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【オムニバスSS集】青過ぎる思春期の断片

愛を失くした正義の、その名を

作者: 津籠睦月
掲載日:2022/03/27

 ドラマの中で語られる“綺麗事”を、うすら寒く感じて、心が冷(さ)めることがある。

 特に「親子だから、きっと上手くいく」「血の繋(つな)がった家族だから、最後には分かり合える」なんて台詞(せりふ)には、死にそうなくらいに胸が凍(こご)える。

 それが真実だと言うなら、上手くもいかず、分かり合えもしない俺は何なんだ。

 努力や試練が足(た)りないとでも言うのか。もっと苦悩や苦痛を味わわなければいけないとでも言うのか。

 ……きっと、そんなわけはない。

 上手くいかない理由を“自分”に求めるのは、いい加減(かげん)、もう飽(あ)きた。

 悪いのは俺なのだと、一方的に断罪して責(せ)め立てる、あの男の虚言(そらごと)に、いつまでも乗ってやる義理はない。

 俺はもう、子どもじゃない。

 ただの言い訳(わけ)や誤魔化(ごまか)しを、親の言うことだからと素直に受け入れられるほど、子どもではないんだ。

 

 幼い子どもというものは、なぜ親――特に男親のことを、無条件に「自分よりすごい」「自分より強い」と思い込んでしまうのだろう。

 まだ物の常識も世間も知らなかった頃(ころ)なら、仕方(しかた)がない。

 だが、親の言うことに反発を覚えるようになってからも、胸の奥底に、本能的な畏(おそ)れを感じる。逆(さか)らい難(がた)い何かがある。

 他の大人になら言い返せることも、あの男に対しては躊躇(ちゅうちょ)してしまう。

 物心つくかつかないかの頃から、刷(す)り込みのように隷属(れいぞく)精神を植えつけられてきたなら、尚更(なおさら)のことだ。

 

 他人を支配したがる人間というものが、世の中には存在する。

 他人が自分の思うように動かないと許せない、自分と対立する意見の人間は存在自体を認めない――そんな種類の人間だ。

 人間は一人一人違っていて、同じものを見ていても考えることは違っているし、選ぶ行動も違ってくる。

 当たり前に存在する、人類数十億人分のその違いに、いちいち目くじらを立てるなんて、正気の沙汰(さた)とも思えない。

 世の中の人間全てが自分と“全く同じ”だなんて、逆に最悪に気味が悪いじゃないか。

 ――なんて、あの男に言ったところで、きっと分かってはもらえないだろう。

 あの男の中では、いつでも自分が絶対的に正しい。

 それに逆らう者こそが悪で、それを正そうとするのは正義なのだ。

 笑ってしまう妄信だが、その“正義”が俺や母の身に及(およ)ぶとなれば、全くもって笑えない。

 

 昔は何の疑問も抱いていなかったことだが、今となっては不思議に思う。

 どうして正義のヒーローの採る解決手段が、結局は“力による攻撃”なのかと。

 アクションが無いと絵にならないだろうし、昔は俺も、ワクワクしながらそれを観(み)ていた。

 だが、今はそんな勧善懲悪(かんぜんちょうあく)の“お約束”にさえ、恨(うら)みごとを言いたくなる。

 ――そんなことだから、自分が正しいフリをして、平然と他人に暴力を振るう人間が出るんじゃないか、と。

 ……まぁ、ヒーローものに憧(あこが)れた人間の、全てが全てそうなる(・・・・)わけでもないから、これはただの八つ当たりだ。

 実際、あの男がどんな歪(ゆが)んだ思考回路でこの行為に至(いた)っているのか、俺にはさっぱり理解できない。

 だって、そうだろう。

 気に入らないことがあれば、条件反射のように手を上げ、無理矢理言うことを聞かせておきながら、それを正義と思い込めるなんて……一体どんな思考を辿(たど)れば、そんな結論に至れるんだ。

 

 家庭(いえ)の中に暴君がいるというのは、最悪だ。

 金も行動力も無い子どもでは、どこにも逃げ場が無い。

 母親もその暴君の支配下にあるなら、助けてくれる人もいない。

 暴君を怒らせないよう、気に障(さわ)らないよう、顔色を窺(うかが)って、ビクビクして……だけど俺はあの男と“同じ”ではないから、何が“正解”かなんて分からない。

 俺にとっては“正しい”ことでも、あの男にとって“間違(まちが)い”なら、それはもうアウトなのだ。

 能力的にどうしても“できない”ことでも、あの男からすれば、それは“言い訳(わけ)に過ぎない”のだ。

 そんな風に、狭(せま)い家の中で、やりたい放題に君臨(くんりん)しておきながら……それでもあの男は、なぜだかいつも不機嫌(ふきげん)なのだ。

 家族を好き勝手に支配し、服従させておきながら……それでもまだ足りないと、俺たちをさらに責めるのだ。

 

 昔は、悪いのは俺の方なのだと思い込んでいた――いや、思い込まされていた(・・・・・)時期もあった。

 痛くて辛(つら)いことがあっても、それが“悪い子に対する罰(ばつ)”ならば、他所(よそ)に訴(うった)えることも思いつけない。

 そもそも、そんな幼いうちには、助けを求められる場があること自体、知らずにいた。

 子どもを助けてくれる場は、子ども自身が助けを求めるには、なかなかに分かりづらい。

 それに、そんな酷(ひど)いことが、24時間、毎日起こるというわけじゃない。

 あの男にだって、機嫌が良くて優しい日もある。そんな風だと、余計(よけい)にどうしていいか分からない。

 そんな風だと、勇気を出して誰かに助けを求めなくても、俺が何かを頑張(がんば)れば、上手くいくんじゃないかなんて、淡い希望を持ってしまう。

 だけど結局、そんな希望が叶うことはない。

 あの頃、頭にあったのは「目先の一日一日を、どうやってやり過ごしていくか」という、ただそれだけ。「どうしたら、今日はお父さんに叱られ(・・・)ずに済むのか」という、それだけだった。

 

 世の家庭内暴力の全てが、ニュースに出るような、致命的レベルのものとは限らない。

 むしろ、痕跡(こんせき)も残らないようなものも多いからこそ、表に出にくく、周りに気づかれることもなく、ずっと続いていったり、密(ひそ)かにエスカレートしていったりするのだろう。

 幸(さいわ)い……と言って良いのか、あの男にも、この行為が知られてはマズいという意識くらいはあるらしい。やり過ぎたらマズいという意識くらいはあるらしい。

「この程度(ていど)なら平気だろう」という油断や過信が、行為(こうい)の向こうに透(す)けて見えることがある。

 ……だけど、この男は分かっていない。

 大人と子どもの力の差を。

 大人の男が直情的に振り上げた拳が、相手にどれほどのダメージを与えるかを。

 

 たぶん、この男にも「殴(なぐ)られれば痛い」ということくらいは、想像がつくだろう。

 だけど、その痛みの程度には、きっと想像が及(およ)ばない。

 そこに在(あ)るのは、単純な痛みなんかじゃない。

 殴られた箇所(かしょ)の、異様な熱さと、肌の下がズキズキと脈打つ感覚。頬(ほお)が鈍(にぶ)く固まってしまったように動かしづらくなって、片目が開けにくくなること。

 時には鼻の中が切れて、ピリピリと刺すような痛みも加わること。鼻腔(びこう)を血がぬめって流れていく、何とも言えない不快感。

 単純な痛みなんかじゃない。もっと複雑で、不快で、気持ち悪くて、心が悲鳴を上げる。

 だけどあの男は、きっと知らない。

 自分がどれほどの痛みと恐怖と悲しみを与えているのか、きっとまるで分かっていない。

 

 愛の反対は憎しみではなく無関心なのだと、以前、何かで聞いたことがある。

 聞いてすぐ、さらりと納得(なっとく)できた。

 あの男には、関心が無い。俺たちの受ける痛みに関心が無い。

 俺たちがいつも、どんな気持ちでいるのか、何を考えているのか――想像してみたこともないんじゃないかと思う。

 あの男の心の中には、自分のことだけしかない。

 自分が中心。自分が全て。自分以外のことには無関心。

 下手をすると、自分が起こす行動の結果(・・)にすら、関心が無いのではないかと思う時がある。

 

 陶器(とうき)の皿は投げれば割れる。卓上時計も壁(かべ)にぶつかって壊(こわ)れれば使えなくなる。物が当たれば壁は凹(へこ)む。

 小学生だって分かる、あまりにも単純で、当たり前な事実。

 なのにあの男は、自分の起こした行動の、そんな当たり前の結果にさえ、なぜか機嫌(きげん)を悪くする。

 まるで自分のしたことを忘れてしまったかのように、物が壊れ、家が傷ついた現状を、理不尽(りふじん)な災難のように嘆(なげ)き、憤(いきどお)る。

 きっと、この種の人間はそういうものなんだろう。

 激情(げきじょう)に駆(か)られての破壊(はかい)行為。それを正当化するために、考えなくても分かるような因果(いんが)にさえ、都合(つごう)良く目をつぶる。

 感情のままに憂(う)さを晴らしたいから、その結果何が起こるかなんて、頭の外へ追いやってしまうんだ。

 当たるのが物(・)なら、まだ良い。下手をすると人(・)に対してさえ、真っ当(とう)な判断を失って、行き過ぎた行動に出るのではないか――そんな、ヒヤリとする恐怖を感じることもある。

 他人の激昂(げっこう)は、それほどに恐い。

 正気か狂気か確かめようがないから、恐ろしい。

 

 十数年も共にいて、それでも俺には、あの男のことが分からない。

 他人を自分の言いなりにさせて、それを幸せと思えるんだろうか。

 恐怖と暴力で支配して、憎(にく)しみと嫌悪(けんお)を抱かれていることくらい、薄々(うすうす)分かりそうなものなのに……この関係を、理想のものとでも思っているのだろうか。

 あの男は“家族”を愛していない。

 愛しているのは、自分にとって都合の良い、自分の言うままに服従(ふくじゅう)する“奴隷(どれい)”――結局は、自己愛なのだ。

 他人を愛さない、自分のことしか愛せないあの男は、どこまでも独(ひと)りぼっちだ。

 家族の中にいても、どこにいても、哀れなくらいに独りぼっちだ。

 

 今はまだ、力ではあの男に敵(かな)わない。

 だが、俺はもう幼い子どもじゃない。心まで奴隷のように支配されるつもりはない。

 俺はあの男を冷静に見下ろし、把握(はあく)し、心の底から憐(あわ)れんでやる。

 誰からも理解されないあの男を、世界で唯一理解して、その上で、力いっぱい突(つ)き放(はな)してやる。

 だから、今日も俺は冷徹(れいてつ)に観察する。

 あの男の語る、言い訳のためだけの正義を。誰からも認められない、絶望的なまでに見苦しい自己弁護を。

 

 あの男はなぜか、“理由”ばかりを口にする。

 誰が悪いから、何が悪いから……。まるで「理由さえあれば、何をしても良い」とでも言うように……。

 なぜ人は、正しいか正しくないかばかりを気にして、手段については論じないのだろう。

 正しいとか正しくないとか、理由だとか動機(どうき)だとか、される側にとってはどうでもいい。

 言い訳なんて“言い訳を聞く余裕のある人間”にしか、意味の無いことだ。

 どんな理由や言い訳があったって、あの男のしたことは覆(くつがえ)らないし、壊れたものは戻らない。

 

 あの男は、気づいていない。

 正義にばかりこだわって、その言動にこれっぽっちも愛が無いことに、これっぽっちも気づかない。

 鳥や獣の親でさえ、本能的に持っているものを、持たずに平気でいるなんて、「正しいか間違っているか」なんかより、よほど人間として恥ずかしく、終わっていることじゃないのか?

 

 これまで何千年という人類の歴史の中、どれだけ正義の名の下に、酷い行為が行われてきただろう。

 どれだけ正義を口にしようと、その行為には確実に、他者への愛が欠けている。

 その、加害者にしか意味のない大義名分を剥(は)ぎ取って、その底にある、身勝手で稚拙(ちせつ)で、それゆえに残虐(ざんぎゃく)な思考回路を白日(はくじつ)の下に晒(さら)せば、“酷いこと”が少しは減って、この世も少しは生きやすくなるだろうか。

 

 今日も、正義を言い訳にしたあの男の“憂さ晴らし”につき合わされながら、痛みを紛(まぎ)らわせるように、そんな埒(らち)もないことを考える。

 正義を口にしながら愛を持たない人間は、自分が間違っていると自覚している人間より、よほど性質(たち)が悪い。

 

 なぜ正義の名の下に、酷い行為が繰(く)り返されるのか……その答えを、たぶん俺は知っている。

 正義から愛を引いた時に残るもの――その名を、きっと“残酷”と呼ぶんだ。

Copyright(C) 2022 Mutsuki Tsugomori.All Right Reserved.

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