愛を失くした正義の、その名を
ドラマの中で語られる“綺麗事”を、うすら寒く感じて、心が冷めることがある。
特に「親子だから、きっと上手くいく」「血の繋がった家族だから、最後には分かり合える」なんて台詞には、死にそうなくらいに胸が凍える。
それが真実だと言うなら、上手くもいかず、分かり合えもしない俺は何なんだ。
努力や試練が足りないとでも言うのか。もっと苦悩や苦痛を味わわなければいけないとでも言うのか。
……きっと、そんなわけはない。
上手くいかない理由を“自分”に求めるのは、いい加減、もう飽きた。
悪いのは俺なのだと、一方的に断罪して責め立てる、あの男の虚言に、いつまでも乗ってやる義理はない。
俺はもう、子どもじゃない。
ただの言い訳や誤魔化しを、親の言うことだからと素直に受け入れられるほど、子どもではないんだ。
幼い子どもというものは、なぜ親――特に男親のことを、無条件に「自分よりすごい」「自分より強い」と思い込んでしまうのだろう。
まだ物の常識も世間も知らなかった頃なら、仕方がない。
だが、親の言うことに反発を覚えるようになってからも、胸の奥底に、本能的な畏れを感じる。逆らい難い何かがある。
他の大人になら言い返せることも、あの男に対しては躊躇してしまう。
物心つくかつかないかの頃から、刷り込みのように隷属精神を植えつけられてきたなら、尚更のことだ。
他人を支配したがる人間というものが、世の中には存在する。
他人が自分の思うように動かないと許せない、自分と対立する意見の人間は存在自体を認めない――そんな種類の人間だ。
人間は一人一人違っていて、同じものを見ていても考えることは違っているし、選ぶ行動も違ってくる。
当たり前に存在する、人類数十億人分のその違いに、いちいち目くじらを立てるなんて、正気の沙汰とも思えない。
世の中の人間全てが自分と“全く同じ”だなんて、逆に最悪に気味が悪いじゃないか。
――なんて、あの男に言ったところで、きっと分かってはもらえないだろう。
あの男の中では、いつでも自分が絶対的に正しい。
それに逆らう者こそが悪で、それを正そうとするのは正義なのだ。
笑ってしまう妄信だが、その“正義”が俺や母の身に及ぶとなれば、全くもって笑えない。
昔は何の疑問も抱いていなかったことだが、今となっては不思議に思う。
どうして正義のヒーローの採る解決手段が、結局は“力による攻撃”なのかと。
アクションが無いと絵にならないだろうし、昔は俺も、ワクワクしながらそれを観ていた。
だが、今はそんな勧善懲悪の“お約束”にさえ、恨みごとを言いたくなる。
――そんなことだから、自分が正しいフリをして、平然と他人に暴力を振るう人間が出るんじゃないか、と。
……まぁ、ヒーローものに憧れた人間の、全てが全てそうなるわけでもないから、これはただの八つ当たりだ。
実際、あの男がどんな歪んだ思考回路でこの行為に至っているのか、俺にはさっぱり理解できない。
だって、そうだろう。
気に入らないことがあれば、条件反射のように手を上げ、無理矢理言うことを聞かせておきながら、それを正義と思い込めるなんて……一体どんな思考を辿れば、そんな結論に至れるんだ。
家庭の中に暴君がいるというのは、最悪だ。
金も行動力も無い子どもでは、どこにも逃げ場が無い。
母親もその暴君の支配下にあるなら、助けてくれる人もいない。
暴君を怒らせないよう、気に障らないよう、顔色を窺って、ビクビクして……だけど俺はあの男と“同じ”ではないから、何が“正解”かなんて分からない。
俺にとっては“正しい”ことでも、あの男にとって“間違い”なら、それはもうアウトなのだ。
能力的にどうしても“できない”ことでも、あの男からすれば、それは“言い訳に過ぎない”のだ。
そんな風に、狭い家の中で、やりたい放題に君臨しておきながら……それでもあの男は、なぜだかいつも不機嫌なのだ。
家族を好き勝手に支配し、服従させておきながら……それでもまだ足りないと、俺たちをさらに責めるのだ。
昔は、悪いのは俺の方なのだと思い込んでいた――いや、思い込まされていた時期もあった。
痛くて辛いことがあっても、それが“悪い子に対する罰”ならば、他所に訴えることも思いつけない。
そもそも、そんな幼いうちには、助けを求められる場があること自体、知らずにいた。
子どもを助けてくれる場は、子ども自身が助けを求めるには、なかなかに分かりづらい。
それに、そんな酷いことが、24時間、毎日起こるというわけじゃない。
あの男にだって、機嫌が良くて優しい日もある。そんな風だと、余計にどうしていいか分からない。
そんな風だと、勇気を出して誰かに助けを求めなくても、俺が何かを頑張れば、上手くいくんじゃないかなんて、淡い希望を持ってしまう。
だけど結局、そんな希望が叶うことはない。
あの頃、頭にあったのは「目先の一日一日を、どうやってやり過ごしていくか」という、ただそれだけ。「どうしたら、今日はお父さんに叱られずに済むのか」という、それだけだった。
世の家庭内暴力の全てが、ニュースに出るような、致命的レベルのものとは限らない。
むしろ、痕跡も残らないようなものも多いからこそ、表に出にくく、周りに気づかれることもなく、ずっと続いていったり、密かにエスカレートしていったりするのだろう。
幸い……と言って良いのか、あの男にも、この行為が知られてはマズいという意識くらいはあるらしい。やり過ぎたらマズいという意識くらいはあるらしい。
「この程度なら平気だろう」という油断や過信が、行為の向こうに透けて見えることがある。
……だけど、この男は分かっていない。
大人と子どもの力の差を。
大人の男が直情的に振り上げた拳が、相手にどれほどのダメージを与えるかを。
たぶん、この男にも「殴られれば痛い」ということくらいは、想像がつくだろう。
だけど、その痛みの程度には、きっと想像が及ばない。
そこに在るのは、単純な痛みなんかじゃない。
殴られた箇所の、異様な熱さと、肌の下がズキズキと脈打つ感覚。頬が鈍く固まってしまったように動かしづらくなって、片目が開けにくくなること。
時には鼻の中が切れて、ピリピリと刺すような痛みも加わること。鼻腔を血がぬめって流れていく、何とも言えない不快感。
単純な痛みなんかじゃない。もっと複雑で、不快で、気持ち悪くて、心が悲鳴を上げる。
だけどあの男は、きっと知らない。
自分がどれほどの痛みと恐怖と悲しみを与えているのか、きっとまるで分かっていない。
愛の反対は憎しみではなく無関心なのだと、以前、何かで聞いたことがある。
聞いてすぐ、さらりと納得できた。
あの男には、関心が無い。俺たちの受ける痛みに関心が無い。
俺たちがいつも、どんな気持ちでいるのか、何を考えているのか――想像してみたこともないんじゃないかと思う。
あの男の心の中には、自分のことだけしかない。
自分が中心。自分が全て。自分以外のことには無関心。
下手をすると、自分が起こす行動の結果にすら、関心が無いのではないかと思う時がある。
陶器の皿は投げれば割れる。卓上時計も壁にぶつかって壊れれば使えなくなる。物が当たれば壁は凹む。
小学生だって分かる、あまりにも単純で、当たり前な事実。
なのにあの男は、自分の起こした行動の、そんな当たり前の結果にさえ、なぜか機嫌を悪くする。
まるで自分のしたことを忘れてしまったかのように、物が壊れ、家が傷ついた現状を、理不尽な災難のように嘆き、憤る。
きっと、この種の人間はそういうものなんだろう。
激情に駆られての破壊行為。それを正当化するために、考えなくても分かるような因果にさえ、都合良く目をつぶる。
感情のままに憂さを晴らしたいから、その結果何が起こるかなんて、頭の外へ追いやってしまうんだ。
当たるのが物なら、まだ良い。下手をすると人に対してさえ、真っ当な判断を失って、行き過ぎた行動に出るのではないか――そんな、ヒヤリとする恐怖を感じることもある。
他人の激昂は、それほどに恐い。
正気か狂気か確かめようがないから、恐ろしい。
十数年も共にいて、それでも俺には、あの男のことが分からない。
他人を自分の言いなりにさせて、それを幸せと思えるんだろうか。
恐怖と暴力で支配して、憎しみと嫌悪を抱かれていることくらい、薄々分かりそうなものなのに……この関係を、理想のものとでも思っているのだろうか。
あの男は“家族”を愛していない。
愛しているのは、自分にとって都合の良い、自分の言うままに服従する“奴隷”――結局は、自己愛なのだ。
他人を愛さない、自分のことしか愛せないあの男は、どこまでも独りぼっちだ。
家族の中にいても、どこにいても、哀れなくらいに独りぼっちだ。
今はまだ、力ではあの男に敵わない。
だが、俺はもう幼い子どもじゃない。心まで奴隷のように支配されるつもりはない。
俺はあの男を冷静に見下ろし、把握し、心の底から憐れんでやる。
誰からも理解されないあの男を、世界で唯一理解して、その上で、力いっぱい突き放してやる。
だから、今日も俺は冷徹に観察する。
あの男の語る、言い訳のためだけの正義を。誰からも認められない、絶望的なまでに見苦しい自己弁護を。
あの男はなぜか、“理由”ばかりを口にする。
誰が悪いから、何が悪いから……。まるで「理由さえあれば、何をしても良い」とでも言うように……。
なぜ人は、正しいか正しくないかばかりを気にして、手段については論じないのだろう。
正しいとか正しくないとか、理由だとか動機だとか、される側にとってはどうでもいい。
言い訳なんて“言い訳を聞く余裕のある人間”にしか、意味の無いことだ。
どんな理由や言い訳があったって、あの男のしたことは覆らないし、壊れたものは戻らない。
あの男は、気づいていない。
正義にばかりこだわって、その言動にこれっぽっちも愛が無いことに、これっぽっちも気づかない。
鳥や獣の親でさえ、本能的に持っているものを、持たずに平気でいるなんて、「正しいか間違っているか」なんかより、よほど人間として恥ずかしく、終わっていることじゃないのか?
これまで何千年という人類の歴史の中、どれだけ正義の名の下に、酷い行為が行われてきただろう。
どれだけ正義を口にしようと、その行為には確実に、他者への愛が欠けている。
その、加害者にしか意味のない大義名分を剥ぎ取って、その底にある、身勝手で稚拙で、それゆえに残虐な思考回路を白日の下に晒せば、“酷いこと”が少しは減って、この世も少しは生きやすくなるだろうか。
今日も、正義を言い訳にしたあの男の“憂さ晴らし”につき合わされながら、痛みを紛らわせるように、そんな埒もないことを考える。
正義を口にしながら愛を持たない人間は、自分が間違っていると自覚している人間より、よほど性質が悪い。
なぜ正義の名の下に、酷い行為が繰り返されるのか……その答えを、たぶん俺は知っている。
正義から愛を引いた時に残るもの――その名を、きっと“残酷”と呼ぶんだ。
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