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【オムニバスSS集】青過ぎる思春期の断片

愛を失くした正義の、その名を

作者: 津籠睦月

 ドラマの中で語られる“綺麗事”を、うすら寒く感じて、心がめることがある。

 特に「親子だから、きっと上手くいく」「血のつながった家族だから、最後には分かり合える」なんて台詞せりふには、死にそうなくらいに胸がこごえる。

 それが真実だと言うなら、上手くもいかず、分かり合えもしない俺は何なんだ。

 努力や試練がりないとでも言うのか。もっと苦悩や苦痛を味わわなければいけないとでも言うのか。

 ……きっと、そんなわけはない。

 上手くいかない理由を“自分”に求めるのは、いい加減かげん、もうきた。

 悪いのは俺なのだと、一方的に断罪してめ立てる、あの男の虚言そらごとに、いつまでも乗ってやる義理はない。

 俺はもう、子どもじゃない。

 ただの言いわけ誤魔化ごまかしを、親の言うことだからと素直に受け入れられるほど、子どもではないんだ。

 

 幼い子どもというものは、なぜ親――特に男親のことを、無条件に「自分よりすごい」「自分より強い」と思い込んでしまうのだろう。

 まだ物の常識も世間も知らなかったころなら、仕方しかたがない。

 だが、親の言うことに反発を覚えるようになってからも、胸の奥底に、本能的なおそれを感じる。さからいがたい何かがある。

 他の大人になら言い返せることも、あの男に対しては躊躇ちゅうちょしてしまう。

 物心つくかつかないかの頃から、り込みのように隷属(れいぞく)精神を植えつけられてきたなら、尚更なおさらのことだ。

 

 他人を支配したがる人間というものが、世の中には存在する。

 他人が自分の思うように動かないと許せない、自分と対立する意見の人間は存在自体を認めない――そんな種類の人間だ。

 人間は一人一人違っていて、同じものを見ていても考えることは違っているし、選ぶ行動も違ってくる。

 当たり前に存在する、人類数十億人分のその違いに、いちいち目くじらを立てるなんて、正気の沙汰さたとも思えない。

 世の中の人間全てが自分と“全く同じ”だなんて、逆に最悪に気味が悪いじゃないか。

 ――なんて、あの男に言ったところで、きっと分かってはもらえないだろう。

 あの男の中では、いつでも自分が絶対的に正しい。

 それに逆らう者こそが悪で、それを正そうとするのは正義なのだ。

 笑ってしまう妄信だが、その“正義”が俺や母の身におよぶとなれば、全くもって笑えない。

 

 昔は何の疑問も抱いていなかったことだが、今となっては不思議に思う。

 どうして正義のヒーローの採る解決手段が、結局は“力による攻撃”なのかと。

 アクションが無いと絵にならないだろうし、昔は俺も、ワクワクしながらそれをていた。

 だが、今はそんな勧善懲悪かんぜんちょうあくの“お約束”にさえ、うらみごとを言いたくなる。

 ――そんなことだから、自分が正しいフリをして、平然と他人に暴力を振るう人間が出るんじゃないか、と。

 ……まぁ、ヒーローものにあこがれた人間の、全てが全てそうなる(・・・・)わけでもないから、これはただの八つ当たりだ。

 実際、あの男がどんなゆがんだ思考回路でこの行為にいたっているのか、俺にはさっぱり理解できない。

 だって、そうだろう。

 気に入らないことがあれば、条件反射のように手を上げ、無理矢理言うことを聞かせておきながら、それを正義と思い込めるなんて……一体どんな思考を辿たどれば、そんな結論に至れるんだ。

 

 家庭いえの中に暴君がいるというのは、最悪だ。

 金も行動力も無い子どもでは、どこにも逃げ場が無い。

 母親もその暴君の支配下にあるなら、助けてくれる人もいない。

 暴君を怒らせないよう、気にさわらないよう、顔色をうかがって、ビクビクして……だけど俺はあの男と“同じ”ではないから、何が“正解”かなんて分からない。

 俺にとっては“正しい”ことでも、あの男にとって“間違(まちが)い”なら、それはもうアウトなのだ。

 能力的にどうしても“できない”ことでも、あの男からすれば、それは“言いわけに過ぎない”のだ。

 そんな風に、せまい家の中で、やりたい放題に君臨くんりんしておきながら……それでもあの男は、なぜだかいつも不機嫌ふきげんなのだ。

 家族を好き勝手に支配し、服従させておきながら……それでもまだ足りないと、俺たちをさらに責めるのだ。

 

 昔は、悪いのは俺の方なのだと思い込んでいた――いや、思い込まされていた(・・・・・)時期もあった。

 痛くてつらいことがあっても、それが“悪い子に対する(ばつ)”ならば、他所よそうったえることも思いつけない。

 そもそも、そんな幼いうちには、助けを求められる場があること自体、知らずにいた。

 子どもを助けてくれる場は、子ども自身が助けを求めるには、なかなかに分かりづらい。

 それに、そんなひどいことが、24時間、毎日起こるというわけじゃない。

 あの男にだって、機嫌が良くて優しい日もある。そんな風だと、余計よけいにどうしていいか分からない。

 そんな風だと、勇気を出して誰かに助けを求めなくても、俺が何かを頑張がんばれば、上手くいくんじゃないかなんて、淡い希望を持ってしまう。

 だけど結局、そんな希望が叶うことはない。

 あの頃、頭にあったのは「目先の一日一日を、どうやってやり過ごしていくか」という、ただそれだけ。「どうしたら、今日はお父さんに叱られ(・・・)ずに済むのか」という、それだけだった。

 

 世の家庭内暴力の全てが、ニュースに出るような、致命的レベルのものとは限らない。

 むしろ、痕跡こんせきも残らないようなものも多いからこそ、表に出にくく、周りに気づかれることもなく、ずっと続いていったり、ひそかにエスカレートしていったりするのだろう。

 さいわい……と言って良いのか、あの男にも、この行為が知られてはマズいという意識くらいはあるらしい。やり過ぎたらマズいという意識くらいはあるらしい。

「この程度ていどなら平気だろう」という油断や過信が、行為こういの向こうにけて見えることがある。

 ……だけど、この男は分かっていない。

 大人と子どもの力の差を。

 大人の男が直情的に振り上げた拳が、相手にどれほどのダメージを与えるかを。

 

 たぶん、この男にも「なぐられれば痛い」ということくらいは、想像がつくだろう。

 だけど、その痛みの程度には、きっと想像がおよばない。

 そこにるのは、単純な痛みなんかじゃない。

 殴られた箇所かしょの、異様な熱さと、肌の下がズキズキと脈打つ感覚。ほおにぶく固まってしまったように動かしづらくなって、片目が開けにくくなること。

 時には鼻の中が切れて、ピリピリと刺すような痛みも加わること。鼻腔びこうを血がぬめって流れていく、何とも言えない不快感。

 単純な痛みなんかじゃない。もっと複雑で、不快で、気持ち悪くて、心が悲鳴を上げる。

 だけどあの男は、きっと知らない。

 自分がどれほどの痛みと恐怖と悲しみを与えているのか、きっとまるで分かっていない。

 

 愛の反対は憎しみではなく無関心なのだと、以前、何かで聞いたことがある。

 聞いてすぐ、さらりと納得なっとくできた。

 あの男には、関心が無い。俺たちの受ける痛みに関心が無い。

 俺たちがいつも、どんな気持ちでいるのか、何を考えているのか――想像してみたこともないんじゃないかと思う。

 あの男の心の中には、自分のことだけしかない。

 自分が中心。自分が全て。自分以外のことには無関心。

 下手をすると、自分が起こす行動の結果(・・)にすら、関心が無いのではないかと思う時がある。

 

 陶器とうきの皿は投げれば割れる。卓上時計もかべにぶつかってこわれれば使えなくなる。物が当たれば壁は(へこ)む。

 小学生だって分かる、あまりにも単純で、当たり前な事実。

 なのにあの男は、自分の起こした行動の、そんな当たり前の結果にさえ、なぜか機嫌きげんを悪くする。

 まるで自分のしたことを忘れてしまったかのように、物が壊れ、家が傷ついた現状を、理不尽りふじんな災難のようになげき、いきどおる。

 きっと、この種の人間はそういうものなんだろう。

 激情げきじょうられての破壊(はかい)行為。それを正当化するために、考えなくても分かるような因果いんがにさえ、都合(つごう)良く目をつぶる。

 感情のままにさを晴らしたいから、その結果何が起こるかなんて、頭の外へ追いやってしまうんだ。

 当たるのが()なら、まだ良い。下手をすると()に対してさえ、真っとうな判断を失って、行き過ぎた行動に出るのではないか――そんな、ヒヤリとする恐怖を感じることもある。

 他人の激昂げっこうは、それほどに恐い。

 正気か狂気か確かめようがないから、恐ろしい。

 

 十数年も共にいて、それでも俺には、あの男のことが分からない。

 他人を自分の言いなりにさせて、それを幸せと思えるんだろうか。

 恐怖と暴力で支配して、にくしみと嫌悪けんおを抱かれていることくらい、薄々(うすうす)分かりそうなものなのに……この関係を、理想のものとでも思っているのだろうか。

 あの男は“家族”を愛していない。

 愛しているのは、自分にとって都合の良い、自分の言うままに服従ふくじゅうする“奴隷(どれい)”――結局は、自己愛なのだ。

 他人を愛さない、自分のことしか愛せないあの男は、どこまでもひとりぼっちだ。

 家族の中にいても、どこにいても、哀れなくらいに独りぼっちだ。

 

 今はまだ、力ではあの男にかなわない。

 だが、俺はもう幼い子どもじゃない。心まで奴隷のように支配されるつもりはない。

 俺はあの男を冷静に見下ろし、把握はあくし、心の底からあわれんでやる。

 誰からも理解されないあの男を、世界で唯一理解して、その上で、力いっぱいはなしてやる。

 だから、今日も俺は冷徹れいてつに観察する。

 あの男の語る、言い訳のためだけの正義を。誰からも認められない、絶望的なまでに見苦しい自己弁護を。

 

 あの男はなぜか、“理由”ばかりを口にする。

 誰が悪いから、何が悪いから……。まるで「理由さえあれば、何をしても良い」とでも言うように……。

 なぜ人は、正しいか正しくないかばかりを気にして、手段については論じないのだろう。

 正しいとか正しくないとか、理由だとか動機どうきだとか、される側にとってはどうでもいい。

 言い訳なんて“言い訳を聞く余裕のある人間”にしか、意味の無いことだ。

 どんな理由や言い訳があったって、あの男のしたことはくつがえらないし、壊れたものは戻らない。

 

 あの男は、気づいていない。

 正義にばかりこだわって、その言動にこれっぽっちも愛が無いことに、これっぽっちも気づかない。

 鳥や獣の親でさえ、本能的に持っているものを、持たずに平気でいるなんて、「正しいか間違っているか」なんかより、よほど人間として恥ずかしく、終わっていることじゃないのか?

 

 これまで何千年という人類の歴史の中、どれだけ正義の名の下に、酷い行為が行われてきただろう。

 どれだけ正義を口にしようと、その行為には確実に、他者への愛が欠けている。

 その、加害者にしか意味のない大義名分をぎ取って、その底にある、身勝手で稚拙ちせつで、それゆえに残虐ざんぎゃくな思考回路を白日はくじつの下にさらせば、“酷いこと”が少しは減って、この世も少しは生きやすくなるだろうか。

 

 今日も、正義を言い訳にしたあの男の“憂さ晴らし”につき合わされながら、痛みをまぎらわせるように、そんならちもないことを考える。

 正義を口にしながら愛を持たない人間は、自分が間違っていると自覚している人間より、よほど性質たちが悪い。

 

 なぜ正義の名の下に、酷い行為がり返されるのか……その答えを、たぶん俺は知っている。

 正義から愛を引いた時に残るもの――その名を、きっと“残酷”と呼ぶんだ。

Copyright(C) 2022 Mutsuki Tsugomori.All Right Reserved.

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