとしていたのだ。
ケルビムが知っている歴史によれば、この宇宙は、七つのシュミッターを次々に通過してゆく。各々のシュミッターは七千年続き、その間は神の持つ七つの特性の内、どれかひとつの面が優勢になり、世界を支配する。宇宙期が変わると、前の時代を支配していたあらゆる価値観が天地さかさまに引っくり返る。その時は物理法則さえも変化すると言われていた。現在は神がディーンの面を露わにしている第二宇宙期にあたり、事実、地上は何千年にもわたって、善悪の力が激しくぶつかり合う闘争の舞台となった。だがこの厳しい時代も天使たちが舞い飛ぶ至福の千年をもって終る。そして新たに始まる第三の宇宙期では神のラハミームの顔が支配することになるだろう。神の愛が太陽の光のように降り注ぐ新世界がまもなくやってくる、はずだった。
至福千年の999年目の年、天使たちはトーラーの柱の変化を、これまでにないほど熱心に見守った。50年ごとに彼らが目にしてきた古の聖典、「第二のトーラー」「流謫のトーラー」「モーセ五書」等々の名前で呼ばれてきた現世のトーラーは役目を終え、今しも新しい宇宙期を統べる第三のトーラーが顕われ出ると思われていた。ところが翌日にヨベルの年を迎える大晦日になっても、柱を埋める文字群は相変わらずバラバラのままだった。どう目を凝らしても、そこにはなんの意味も読みとれなかったのだ。翌日の新年初日は失意と脱力感の中で迎えられた。それからの一年を丸々費やしてトーラーの柱は初期状態に戻された。再び訪れた大晦日には三十万四千八百五個の神聖文字によって「モーセ五書」が完全に復元された。15歳のユッドらは、その内容のあまりの激越さに恐れおののいた。そして次の日の元旦から再び果てしのない組み替え作業が始まった。50年ごとに粛々と繰り返されてきた光景だが、ユッドらの世代はなんとも割りきれない思いを抱きながら日々の勤めを続けてきたのだ。そして今は、新しい千年紀を迎えてから1年と5ヶ月目に突入していた。
「まったく難儀な時代に生まれついちまったもんだよな、俺たちは」ギー=ユッドが大げさに嘆息してみせると、ダー=ラメッドは口を尖らせた。「別にいいじゃない。このままで一体なにが困るっていうのよ」彼女はそう言うと、ぐっとコップの酒を飲み干した。太っちょが苦笑して言った。「おい、言い過ぎだぞ」
もっともカササギの言葉は、大多数の天使たちの本音を代弁していた。ここの気候は温暖で、聖山の麓の農園で得られる収穫は十万の天使たちの胃袋を常に満足させていた。ヨベルの年の前の盛りあがりの最中ですら、かなりの数のケルビムが、内心、未知の新世界がどれだけ素晴らしいものでも、今の生活を捨てるのは惜しいと考えていたのだ。
「でな」太っちょはカササギ相手に講釈を垂れ始める。事情通を自認する彼は、あちこちで開かれている集会に夜な夜な顔を出し、そこで交わされている議論を少しずつつまみ食いしているのだ。大小のサークルは、大抵はひとりか数人の長老を中心にまとまっている。彼らの主張はてんでバラバラだ。ある者たちは、至福千年は限りなく延長しうるのだと言う。彼らによれは、時間というものが意味を持つのは、この宇宙に現れ出た神の七つの顔においてのみであり、エン・ソフの隠れた最深部、帷の彼方の三つの顔においてはその限りではない。時間の概念を持たないエン・ソフにとっては、永劫の時間も一瞬も同じことで、至福千年や宇宙期といった観念は、時間に縛られた有限の存在である我々の不完全なこしらえごとにすぎない。ゆえに、神に関わる物事は、常に永遠の相から見られるべきである。重要なことは、三十万四千八百五の文字がなすあらゆる組み合わせの数は、たとえ想像を絶するものであるにせよ、あくまで有限だということだ。よってトーラーの流謫はいつか必ず終息するのであり、神の目からすれば、いつか成就されうることは、すでに成就されたも同然だ、と言うのだ。この説明には色々と矛盾があるが、巷に出回っている諸々の説の中では最も穏やかな部類で、天使たちにも受けがいい。彼らにしてみれば、現在の悪くない生活を、これからもずっと(もしかしたら永遠に)続けられるということだからだ。昼間ゼーイル・アンピーンがユッドにくどくど言い聞かせたことも、大筋は同じ理屈に基づいている。「だがな」と太っちょは注釈をつけた。「一部の玄人筋は、あのハゲ親父は本音を言っていないと噂し合っているぜ」ユッドは顔をしかめた。アレフ=シンの話など、耳にしたくもなかったのだ。太っちょはおかまいなしで哲学的なゴシップを垂れ流し続けた。口さがない連中によれば、かの長老がいつも言っていることは手のこんだ目くらましにすぎず、彼はもっと過激な思想を抱いているに違いないというのだ。「ま、買いかぶりだな」と太っちょは結論づけた。「あのジジイは屁理屈で他人を困らせるのを生き甲斐にしているだけさ」ユッドは大きく頷いた。
一方、こんな考えを持つ者もいた。宇宙は前後左右上下に無限に広がっており、したがって無限の数の世界を含んでいる。それでいながら、我々の住む天体を構成する粒子の数は、どれだけ多くとも有限であり、その組み合わせかたも、想像を絶する数ではあろうが、やはり無限ではない。だとすれば、無限の宇宙の中には、我々の世界と瓜二つの世界が存在するはずだ。それも無限の数だけ存在するのだ。そして、それぞれの世界には我々とまったく同じ顔と心と行動を持つケルビムが住み、同じようにトーラーの柱に仕えている。ところが神託機械のウリムとトンミムは、エン・ソフの最も隠れた神秘に直結しており、それが告げる神託は、この宇宙の粒子の運動から完全に独立している。ウリムかトンミムか、0か1かは、前もって予測不可能なのだ。わかるのは、両者が発現する確率が半々だということだけである。だとすれば、無限に存在する諸世界において、無限の数だけ存在するウリムとトンミムは、同一に見える世界においても、それぞれ独立した解を示し、したがって、無限の数のトーラーの柱は、神聖文字のありとあらゆる組み合わせを示すことになる(三十万四千八百五文字がなす組み合わせの数は、無限に比べればものの数ではない)。当然その中には、来るべきシュミッターのトーラーが燦然と顕われ出るものもあるはずだ。結論されることは、今この瞬間にも、無数の世界において、トーラーの神聖なる流謫は終りを告げ、至福溢れる次のシュミッターが訪れているということである。
「なにそれ?」揚げ菓子にマーマレードを塗りながら、ラメッドは呆れたように言う。「宇宙のどこかで私たちのそっくりさんが宝くじに当たったとして、それがなんなの」彼女のほつれた金髪を、夕空がほのかに照らしている。ユッドは頬杖をつきながらそれを眺めている。リンゴ酒の酔いが体をゆっくりとせりあがってきて、ようやく気分がよくなってきた所だ。彼は思う。たとえ無数の俺が無数の失敗をやらかしても宇宙は存続し、こうして無数のラメッドがお菓子を食べている、それはいいことじゃないか。
「連中が言うにはだな」太っちょのユッドは得意げに話し続ける。「俺たちが現に目の前にしているトーラーの柱と、宇宙にあまねく広がっている無数のトーラーの柱は、ウリムとトンミムを介してひとつに繋がっているというんだ。無数の枝を伸ばした木のようにしてな。あいつら、その総体が「原トーラー」そのものだとまで言ってるんだぜ。神聖文字のあらゆる組み合わせをそなえた、宇宙の最高の奥義にして、神の唯一の名前なんだとな」「ありがたい話だこと」カササギが、つきあいきれないという顔をすると、太っちょは訳知り顔でつけ加えた。「ま、これには現実的な意味もあるのさ。要するに、今の俺たちのやりかたは間違っちゃいない、現状維持でいいってことだからな。ハゲ親父の一派が言っていることと、結局大した違いはない。時間が空間に置き換わっただけの話でな」「結構、結構。哲学談義もそういうことなら悪くはないわ」カササギは山羊のチーズをパンのかけらに塗って、ぽいと口に放りこむ。太っちょは意地の悪い笑みを浮かべて言う。「だが、中にはもっと過激なことを言ってる奴らもいるんだぜ。そいつらに言わせれば、俺たちは千年このかた、丸っきり見当外れなことをやってきたんだそうだ」「どういうことよ」ラメッドが聞くと、ギー=ユッドは急に真顔になり、声を潜めて言った。「ここから先は正真正銘の異端説だぞ。世迷い言に違いはないが、レビの奴らが聞きつけたらただじゃ済まんだろうな」太っちょはわざとらしくあたりを見回すと、テーブルに身を乗り出して、ユッドとカササギに耳打ちするように続けた。「若手の説教師の間で今流行っているのは、神聖文字に致命的な欠陥があるという説でな。そのせいで、トーラーの流謫は行き着く先がないというのさ。その中でも諸説がある。ある奴が言うには、今のトーラーの柱の神聖文字は、二十二ある内のどれかが一文字だけ欠けているらしい。だから『第二のトーラー』をいくらいじっても『第三のトーラー』は生まれてこない。そもそも文字が足りてないんだから。俺たちのやってきたことはすべて徒労だったってわけだ」「馬鹿馬鹿しい!」カササギが苛立たしげに首を振ると、太っちょは目をまん丸にして言った。「まあ聞けよ。もうひとつの説はもっと手がこんでいる。ほら、ガキの頃よく聞かされただろう。モーセがシナイ山で神から授かった二枚の石板のうち、彼が怒りに任せて叩き割ったほうの石板には『第一のトーラー』が記されていて、これはモーセひとりが一度読んだきりで、この地上から永久に失われてしまった。残ったもう一枚に記されていたのが今ある形での『第二のトーラー』だってな」
これは年長の天使が子供に聞かせる定番の話だ。神のケセドの顔が支配していた第一宇宙期のトーラーには、その時代にふさわしく、ひたすら神聖さだけが春の陽光のように満ち満ちて、いかなる血なまぐさいエピソードも、いかなる禁令も含まれていなかった。ところがモーセの感情まかせの行動が台無しな結果を招き、代わって「モーセ五書」の時代、すなわちディーンの時代を呼び寄せることになったというのだ。太っちょは続けた。「最近あの昔話の異説が出回っているんだ。モーセが第一の石板を叩き割ったとき、飛び散った破片が第二の石板にぶち当たった。その結果、神聖文字のひとつが傷ついてしまった。なので、今知られているその文字の形は不完全なものだというんだな」ユッドは思わず引きこまれて聞いた。「どの文字だい、それは」すると太っちょは腕を組んで重々しく答えた。「疑惑の目が向けられているのはשだ。今この字は三本頭だが、本来の形では頭が四本あったというんだ」「いかれてる!」カササギが叫ぶ。「アレフ=シンの頭の毛が一本増えれば、宇宙が救われるっていうの?」三人の天使はどっと笑った。 「で、結局あんたは、どの説を信じているのよ」カササギが聞くと、太っちょの天使は肩をすくめて答えた。「さあね。俺は不可知論者だからな」
太陽は既に沈み切っていた。わずかに明るみを残した空に、メルカーバーが三つ輝いている。黄道帯を六分割して並んでいるこれらの赤い巨星たちは、宵の明星よりも早く姿を現し、そしてはるかに明るい。眼下の建物の窓々にはランプの灯が点り、大通りは昼の勤めから戻ってきた天使たちで溢れかえっていた。彼らは皆、腰にランタンを下げて飛んでおり、通りはさながら滔々と流れる光の川のようだった。ラメッドは鼻歌を歌いながらそれを見おろしている。と、リンゴ酒の酔いに火照った顔がふいに曇った。彼女は細い眉をひそめて言った。「今日も来てるわ、あの子」
ユッドがラメッドの視線の先を追うと、通りのこちら側の壁に、ひょろっとした黒い影が張りついていた。カエルだ。カエルは壁のわずかな出っ張りを足がかりにして、片手で窓の下にぶらさがり、もう片方の手にビワの枝を握っていた。彼女は枝についたビワの実をかじりながら、油断なくあたりを見回している。夕食を調達しに谷底からのぼってきたのだろう。彼女は口から種をプッと吹きだすと、腰に巻きつけた縄を手にとった。先端についた鉄の鉤を、窓から張りだしている石の棚に引っかける。そして、ごく慣れた手つきで鉤がしっかり噛んでいることを確かめると、両足で反動をつけて宙に身を投げた。翼のない身体が縄の先できれいな弧を描き、一瞬の後、カエルは一階下の窓にとりついた。少し遅れて長い黒髪がぱさりと肩に着地する。彼女の目の前には丸パンを山盛りにした皿がある。天使がひとり近づいてきたが、招かれざる客と鉢合わせしたことに気がつくと、ついと空中で方向転換し、その場を立ち去った。カエルはどこ吹く風でパンを腰の籠に放りこんでいる。「あいつ、よくわかってるじゃないか。あそこのパンはうまいんだ」太っちょが論評を加える先から、カエルは隣の窓に跳び移り、置いてあった干しプラムをざばっと籠にあけた。今の時間帯は食料が豊富なのだ。非番の天使たちは、自分が調理した食物を窓の外に置いておく。すると神殿での勤めを終えた天使たちが、それを勝手に持って帰る。ユッドたちが今飲み食いしているパンやリンゴ酒も、カササギがあちこちの窓からかき集めたものだ。このように気前のいい生き方をしている天使たちなので、闖入者を咎めたり追い立てたりすることはない。だがやはり、カエルはケルビムの社会に紛れこんだ異物には違いなかった。天使たちは、彼女に出くわすと、なんとなく落ち着かない気分になって目をそらすのだ。今しがたの太っちょの軽口にも、心無しかこわばった響きがあった。
カエルは、そもそもはユッドらと一緒に生まれたケルビムの一員だった。17年前の安息年に、他の十万の仲間と同じく、半透明の胞衣に包まれて、神殿の底のシェキナーの湖にぷかりと浮かびあがったのだ。ところが驚いたことに、彼女には翼が生えていなかった。つるんとした背中を見て、天使たちは大層困惑したが、この突然変異の赤子にも、他の子供らと同じく育ての親をあてがい、保護と教育を与えることにした。
だが、翼のない者が天使の町で暮らすとなると、ほとんど幽閉状態に近い生活を送らざるをえない。一歩部屋の外に出れば、途端に千アンマ下に転落する危険に晒されるのだ。カエルは成長するにつれ、そんな境遇を嫌うようになり、10歳になって親から独立すると、次第に下へ、下へと住処を移してゆき、とうとう誰も訪れることのない町の底部に引っこんでしまった。そこで彼女がどんな風に暮らしているのかを知る者はいない。ただ、この若い世捨て者は、月に何度か町に上ってきて、勝手に食料その他の物資を調達しては、また元の暗がりに戻ってゆくのだった。
カエルは今、ユッドらのいる松の木亭の根元から、何十アンマか下にいた。ユッドはメガネの奥で目を凝らし、カエルの足元を見ている。距離が遠く、彼女が始終ピョンピョンと跳ね回るので、鞜の状態はよくわからない。だが、もう大分すり切れているはずだった。
ユッドとカエルとの間には妙な縁があった。ユッドも他のケルビムと同じく、自分の副業でこしらえた品を窓の外の棚に置いておく。彼の場合は鞜だった。天使たちはそれほど足を使わないし、神殿に参内するときは鞜履きを禁止される。だが普段の生活では、羊毛や編んだ藁などで作った柔らかい履物を愛用していた。ユッドの作る、黄麻の底とフェルトの甲でできた鞜は、履き心地がよく長持ちすると評判で、窓の外に置くそばから消えてゆくのだった。何年か前のある日、ユッドはとある建物の屋上をてくてく歩いているカエルを見て驚いた。彼女は自分が作った緑色の鞜を履いていたのだ。となると、彼女は翼もなしに、ユッドが住む南の塔にのぼってきたことになる。彼女を手助けするような友人はいないはずだ。彼女はケルビムを拒み、ケルビムも彼女を避けていた。この傾向は、ヨベルの年の数年前から急に際立ってきた。原因のひとつは、彼女の肢体の異様な発育ぶりにある。
ケルビムの身体は、12歳を過ぎたあたりで成長が止まる。身長が2アンマ半(約120センチ)を越える天使は滅多にいない。それ以上体が大きくなると、翼が重みを支え切れなくなるのだ。ところがカエルの体の成長はそこで止まらなかった。まるで翼に行き渡るべき養分が、そのまま体に流れこんだかのようだった。彼女の背は平均的なケルビムよりも頭二つ分も高くなり、なおも伸び続けた。それだけでも天使たちをたじろがせるに十分だったが、異変は他にも起きた。両の胸がリンゴの実のように膨らみだしたのだ。多くのケルビムが、この異教の邪神じみた姿を見かけるたびに、言いようのない不安を覚えるようになった。当然カエルの方でもそんな空気を察知した。元々口数が少なかった彼女は、やがてまったく口をきかなくなった。
ある朝、ユッドは部屋の窓の前に、ボロボロになった緑の鞜が置いてあるのを発見した。天使の生活からは考えられない傷みようから、カエルが履いていたものなのは一目でわかった。鞜の甲と底は一度切り離され、穴に通した麻縄でゆるく結ばれていた。カエルの足の常識はずれな大きさに、鞜が合わないのだ。その日の夜、ユッドは普通より二まわりも大きな鞜を一足こしらえて、窓の外に置いた。天使たるもの、その程度の親切は苦にならないものだ。翌朝には鞜は消えていた。それからというもの、カエルはきっちり半年に一度、鞜を交換しにやってきた。だがそれは必ずユッドが眠りについた後で、彼女がユッドの前に姿を現すことはなかった。すり切れた鞜の傍らには、必ず薄桃色の大きな貝殻やら、小さな水晶をアスパラガスのように生やした石やらが添えてあった。そんな間柄から、ユッドはカエルに対して嫌悪の念は抱いていない。あるのは職人としてのサービス精神と、多少の憐れみの気持ちだけだった。
ユッドはほろ酔い気分でテーブルに頬杖をつき、綱の先で玩具のようにぶらぶらと揺れているカエルを眺めている。そろそろ新しい鞜を作ってやらないとな、と思いながら。ラメッドはそんな彼をしげしげと見ていた。彼女はユッドがカエルに鞜を作ってやっていることを知っている。カササギは再び視線を下ろし、眼下で食べ物を漁っている奇形の大女を見た。カエルはさっきから10階ほども上にのぼってきていて、今はその様子が手にとるように見えた。もつれた黒髪の間から大きな目が覗き、窓から洩れる灯りを反射して不気味に輝いた。つんつるてんの麻の服は茶色く汚れており、そこから突きでている腕や脚も同じ色に日焼けしていた。筋力と振り子の原理のみを頼りにした動きには、優美さの欠片もない。突然飛びかかってくるバッタとか、シュッと走るトカゲに似ていた。それに、あの瘤のように盛りあがった胸といったら!カササギにしてみれば、あんな滑稽なものを体にくっつけているカエルが哀れというよりも、それを見せられている自分のほうが、なにか理不尽な侮辱を受けている気分なのだった。なんといってもこの生き物は元は身内なのだ。彼女は思う。創造主は、なんの意味があってあんな存在をお作りになったのだろうか。ひょっとしたら私たちケルビムを嘲笑って面白がっているのかもしれない。太っちょが言ったように、私たちはもしかしたら本当に、なにか決定的な間違いをやらかしたのかもしれないのだ。ラメッドはそこまで考えてから、これ以上嫌な気持に落ちこまないようにと顔をあげた。メガネは相変わらず首を斜めに傾け、カエルの動きを目で追っている。彼の頭の中なら、カササギにはおおよそ見当がつく。(こいつは鞜のことしか考えていないんだわ。それにしてもなんて物好きな)そう思って彼女は顔をしかめた。カエルに嫉妬をしたわけではない。ラメッドはユッドが好きだったし、シェキナーの湖が次の分娩期に入れば、一緒に所帯を持ってもいいとすら考えていた(もっとも相手が太っちょの方のユッドになる可能性もあったが)。だが、ケルビムの恋愛感情は、一般に淡く穏やかなものに止まり、激しい愛にまで高まることがない。まして傷ついた愛を待ち受ける地獄の試練のことなど、天使たちは夢にも知らないのだ。ラメッドはぶるっと身を震わせて言った。「夜風が出てきたわね。そろそろお開きにしましょうよ」