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異邦人と魔法の旅  作者: 中森 壮
4/4

No.4 記念すべき旅立ち c/王都ルーテティア道中 a

 まったく、よせばいいのに。


 二階廊下の窓をあけてそとをながめていると、またひとつ、またひとつと、人影がこちらに向かってくるのがみえた。


 日も高いというのに、肌寒い。朝冷えの香りをのこした空気が、屋敷のなかに流れてくる。


 みんな、仕事はしなくていいのだろうか。さらに、もうひとりが向かってくるのをみつけた。


 天気は良い。空は雲ひとつなく、つかみどころのない、真っ青な魔法の砂漠みたい。


 月並みの表現だけれど、地平線は遠かった。麦畑とゆるやかな起伏。海を見ているようだ。


 日本でこの景色にちかいのは北海道だろう。


 記念すべき旅立ちの日は、おでかけ日和だった。


 子爵フォン・ヴィーダーベレーブング屋敷の正面玄関から正門にいたる弧状の小道は、敷地を取り囲む庭木林にはさまれていて、道の中間点には噴水がある。


 僕は、木陰にあるこのかわいらしい噴水が好きだった。


 地上の基底部は赤レンガでつくられている。ふちの部分は大きな円を描くように長手積みで構築され、直径は、ジョンが縦に一・四人寝転ぶことができるくらい。中心には四角錐の白い台座が設置されている。うえにいくにしたがって角が取れて、丸い円柱になっていく。円柱は、僕のアゴの高さになると花がひらくように広がり、曲線のうつくしい緑色の水盆となる。これが、地下の水道管を通って頂上までやってきた水の受け皿だ。盆の円周は、子どものころの僕と兄と妹が、両手を広げてギリギリ互いの手がとどかないていど。


 当屋敷地は裏手から表にかけてゆるやかな下り坂になっている。噴水は、この高低差を利用して水道管に水をとおし、位置エネルギーの勢いをもってして水を噴出させる仕組み。


 噴出といっても、水柱がブシュっと立ち上るようなものではない。調子がいいときでも、盆の真ん中の水面が微かに盛り上がるだけ。でも、その微かな盛り上がりが、やさしい。


 故障も多く、原因は冬の水道管の凍結にともなう破裂などいろいろある。最悪なのは、長いヘビが管のなかで詰まって死んでいたときだろう。あれ以来、僕はヘビ恐怖症を患ってしまった。ヘビ嫌いは僕もおなじで、祖父の実家、つまり伊賀の曽祖父の家で、ナミヘビ科ナメラ属アオダイショウを手に持った恵美という親戚の子に追いかけまわされてから大の苦手になった。


 お気に入りなのは、この噴水が草花でいっぱいに覆われているからだ。


 頂上の水盆は、空気に触れるところは苔がふさふさびっしり生えており、周縁部は鮮やかなモスグリーン。側面に、四頭のライオンの吠え面が東西南北をそれぞれ向いて装飾されていたけれど、いまは見えなくなってしまった。水は隙間を縫って下へと落ちていく。


 ぽつぽつと、苔の枯れて腐ってしまった部分が剥がれ落ちて、もとの白い皿が表れる場所がある。そこの、うすくひびのはいった陶器のざらついた肌触りは土への帰還を思わせる。


 赤レンガで長手積みされている足元の土台部分の円周上は花壇になっていた。背丈の低い草が生え、年中なにかしらの花を見ることができる。


 水漏れを防ぐための赤い円は、人が腰かけてうしろに手をつけるほどの幅がある。このレンガ製の幅のなかに一周するくぼみをこさえ、土を入れて草花が生えてこれるようにしたのだ。


 草は自然に生えたもので、とくになにか意図した品種を植えたというわけではない。でも、背の高い草は抜かれてしまうので、それだけが気の毒であった。


 噴水を欲しがったのは父だったらしい。苔で覆うとか、下のところを花壇にするアイデアを思いついたのは母だと聞いている。建造を指揮したのは、むかしブリタニアで庭師をしてたらしいウィリアムおじさん、ジョンの父だ。基底の赤レンガはおじさんが組み、台座からうえの部分は、母の叔父で僕からは大叔父にあたる当代の枢機卿ラ・ファイエット公爵がパトロンをしていたミラノの彫刻家の作品である。


 ――突然、僕の視界を遮るものがあった。そいつは、あけはなたれた窓を、そとからガンガン叩いている。妹のマヤだった。目のまえで、箒にまたがって宙に浮いている。ちょっとびっくりしたけど、すぐにたいしたことではないと思うようになる。


 そいつは大声で、


「ジョンが呼んでる‼」


 と叫んだ。僕からみて右のほうを指さしている。うながされて見てみると、廊下の奥にジョンが立っていた。


「お気が済んだのでしたらおっしゃってください。馬車のほうも用意できましたし、いつでも出発できます」


 ジョンは言った。


「あとすこし待ってくれ」


 僕は言った。


 まえを見ると、妹はまだそこで浮いていた。


 邪魔なので、廊下を歩き右隣にある窓へ移ってそとを見ようとする。しかし、またしても箒に乗って空を飛ぶおかしなやつの顔が、曇った白ガラスを通してこっちをみていた。


 魔法を実施して弾き飛ばそうと思い、あたまのなかで硬い風の塊をイマジンしていると、いきなり窓が開き、僕は窓べりに引き付けられて、さらに胸ぐらをつかまれ半身を窓のそとにさらされる。


「おい、なにしてんだこのハゲ」


 ってマヤは言った。下から吹き上げる小風が肝臓を冷たくしていく。


「僕は禿げてない。それは事実とちがう。僕のあたまは禿げない」


「うっせ、生意気言ってんじゃねーぞこのハゲ。てめぇな、おいコラ、いまなにしようとした? 言ってみろやこのハゲ」


 ドスのきいた声。マヤは僕をこれ以上に引っぱりだそうとしている。危ない。


「ジョン! 助けてほしい」


「もうしわけありませんが、若、もうしわけありません」


 という、まじめな声が聞こえてきた。想定内だ。さいしょから期待なんかしてない。


「よそ見してんじゃねーぞこのガキ、こっち見るんだよ‼」


 このように言われたのでそっちをみた。妹の目は、いつもより瞳孔がちいさくなっている気がした。


「マヤ、下でみんな見てる。母さんに怒られるからさ、離してほしい」


 庭では、使用人や領民が十数人、こちらの様子をうかがっていた。指さして笑っているのはパン屋の主人ルネと、うちにトマトなる真っ赤な毒リンゴをもたらした西インド帰りのフェルナンドである。しかし、そこに母さんの姿はなく、当てが外れたのがわかった。


「がたがたいってんじゃねーよ、オメーはいまからわたしに怒られるんだよ。な? てめえさっきわたしになにしようとした? あ? 正直に言えよ、な? 言えっつってんだよこのハゲ!」


 この女、またハゲって言った!


「僕は、禿げないんだよ」


 ――じぶんに飛行魔法をかけて身体を軽くした。マヤの箒をつかみ、この口のよくない妹の背中に硬い空気の塊をぶつけ、一気に屋内へと引き入れる。


「うきゃっ」


 とマヤは奇声をあげた。


 僕は廊下にあおむけに倒れこむ。突っ込んできた妹は、箒にまたがったまま窓向かいの壁を蹴って勢いを殺し、そのまま床に両足そろえてきちんと着地した。


「兄様、ひどい!」


 彼女はふりかえってそう言った。いまさらかわい子ぶってもおそい。だが、あたまにかぶってた、黒くてつばの長い羽根つき帽子をすぐに脱いだことは評価できる。


「ひどいのは君と、君の言葉遣いだ」


 ついでに、格好もひどかった。黒いマントを羽織っている。裏地は赤い。白いシャツはともかく、ズボンは橙色と茶色のまだら模様でいったいどうやって用意したのか見当もつかない。そして牛革のブーツ。ちょんまげしてたらテレビゲームの織田信長で、眼帯してたらダルタニャン物語のロシュフォール伯爵だ。近ごろの傾奇者はこうなのか?


「だって、兄様が先にわたしを箒から叩き落そうとしてたんじゃない」


 といって、僕のとなりにしゃがみこんだ。暗いブロンドの髪をかき上げる。


 正確には箒から叩き落そうとしたのではない。箒ごと弾き飛ばそうとしていたのだ。だいたい、どうやって箒から落とすのか。マヤと箒を分離させたら、落ちていくのは箒のほうで、マヤ自身は飛行魔法で飛んでいられるではないか。非論理的だ。


「それはそうかもしれない。だけど、君は気づいていないのかもしれないけど、君はすごく邪魔だったんだ。ならば、吹き飛ばすしかない」


 マヤを見上げていると目があった。しばらくそうしていた。まばたきをしたので、僕もまばたきして返す。日本人とはちがう、エメラルドグリーンの瞳とまつ毛の長さに驚く。すると、


「おい。なんだオメー、調子乗ってんのか⁉」


 寝ている僕の胸ぐらをつかんできた。


「マヤ、君の言葉遣いは本当にひどいね」


「ああん? てめぇ…誰にむかってそんな口きいてるんだ⁉」


 そう言いながら、僕を力いっぱい揺さぶり、あたまを床に打ちつけてくる。絨毯が敷いてあるとはいえ、石造りなので衝突の振動はほとんどこっち持ちだ。頭蓋骨にエネルギー波が蓄積される。ようするに痛い。相当痛い。


「マリア・ドロテア・ヴィルヘルミーネお嬢さまです」


「もういっぺん言ってみろ‼」


 痛い痛い。やめて。


「マリア・ドロテア・ヴィルヘルミーネお嬢さまです‼」


「おいガキ…なめてんじゃねーぞコラ‼」


 目が血走ってる。こわい。めっちゃこわい。


「ジョン! 助けて! はやく!」


 ジョンは無表情でうつむいて固まっている。じつに使用人らしい態度と思う。凶獣と化した妹はジョンのほうを向くと、


「おいジョン…テメーもいつまでそこにつっ立ってんだ? こっち来いつってんだよ!」


 ビクッと反応した使用人の男は、あたまを左右に振って周りを確認するような動きをし、うつむきながら小走りでこっちにやってくる。ぷぷぷ、まきこまれてる。ざまをみろ、僕の妹から逃げられると思ったか!


 するとマヤはこっちを向いた。


「なに笑ってんだ、おまえ。おい、なに笑ってんだって聞いてんだよ」


 僕を見て笑い、にらんでくる。ライオンとか虎のそれである。この時点でじぶんの膀胱に余裕があることは不幸中の幸いだった。


「あっ。わらて、わらってなんかいません」


 ひぃぃぃ。もう嫌だ。助けて母さん!


「若、謝るんです。早く謝るんです!」


 ジョンは跪いて言った。


「ご、ごめ、ごめんんなささい」


 ぷっ、と吹き出すのが聞こえた。やあジョン、なぜ笑うんだい?


「なあ、おい。謝ったら許してくれると思ってんのか? あん? どうだ、シャキッとしろやコラ!」


 マヤは、ジョンが笑うのはかまわないらしい。


「ジョンに言われたから謝ったんだな。おい! そうなんだろ⁉」


 シュール・ドメステック・バイオレンスごっこ。


「ちちちがうんですっ! そうじゃありません」


「てめぇコラ、どうちがうんだ⁉」


 ならば、僕は奇抜な姿をした娘の顔を見た。掴みかかる彼女の手を握り、


「僕が悪かったです! 申し訳ありませんでしたっ。すべての責任は僕にあります。誠意を尽くすためなら何でも致します。マリア・ドロテア・ヴィルヘルミーネ・フォン・ヴィーダーベレーブング! どうか僕をお助けください。お願いしますっ」


 と伝えた。もしかして、この妹も「誠意は言語ではなく需要に対する無制限の無償供給」なんて言ったりするのだろうか。


 そう思っていると、マヤは顔をそむけてからだを震わせた。僕を放してくれる。お遊戯は終わりのようだ。


「ふふっ、ははっ。きゃははははっ」


 腹を抱えて笑い転げている。やっと一息つくことができる。


「兄様がっ! 人にちゃんと謝ってるの、はじめてみたっ!」


 と言う。いやまて、


「そんなことないだろう」


「そうよ。兄様は、母様に叱られてもぜったいに謝らなかったもん」


 記憶違いじゃないのか。


「いんや、謝ってるね。ぜったい謝ってる。もしそうじゃないとするならば、それは、たんに君がわからなかったというだけのことだ」


 さきに立ったジョンは僕に手を差し出す。僕はジョンの手を取って立ち上がった。


「それがいけないんだよ」


 むくっと上体を起こしたマヤは言った。


「なに?」


「みんなさ、兄様が謝ってるってわかってないじゃん。謝ってないのと同じでしょ、それじゃ」


 うん、それはそうである。しかし。


「なるほど、たしかに同じだ。ところでマヤ、さっき僕が「君がわからなかった」と言った部分を「みんなわからなかった」というようにすり替えるなど、君が根拠のない主語の変更を試みて文意の拡大解釈を謀ったことに関しては、今回は指摘しないことにする。で、僕が問題にしているのは文の述部である。どうやらマヤは僕の謝意を認識できないということのようだけれど、なぜ認識できないのかがわからない。僕はいつだってはっきりと謝意を言葉で伝えている」


 マヤはこっちをじっとみつめている。僕のからだの軸が小刻みに揺れているのは、さっきの暴言を聞き続けた後遺症だろうか。


 妹は口を開き、


「まず、第一に、「君」の部分を「みんな」と置き換えて文意の示す範囲に普遍性を与えたことの根拠について、これは経験論で証明され得るものである」


 なんてことを言った。


「うん」


 経験論とな。


「その経験論とは君の体験のみに基づくものであって、あくまで主観の出来事でしかないのではないか?」


 Beat of my Heart.


「オットー兄様がこれまでに引き起こしてきた数々のもめ事について、兄様が自力で解決できた例はごく少数であります。多くの場合、父様や母様、枢機卿のおじいさまが問題の解決にあたり、また、わたしやヨッヘン兄様、それに忠実なる従者のジョンが調停をおこなった回数も決して少なくはありません」


 いや妹よ、君については野蛮な手段を用いたために問題をややこしくしたことのほうが多かったと記憶している。


「それぞれの事例について、状況をより煩雑化させたのはオットー兄様の態度であることがほとんどでした。兄様が謝意を表すためにひとりで相手方のところへ赴けば、むしろ、むこうを怒らせる結果になったのは、言うまでもないことです。また、謝罪の場合だけでなく、感謝の意を伝える場合でも同じことがおこっています。兄様が怒らせて、さらにその後の対応で事態をこじらせた相手の数はバスティーユの城塞牢にはおさまりきらないほどです」


「異議あり、バスティーユの城塞牢という表現は誇大である。訂正すべきと考える」


「いいでしょう。当子爵家領裁判所は被告人の言い分を認めます」


 と、マヤは宣言した。


 うちの裁判所は、裁判長と検察官が兼任であるらしい。暗黒裁判の予感しかしない。佐賀の乱後の江藤新平はさぞ無念であったろう。自分で作り上げた司法制度によって、それもきわめて恣意的な運用で


「それではわたしの忠実なる証人ジョン! 兄様の数々の所業に間違いはありませんか」


 忠実なる証人?


「はい、つきましては、一件、一件について多種多様な解釈が可能かと存じ上げていますが、そのように記憶していることもないわけではないのでございます」


 聞いたかね。これが宮仕えの初歩テクニックだ。きわどい人間社会のなかで身を守るためには、相手に言質(げんち)を与えてはならぬ。マヤ、こういう男とだけは付き合ってはならない。結婚するならいいかもしんない。もちろんジョンはダメ、ゼッタイ。


「というわけです、兄様。「君」を「みんな」に置き換えたことについて、納得していただけたでしょうか」


 と、告げられた。


 これは明解である。


 僕は、たんに、うれしかった。


 妹は、つまり、タカの産んだタカなのだ。家の皆が、君のことを誇りに思うときがきっとくる。


 夢のなかにでてくるマヤは、まだ幼いちんちくりんであることが多い。八歳五か月のときだった。乗馬中、走っている馬から隣の馬へと飛び移ろうとして失敗して落ちた。左腕の骨を折ってわんわん泣いている、あの君は懐かしくなった。


 知性は人間の肝要な資質と思う。


 マヤにはその才があった。いま、彼女は弁証法を体得しようとしている。これほど喜ばしいことはない。それは人生の第一歩目と等しいのだから。


 将来、良き人物となる。父さんや母さんのように。いつか見てみたいけれど、そんなこと叶うのだろうか。


 思い起こせば、オットー・フリードリヒは、なかなかとんでもない男のようだ。子どものころ、母さんの小物入れのなかに十三匹の生きたスカラベを忍ばせておいたり、防音系の対抗魔術がかけられた姫陛下の寝室の壁を、風魔法と土魔法を複合した爆発呪文でふきとばしてみたりと、いろいろひどい。


 僕は、せいぜい、お父さんに怒られた日の夜、その靴のなかにアメリカザリガニを入れといたくらい。


 ほかに、小学校の修学旅行第一日目のことだった。


 ホテルでの学年夕食会の際に、食前の挨拶のため立ち上がった校長先生の椅子をこっそりうしろに引いておいた。


 ながいながい挨拶終了後、当然あるものと思っていた椅子に座ろうとした校長は、そのままバランスを崩して大きな叫び声をあげながら予想よりも派手に転倒した。不幸な彼は肉体と精神に軽いけがを負ってしまう。


 もちろん、僕は修学旅行後までのあいだに、いろんなひとからきつくしぼられた。


 なるほど、そう考えると、南出真司も僕に負けてはいない。


 むこうの真司はどうなってしまったのだろう? 消えてしまったのか? それとも昏睡状態で動かなくなっている? お父さんやお母さんや、真理はどうしてるだろうか。お父さんは仕事に行くしかないだろう。厚労省という職場はかんたんには休めない。しかし、業務は手につかないにはちがいない。2005年日本シリーズの結果による放心状態は見物だったけど、いまも同様の状況だろう。これで労派法改正に遅れがでるということはないだろうけど。


 それよりも、お母さんが心配だ。きっと、うす暗い静かな家のなか、ひとりでいることになる。まったく、ひとりだけの一軒家なんて、ひどい冗談だ。みんな気づかないけれど、昼の世界の影は静止している。電化製品の音しかしない、冷蔵庫の音。たまに、配達人の二輪車のエンジンがまえの道から聞こえてくる。真理は学校を休んだろうか? そうであってほしい。あたまのいい子だけど、ひとの気持ちもよくわかる子だから、いまはお母さんの側に。


 いいや、もしかすると、あっちの僕もふつうにうごいて活動しているかもしれない。案外、むこうでもオットー・フリードリヒと南出真司の記憶が一緒くたになっていて、国会議員してる義理の大叔父に呼び出されて心臓をバクバクさせているかもしれない。「君、わたしの紹介した会社をばっくれるとはいい度胸してる」僕のほうが、真司よりも宮中での儀礼について経験が豊富なのだから、きっと、大丈夫。大丈夫に決まっている。たぶん、


「……お兄様、ねえオットー? お兄ちゃん! 大丈夫?」


 目を潤ませたマヤがいた。


「大丈夫ですか? いきなり座り込んで、呼んでも返事がなかったものですから」


 それと、ほほ笑み男。


 僕ら三人とも、廊下の真ん中に座っている。


「大丈夫だ、ジョン。僕ヴぁ元気」


 マヤは表情を変えずに僕の頬を両手で転がす。


「…言い過ぎた。ごめんなさい、兄様。泣いてしまうなんて…」


 はい?


「僕ヴぁ泣いでなんがなーいー」


 声がうまく出なかった。妹に顔を挟まれていたからね。


 彼女は僕の頬を放し、手のひらを二つともこちらに向ける。


「ほら、泣いてた証拠」


 見ると、光の反射する筋があった。たしかに濡れていた。


「Oh...ばっちい」


 僕は両目をぬぐう。


「兄様の涙じゃん」


 涙には殺菌成分があるから、むしろきれいなのだろうか。しかし、


「マヤも泣いてる」


 妹の目は赤く、湿潤している。


「…もらい泣き」


 はやりの、共感性というやつか。


「ごめん、兄様。言い過ぎた」


 といって、うつむいた。なんで君が落ち込むの?


「い、いや、真理、じゃない、マヤ。そうじゃないんだ。君が悪いんじゃない。そう、泣いていたことは認めよう。でも君のせいじゃない。いや、君のせいだけど、僕は悲しいんじゃない。ああ、もちろん、悔しいのでもないよ!」


 女の名前を呼び間違えるなんてジョンでもしないのに僕ときたら。


「じゃ、なにさ」


 うつむいたままである。


「感動したんだ。ようするに、言うようになったてこと」


「ああん? どういう意味?」


 顔を上げて、僕をにらむ。


「うん、つまり、君は大人の言い方をするようになった。とても知性のある女性になった、ということを言いたかった。ああ! それと、僕はさっきの証明にたいへん納得したよ。帰納…ブリタニアの連中の経験論は豊富かつ多面的な判断の材料が必要になるけど、あれだけそろえてこられちゃあ、まあ納得せざるを得ない。もちろん、立場上と本人の資質の問題で客観性を欠いた、君に忠実な証人については残念だけれど。とにかく、そうだ。うれしかった、端的にいって、そういうことだ」


 僕は半分うそをついた。最近、よくうそをいうようになったとおもう。


 “おとな”ということばに、理性や寛容、文明的という意味を持たせるのは大嫌い。どちらかといえば、暴力や排他的、野蛮というほうが似合っている。


 マヤは真顔になった。


「…そっか」


 息をすって、とめる音がした。


「ありがと」


 そう言って、左手で潤んだ目をこすっている。一瞬、はにかんだと思うと、


「ねえ、兄様。もうひとつ言っていい?」


 明るい調子で言った。


「かまわない」


 僕は答えた。


「兄様が謝ってるつもりなのに相手を怒らせてしまうのって、たぶん、兄様が口先だけで言ってて、本心で謝っていないのが伝わってしまってるからだと思う」


 まえにもだれかがいってたきがする。


「それは、おかしい。ちゃんと言葉にだして謝っているはずだ。口先とか、本心とか、そんな不確かなものなど……ろくなもんじゃない」


 君も、そんなこというのかい?


「不確かとは思わない。そういうときの兄様って、相手の顔を見ずに目をそらして、魂の抜けたような目をして、口だけで謝ってる感じだもん」


 僕はそらしてない!


「でも、マヤ。それだけで判断を下すのは、理知的とはいわない」


 そうだ、実証が足りない。仮に僕がそのように見えたとしても。


「ひとの感情って、そう受け取るんだよ、兄様」


「感情だなんて、野蛮な」


 しかたのないことだとはおもうけれど。


「プラトンはそう言ったかもしれないけど、そのひとは奥さんを怒らせて、あたまから水をぶっかけられてたじゃない」


 妹もよく勉強しているようだ。しかし、


「それはソクラテスだ」


 ぶはっ、とジョンが吹きだした。なるほど、昨日のキアラとのことを思い浮かべたのか。マヤがジョンのほうを一瞥すると、この使用人は半笑いでみるみるちいさくなっていった。


「兄様は、けっこう、考えていることが顔に出やすいほうだよ」


 妹は楽しそうにしている。


「…そうだろうか。そう思ったことはないけれど。ジョン、どうだろう?」


 ジョンは目線を落とし、口元を押さえている。僕にはわかっているのだ、考えているふりをしていることは。


「はっきり申し上げますと、余裕があるときは憎たらしいほど不敵で感情を表には出しませんが、余裕がなくなると途端にわかりやすくなります。あと、近しい人といるときや、お嬢様と会話しているときなどは、なかなか感情的になっていると思います」


 きみぃ、憎たらしいだと? どうやら、この僕がだれだかわかっていないようだな。王国最高の魔法使い、オットー・フリードリヒ・フォン・ヴィーダーベレーブング様だぞ!(笑)


「ふうん、そうなの。ねえ兄様、わたしといるときは余裕ない?」


 妹の声の調子が一段暗くなった。


 “Oh, I have a bad feeling about this.” くそくそくそ、嫌な予感がする。


「いや、そうじゃない、近しい人のほうだよ」


「じゃあさ、ジョンはわたしのことどう思ってる?」


 いばらの迷路で死神と鬼ごっこしている気分になってきた。


「それはもう、若ともども、感謝の気持ちでいっぱいですよ」


 ほほ笑みのジョン。廊下の窓は開いていた。空は青かった。


「にぃさまー。わたし、こわい?」


 あの空は、うえにいけばいくほど寒いのだ。イカロスは太陽に近づきすぎて、両翼の蝋で固めた部分が融けて落ちてった。じっさいには、寒さに凍えて、息が苦しくなって落ちていくのだ。


「兄様」


 僕の肩を両手でつかんで、のぞき込んでくる。ひぃぃ。


「こわくなんかないよ」


「でも、さっき、すっごくこわがってた。あと、どうして目をそらすの?」


 この迷路は行き止まりかもしれないと思った。


「あれは…ふりをしていたんだ。僕はこわくなかった。こわがってたのは、ジョンだよ」


「いえ、こわがってたのは若のほうです」


「いいや、君のほうさ。僕が助けを呼んだのに、うつむいて固まってふるえてた。クマに追い詰められた子鹿のように」


 マヤはあぐらをかき、猫背になって左手で頬杖をついている。たぶん、もうダメだろう。心境を整理するための時間になった。身体中の穴々から液体を垂れ流すのだけは御免だ。穴々をあけられるのはもっと御免だ。


「若のほうこそ、真ん中くらいには半泣きで、すぐにでも本格的に泣き出しそうでしたよ。兄弟げんかに負けた子犬のように」


 もっともな直喩だ。


 覚悟が決まるまでは、このやり取りを続けなくてはならない。次に妹が口を開くときは、ルーテティアの下町やセーヌ川の河岸港風味の蛮人口調になっているはず。


 子鹿や子犬よりも良いたとえはないだろうか? 早くなにかを言わないと、マヤが……


「おーい、まだなのか? みんな、下に集まってるよ」


 父上!


 廊下の曲がり角から、父さんが顔を出す。やった! 迷路の出口は開かれた!


「いま行き――」


「お父様! もうすこし、下で待っててくださりませんか? 兄様とジョンに大切なお話があるの」


 ジーザス・クライスト。


「大切なお話って何だ?」


 父さんはひょっこり顔だけ出したまま聞き返す。


「だって、オットー兄様とジョンがこのまま行ってしまったら、もう、会えるかわからなくなってしまうでしょ。だからいまのうちに、言いたかったことを全部言ってしまうの」


 不吉なことをいわないでほしい。たとえ、良い方向に進んだとしても、うれしい結果にはなりそうにないのに。


「まあ、それの心配はないと思うけど。そっか、わかった。じゃあ、下で待ってるから、なるべく早く降りてきてね」


 なんと、やくにたたない。


 そういって父さんは下に降りていった。刺々しいいばらが再び道を閉ざしたのである。すこし髪の薄くなった、小メタボ。


「でさ、兄様とジョンは、わたしのことが、こわくなかったって言いたいわけなの?」


 マヤの瞳孔は、閉じている。もはや、正解などないのである。


「いいえ。…僕たちは、みっともない見栄をはりあってしまいました。お気を悪くなさらないでください。マヤが、僕たちをこわがらせようとしたのなら、その目的は達せられております。しかし、だからといって、僕たちは貴女に対する敬慕の念を失ったわけではないのです。そうですよね、Lord John?」


 Lordのあとにファーストネームをつけることは絶対にない。けど、“Lord John” はふしぎと語呂がよかった。60's以降の感覚なら許されるのではないだろうか。


「イェス、マイ・マスター」


 と、ジョンは流暢なクイーンズで答えてみせた。


 マヤは、「ふふっ」と表情を緩ませると


「ブリタニアンでしょ? 困ったらいつもそれでごまかそうとする」


 そういい、


「わたし、べつにおこってなんかないのに」


 とつづけた。


「Really?」


 ほんまかいな。


「Of course not.」


 マヤは得意げに(ドヤ顔で)返事をした。やけに現代的な会話と思った。


「つまり、兄様とジョンは動揺すると、情けなくて、とても感情豊かになることがわかった」


 次は、堅苦しい話し方になる。


「兄様もジョンも、血の通った人間なのである」


「ジョンは端麗な容姿と口先八寸で窮地を切り抜けることができる。感情をうまく操り、相手に不快感を残さない」


僕はときどき不快になるけどね。


「そのように言っていただけるとは。僕にはもったいないお言葉です。ありがとうございます、マリアお嬢様」


 使用人はかしこまった。とてもひどい会話と思う。


「しかし、兄様は平常においては肥大した自尊心のために周囲の人間にたいして横柄にふるまい、追い込まれると、今度はこどものようにいじけてしまって、しかもそれを隠すことができないのである」


 僕は、ここまで言われるほどなのだろうか?


「とすれば、兄様は本心で謝りたくないときは、露骨に嫌な感情を相手に向けているということになる。また、相手を歯牙にもかけていない場合は、やはりその見下すような傲慢な態度を取っているが故に、先方を怒らせてしまうのだ」


 人間の心なんてものは実証できまい。この分野は、まったく歯車のかみ合わない弁証を続けていたり、推論に推論を重ねるといった擬似学問の状態だ。雑学としては楽しいが。


「そんなこといったって、どうすればいいのかな」


「兄様、慈悲の心を持つのです。相手を思いやり、慈しむ気持ちを持てば、傲慢さも、ひとを許容しない本性も、きれいさっぱり消えてなくなることでしょう」


 どういうことなんだ。理解しかねる。あと、今日、いちばんひどいことをいわれた気がする。


「君、わけがわからないよ。慈悲の心なんてどこにある? この世界で最も大事なのは、互いが互いに、相手のモノを所有する権利の絶対性を認めることであって、それさえあるのなら、不確かに揺れ動くものになんかすがる必要は…」


 ――僕は今回の一件でいちばん大事なことを思い出した。なんでオットー・フリードリヒは部屋に引きこもって出てこなくなったのか。僕は、あの晩さん会でなにをやらかしたのか。そう、王弟妃の誕生日の宮中晩さん会で、


「慈悲の心を知るには、こうするのです」


 と言ったマヤは、両手を広げて僕に襲いかかってくる


「うわちょっっ」


 恐れていたことが…というわけではなかった。マヤは僕の頭部に腕をまわす。


「兄様、これが慈悲の心です」


 僕は引き寄せられて胸に(いだ)かれた。


 思わず、妹の背中に腕をまわした。


 目をつむった。


 僕とマヤはひざをついて抱き合っている。


 鼻先の白シャツから、枯れた植物と落ち葉に埋もれたときのにおいがした。シャツが新品であることがわかる。


 こうした子どもじみた感性が、愛おしくなった。


 しばらくそうしていると、


「離せコラ」


 といわれて、つきとばされた。僕の上半身がイナバウアーの状態になって、バランスを保てずふたたび廊下のうえにあおむけになる。


 これはまた、楽しい。愉快な。知性が宿っている!


「君、よく、わかったよ」


 つまり、慈悲の心が実証されたわけだ。それは、とても幅の広い定義域を持った変数であり、もしくはそれを用いた方程式であった。


「よく、わかったでしょ」


 マヤは顔を輝かせて、勢いよく立ち上がる。


「それじゃ、ジョン、兄様。もう行くね」


 そう言いながら、帽子をかぶり箒にまたがって飛ぼうとする。


「こらマヤ! はしたない!」


 と言うと、


「うぃ」


 妹はしぶしぶ箒からおりて帽子をまたとる。


「最後にひとつ聞いていいかな、マヤ。ルーテティアのいかつい連中が話しているような言葉を、どこでおぼえたの?」


 彼女は僕たちのほうを見ると、


「もし旅に出るんだったら、あーゆーのも必要でしょ」


 それだけ言った。


「話し方、おしえてあげよっか?」


 なんて言われたので、


「おしえていらない」


 って返した。いざとなったら、言語魔法を使うよ。


「旅に出る気なのですか?」


 ジョンがたずねる。


「うん。連れてってくれる?」


 マヤは気軽だった。


「また今度、機会があれば」


「今日は?」


「今日の僕たちは、ルーテティアのヴィーダーベレーブング家屋敷に向かうだけでございますから」


「そうだね、ルーテティアだったらじぶんで飛んでいけるし」


 ヨッヘン兄さんは、このヴィーダーベレーブング子爵家から独立し、あらたに、同じ家名の男爵家を立てたのである。兄さんは、いま、王都の子爵家屋敷を借りて、そこに一家と使用人で住んでいる。


「それじゃ、行くから」


「オーヴォワール・マドモワゼル」


「なにいってんの、兄様。早く降りてきてね。みんな、待ってるから」


「Oui.」


 妹は角を曲がり、階段を降りていった。


 足音が遠ざかる。屋敷のなかで箒にまたがって飛行するという暴挙を食い止めることに成功した。


 静かになる。


 日差しが暖かい。


「ジョン、疲れた」


「でしたら、そこの部屋で介抱して差し上げましょうか」


「どうして、まだ屋敷から一歩も出てないのに、こんなにも疲労をためこんでしまったのかな」


「それは、若がこれまで、ずっと部屋に引きこもりっぱなしだったからではないでしょうか」


「なるほど、正しい」


 廊下の天井は白い。漆喰だろうか。今日まで、気がつかなかった。われながら、最低の観察眼だ。


「それでは、行きましょうか」


 といって、ジョンは手を差し出す。


 僕はジョンの手につかまって一緒に立ち上がる。二十一世紀とちがって、ここではそうしなくてはいけないのがおっくうだ。


 窓のそとからは、人々のざわめきがきこえてくる。


「ジョン」


「どうしました」


「マヤの言ってることは、正しいよ」


「そうですね」


「さすがは医者の娘、貴族家の娘だ。あたまがいいんだ、うまれつき」


「たしかに」


 そとから強い風が入ってきた。窓枠が、がたがた音をたてて揺れる。この屋敷には、カーテンというものはない。


「マヤは、僕を心配してくれて、あんなことを言っていたんだ」


「はい」


「僕の行き先は、陛下もしくは枢機卿の書記官といったところだろう。まあ、どっか田舎の連隊に放り込まれる可能性もあるけれど。どれにせよ、いまの僕にとっては苦痛でしかないところだ。僕の相手をするやつらにとってもね」


「しかし、それらはみな、だれもがうらやむ役職だと思いますよ」


「ほかの人がかわってくれるのであれば売官するよ。とびっきりの安値でね。きみがやるかい?」


「遠慮しておきます。僕に務まるとは思えません。それに、若のお側にいれるほうが楽しいですから」


 と言って、ジョンは僕から視線をそらし、窓のそとを見た。


「君にできないのなら、僕にもできないよ。正直、君のほうが向いているとマヤは言ってた」


「そうは思いませんが」


 こつん、こつん。


 ちいさな音と、虫の羽音がした。むこうの閉じられた窓で、一匹のアシナガバチが、白ガラスの光に向かってはぶつかって、向かってはぶつかってを繰り返している。


「僕に人との折衝は難しい。マヤは、僕は変わることができるとも言ってくれたけど、そう、宮廷内における地獄の人間関係性のなかで経験を積めば変化していくのだと言ってた」


 小さなつむじ風をこさえて閉じこめてやろうとした。が、やめた。


「オットー。僕はこの二年間、旦那様のあとについてさまざまな客人や患者の方と接し、また診断の手伝いなどをしてまいりましたが、そのときの経験でいわせてもらうのであれば」


 土の魔法で窓をひとつ開ける。アシナガバチは出て行った。近くの窓から、ちいさな黄色い虫が飛んでいくのが見えて、すぐに見えなくなった。


「ジョン、人は変わったりはしないんだ。本人を含むだれかが変えようとしても。変わったように見えるひとでも、そのひとの心うちは変わっていない。我慢しているだけだ。そういうひとが、ときどき心身を崩して、父さんのもとにやって来る。父さんは、医者にできることの最良は患者を支えてやることだと言っていた。魔法はそのために使うものであるともね。ようするにだ、僕の側には君がいなくちゃならない」


 従者ジョンは、一瞬目を大きく開いて、またもどす。右手を胸に当て、一礼すると


「お任せを、若」


 とだけ言った。


 顔が熱くなるのを感じる。外の空気にあたりたい。


 窓枠に手をついて外を見る。


 まったく、よせばいいのに。


 庭には大勢、百人近い人々が集まっていた。


 このままここから飛び降りてやろうと思ったけど、着地に関するわずかな失敗の可能性とケガしたときの痛みを想像して、そうはしないことを決めた。


「さあジョン! 序幕は終わりだ! 行こう!」


「イェス、マイ・マスター」


 ジョンは流暢なBBCブリタニッシュで答えた。


 僕らは歩き出した。


 廊下を通りぬけ、曲がってらせん式階段をおりると、


「来たね。じゃ、行こっか」


「はい、父上」


 一階で父さんと家族、地位の高い使用人らが出迎えてくれた。


 正装の父さんを久しぶりに見た。スタイリッシュなプールポワンを着ている。ふだんの父さんは農民同然の着こなしで畑仕事をしている。ひとと会うときや患者を診るときは、それにちいさなマントを羽織るだけである。


 僕も今日は正装である。動きづらくて仕方ない。明日も正装だ。辛いです。


「オットー兄様! 好きです、愛してます。わたしを置いて行かないでください」


 なんて言ってマヤは笑っている。


「さようなら、愛しのマリア。君が今日、屋敷のなかで箒に乗って、僕とジョンに暴行を働いたという事実は決して忘れないよ」


 と返した。


「あら、なんとはしたないことでしょう。マヤ、あとでお話がありますからね」


 って母さんは言った。エリザベス1世の肖像画みたいな格好。


「わたしそんなことしてない!」


 ぷぷぷ、こうして正義は実証されるのである。この世界はうまくできているのだ。マヤの動揺と、ジョンの笑いをこらえる姿を感じとることができるぞ。


 玄関を出た。まぶしくて、目が痛い。


「おお! 若坊っちゃん!」


 という大きな声が聞こえた。群衆より頭ふたつ高く、常人の倍の体格を持つ男だった。ドラゴン殺しの伝説の傭兵、ムッシュ・エルキュールである。


「おお、坊ちゃまがでてこられたぞ!」


「やっとでてきよった」


 情報が人々のあいだで共有されていく。


「やあ、おっさん! 今日はすまんね!」


 父が負けないくらいの声で言った。


「いいのいいの! 旦那! 若坊っちゃんの晴れの日だ、あとで一杯やろうやぁ!」


 エルキュール氏の声は大きい。それにしても、爵位を持たぬ人間のファーストネームのまえにムッシュをつけるとは。庶民の語彙力はいったいどうなっているのか、なげかわしい。


「それは残念だ! 俺には仕事がある! もし、俺が戻るまでに蜂蜜酒とワインがのこってなかったら、今年は増税だ!」


 父も恐ろしいことを言う。


「どんときやがれ! ハッハッハ!」


「わしらも、増税なんてこわくないぞ! 旦那様ぁ!」


 そうか、それなら、どんどん飲むがよかろう。しかし、この連中は、ひとの不憫をだしにして酒を飲むつもりらしい。明日、僕が首をはねられたらどうするつもりなのだろうか? いや、酒を飲むつもりだろう。


「若、なんとなく大丈夫な気がしてきませんか?」


 と耳打ちする側近がいる。


「ジョン、麦を植えるときはいつだって楽しい」


 じぶんの口から奇妙な言葉がでてきた。なるほど、さいしょは良くても、あとでなにが待っているはわからないという意味の慣用句らしい。


 昨日の起床以来、単に座っているだけで、いままで知りえなかったことを知ることができる。他人の記憶をのぞけるなんて最高に楽しいと思っていたけど、いざやってみると、それはただの僕の記憶でしかなかった。


「兄様、モーリス・グラン来てないね」


 妹に言われて、あたりを見まわしたけど、エルキュールと同じような背格好の男は、集団のうちにはいないようだった。


「モーリスなら、道中会えるでしょう」


 そう、ジョンは言った。


 群衆の間、正門にいたる小道を進んでいくと、両側の庭の木々が僕らから陽光を隠してしまう。うす暗い小さな森のなかで、光の一部は、木漏れ日となって下にあるものにそそがれる。


 うつくしい緑の噴水がみえた。噴水のあたりだけ明るく感じられる。うえで生い茂る枝葉の幕が、ここだけうすくなるように設計されているためである。母さんの考えであり、僕の好みでもある。


 脇には、これから僕らを王都ルーテティアまで乗せていく馬車がとめられていた。大きな馬が四頭つながれている。馬がこちらを向いているのは、僕らが馬車に乗り込んだあと、噴水のまわりを一周してから外に出ていくという演出をするためだろう。


 人々は噴水の周囲にも大勢集まっている。モーリスはここにもいない。まあ、彼がいつもどおりであれば、会えるだろうけど。


 馬車付近には領内の偉い人たちがいた。キアラもいる。彼女は僕やジョンと一緒にルーテティアまで行くことにきまった。


「しかし、盛大な見送りですねぇ」


 ジョンがつぶやく。


「まったくだよ」


 おおげさすぎる。もしかして、父さんと姫陛下のあいだには、すでに密約が結ばれているのではないだろうか。僕を、よっぽどとんでもない役職に就けるというような。


 馬車の横にはムッシュ・エルキュールの息子ペーター・クレマンがいた。背は高いが父親ほどではなく、痩身である。彼が馬車を操縦する御者らしい。


 馬車に乗り込むまえに、まず、地元有力者の激励を受けることになるようだ。屋敷に近いアンテルヴァル村の長、グリニョンさんの挨拶を受けた。


「若旦那様、どうかお体に気をつけて。人生、何事も勉強ですから、いろいろあっても、めげずにがんばって、また戻ってこられる日を、わしら楽しみに待っておりますよ」


「はい、健康にきづかい、しっかり学んで、胸を張って戻ってこれるように頑張ります」


 村長というからには、曽祖父のような地方政治家タイプであると思ったが、話してみるとふつうのおじいちゃんだった。勉強か、また学生をやれるならそれがいちばんだけど。


「オットー・フリードリヒよ、まずはオルガンのまえに座りなさい。さすれば、譜面台のうえに置かれた楽譜を読むことができます。そのとおりにオルガンを演奏すれば、あなただけのうつくしい調べを、皆に聴いてもらえることでしょう」


 そう説法するマテウス神父。ヴィーダーベレーブング子爵家の先々代を知るひと。


「はい、神父様。主の御意思に従って、なすべきことをまっとうします」


 「オルガンのまえ」は、僕を裸にして椅子に縛りつけて鞭で殴ったあの北欧女がいってたのと同じ言葉だね。つまり、彼女はこの空の下のどこかにいるのだろう。


 もしかして、そう思って集まった人々の顔を見まわしてみたけれど、それらしいのはいなかった。


 しかし、日本と比較して乱暴な女性のなんと多いことか。単純に暴力的な時代であるだけかもしれないが。


「若様!」


 なつかしい四角い顔と白髪頭のひとがいる。


「お久しぶりです、おじさん」


 僕は、ジョンの父、ウィリアムおじさんのほうへ寄って行って、抱擁を交わした。たっぷりと生えた白いあご髭のやわらかさと、分厚い、ごつごつとした手。いつもより汗くさくないのは、沐浴してからここに来たためだろう。となりには、彼の妻、マーセラおばさんもいる。


「おばさんも、元気にしてました?」


「ええ、もう。わたしはいつだって元気ですよ」


 といって、おばさんとも抱擁する。両頬にキスをし合った。すでに六十歳ちかいそうだけど、いまでもきれいでスレンダーな人だ。ジョンの外見はどちらかというとおばさん似で、性格はどちらにも似ていない。


「ルーテティアはいつぶりでしたっけ?」


 と、おばさんに聞かれた。


「二、三年だったと思います」


「それじゃあ、そろそろむこうが恋しくなるころですね」


「うーん、そうかもしれません」


 はたして。人の数だけ多いが、それに見合った文化水準のものがあるかというと微妙な気持ちになった。帝都東京のように本屋が多いわけでもなく、美術館や博物館の類はない。


「はははっ、若様にもむこうに、よき方のひとりふたりいるのでは?」


 なんて、おじさんにからかわれる。


「ジョンなら十、二十といるかもしれませんが、僕は……」


 殿下。


「そういえば、いまルーテティアでは王宮の前庭を造園し直していると聞いてます。なんでも、市民にも広く公開しているとか。若様も時間があれば、ゆっくり見学してはどうですか」


「なるほど。じゃあ時間がなくてもそうします」


 一般公開とは大胆なことをする。植木の陰で排泄したり、地面につばを吐いたり、園内で暴力犯罪に手を染める者もでるだろうに。それとも、入場料を取って財政負担を軽減するつもりだろうか? ま、そうしたほうがいいけれど。


 横を見ると、ジョンがマテウス神父のありがたいお言葉に耐えている最中だった。俗世に染まりきったような若者は、さぞ説教のしがいがあるにちがいない。


「それじゃあ、おじさん、おばさん」


「ええ、気をつけていってらっしゃい、若様」


 もう一度、おばさんと抱擁する。


「若様、旅の御無事をお祈りしています」


 おじさんとも。


「はい、ありがとうございます。それと、ジョンのことは僕が必ず守ります。ご心配のなきよう」


「いえいえ、若様」


 そう言っておばさんははにかんだ。きれいなひとだと思う。


「どうか、あいつをこきつかってやってください。どうも、最近、調子にのってきてますから」


 おじさんは豊かな白いあご鬚をなでながらそう言った。


「はい、もちろん!」


 なごりおしかった。


 そうして、僕は前に進んだ。


 馬車を目前にして、家族と使用人たちに囲まれた。


「ところで坊っちゃん、集まってくれた、皆全員に挨拶などしていかれますか?」


 使用人たちを率いるペリーヌおばさんは、暗に演説しろという。おそるべき提案。


「しないです」


 断る。


「兄様、薄情者」


 そうマヤが言ったけれど、


「やだ」


 いやなものはいやなのだ。


「オットー、すこしくらい、いいじゃありませんか」


 と、母さんは言う。


「しかし、母上……」


「すこしでいいのです、やりなさい」


 断りきれそうになかった。


 ジョンをさがすと、彼はおじさん、おばさんと話しこんでいるようだった。ときどき、あたまをなでられたり、抱擁したりしている。


「オットー」


 母さんに催促される。父さんは、側近のギュンターとなにやら相談していた。


 ジョンがおじさんとおばさんと別れ、こっちに向かってくるのを見る。


 僕は、飛行魔法を行使して、馬車の天井より高く飛んで、空中で静止した。


 みんなの視線が僕に集まっていた。話し声が消えていく。じぶんの心臓の音が聞こえてくる。そりゃあ、じぶんの音だろう。一度まわって全員に僕の顔を見せる。参った、これは、参った。


「ああ……みなさん、僕の…僕のためにお集まりいただいたこと、誠にありがとうございます。ええ、僕は元気です。僕はこれから旅立ちます。べつに東に向かう列車に乗っていくわけではありませんが……とにかく旅立ちます」


 空中で回れ右して反対側を向く。


「なんとも、僕の学問はきわめて広く、深く、資本主義社会の成立および発展史についてその比較構造をふまえて語ることのできるのは国中さがしたって僕だけでしょうし、また魔法についても当代随一の天才で魔法元素の本質をとおして目に見えない世界の構築に関する論説を発表できる手前まではきておりますが……いや、ちがう。そうじゃないんだ」


 僕はからだをうつぶせに倒して視線をしたに向ける。そのまま地面と平行に、おへそを中心点にしてゆっくりとまわっていく。


「僕がここに立っていられるのは、もっとも、いまは飛んでおりますが、とにかく皆さん全員の支えがあるからです」


 命綱などつけずに、自らの力で空中に浮いて地面を見る。はじめて見る光景だ。いや、はじめてではないか。ただ、こんなに人間の注目を集めて飛ぶのは経験にないはず。


「これからさき、どうなるかは、僕は、“王の老魔女”みたいな預言者ではなく、“オルレアンの乙女”、ジャンヌ・ダルクのように神託を授かったわけでもないのでわかりはしませんが、ひとつ言えるのは、僕はどこへ行っても皆さんと心を同じくするということです。そして戻ってくるときには、今度は僕が皆さんを支えてあげられるような、そういう人間になって戻ってくるということです」


「僕が言いたいのは、そういうことです。以上、終わります」


 そう言ってから、僕は地面に降りた。降りて、うしろによろめいたところを、だれかが受け止めてくれた。


「おーう! 若旦那‼」


 というムッシュの大きな声が聞こえてきた。


 額の汗がひどい。ああ、もうすこし低く飛べばよかったのだ。そうだ、馬車の屋根のうえに足をのせればよかったのではないか。そうしたほうが、僕の顔が見やすかったろう。演説の内容もなんだあれは。いや、なんて言ったかよく覚えていないけど、とにかく、ろくなことを言ってなかった。


「よくやったよ、息子」


 すぐうしろから父さんの声がした。このとき、空から降りてきて倒れそうになった僕を受け止めてくれたのが父さんだとわかった。


「まあ、ずいぶんと汗をかきましたね。さあ、これで顔を」


 母さんが僕に、やわらかい木綿のハンカチーフを差し出してくれた。これを受け取って、汗を拭く。返そうとすると、


「もっていきなさい。いくつあっても、困ることはないでしょう」


 と、言ってくれた。周囲は、また騒がしくなっていた。


 妹はニヤニヤしながらこっちに近づくと


「お兄様、飛ぶなんてはしたない」


 わき腹をつついてくる。


「君に(なら)った」


 マヤの肩に軽くぶつかる。


「うえで止まってるとき、軸がぶれてた。縦にも横にも。もっと練習しなきゃね、教えてあげよっか」


 なんて言われた。


「また今度」


「今度なんてあるの?」


「あるよ」


「約束していい?」


「いい」


「うそついたら、なぐる」


「どうぞ」


 そう言ったら、彼女は僕の脇腹をボディーフックでなぐった。そこそこ、いたかった。


「坊っちゃん、坊っちゃん。いやぁ、よかったですよ、坊っちゃん」


 先の演説の仕掛人、ペリーヌおばさん使用人兼務役員が話しかけてくる。そして、


「さあさあ、こっち、こっちですよ!」


 と、僕の腕を馬車と逆のほうへ引っぱっていく。


「さあ、ルミアおばあちゃん」


 最年長の使用人のまえに連れていかれた。ルミアばあさんは、布をかぶせてふたをした籠を手にもっている。


「おや、オットー坊っちゃん。これねぇ、干しリンゴを包んで焼いたもんなんだけど、持ってくかい?」


 アップルパイ!


「ありがとう! ルミアばあちゃん!」


 僕はその籠を受け取る。なかをのぞくと、まあるい、あまそうなパイだった。ジョンのほうを見た。目があって、ウィンクしてきたので、ウィンクして返した。


「あーっ! 兄様ずるーい!」


 思わず、僕はマヤからアップルパイを遠ざける。


「ほれほれ、マヤにもあとで焼いてあげるからね。焼きたての、干しリンゴの包み焼き」


 と、ばあさんが言うと、


「やったぜ!」


 なんて野卑な言葉づかいをするので、


「マヤ、そのはしたない話し方をなおしなさい」


 って母さんに叱られる。


「はーい」


 そう言ってマヤは僕の陰に隠れると、


「兄様とジョン、子どもみたい」


 このようにささやいた。なるほど、ウィンクしあった僕らを見ていたのだろうけど、君に言われたくは……そうか、この女は、わざと甘えてみせることで、焼きたてパイをゲットしたのか。さて、どうしたものだろう、この屋敷に残った干しリンゴを、すべて漬けニシンにかえてしまう方法を探さなくては。


「ありがとう、ルミアばあちゃん。だいじにたべるよ。」


 僕はもう一度お礼を述べた。


「わたしゃ、もうお迎えが近いから、これで坊っちゃんに会えるのも最後かもしれんけど、がんばってくるんだよ。坊っちゃんは、わたしが見てきた魔法使いのなかでもいちばんだからね。きっと、良い魔法使いになれるよぉ」


「まさか、お迎えだなんて。もし僕が戻ったときに、ばあちゃんがあっちに行ってたら、天国から引きずり降ろしてまたパイを焼いてもらうから」


「あっはっは。そりゃあ、坊っちゃん勘弁しておくれ、せっかくの天国なんだから」


「そうはいかないよ」


 なんとなく、しばらくその機会はないような気がした。


 パイの入った籠をジョンに渡し、また馬車のほうへ戻る。父がいる。そのうしろにはギュンターがいて、


「若君、僭越ながらお渡ししたいものがございます」


 そう彼に呼び止められた。一見、細身だけど服の下はがっしりした体格で、エルキュール氏に匹敵するほど長身。さて、高価な剣でもくれるのかな?


「こちらになります、お手を」


 こう言われて差し出すと、硬化したセルロースの感触がした。手のなかをみると、ちいさな木製の豚の像がいる。将棋の王将駒を三枚重ねしたくらいのサイズ。


「古い魔法をかけた、幸運を呼ぶ伝統のお守りです」


 といった。


 思い出した、ドイツ人の文化だ。ヴィーダーベレーブング家が、神聖帝国領域内にルーツを持つ家ということを想起させる。ギュンターは古い魔法と言ったが、とくになにかあるわけでない。ふつうの木像である。


「ありがとう、ギュンター。大事にする」


 僕の着ている服にはポケットがなかった。いますぐ、木豚をジョンにわたしてしまうのもどうかと思ったのでこのまま持っていることにする。


「それでは、若君の王都ルーテティアまでの道中の無事をお祈りしてます」


 ギュンターは右手を胸に当て、お辞儀する。


 とにかく、だれかに服を作らせよう。動きやすい背広やシャツ、コートなどをだ。マヤが着ているやつをアレンジしよう。プールポワンなんて、ウェストコートの先祖みたいなもので、しかもより堅い。現代人にはつらい衣装だ。半ズボンとタイツと、ブーツもなんかあれだね。質感のよい長ズボン、靴下、牛革の靴にかえてやる。


 そういえば、ギュンターは父さん御用達の仕立屋とつながりがあった。


「ギュンター、ルーテティアでの服のことだけど、よい仕立屋を知らないか?」


「それでしたら、すでにジョンにすべて申し伝えてあります。王都に到着されましたら、彼に命じるといいでしょう」


 なるほど、手際がいい。


「わかった。ありがとう」


 夏がくるまえにそろえなくては、と思ったところで、いまが春の後半であることに気づく。


 しかし、このひとは父さんと同世代のくせに白髪すら一本もない。くわえて、この国の人間にしてはめずらしく鼻の下以外にはひげを生やしておらず、肩まで伸ばした茶色い髪の毛の先は、ふわっと丸くなっている。


 ギュンターの叙爵が近いというのは、僕がまえに宮中にいたときからの評判だった。どういう理由かは知らないけど、彼は一度、それを断っている。今度は受けるだろう。当家とおなじ、子爵になるのだといわれている。


 近年の王国は、新しい貴族家の承認や、爵位の昇進を渋っている節がある。にもかかわらず、叙爵の話が持ちあがっていたので、噂が広まるのも早かった。


 幼いころ、ギュンターに簡単な魔法と剣の手ほどきを受けた。むかしとかわらないこの屈強な魔法剣士も、もし叙爵となれば、いつかはここを去るのだ。


 日本にいても、ガリアでも、時間の性質は変わらないらしい。エネルギーというものは、高いところから、より低いところに移動することによって安定する。時間もそうであるというのが自説だ。ぜんぶのことは、まさしく落ちている最中なのだ。


 『Take Me Home, Country Roads』が聴きたくなった。John Denverのも、Olivia Newton-Johnのも、そして、本名陽子のも。


 僕は父さんの前まで進んでいった。片膝をつく。


「父上」


「うん」


「行って参ります」


「うん、気をつけて」


 あっさりしている。らしいといえばらしい。僕はひとりで立ちあがった。


「まあ、神父さんじゃないけどさ、まずは、オルガンのまえに座る、だからね」


「はい、父さん」


 お気楽である。やっぱり、結果を知っているのではないか。八百長とか審判買収の香りがする。


「とりあえずさ、君が陛下のまえでとんでもない粗相をしないかぎりは、首をはねられたりしないから。あと、どっかの辺境で兵隊をやるなんてこともないからね、安心していいよ」


 裏があるのは確定だ。きたない、おとなたちの世界。こどもたちの世界だって、きたないけれど。


「わかりました。では、どれぐらいの粗相までなら大丈夫なのか、実験したいと思います」


「うん、よろしく頼むね」


 むかし、部屋の壁を爆破しても怒られるだけで済んだから、次は相当ひどいことをしなくてはならない。


「オットー」


 すぐ横から、母さんの声が聞こえた。


「はい、母上」


 返事をするやいなや、いきなり、母さんは僕のことを抱きしめてくれた。抱擁というより、抱きしめる、であった。


 母のにおい。なるほど、つまり、ようするに、僕はこのひとの子なのだ。


 そんな体勢のまま、


「オットー、あなたは、ここにいる皆を背負ってルーテティアに赴くのです。自らの振舞いについて考えるとき、そのことを心にとどめておくようにしなさい」


 母の声はやさしかった。


「はい、母上」


 とだけ返した。


 このあと、母さんは僕のほっぺた両方にキスしてくれた。僕も彼女の両頬にくちづけした。


 日本人にはこういった習慣がない。ふしぎだ、中世が暗黒すぎたせいかな。


「兄様、先行くね!」


 唐突に妹が言う。と同時に箒にまたがったマヤは、門のほうへ飛び去っていく。はやい、はやい。なるほど、飛行魔法に関してはかなわないと思う。


「まったく、あの子は」


 ため息をついて、母さんはそう言った。


 このあたりで、「浮く」より上等なことができるのは僕とマヤだけ。あいつに飛び方を教えたのは僕だったが、あっという間に追い抜かれた。腰などを痛めやすい魔法なのだけど、箒にまたがると長いこと飛んでいられるというのは彼女の発見だ。


「オットー、マヤが」


「マヤはうちの領内から出るまえに追い返すよ、母さん」


「ええ、そうしてちょうだい」


 短絡的なやつめ。僕とジョンに対する暴力の件で母さんに説教されるのが嫌で逃げたんだろうけど、こんなことしても罪が重くなるだけだぞ。


「ところでオットー、あなたの荷物はあれだけでよいのですか? すくなすぎるように思えますが」


 馬車の屋根に、取っ手のないトランクのようなものが数個積まれている。うち、ひとつは僕ので、ジョンのはふたつ。キアラは大きいのが三つある。


「ええ、数日分の着替えだけでじゅうぶんです」


「しかし、しばらくはむこうで暮らすのですよ」


 母さんもこの八百長に絡んでいるのかな。


「そうなれば、そのときに取りにきます」


「そうですか」


 母さんは表情を変えずに言った。


 不意に、噴水のことがあたまにうかんだ。出発前に見ておきたいと思った。


 僕は家族のあいだから離れる。


 馬車のうしろから回り込んだ。緑に覆われた造形物が視界に入った。むかしよりちいさくなったように見えるのは月並みな感情だろうか。


 うえに載せられた水盆の苔。真司の庭園趣味から、種類はタマゴケとかミズゴケだとわかる。地下から登ってきた水は、盆の真ん中でちいさな水面の盛りあがりをつくり、やがて、溢れ出た水が苔の塊のあいだを流れて、赤レンガと花壇に囲まれた基底部へ、ゆっくりと落ちていく。下では、スミレやカタバミ、タンポポの花と綿毛が咲いていた。レンガの赤は、含まれる酸化鉄の赤である。ほかに、葉緑体、花びらの黄色、紫、ピンクなどの色素で華麗に装飾された円周に溜められた水は、底にある排水溝に吸い出される。そして、庭の林を通る水路を下って、屋敷地のそとへ行ってしまう。


「オットー、きみは本当にこの噴水が好きだね」


 父さんの声。振り返ってみれば、母さんと肩を寄せあってうしろに立っていた。


「これは、僕が作りたいと言ったんだ。ちょうど、赤ん坊のきみがうちに来たときだった。シュゾン…母さんと、ウィリアムが手伝ってくれた」


 どうしてか、父は僕たちのまえで母のことを名前で呼ぶのをためらう癖があった。


「ちっちゃいころのオットーは、気がつくとこの庭でポツンと座っていて、ずっと、何時間もじっとして、虫とかを観察してたよ。日よけのための大きな帽子をかぶせても、全然気づかないで見ていたね」


 似た話は、お母さんからも聞いたことがある。真夏でも庭の真ん中でアリの巣ばかり見ているものだから、最後はビデオカメラの望遠機能を使って家のなかから観察させるようにしたと。


「そうでしたっけ」


「あれ、おぼえてないの?」


「いや、おぼえてます」


「そうでしょ」


 なんというか、おかしな感覚だ。


「さて、気が済んだかね?」


「はい、父さん」


 もう一度、噴水のほうを見た。


「そっか、それならいいんだよ」


 やはり、むかしよりも噴水はちいさくなったように思われた。


 今度は馬車に乗るために回り込む。馬車の扉のまえには、キアラとペーター・クレマンがいた。


 僕が近づくと、ペーターは馬車の扉をあけた。乗り込もうとすると、


「むかし、フィレンツェに空飛ぶ演説者がいましたが、さきほどの坊ちゃまはその野郎とよく似てましたね」


 キアラの、丁寧で、ちょっと乱暴なしゃべりかた。


「反証強度の低い発言だ。会ったことのない人間と、どうして似ているとわかる?」


「会ったことがなくても、さっきの坊ちゃまを見れば、だれだって似ていると言うでしょう」


 そいつのことは知っている。いまから百年くらい前に、苦境のフィレンツェ市に現れた宗教家だ。演説の力で大衆を扇動し、指導者に祭り上げられた挙句、フィレンツェをさらなる窮地に追いこんだ人物。名前は失念したが、そいつが空を飛んだことは有名で、飛行魔法と演説の相性の良さを証明した。そういえば、マキャヴェリやチェーザレ・ボルジアと同時代人に、それに近いやつがいたな。やはり、こちらも名前を失念しているけど。サで始まる人物名だったか。


「では、坊ちゃま。お手を…」


 ロマネスクの使用人が手のひらを差し出す。いやな文化だ。僕は、そのうえに自分の手をのせた。


 彼女によって形式的に体重を支えられ、僕は馬車に乗る。車内は若干、汗くさい。控えめな剣道場といったところか。


 ひとつ、よい悪戯を思いついた。


 僕はキアラの手をつかみ、その手のひらを返して、先とは逆に僕の手のひらのうえに彼女の手がのっている状態にする。そして、この女使用人に魔法をかけて体重を軽くし、からだを浮かせながら腕の力で引っ張って、馬車のなかに招き入れた。


「きゃっ」


 と、キアラはわずかに悲鳴を上げた。


「ようこそ、マドモアゼル」


 僕が言った。


「さわらないで、ムッシュ」


 って言ったあと、キアラは麻でできたハンカチのようなものを取り出して、これでごしごし手を拭く。うん、楽しくなりそうだ。


「キアラ、はい、これね」


 背の高い女使用人のベルが、車内のキアラに直方体の籠ケースを渡す。そして、


「お待たせしました。若、忘れ物などございませんか」


 笑いながらジョンが入ってくる。キアラが奧に詰め、僕のまえにはジョンが座った。


「忘れ物はない――」


 そう言ったあとに、またひとつ、思いついたことがあった。


「父さん!」


「ん? なに?」


「むこうの畑の真っ赤な毒リンゴだけど、」


 毒リンゴとはトマトのことである。理由は知らないけど、そう呼ぶことが多かった。ああ、そうか、鉛のせいか。


「肥料はやらず、痩せた土で育てるべきだ。大きくなってからは、水もできるだけやらずにね」


「なんで?」


 と聞かれたので、


「新大陸の原産地では、乾いた石ころだらけの山のうえに生えていた植物らしい。だから、育てるならそれに近づけるべきだ」


 と答えた。


「なにそれ? 信じられない」


 父さんは渋る。


「今年の毒リンゴの半分はこの方法で育てて、どっちが良いのか確かめなくてはならない」


 僕がそう言うと、


「まあ、来年、気が向いたらね」


 どうあってもやる気はないらしいが、言質はとった。


「じゃあ、来年には新しいやり方でやっといてね」


「気が向いたらね……」


 いやな顔をして父さんは言った。


 このことは某国民的料理漫画で仕入れた知識だけど、はたして本当にこんなやり方でトマトが育つのか、真偽のほどは定かでない。けれど、父さんの畑仕事は実験的な意味合いが強いのだから、やる義務があると思う。いつだって、科学の発展に犠牲はつきものなのだ。


「よろしいですか、若?」


 ジョンに尋ねられる。


「よろしいよ、ジョン」


 こう答えると、彼はペーターに合図をし、馬車の扉がしめられた。窓の透明度は屋敷のよりも高い。とりあえず、景色を楽しむことはできるらしい。


 ペチッ、という音が聞こえてきて、僕のからだはすこしうしろに引かれる。馬車が動き始めたのだ。


 馬車はかわいらしい噴水のまわりをまわる。やっぱり、もうちょっとだけ見ておきたい。


 まわり終えると、小道を正門に向けて進んでいく。うしろで、集まってくれた人々の歓声があがっていた。


 庭の植木林をぬけると馬車のなかも明るくなって、そのまま、僕たちは子爵家屋敷の門を出た。

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