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ありふれた悲恋の話

薄明

作者: 兄鷹

 青白い海の渚に座って、ひとり物思いに沈んでいた。


 ハインリヒ、二十三歳。彼はまだ青年のつもりでいるが、顔に生えた顎鬚がそれを否定するかのように荒れ放題でいる。

 堅そうな手に潮の匂いが相まって、彼の近くによる者は皆、彼を海の男だと言う。ここらの海士の中でも一番経験が浅い彼にとっては“海の男”などという称号は荷が勝ちすぎるきらいがあったが、それでも彼はその呼び名をひそかに喜んでいた。


 つい最近、海の向こうに新大陸が発見され、その影響かポルトガル王国と新大陸の間での貿易が盛んになっていた。彼等の一行はこれに乗じた一儲けを企んでいたのだが、例の新大陸で見つかった新種の木喰い虫に船をやられてしまったのだった。


 久しぶりに陸に上がれると一時期は喜んだりもしたが、ハインツ(ハインリヒの略称)は酷い陸酔いに悩まされていた。それを仲間に話したところ、皆が口をそろえて『酒を呑め』と言うのだ。

 結果、今日の二日酔いである。呑んでいるときは好かったが、今朝は何に酔っているのかも分からないほど気持ち悪くて、宿で寝ていた。

 ようやく一人でまともに歩けるようになった頃、ハインツは宿を出て潮の匂いを嗅ぎに来ていた。波風が肺に籠った酒の臭いを吸い出してくれたので、幾分かは気分がよくなってきた。


 ハインツは歩き疲れて砂の上に足を投げて、そうして夕日を見ながらひとり物思いに沈んでいた。


 陽はますます傾いて、その紅の炎の筋を水に投げ掛けている。すると広い白波がうねりに乗って、それをかき消していく。ハインツは終わりを知らないその円環を飽きもせず眺めていた。


 そのうち、その波の音が、ハインツの耳には不思議な響きに聞こえてくるようだった。愛の密めき、破戒のうそぶき、微笑み、呟き、溜息、そしてさざめき。そして、遂にあの懐かしい響き……旅の抒情詩人、その歌の響きまでもが聞こえ来るようだった。


 その瞬間、ハインツの心の中でぞっとするほど奇麗な思い出が弾けた。

 その時は胸が一段と激しく高鳴るばかりか、おそらく目から涙が落ちかかっていたに違いない。




       #

        #




 十三歳の誕生日を目前に控えたハインツは祖国ドイツのとある街に住んでいた。そこが故郷と呼べるものになるまでにあと十数年かかるが、それでもハインツにとっては心安らぐ良い街だった。


 父はユダヤ人の商家で、母もユダヤの民だった。当時、皇帝ナポレオンの革命軍によってドイツには比較的自由なフランス的精神が漂っていたが、いまだにユダヤ人は昔ながらの差別や迫害を受けていた。だが、ある程度寛容な街で生まれたハインツはそのような差別に縁無いまま、九歳の弟の兄として、父の後を継ぐ長男として、確かに大きくなっていった。


 ドイツ人、フランス兵、ユダヤ人、さらには孤児でさえも街の市民権は持っていたし、季節の祭りに参加することもできた。ライン河による運送業で栄えた街だったから異邦人に対しても開かれた街だったし、むしろそうして街は発展していったのだ。ハインツはそんな雰囲気の街をとても気に入っていた。


 殊に夏至祭の夜は格別で、二日目にもなると各地から様々な国籍の抒情詩人たちが集まってきては自慢の歌を披露し、観衆の空気を熱するのだ。近所の子供たちは――弟もだが――詩人の歌の意味など半分も理解していないのだろうが、その素晴らしい旋律を真似て騒いだりする。


 しかし、少し大きい少年や乙女たちは数年前まであの馬鹿騒ぎの中にいたことなどすっかり忘れ、それを傍から見守るのだ。


 弟は隣家の少年達から遊びのお誘いを貰ったのと、いつもより多めにお小遣いをもらったのとで例年より興奮していた。


「はしゃぐと河に落ちるぞ」と、注意はしてみるものの、小言は弟の耳を通り過ぎているようだった。

 石畳で舗装された河辺を、弟は飛ぶように走った。よくもまあそんなに短い足でと不思議に思うほど速かった。


 そのうちに弟は、

「おぅーい、おそいから先行くよ」と言い残して、勝手に広場へ走っていってしまった。


 多少の不安はあったが、広場は目と鼻の先だったから起こる事も起こるまいと思って、ハインツは向きを変えて河へと向かった。


 夏至の夕日はまだ沈みそうもなく、ライン河の上を行き交う舟人達の影を鮮やかに映し出している。

 ハインツは適当な軒端に背中を預けてしばらくそうしていた。ハインツはただ訳もなく風景に見入って、この身に食い込んだ鎖の重さを感じた。彼の将来は商人というある程度裕福なものだったが、世襲制のそれに嫌気がさしていた。だからと言って別に就きたい仕事があるわけでもなく、ただ流れに身を任せて成り行きを見守るしかない自分が嫌なのだった。


 ふぅと一息ついて顔を上げると、まぶしそうに目を細めながら、こちらに歩いてくる男の姿があった。

 男が傍によるまでハインツはじっとしていた。顔を寄せてみると、男はまぶしかったのではなくて顔をしかめていたのだとわかった。

 なんでここにいるんだというお決まりの挨拶を流して、ハインツはレーベンの服装をじろりと眺めた。彼は母子家庭で育った苦労人で、ハインツの兄貴分でもある。今は一家の稼ぎ頭として働いていて、彼の財布のひもは岩よりも固いと言われている。――言われているが、今日のレーベンの服は丈長チュニックで、しかも藍色と真紅のミ・パルティだった。レーベンにしては珍しい出費だった。


 祭りで着飾るなんて求婚者がやることだと言ってやったら、


「そうだな……って、それでからかってるつもりか」と言い返されてなんとなく困ってしまった。


 レーベンは近所の子供たちをまとめて広場に連れて行った後だそうで、開いた人格の差を見せつけられているようだった。


 すると突然レーベンが、


「そういえば、宿屋の息子さんの話、知ってるか」と聞いてきた。


「いいや、世間話にはうとくて」と答えると、どんなに狭い世間なんだよ、と馬鹿にしつつも、最後はレーベンも口を開いた。


「まあ、別にわざわざ夏至祭の夜に話すようなことでもないんだけどな」と断ってから、彼が続けた話によると、宿屋の息子と旅芸人の若い女の話だった。


 宿屋の息子は街では親孝行者の好青年として知られていて、その人の話ならハインツも聞いたことがあった。三年前その宿に、フランスから来た旅芸人の一座が泊まったらしい。


「ここまで話せば言わずもがなだろ」とレーベンが故意的に話を切ったのでハインツはじれったかったが、ここは年下らしく話の続きをせがむことにした。


 その年の冬は酷い寒さで、秋に生まれた赤ん坊は春を知ることなく痩せこけて死んでいった。商人であるハインツの父が仕入れてくる食料もすぐに売り切れてしまうほどで、旅の商人の支援がなければ街は立ち行かなくなっていたかもしれない。

 ハインツも大変ひもじい思いをして、じゃがいもの芽まで煮て食ったことを覚えている。


 そんなときに流行したのが若い娘の売り買いで、旅芸人の一座も例外ではなかったようだ。宴の舞手を務めていた細身の色白な女が隣街の銀行頭取に御奉仕に出ることに決まったらしい。御奉仕といっても扱いは夜の相手としてであって、もちろん愛のある筈がなかった。

 ハインツには話の筋がもう読めていたが、レーベンが夢中になって話していたのでそのまま聞くことにした。



 まあ、最後には予想した通り、宿の息子がその娘と駆け落ちしたらしい。

 だが……、



「これで終わればお伽噺で済んだんだけどなぁ。この話には続きがあってな……」


 だが、銀行の頭取に恥をかかせた責任はもちろん残った父親に向けられる。父親は店をたたんだ後、旅芸人と一緒に東へ消えたらしい。

 親子で経営していた宿屋がいつの間にかなくなってもハインツはなんとも思わなかったが、話を聞いた後だと宿の跡地が一層侘しく感じられるようだった。


「で、二人はその後幸せに………はなれなかったの?」とハインツが尋ねると、レーベンは遠くを見るようにうなずいた。


「あの冬じゃ助からなかっただろうな。野宿すれば凍え死ぬような寒い冬だったから……」


 山野をさすらい歩き、それでも幸せに巡り合わずに二人ともやつれて死んだのだろうか。そう考えると、こんなに暑いというのにあの冬の寒さがよみがえってくるようだった。


 珍しく深刻に悩んでいるハインツを見かねたのかレーベンが口を開いて、


「何時か消えるものは存在の意味に飢えているんだ、だから自分に『貴方は他ではありえない』っていう必然性を与えてくれる存在を探すんだよ」と恰好つけて諭した。


 難解な言葉が並んでいたが、不思議とそれの意図することはハインツにも伝わった。心が軋む音が聞こえるようだった。その気持ちを悟られまいとして、ハインツは父から渡された銀貨をぐっと握りしめた。刻印された王の顔がきちきちと音を立てている。


 レーベンが何か言おうとして口を開きかけたとき、ハインツよりも少しばかり背の高い女がやってきて声をかけてきた。


「なんでハインツがここにいるのよ……」


 レーベンにも同じことを言われたと思い出しつつ、ハインツはアマーリエの居心地の悪そうな顔を見つめた。ハインツよりも半年だけ生まれの早い彼女は、母から借りたと思しき服装で“淑女”を演出していた。身の丈に合わないその姿に違和感があったが、幼いころから彼女の性格をよく知るハインツとレーベンは無難に、


「似合っているね」と答えた。レーベンに至っては詩人もかくやの詩的表現でこれでもかとその姿を形容していた。聞いているこっちが恥ずかしくなるような内容だった。無論アマーリエもそうだったようで顔を真っ赤にして黙り込んでしまったが、満更でもないようだ。結果としてハインツのわざとらしいお世辞が追及されることはなかった。


 三人はそれぞれの目に違うものを映らせながら、川沿いを囲う出店を見て回った。この男二人はさすがに生娘の肌を触ったりはしなかった。小さいころに手をつないだことがあったかもしれないが、それもせず、アマーリエをはさむような形で二人は歩いた。ややもすると若い叔父とその甥っ子姉弟にも見えたかもしれない。


 そのうちに人も多くなって、並んで歩くのも邪魔くさくなってきた。自然とレーベンが前に出きて言った。


「まだ早い気もするけど、何か買って食べるか。喉も乾いたし」


 アマーリエがそうしようというのでハインツも軽く付き合うことにした。

 近くの屋台で、作りたてで暖かさの残ったクヌデル(ジャガイモ団子)とホットビールを買った。ハインツは父から貰っていた硬貨で支払おうとしたが、レーベンがまとめて払うと言って聞かなくて、結局三人分まとめて――さすがにアマーリエは淑女らしくビールを遠慮していたが――レーベンが持つことになった。

 こういう場では手に仕事を持っている者が奢るのは当然だろうが、レーベンも楽な生活をしているわけではない。ハインツには彼が奢ろうとする心境を察することはできなかった。


 二枚目のレーベンを横目で流しつつ、ハインツは冷めないうちにクヌデルにかぶりついた。ソースは無かったが塩の味がほんのりとしていて旨かった。ついでと思ってビールの杯に口を近づけると、ハインツの鼻にショウガのツンとした匂いが刺さった。一般に、樽で保存したビールは樽の味がする。それを隠すためにショウガや蜂蜜なんかを入れてごまかすのだが、このビールは少し匂いがきつかった。貰い物に文句をつけるのも失礼かと思って、ハインツはそのまま喉に流し込んだ。

 あまり酒になれていないハインツにとっては、酒は顔で呑んでいるような気がした。


 ちらっと横を伺うと、やはり少し赤くなった顔をしかめているレーベンがあった。

 アマーリエは熱心にクヌデルを頬張っている。どこか幼さの残るそのしぐさにハインツはどきりとしたが、彼女の“淑女らしい”恰好が目に入り、これは愛嬌のうちには入らないなと密かに思った。

 そんな時にレーベンが、


「ちょいと。さっきの話の続きなんだが」と言ってハインツの目をちらと覗いた。


「駆け落ちしたあの二人、先日、北の山で骨になって見つかったそうだ」


 アマーリエが二人の間できょろきょろしているのを感じてはいたものの、ハインツの意識は遠くにあった。


「……二人って、宿屋の話?」


 彼女は快活な声で男二人の思考を吹き飛ばした


「なんだ知ってたのか」


「お母さんの言う通り。男って秘密が好きなのね」と、アマーリエはため息交じりに答えた。


「隠したつもりもないんだけどな」


 それからまたレーベンは、


「あの冬は寒かった」だの

「家は泥炭が尽きかけた」だのと上手く話をそらしていった。ハインツはレーベンの話し方にただ舌を巻いていた。


 残りのクヌデルを口に放り込んでビールと一緒に流し込み、木の皮の杯は近くの屑入れに投げた。


 また会話に耳を傾けると、今度は場の空気がガラッと変わっていた。


 ――嗚呼、そうだった。


 レーベンもハインツと同じことを思ったに違いなかった。アマーリエの前で三年前の冬の話はしないほうがよかった。

 途端にレーベンは黙り込んでしまって、アマーリエもそれにつられて口数が少なくなった。ふと眉をひそめた彼女はレーベンの顔を覗き込むと深いため息をついて、


「なんだ。わざと気にしないように話してくれてるのかと思ったら……テレーゼのこと忘れてたのね?」と嘆いた。


 ――テレーゼとは、三年前の“大寒の冬”で死んだアマーリエの妹だ。

 忘れてたわけじゃないと反論したい所だろうが、アマーリエはレーベンのそれを許さなかった。それを眺めていたハインツは何となく、レーベンは将来尻に敷かれるだろうと値踏みした。もちろん上にいるのはアマーリエだ。想像してみたがしっくりこなくて、最後はくだらない妄想を捨てた。


「三年前は、そうだな……あのオーストリアの商隊が来なければ街が危なかった。――なんて言ったかな。ヒ、ヒ…ヒレ」


「ヒレブラント」


 よどみない声でハインツが答えた。


「そう、ヒレブラントさんだ。あのハプス家の遠縁だとかいう若い商隊頭。彼があの大雪の中食べ物を運んでくれたからこの町は助かった。けど、もう少し早く来てくれればテレーゼも……」


「ううん、テレーゼは飢えじゃなくて流行り病で死んだのよ……」


 ハインツは生ぬるい水の中にいるようだった。…ヒレブラント…ヒレブラント…ヒレブラント…。三年前の大寒の冬から街を救った英雄。長身の美形で出自も申し分ない。ハインツの心はぐるぐると燃えていた。顔はビールで火照っていたから心の炎に気づかれることはなかったが、それでも体中がこわばるようで、それでいて脱力してしまうのでもあった。


 太陽が沈んでから、街灯を頼りにして歩いていると遠くから祭りの喧騒が聞こえてきた。そろそろ疫病神の人形達に火をつけるらしい。誰が言い出したか、三人で人形の遺灰をもらいに行くことになった。疫病神を燃やして残った遺灰には病を避ける力があるらしいので、来年の夏至まで雨よけの下に布で包み吊るしておくのだ。

 ハインツも、昔は布から滴る灰色の雫を見るのが好きだった。美しく晴れ渡った空の下で、まだ湿っているそれは決して奇麗ではなかったが、思い出すと何故か幼心を刺激される。


 大通りを人込みに流されるように進むと、道の先から様々な歌い声が聞こえてきた。叶わぬ恋を詠う悲壮な声、英雄の冒険譚を高らかに歌う声。流れの詩人たちの歌声だった。

 ライン河の流れのように美しいその詩達は、ナイフのようにそっと心をかき分けてきた。


 そんな中、ハインツはある琴弾娘と目が合った。その少女は心を込めて歌っていた。その声は調子はずれだったが、それでも娘の演奏にハインツは感動した。詠っていたのは献身と再会の古い歌だった。物悲しい旋律に、ハインツの心臓は快い血を流すようであった。



 おまえのかたを抱き寄せば


 おれの 体はかるくなる


 おまえの口にキスすれば


 ひどい傷でもけろりと治る



 おまえの瞳をみていると


 天国へでもいったよう


 おまえに好きよと言われると


 もう泣かずにゃあいられない



 人の波にのまれてその娘は見えなくなったが、その耳に残る歌声はしばらく頭に籠っていた。人は己の輪郭をぼやかすものに不思議と惹かれる。それは強い酒であったり、楽しいダンスだったり、美しい詩だったりする。自分の輪郭を忘れさせてくれる“もの”は何ものにも代えがたく、『夢なら覚めるな』と言ってすがってしまうのだ。

 しかしハインツは、レーベンの声で此岸に戻って来ることができた。


「……ツ、おい、ハインツ。遺灰は向こうで配ってるらしいから先行ってるぞ」


「ん、待って、一緒に行くよ」


 耳にアマーリエの短いため息が聞こえ、ハインツはくだらない妄想が煽り立てられるのを感じた。

 少し休んでから歩いていくと、前に人垣が見えてきて、横から出てきたレーベンがその間にすうっと分け入った。しばらくして出てきたレーベンの手は灰まみれだったが、取ってきた遺灰の量は三人分も無かった。結局、騒ぎが一段落してから落ち着いて取りに行くことにした。

 レーベンは暑そうにしていて、彼が髪をかき分けると湯気が見えてきそうだった。


「ああ、喉が渇いたな」


「……店でも見てこようか」そう言い残してそそくさと出て行ったアマーリエは、少しすると息を切らしながら帰ってきた。


「ねえ!今そこで何を見たと思う?」


「水」レーベンが間髪入れずにつぶやいたが、アマーリエは気にも留めないで話し続けた。


「ヒレブラントとマティルダがっ………ああっ、もういいから早く!」


 アマーリエは二人の腕を掴んで引っ張ろうとしたが、ハインツは咄嗟に、


「何か一つ食べてから行くよ」と言って手を引っ込めた。そのままレーベンは引きずられそうなほどの勢いで見えなくなってしまい、ハインツだけが残された。


 頭をかきながら手を付けていない小遣いを確認して、誰もいない横を見やった。なんだかそこに誰かの熱が残っているような気がしてもどかしかったが、それがレーベンのものではないと悟ったとき、段々むず痒くなってきて革靴を思い切り踏みしめた。


 河の匂いが強くなってきて、目からは甘い涙がぽたぽたと落ちた。




       #

        #




 ヘザー家の夫婦はたまに遊びにやってくる甥っ子とその友達を、まるで我が子のようにかわいがっていた。


「いらっしゃい。ハインリヒ、アマーリエ。レーベンは一緒じゃないの?」ヘザー夫人が尋ねると、ハインツよりも少し背の高い女の子が目を丸くして一生懸命に説明してくれた。どうやら彼は隣町へフランス兵を相手に商売をしているらしい。おかげでフランス語も堪能なんだとか。


「あのね、最近はいっしょにあそんでくれないんだ。お父さんの分もおしごとをするんだって言ってるの」


 まだ六歳になったばかりのアマーリエが他人事のように話すのを見ながら、夫人はレーベンの将来を想わずにはいられなかった。幼くして父親を亡くした彼はきっとこれから大変な苦労をするだろう。


 アマーリエの横でもじもじしているハインツが目に入った。これもまた「嗚呼」と言わずにはいられなかった。


 ――まだ背の小さいハインツだがそのうちにアマーリエを越して、私も越されてしまうのだろう。レーベン……嗚呼、今はどれだけ苦労したっていい。最後はしっかり幸せになれれば………私は…私達も……、


「ねえヘザーさん。あそこにあるお菓子どうしたの?」


「ん、ああ、あれは夏至祭り用のお菓子なんだけど……ふふっ、食べていいわよ」


「やったあぁ~!ありがと!」


 跳ねながら駆けていくアマーリエをよそに、ハインツはまだ固まっていた。ヘザー夫人の知っているハインツの父と母はもう少し活発だった。一体子供の性格とはどこからやってくるのだろうか。


「ハインツは食べないの?」夫人は頬張るアマーリエを横目で見ながら、ハインツに問いかけた。ハインツは五歳の子供にしては人見知り…というより冷めていた。


「大人はお菓子を食べないんでしょ?なんでお菓子を買ったの」


「…え……」


 突飛な質問に夫人は喉元にパン切りナイフを突きつけられている気がした。幼い口から飛んできたその質問は、ハインツが予想しえないほど夫人の心を抉った。


「………なんとなく、かな…。特に理由はない気がするけど、…いや……こういうのは…願いだから……」


 自分でも言っていることの不可解さがよくわかっていたが、この不可解な言葉は自分“達”の本質をついている気がした。願いとはいつも“なんとなく”だ。

 ただ、ハインツは何も言わないで、お菓子を幸せそうに食べるアマーリエを眺めていた。


 その時だった、ドアが鈍い音を立てながら開いて、ヘザー家を支える寡黙な夫君が家に帰ってきた。


「ヒース!帰りは明日になるのかと思って……」


 夏だというのに黒っぽい長服を着込んだヒースはゆっくり前に出て、後ろに隠していたものをあらわにした。


 アマーリエが食べるのをやめ、それを凝視した。

 三人の視線を集めてくぎ付けにしたそれは、手足が細くて色白の女の子だった。そこで、ヒースは初めて口を開いた。


「サーカスにいたんだ。辛い思いをしたらしく口がきけないが、今日から家の子だ」


 あまりにも唐突な話に一瞬ついて行けなかったヘザー夫人だが、すぐに頭が回り始めて段々と熱くなってきた。


「…なっ……家はただでさえ家計が苦しいのに。それに“これ”もかわいそうだよ、親元に帰してやろう?面倒見切れないんだったら、この子にとってサーカスのほうがましじゃないかな、ねえ!」


 それでも、ヘザー夫人の中で何かが主張とずれている部分があった。

 ヒースは子供を中に入れ、突然子供が着ていた服を脱がせ始めた。


「……っ!」


「お湯の準備をしてくれ、身体を洗わせたい」


「っもう!いいわよ、早く外に出て!あなたは気にしなくても“この子”は女の子なんだからね。怖がるでしょう、さあ早く!」


 夫人は亭主を外に押し出した後、奥でじっとしているアマーリエとハインツを見た。


「…僕は男?それとも男の子?」


「私は女だよね?」


「……なんでもいいから早く外に出て。“二人とも”ね」夫人はため息交をついた。


 しぶしぶ出ていく子達の後姿を見つめながら、料理に使う予定だったお湯を冷まして盥に流した。自ら手を入れて湯加減を確かめて、さっそく少女の服を脱がし出した。


「あなたはどこから来たの?」


「……」


「名前はなんていうの?」


「……」


「本当に口がきけないのね」


「……」


「そうだ字は書けるかしら」


 そういうと、少女はこくんと首を傾げたように見えた。少女はお湯に指をつけて、床に文字を書いた。



   Mathilde



「そう、マティルダね。親御さんはどこにいるの?」そう言った夫人は服を脱がし終えて絶句してしまった。胸から下腹部に向かって刀傷の様なものが走っているのだ。


「サーカスでこれを?……いや、まさか、あなた戦争から逃げてきたの?」


 マティルダはゆっくりうなずいた。

 戦争――つまりナポレオンの革命軍のことである。フランス方面からやってきたその軍は徐々にドイツを端から侵攻しているのだ。『…親元に…』とは言っても、たぶんマティルダの両親は……。ただ、彼女自身もそれはわかっているのだろう。


 ヘザー夫人は、さっきの子供二人にも感じた願いのような感情を、それと自覚しながらもう一度思い出した。年はアマーリエより二つくらい上だろうか、こんなに若い娘が………。


 その瞬間、夫人は心の中で埋火が力強く爆ぜるのを感じたのだった。




       #

      #




「ハインツ、パン粉の在庫は?あと泥炭も」商人であるハインツの父があわただしく叫んだ。その声に九歳になったばかりのハインツが答えた。


「空っぽだよ、泥炭も倉庫の滓を集めたけど火の足しになるかどうか……」


 普通、ハインツが商売の手伝いをすることなんて事は無かった。だが、今年の冬は酷い雪で道が塞がってしまったのだ。無論のこと、街に入ってくる食べ物は底をつきかけていた。この通り倉庫もすっかり片付いている。


「まずいな、泥炭はともかくパン粉が無いなんて……ハインツ、お前は外に出て主要な道の雪を除ける手伝いをしてこい、俺は泥炭の代わりになる木材を探す」


「分かった。けど、泥炭じゃないなら売れないんじゃないの?」


「あのな。五十年に一回の大雪の年に儲けなんて考えてたら街が全滅しちまうだろ。いいから早く行け」


 ハインツは倉庫にあったシャベルを取り、急いで外に出た。


「こうやってお父さんは信用を売るのか……」我ながらうまいことを言ったなと思って笑うと、口から白い湯気がもわもわと昇った。


 大通りに出ると、すでに壁のような雪を頑張って除けている男たちがいた。


「おう、ハインツ坊。手伝ってくれるのか」


「いや、信用を売りに来た」ハインツが返すと、男は大きく笑った。


「減らず口め。いいだろう、買った。ただ、力仕事は大人でやるからよ。そんなことより、お前炭鉱への道は分かるな?」


「もちろん。泥炭の取れ具合を見に行くの?」炭鉱はレーベンの勤め先だった。


「ああ、道を作れば安定して運べるんだが時間がかかる。それなら同時並行で炭鉱から運び出したいんだが、大人が行くとそりを使っても雪に埋まるんだ。子供に任せるのは気が引けるが、頼んだ」男はハインツの肩に手を乗せたかと思うと、ひょいっと雪壁の上に放り投げた。ハインツの服の中に雪ががさがさと入った。


「おーい。だいじょうぶかぁ」手を振る男に手を振り返して、ハインツは走り始めた。普段は手の届かない家々の高い屋根がすぐ横にあるというのは変な気分だった。


 走るたびに口から湯気が出て喉が凍り付きそうだった。吐く唾が血の味がする。ハインツはそれでも走った。親に、高い雪の上は危ないから乗るなと言われていた反動か、不思議と気分は高揚していた。


 途中、雪が窪んでいるところがあって、巨大な蛇が這った後のようになっていた。まだ子供だということもあったが、ハインツは強烈な好奇心に駆られて道を逸れて近づいてみた。見れば見る程不思議な窪みで、果てしなく何処までも続いているように思えた。


 次の瞬間、思わぬ事が起きた。いきなり雪が沈んで、段々と窪みのほうに吸い寄せられていくのである。ざざあ、と水の流れる音が聞こえて、窪みの底からライン河が覗いた。冬の河の恐ろしさをハインツはよく知っていたので、力んだ腕を必死で動かしたが、それでもずるずると河に引きずられていった。歩こうとするが、膝まで埋まっていてうまく動けない。片足だけでも引き抜こうと、両手で右足を引っ張るがびくともしない。


 後ろでは雪が音を立てて河に落ちていく。すると、身体の後ろにあった雪が一気に下に落ちたおかげで、足に余裕ができた。その瞬間に両足を引き抜いて、思いっきり斜め上に走った。転ばないようにとか、足を取られないようにとか、そんなことを考えている余裕もなく、ただ窪みから抜け出そうと必死だった。


 上にたどり着いた後は喉が張り付いて呼吸できず、盛大に吐いた。


「ん、ハインツか?」


 むかむかする胸を声の方向に向けると、そこにはレーベンが立っていた。


「いや、しゃべらなくていい。まず落ち着け。俺は炭鉱から走ってきたんだけど、お前は?」


「だんこ…炭鉱に行ごうとおもでた」ハインツは喉に絡まった痰をっぷっと吐き出した。


「炭鉱のほうも入り口が雪で塞がってる。春になるまで駄目だ」


「…そうか」


「ああ。だけど、オーストリア方面からの行商が炭鉱に来たんだ。生憎泥炭を取りに来たらしくて燃やすものはなんもないが、食べ物は持ってるらしい」


「…それなら炭鉱と行商路と街に続く道を作らないと」


「そうすれば継続的に食べ物は確保できる」


「泥炭の代わりになる薪はお父さんが探してる」少しづつ希望の見えてきた二人は、走り詰めだったが体が楽になる思いがした。


「俺が代わりに行ってくる。まあ、お前は休めよ。ここからならヘザーさんの家が近いだろ」


 ハインツは雪を押し当てて口をぬぐい、言葉に甘えさせてもらうと伝えて歩き出した。


 あまりにたくさんのことが一度に起きすぎて、まだ息が上がっていた。

 ヘザー家に着く頃には、炭鉱側から雪を除けて作っている道があったので、何とかまともに歩けた。しかしそのヘザー家の前には仰々しい荷車が止まっていて、よく見ると近くの馬小屋には立派な馬が休んでいた。

 どうしたことだろうと思いながら家に入ると、決して狭くない家には客があって、なんだか狭く感じられた。


「ああ、ハインツ。いらっしゃい」バタバタと忙しそうにしているヘザー夫人がハインツのコートを受け取って壁に掛けた。


「そうだ、これ良かったらどうぞ」ハインツはそう呟いてポケットを探ると、かき集めた泥炭のつつみがあった。


「火の足しになるか分からないですけど、一応倉庫にあるのはそれで最後です。で、あの……」


 察したように、夫人は小さな声で答えた。


「あ、お客さんのことね。なんでもオーストリアの行商人なんだってさ。今は街の宿舎が使えないから家に泊まってもらっているんだよ」


 確かに、よく見るとここらでは見ない服を着ている男達が、ヒースさんと話している。


「……そうですね。西は比較的雪が穏やかです。ここの道ができれば隣町も合わせて食料を届けられます」


「そうか、それはよかった」ヒースさんの無口は相変わらずのようだった。


 今は近づかないほうがよさそうだったので、ハインツは話す男達を横目に家の奥へ入っていった。

 しばらくそこで立ち尽くしていると、何処からかやってきたマティルダが物珍しそうにこちらを見ていることに気が付いた。彼女はここに来た時は言葉を失っていたが、そのうち少しづつ喋れるようになってきた。寡黙なヒース叔父さんに育てられたせいなのか、マティルダは静かな娘――ハインツにとっては姉貴分――になったのだった。


「ちょっと休んでいってもいいかな………走りすぎて疲れちゃって」


 河に落ちかけたことを詳細に話していたら、ハインツは二度と外出させてもらえなくなるだろう。


 マティルダにとっては、ハインツがなぜここに来たのかも分からなかったが、彼女は彼に何も問わなかった。ハインツは遠慮がちにマティルダの後を追いかけて、遂には彼女の殺風景な部屋にまでついてきてしまったが、ハインツにはたいして罪悪感はなかった。当のマティルダも、遠慮して何も言わなかったのではなく、彼女にとってハインツは懐っこい弟のようなものだったから、部屋に入ってきてもたいして気にならなかったのだ。


「さっきの人達、オーストリアから来た行商なんだってね」


「……うん、そうらしいね」


「レーベンから聞いたよ。これで今年の冬は何とかなるかもしれないって」


「……そう、よかった」


 ハインツはふぅと軽くため息をついた。マティルダは後を続けて話した。


「……ヒースおじさん、ヒレブラントさんのために街の宿舎を借りるんだって。街の中心に近いし、それに……そっちのほうがいいから」


 マティルダはヒースのことを“お父さん”とは呼ばない。前の家族の記憶がしっかりある為か、ヘザー家の二人はマティルダの姓まで変えようとはしない。だが、子供のいない二人はこの三年間、マティルダのことを実の子供のようにかわいがっていた。


「ヒレブラントさんって誰?」


「行商のお頭。まだ二十歳なんだって。すごいよね」


 ―――すごいよね……ハインツは無口なマティルダの、他人に対する評価を初めて聞いた気がした。


 そしてなんとなく、願いのように“なんとなく”な二つの思いに気が付いたのだった。




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 “大寒の冬”が過ぎて、春がやってきた。冬が明けてみると、アマーリエの四歳の妹テレーゼが流行り病で亡くなった他、多くの人が手の届かない場所に行ってしまった。テレーゼの葬式にはマティルダも来ていた。マティルダも彼女なりにテレーゼの面倒を見ていたのだ。マティルダが小さいテレーゼに誰の顔を見出そうとしていたのかが、痛いほど伝わってくるようだった。さらに驚くべきことに、その冬に亡くなった人の葬式には、必ずヒレブラントが参列していた。いわゆる『信用売り』では、と誰もが疑ったが、そうではなかった。彼は行商人としては若すぎるのだった。利益よりも情を優先させるので、それが結果として街の人々の信用を買い、利益も上がったらしい。ハインツの父は、この新しいライバルの出現に真っ向から対立することを選ばず、その波に便乗することを選んだ。彼はもともと行商人であって、ひとところに留まるとしても二、三年だろうと踏んだのだった。ハインツが十三になると程なく、その予想は的中することになる。


 ハインツが初めて参列した葬式が、このテレーゼの葬式だった。テレーゼの死が伝えられてからその棺が土の中に沈むまで、ずっと涙が流れていた気がする。葬式が終わって二日したら、もう涙も枯れていたが。


 二日間もの間、ハインツは葬式で泣いていたマティルダの顔を思い出していた。その顔がクシャクシャに歪んで泣くところを、ハインツはその時初めて見た。いや、違った。彼は顔を思い出しているのではなく、初めて見たその涙を思い出していたのだった。ただ単に初めての涙だったのか、それとも自分がいない所で……。


 考えていたら頭が沸騰しそうなので、ハインツはベットから抜け出してテレーゼの墓に向かった。なんとなくの行動だったが、テレーゼは相談役としてはピッタリな気がする。


 教会を越えて丘を登って街を見下ろす一際高いところに来ると、その墓地には先客が一人いたのだと気づいた。その人が――アマーリエが林檎のように赤い顔を上げると、ハインツのことをじっと見つめてきた。


「……ちょっとテレーゼに相談してたんだ」


 ハインツは少し驚いて、自分も相談しに来たのだと言った。


「あなたは何を相談しに来たの?」


 答えに困る質問だったが、少し考えながら言葉を選んだ。


「犬を飼ってたとするだろ、その犬と遊びたいんだけど、犬は僕よりも新しい玩具に夢中なんだよ。そんな感じかな」自分でもなかなか的を射た表現だと思った。濁した言葉だが、本質は変わらないままアマーリエにも伝わる筈だ。


「……それ、本気で言ってるの………」アマーリエの声の調子ががくんと下がり、その冷たい声にハインツは一瞬ぞっとした。


「え?」


「それ、本気なのハインリヒ?!自分のことを棚に上げてよく言うわよ!」


 場の空気がピンと張り詰めていって、怒りが充満していくのが分かる。


「あなただってその犬と何も変わらないじゃない!飼い主の気持ちが分からない…の…は……わかってないのはあなたじゃないの………」


 最後には声がかすれ、ちぢれ、そして嗚咽が混じり始めたのを聞いても、ハインツはこの程度しか悟れなかった。―――泣かせてしまった……?、と。


 アマーリエは大粒の涙をボロボロと落としながら、頭が真っ白になるより先に駆け出していた。

 その後姿を見ていたハインツはしばしの間、そこに突っ立っていた。訳もなく涙が落ちていた。




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 十三歳の誕生日を目前に控えたハインツは祖国ドイツのとある街に住んでいた。そしてある夜の夏至祭り、ハインツは先に走っていったレーベンとアマーリエの向かった方へと歩いていた。


 何処からか吟遊詩人の歌声が聞こえてきて、自然とそちらの方に足が向いた。目に入ってきたのは、広場の真ん中で歌を披露する詩人と、それを円を描いて取り巻く街の人々だった。

 その中にマティルダの姿を見つけて、ハインツは跳ねる心臓を抑えきれなかった。人込みを縫うようにしてそっと近づいていくと、後ろからアマーリエの声がした。


「やめたほうがいいよハインリヒ。あなた大事にしたかった〈犬〉は〈新しい玩具〉に夢中だもの。ほら、ごらんなさいよ彼女の横を」


 ハインツはマティルダの横に目を凝らした。すると、さっきまでは目に入らなかったヒレブラントの姿が目に入ってきた。二人は楽しそうに談笑している。


「いや、今やらないと後悔することになるぞ」


 振り向くと今度はアマーリエの隣にレーベンがいた。


「この先ずっと後悔することになる。夜な夜なお前を苦しめる。ヒレブラントなんて関係ない。さあ、早く」


 ハインツはもう一度マティルダ達を見た。二人は楽しそうに談笑している。


 ―――それでも僕は……、


「僕は、行く」


「やめなよ」


「今しかない」


 心の中で何かが音を立てた。


「今しかないんだ」


「やめなよ」


「今しかない」


 何もかもが一つに溶けあって、暑い夜が生ぬるく感じられた。


「僕には今しかないんだ。今言わなきゃいつ言うんだ。だってもう時間が無いんだ!」そう叫んで、ハインツは走り出した。だが、魔力のある声が彼の後ろ髪を引っ張った。


「なら忘れないで、新しい道具に犬を取られたのはあなただけじゃない。私もよ」アマーリエはそう言い残して後ろの人ごみに消えた。レーベンも「俺も、そうなるのかもな」と言って彼女の後を追うようにして消えた。


 ハインツは拳をかたく握りしめて、思いっきり走った。嗚呼、何処からか心を抉る歌が聞こえる。



 おまえのかたを抱き寄せば


 おれの 体はかるくなる


 おまえの口にキスすれば


 ひどい傷でもけろりと治る



 おまえの瞳をみていると


 天国へでもいったよう


 おまえに好きよと言われると


 もう泣かずにゃあいられない



 そうして熱い目頭を押さえて、ようやくハインツはマティルダの正面にしっかりと立った。


「マティルダ!僕は君が―――」


 しかし彼女は手に持っていた葡萄酒のグラスを放り投げた。ハインツの足元でイエスの血とガラス片が飛び散った。


「罪づくりな男ね」


 そこで目が覚めた。























「……おいハインツ、大丈夫かお前。顔が真っ青だぞ」


 ぼんやりとした目の焦点を合わせて、ハインツは目の前にレーベンの顔がある事を知った。


「―――僕は、…今のは夢?」


「はぁ!?夢?とぼけやがって、呑気な奴め。お前こっちに向かって走ってきたと思ったら急に目の前で倒れこんだんだぞ」


 割れそうに痛む頭を抱えて周りを見回すと、周囲の人たちは笑いながら詩人の歌を愉しんでいる。歌はあの歌ではなく愉快な冒険譚だった。遠くにはマティルダもいて、ヒレブラントと一緒になって笑っている。


「……お前酒臭いな。まったく、まだ子供が抜けきってないんだからあんまり飲みすぎるなよ。馬鹿かお前」


「ああ、馬鹿だ。それも本当にどうしようもない、飛び切り質の悪い奴だ」


 夏至祭りはまだ始まったばかりだ。詩人の一番近くを子供が囲み、大人達は近くの家々の窓辺に腰かけている。


 僕たちはその間でどちらに行こうか迷っている。

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