婚約者が超絶熱血キャラなせいで婚約破棄できなかったお話
「はぁ……」
広場のベンチに腰かけ、ため息をつく。
私、ティア・カラーズは今、人生の岐路に立たされていた。
気晴らしに外に出たけど、結局気分は沈んだまま。
顔を伏せて、なるべく何も見ないようにする。明るい表情で街を行き交う人々を見ていると、根暗な自分が嫌になってくる。
なるべく人通りの少ない場所に移動しよう。ベンチから立ち上がろうとしたとき、私の足元に影が伸びた。
「いかがなされた!?」
「ひゃん!!??」
突然、大きな声が耳に届いた。
慌てて顔を上げると、目の前に男の人が立っていた。年は私と同じくらいだろうか。何よりも目を引くのは、篝火のような明るい髪だろうか。
知らない人だけど、これだけは確信を持って言える。彼は私と真逆の人種だ。陽のオーラをバリバリに放っている。
「驚かせて申し訳ない!! 何やら思い詰めた顔をしていたので、つい声をかけてしまった!!」
「そ、そんな顔してました……?」
「ああ、この世の終わりみたいな顔をしていた!!」
この世の終わりみたいな顔と言われて、我ながら納得してしまう。
私はお世辞にも明るい性格とは言えないし、落ち込んでいたら、多分そんな顔をするだろう。
「悩みがあるなら、俺に話してほしい! 口にするだけでも楽になるぞ!」
彼はそう言いつつ、私の横に座った。体ごと私の方に向けて、完全に話を聞く体勢になっている。
怪しい。ナンパされていると思うほど自惚れてはいないけれど、怪し過ぎる。何か目的があって、私に近づいているのだろうか。
立ち去ろうとしたけれど、彼の目を見たら足が動かなかった。好みの絵画に出会い、足を止めて見入ってしまうような感覚だった。
「……じゃあ、聞いてくれますか?」
「勿論!」
結局私は、話すことを選んだ。
完全に彼のペースに乗せられている。初対面の人に悩みを打ち明けるなんて、普段の私からは考えられない行動だ。
「実は私、ヴェローナ学院で薬学を学んでいるんです」
「それはすごいな! ヴェローナ学院なんて、この国でトップレベルの大学じゃないか! 入学試験に合格する者は、ほんの一握りの天才と聞く! 君はとても頭が良いのだな!」
「あ、ありがとうございます……」
手放しで賞賛してくれる彼の反応は新鮮だった。
このことを言うと、大抵の人は微妙な反応をする。酷いときには、退学するよう勧める人もいる。
この国には、大学は男が通う場所みたいな風潮がある。そのことを表すように、ヴェローナ学院の女生徒は極端に少ない。それこそ、両手の指で数えるくらいしかいない。
「女なのに、とか言わないんですね……」
「何かを成し遂げるために努力する人間は、誰であろうと敬意を払う! 俺から言わせてもらえば、女性という理由だけでその努力を否定する方がナンセンスだ!!」
聞く人によっては綺麗事とも取れるその言葉は、私の心に驚くほど深く刺さった。
私の悩みは、導かれるように胸のうちからせり上がった。
「私、お父様に婚約を勧められているんです。相手まで紹介すると言っています。大学は辞めたくないけれど、断るのはお父様や相手の方に申し訳ないんです。もうどうすればいいのか、自分でもわからなくて……!」
私には叶えたい夢がある。
死ぬ気で勉強した。女だからと嫌がらせを受けたりしたけど、歯を食いしばって耐えた。辛い道のりなのはわかっている。だけどせめて、全力を尽くしてから夢を諦めたかった。
だからこそ、叶う保証のない夢を追いかける娘なんて、お父様からすれば心配で堪らないのだろう。
まだ夢を諦めたくない。だけど、お父様に心配をかけさせたくない気持ちもある。私をここまで育ててくれた恩を、仇で返したくなんかない。
結婚し、夢を追うなんて器用な生き方、私にはできないだろう。どちらかを切り捨てなければいけないからこそ、私は苦しんでいた。
「……どうしてそこまで薬学を学びたいのか、聞かせてくれないかな?」
これまでの圧が強い喋り方から一転、諭すように優しい喋り方だった。
私はもう、胸の内を晒すのに抵抗がなくなっていた。
「……私のお母様は、10年前にラジエル病で亡くなっています。ラジエル病は今もまだ、治療法が確立していません。私が薬を作って、お母様のように苦しむ人を助けたいんです」
ラジエル病。秋から冬にかけて流行し、高熱を引き起こす。健康な人なら治る可能性もあるけれど、体が弱い人や子供は命の危険が及ぶ。この世界では毎年毎年、決して少なくない死者が出ている。
身体の弱いお母様はラジエル病に罹り、日に日に弱り、最後には死んでしまった。お母様に対して、私は何もできなかった。悔しかった。悲しかった。仇を討ちたいと思った。その日から、私の夢は決まった。
お父様以外の誰かに私の夢を話すのは、初めてのことだった。
彼は一体、どんな反応をしているのだろうか。彼の顔をそっと窺う。
「すまなかった!! 俺は少し、君のことを少しみくびっていたようだ!! 君は一見大人しそうだが、胸の内には誰よりも熱い情熱を秘めている!!」
彼の目には熱意の火が灯っていた。それこそ、熱を肌で感じ取れてしまいそうなほどに。
「夢を諦めることはない! 俺と一緒に、婚約破棄の特訓をしよう!」
「え!? えっと……」
彼の突然の提案に、言葉が詰まる。
そもそも何をするのだろうか。婚約破棄の特訓なんて、そんなの聞いたこともない。
「君の力になりたいんだ!! 練習!! しよう!!」
「ひゃいっ!!??」
彼の熱意に圧倒され、半ば反射的に頷いてしまった。
「良し! では、人通りの少ない場所に移動しよう! 大声を出すのは迷惑だしな!」
彼に連れられて、近くの公園の雑木林に来た。
確かにここなら、人通りが少ないから大声を出しても迷惑にならないだろう。
彼が私の前に立つ。向かい合うと、彼がとても大きな存在のように感じる。それはきっと、彼が自信に満ち溢れているからだろう。
「さて、特訓開始だ! まずは俺をその婚約相手だと思って、断ってみよう!」
「な、何て言えばいいんでしょうか……?」
「言葉を飾る必要はない! 君の本音をぶつければいい!!」
ここまで来たら、特訓をやり遂げるしかない。
これは練習だ。しかも、目の前の彼は婚約相手ではない。それなのに、私の心臓は緊張で脈打っていた。
意を決して、心に浮かんだ言葉を放つ。
「ごめんなさい、あなたと婚約はできません。私、まだやりたいことがあるんです……!」
「駄目だッ!!!!」
「ひぇっ!?」
彼の短い一喝に、思わず肩が竦み上がる。
「そんな小さな声では、君の胸の内にある情熱は一欠片も伝わらない!! それでは婚約相手だって納得しないぞ!!」
「そ、そんな……」
「もっと大きな声で、気持ちを伝えるんだ!」
彼は目を見開き、私の一挙一動を見守っている。
確かに、彼の言葉は正しい。さっきよりも大きな声を出さなくては、という使命感が湧き上がる。
「ごめんなさい、あなたとは婚約はできません! 私、まだやりたいことがあるんです!」
「いいぞ、もっとだ!!!」
彼に煽られ、もっと息を吸う。
「ごめんなさい、あなたと婚約はできません!! 私!
まだやりたいことがあるんです!!」
「もっと、もっとだ!!!!」
もっともっと、息を吸う。
「ごめんなさい、あなたと婚約はできません!!!! 私!! まだやりたいことがあるんです!!!!」
「まだまだぁ!!!!」
何度同じやり取りを繰り返しただろう。いつの間にか夕日が沈みかけていた。
「はぁ…… はぁ……!!」
ずっとずっと、全力で声を出し続けた。
服が汚れるのを気にする余裕もなく、その場にへたり込む。喉はカラカラで、全身に倦怠感がある。
けれど、不思議とスッキリした気分だった。
彼は私と張り合うように声を張り上げていたけれど、まったく疲れた様子もなく仁王立ちしていた。
「こ、こんなに大きな声を出したのは、生まれて初めてです……」
「そんなことはない! 君が産まれたときは、もっと大きな声で泣いていたはずだ! さあ、掴まるといい!」
差し伸べられた彼の手を掴み、立ち上がる。
「もうじき日が沈む! 家まで送ろう!」
「お、お願いします……」
彼は疲れてヘトヘトになっている私のペースに合わせて、ゆっくり歩いてくれた。
彼は何者なのだろうか。どうして見ず知らずの私に対して、ここまでしてくれるのだろうか。
タイミングを逃して、名前すら聞けていない。自分のコミュニケーション能力のなさがもどかしい。
「間違っていたらすまない! 君の名は、ティア・カラーズではないか!?」
「えっ?」
カラーズ家の屋敷が見えてきたとき、彼は突然私の名前を口にした。
これまでの会話の中で、名前を言ったか思い返す。だけどやっぱり、一度も言ってはいないはずだ。
「そうですけど…… どうして私の名前を? もしかして、以前どこかでお会いしていました……?」
「いいや! カラーズ家の一人娘がヴェローナ学院に通っていると、世間話で聞いていた! この先にカラーズ家の屋敷があるから、もしやと思ったが…… いやはや、驚いた!!」
理由を聞いて、納得がいった。
ヴェローナ学院に通う女生徒は有名だ。ただしそれは、変わり者という理由だけれども。
しばらく歩いて、屋敷の門の前に着いた。
「今日は本当に、ありがとうございました。やっぱり私、夢を諦めたくない。自分の気持ちに正直になって、頑張ってみようと思います」
「ああ、今の君なら大丈夫だ! ティアさんの情熱は、その婚約相手に伝わるだろう!」
包み込むように手を握られる。
温かい手だ。彼の迸る熱意が、両手を通して私に分け与えられているみたいだ。
よくよく考えてると、男の人に手を握られたのは初めてかもしれない。
顔が熱くなる。多分、熟した果実のように真っ赤になっているだろう。
何か言おうとしたら、彼はもう手を放していた。
「さて、俺はそろそろ行くとしよう!」
せめて名前だけでも聞かないと。この機会を逃せば、もう二度と会えないかもしれない。
「ま、待って! あの、あなたの名前は……!?」
「俺は── ただのお節介な通りすがりだ! 君の夢、叶うといいな! 俺はいつでも君を応援しているぞ!」
そう言って、彼は歩き去った。
彼の激励の言葉の数々は、今までのどんな言葉より勇気をくれた。名前は聞けなかったけど、彼のことは一生忘れないだろう。
見えなくなるまで、彼の背中を見送った。
†
それから数日後、ついに婚約者のハーツ・バニングスさんと会う日が来た。
客室のソファーに座り、ハーツさんがカラーズ家の屋敷に来るのを待つ。隣のソファーには、付き添いでお父様が座っている。
この客室は完全な個室なので、ドアが開くその瞬間まで、ハーツさんがどんな人なのか分からない。
「緊張することはない、ティア。何度か会ったが、ハーツ君は優しい男だ。お前のやりたいことも、きっと応援してくれる」
「……うん」
あの厳格なお父様がここまで言うのだから、ハーツさんは信頼に足る人物なのだろう。
それなのに私は今、お父様やハーツさんに想いを踏み躙ろうとしている。
彼との特訓を思い返す。大切なのは、気持ちを声に乗せること。縮こまっていては、伝わる想いも伝わらない。
「ご主人様、ハーツ・バニングス氏がお見えになりました」
「うむ、ご案内しろ」
いよいよドアが開く。
次の瞬間、雷に打たれたような衝撃が走った。
「えっ……!?」
「初めまして、ハーツ・バニングスです!」
この声。この顔。見間違うはずがない。
あのとき出会った彼こそが、ハーツ・バニングスさんだったのだ。
呆然とする私とは対照的に、ハーツさんは少しも表情を崩さなかった。
「よく来てくれたね、ハーツ君」
「こちらこそ、本日はお招きいただきありがとうございます!」
お父様とハーツさんがあれこれ会話しているけど、一切の会話が耳に入らない。
「さて、私は席を外そう。後は若い者同士、ゆっくり話すといい」
そう言い残して、お父様は部屋から出た。
部屋の中が静まり返る。
ハーツさんは、私が落ち着くのを待ってくれているようだ。
「あなたが…… ハーツさんだったんですね……」
「いかにも、俺がハーツ・バニングスだ! 黙っていてすまない! 言うか言うまいか迷ったのだが、ティアさんの決意に水を差したくなかった!」
ハーツさんは深々と頭を下げた。
「わわっ……!? 顔を上げてください、怒ってるわけじゃありませんから……!」
「うむ、恩に着る!」
怒ってはいない。怒る理由がどこにもない。
ただ一つだけ、どうしても確認したいことがある。
「一つだけ教えてください。ハーツさんは、いつから私がティア・カラーズだと気づいたんですか?」
「気づいたのは帰り道、君に名前を聞く直前だ! あの日の俺は、カラーズ家の屋敷の場所を確認するために来ていた! 君に声をかけたのは、全くの偶然だ!」
そうなると、ハーツさんは知らず知らずのうちに婚約破棄される手伝いをしていたことになる。
こんな皮肉な話が、あっていいのだろうか。
「君の情熱はとっくに伝わっている! 俺のことは気にするな! 君は君の夢を追いかけるといい!」
完全に初対面の人なら、夢のために婚約破棄することもできただろう。
だけど、ハーツさんを他人と呼ぶには、あまりにもその優しさに触れ過ぎた。
この婚約を断れば、ハーツさんに「婚約破棄された男」という評判が付いて回ってしまう。私の方に完全な非があったとしても、迷惑をかけることに変わりない。
そうだ、私は知っているはずだ。嫉妬に塗れた人間が弱味を見つけたとき、どれだけ狡猾に足を引っ張るのかを。
ハーツさんは夢を追いかけろと言った。だけど、そのためにハーツさんを犠牲にしていいのだろうか。いや…… そもそも、叶う保証もない夢のために誰かを犠牲にするのは、間違っていることではないか。
「ティアさん」
揺らいでいる私の決意を見抜いたのか、ハーツさんは優しい声で私の名を呼んだ。
「ここだけの話、俺には夢がないんだ」
「……えっ!?」
思わずハーツさんの顔を見ると、ハーツさんはどこか気恥ずかしそうな表情を浮かべていた。
「このことを言うと、何故かみんなそんな反応をするんだ。不思議だな」
「いえ、その…… ハーツさんなら、私よりずっと大きな夢を持っていて、努力しているものとばかり……」
「ティアさんが思っているより、俺はずっと普通の人間だよ。俺を含めて大多数の人間は、人生を賭けるほど本気の夢は持てない。挑戦する前に諦めてしまう。だからこそ、ティアさんのような夢を叶えようと努力する人間は尊いんだ」
ハーツさんの目には、いつか見た熱意の火が静かに揺らめいていた。
どうしてハーツさんの言葉が私の心に響いたのか、今になって理解した。
熱意だけじゃない。誰もが抱えているであろう弱さを知っているからなんだ。
「俺には夢はないけれど、夢を叶えようと努力する人を応援するのが好きだ。正しい努力をする人間が、一人でも多く報われてくれたら、俺も嬉しい」
その一言は、私はこれから何をすべきなのか、何をしたいのかを気づかせてくれた。
「私、決めました」
ソファーから立ち上がり、ハーツさんの目を真っ直ぐに見据える。
ハーツさんとの特訓を思い出し、大きく息を吸う。
「ハーツさん!!!」
「応!!!」
ハーツさんも立ち上がり、仁王立ちで私の言葉を待ち構える。
「私と婚約してください!!!」
「……んん!?」
ハーツさんは首をかしげた。婚約破棄されると思っていたのだろう。
困惑している彼の表情が、なんだかとても新鮮で、可愛らしかった。
「今、聞き間違いでなければ…… 婚約してくださいと言ったか!?」
「私の夢をこんなに理解してくれて、応援してくれる男の人なんて、この先絶対に現れません! 親が決めた婚約とか関係なしに、ハーツさんには私の隣にいてほしい!誰よりも近くで、私のことを支えてほしいんです!!」
言葉を飾らず、本音をそのまま口に出す。
ハーツさんは何も言わない。
断られる可能性が胸をよぎり、心臓が高鳴る。だけど、この感覚は不快じゃない。不安で心臓が押し潰されそうになる感覚とはまた違う、奇妙な心地良さを感じる。
断られても、私は絶対に後悔しない。
「……ダメ、でしょうか?」
「ハッハッハッハ!!!」
ハーツさんはとびっきりの笑顔を浮かべた後、私に手を差し伸べた。
「今日から『君の夢』は『俺たちの夢』だ! どんな苦難も、力を合わせれば乗り越えられる! 一緒に夢を叶えよう!」
「──はい!」
差し出されたハーツさんの手を握る。やっぱり、熱意を分け与えてくれるような温かい手だ。
これまで、私の夢の道のりは孤独なものだった。
だけど、これからは違う。いつも隣に、頼もしい味方がいてくれる。
目的地まではまだまだ遠いけれど、ハーツさんとなら前よりもずっと辿り着ける気がした。
†
彼らが婚約してから、少し先の未来。
ティア・カラーズは日夜研究に明け暮れ、遂にラジエル病の特効薬「ティアドロップ」が開発した。
ラジエル病患者の生存率は飛躍的に上がり、何人もの命が救われた。
成功の秘訣を聞かれたとき、ティア・カラーズは必ず「夫の支えがあったからです」と答えた。
開発資金の調達、量産体制の整備、流通経路の確保など、夫のハーツ・カラーズが一手に引き受けた。押しの強さとフットワークの軽さが尋常ではなく、ティアドロップを迅速に世界中に行き渡らせた。
ハーツ・カラーズは己の名誉や利益に固執せず、最後まで裏方仕事に徹した。その姿勢が評価され、ハーツ・カラーズは影の功労者と呼ばれている。
母のような患者を救いたい。そんな、幼い頃からの夢を叶えたティア・カラーズだが、これで終わりではなかった。
もっとたくさんの人を救うために、新たな薬の開発に着手した。
これから先、ティア・カラーズは何種類もの薬を開発し、そのたびにハーツ・カラーズが裏で奔走するのだが、それはまた別の話である。