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  作者: 長谷川暁
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第1章 その1 part1

第1章


  『トーラー』がこの世に降ったとき、

  もしこの世の衣装をまとわぬのであれば、

  どうしてこの世は『トーラー』に耐えられようか。

  ——『ゾーハル』より


その1


 遠くで鐘が鳴っていた。まどろんだ心の底で、カランカランと心地よく響いている。だが音は段々と近寄ってきて、それだけ耳障りになってゆき、ついには頭が割れるような騒音に変わった。すると負けないくらいの大声が窓の外から飛びこんできた。「ユッド!ベー=ユッド!起きて!ユーッド!」

 部屋の隅の寝床で、ユッドの体がもぞもぞと動いた。毛布のように体を包んでいる白い羽の間からトウモロコシの房のような金髪が垂れ、下から眠そうな青い目が覗いた。ユッドが「やあ、ダー=ラメッド」と声をかけると、窓から半身を乗りだして鐘を打ち鳴らしていた ケルブ(天使)はやっと手を止めた。だがそれで静けさが戻ったわけではなかった。ラメッドは叫んだ。「やあじゃないわよ、やあじゃ。あなた今週は槍持ちでしょ。しっかり沐浴してから出仕しないと、またゼーイル・アンピーンにどやされるわよ」ユッドはベッドの中で顔をしかめた。「気短かな者」を意味する古代語をあだ名に持つその老人は、ユッドを見かけるたびになにかと小言を浴びせるのだった。ユッドがのろのろと体を起こすと、ラメッドはだめ押しに鐘をカーンとひと鳴らしして窓の外に消えた。バサバサと羽音が響き、ユッドの顔にさっと朝日が射した。彼はまた顔をしかめた。鐘の音が遠ざかっていった。

 ユッドは枕元に置いてあった丸メガネをかけると、重たい翼を引きずって窓辺に寄った。開いた鎧戸の向こうに聖なる山が見え、上に金の林檎のような太陽がのぼっていた。下界の町はまだ薄暗がりの中に沈んでいる。その上空を白く輝く鳥が一羽飛んでいた。ラメッドだ。彼女はカンカンと鐘を打ち鳴らしながら北の塔に向かっていた。塔は眼下の街並からにょきっと突き出し、誇らしげに朝日を浴びている。あそこから見れば、ユッドの住んでいる南の塔も同じように見えるはずだ。北の塔には太っちょのギー=ユッドが住んでいる。ラメッドはこれから彼を叩き起こしにゆくのだ。(ご苦労なことだ。)ユッドは大あくびをして窓から顔を引っこめる。

 瓶の水で顔を洗い、干した果物で簡単な朝食をすませると、ユッドは勤め着を頭からすっぽりとかぶり、背中にあいた穴から両の羽を突き出した。それは首から踝までを覆うごわごわした白麻の筒衣で、神殿での勤めの時にだけ着るものだ。聖なる山の底で、安息日を除いて昼夜絶え間なく続いている儀式は、朝、昼、晩、夜半の四交替制で、今週は火曜日の朝と木曜日の夜半がユッドの当番だ。今日は火曜日だった。ユッドは古いクルミ材の戸棚の前に立ち、上に置いてある石を撫でた。いつもの朝の習慣で、ほとんど無意識の動作になっている。それは丸みを帯びた灰色の石で、そら豆のようなひしゃげた形をしている。なんの変哲もない石だが、その形は見ようによっては女が地面に倒れて泣き伏しているようにも見える。少なくともユッドにはそう見える。でも彼はそんなことはおくびにも出さない。ラメッドや太っちょのユッドにさえだ。偶像崇拝の類いは固く禁じられている。万が一、ゼーイル・アンピーン(気短かな者)の耳に入ろうものなら、ただではすまないだろう。

 ユッドは木の扉を開けて表に出た。戸口の外は狭い石の露台で、幅は2アンマ(1アンマは50センチ弱)あるかなしか、奥ゆきは1アンマもない。その一歩先はもう空で、はるか500アンマの下にケルビム(天使たち)の町が広がっている。まだ眠気の覚めないユッドの目に、朝日を浴びて林立する尖塔群と、その間を忙しく飛び過ぎてゆく天使たちの姿が映る。小鳥のように見える彼らの大半は、東に向かって飛んでいた。ユッドと同じく朝の勤めに向かっているのだ。

 不意に「よう、メガネ君」と声がかかった。ユッドが振り向くと、隣の部屋の窓から髭面のケルブが首を突き出していた。ベー=レーシュだ。「あのカササギはなんとかならんかね。毎度うるさくてかなわん」彼が指さす先には鐘を鳴らしながら飛び回っているラメッドがいる。ユッドはきまりの悪さに耳たぶを赤くしながら言い返す。「本人に言ってくれ。俺は知らないよ」ベー=レーシュはにやにや笑っている。「まあいいさ。なあ、フェルトの染めが今日の午後にはあがるんだ。工房から何枚か持って帰るから、夜にでも取りにきたまえ。ご要望の緋色もあるよ」レーシュは羊毛の加工を副業にしているのだ。(くつ)職人のユッドにすれば重宝な隣人だった。

 ユッドはばさりと羽を打って、空中に足を踏み出した。左右に伸びた白い翼が空気をはらみ、華奢な天使の体をふわりと持ちあげた。普段は背中に畳まれている両の翼は、飛ぶ時は各々が身の丈よりも大きく広がるのだ。ユッドは塔の回りを巡りながら空をのぼってゆく。塔の壁には小さな窓と木戸が等間隔に穿たれている。同じ作りの部屋が、ねじの溝のような螺旋を描いて積み重なっているのだ。ユッドはその線をなぞるように飛んだ。この石造りの建物は、蒼古の昔に建てられた東西南北の「見張りの塔」のひとつだが、今では単なるアパートになっている。300人ほどの住人がいて、ユッドの部屋は上から三分の一くらいの高さにあった。

 ユッドは塔の天辺を越え、更に上空へとのぼってゆく。聖山に向かって吹く西風に乗るためだ。次第に町の南西に広がる大海原が目に入ってくる。だがユッドがその光景を意識することはほとんどない。ケルビム(天使たち)にとって、海はなんの意味もない空白でしかなく、水平線も一本の抽象的な直線以上のものではないのだ。聖山と町が彼らの全世界だった。

 ユッドの眼下をケルビムの町並みが流れ過ぎてゆく。10万の翼持つ者たちが暮らすこの都市は、まるで大地から直接生え出たように見える。それもそのはずで、5千アンマ四方の土地に密集してそびえている建物の群は、神代の恐るべき棟梁たちが玄武岩の台地に鑿鎚を振るい、そこから直に切り出したものなのだ。重力というものをまるで気にしない住人たちにふさわしく、尖塔や城館はどれも思い思いの形で空に伸びあがり、ねじ曲がり、逆さに張り出して、まるで酔っぱらった群衆が踊り狂っているようだ。あちこちの屋上やバルコニーに緑の庭園があり、クルミやリンゴの木が風にそよいでいて、夢まぼろしから抜け出てきたような町並みに、ほっとする親しみやすさを加えていた。住人たちはここをただ「町」と呼んでいる。町はひとつしかないので、それで一向に不便はないのだ。蒼古の昔にはこの町にも名前があったのかもしれない。だがそれを知る天使は誰もおらず、そんなことを気にする者もいなかった。

 町の東の外れは聖なる山のふもとで、急峻な崖の上に、一年を通じて豊かな実りをもたらす農園と、羊の群れが遊ぶ牧草地が広がっている。そのただ中を神殿へ続く石畳の道がうねりながら伸びていて、脇には木立に囲まれた泉がある。勤めを行う天使たちは、必ずそこで沐浴し、歩いて聖所に参内しなければならない。

 聖なる山は太古に活動を終えた死火山で、山の腹に開いた暗くて長い横穴を抜けると、突然、広々としたドームのような空間に出る。かつて炎を盛んに吐き出していた巨大な火口が、今では天使たちの神殿になっているのだ。

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