表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異邦人と魔法の旅  作者: 中森 壮
3/4

No.3 記念すべき旅立ち b

ねむたい。僕は毛布にくるまって横になった。


 なんてったって、お貴族様のお坊っちゃんなんだからね。まだしばらく寝ていてもかまわないだろう。ノブレス・オブリージュとか、そんな言葉はこの国にはない。


 落ちていた書物をすべて本棚に片づけると部屋はうすら寒い感じがして落ち着かない。


 僕の、つまりオットー・フリードリヒの記憶によると、家族構成は父と母、兄に妹がいて、ヴィーダーベレーブング子爵家領にある当屋敷にはジョンやそのほかの使用人がいる。


 最近、出歩いていないから忘れかけているけど、この子爵家領は王都ルーテティアから徒歩六~九時間の距離になる。東京的にはどのあたりだろうか? 吉祥寺? 調布? たまプラーザ?


 夢をみたことを思い出す。


 起床寸前の夢は、妹の真理とベッド・イン・メイク・ラブしかけて終わった。


 そのまえに、もうひとつ、なにか重大なことがあった気がする。


「あの女はたしか「世界を救え」と言っていた。お前は剣と魔法のファンタジックワールドで、貴族のボンボンのオットー・フリードリヒとして生きろと。そいつの記憶はお前にやるよとも言った。女は僕を蹴ったり殴ったり鞭で打ったりして暴行し、さらに怪しげなおぞましい術をかけてひどい目に遭わせた。女の外見は北欧人で、ベルイマン監督の作品によく出てたグンネル・リンドブロムの、若いときに似てる気がした。そうだ、女は僕を素っ裸にしてたぶらかしたんだ!」


 自分のあたまのなかに他人の記憶があるとは変である。


 まるで、南出真司とオットー・フリードリヒ・フォン・ヴィーダーベレーブングが、ひとつの肉体に同時に存在しているようだ。意識もひとつに統合運用されている。これも魔法だろうか? 聞いたことがない魔法だ。


 そんな大手術があったのにもかかわらず、僕はいたって平常だった。オットーの記憶を引き出すのに、特別な苦労はいらない。


 僕は史上まれにみる大天才なので、魔法の技で並ぶ者など王国には片手ほどもいないし、学問についてもピカイチ。しかも幸運なことに、ちょっとまえに己の身の振り方に失敗し、いまは年単位でこの部屋に引きこもっていることについては、僕、南出真司との共通項であって、とてもしっくりくる。失敗については思い出したくもない。


 ベッドから起き上がった。母さんが、僕の部屋の扉をあけようとしている気がしたからだ。


 衣類をさがしてみる。


 机のうえに目をやる。正方形の羊皮紙にあまりシンプルとはいえない幾何学がかきこまれていた。丸かいて星かいて丸かいて三角かいて星かいて…………この部屋とおなじで散らかしっぱなしだね。


 これが幾何学なら、まったく美しくない。経済学部卒の非才の身でもそのくらいわかる。ユークリッド氏が見たら、僕を正二十面体の角で殴り殺そうとするだろう。


 そうだ! 結局できなかったんだ。いかにして熱魔法を燃焼魔法に昇華すればいいのか。この魔法陣ではどうしてもできぬ。


 いや、この羊皮紙を媒体にして燃焼させる手もあるのだけれど、それでは魔法陣は五秒ほどで燃え尽きてしまう。


 今回の魔法陣は非常にパワーのある熱魔法を実施できるから、オーブンの薪のしたに直接もぐりこませれば一度はまともに使うことが可能だ。


 けれど、わざわざ複雑な魔法陣をかいて高価な羊皮紙を浪費しなくても、簡単な熱魔法で火おこしくらいできる。そもそもかまどやオーブンの種火をきらすことは基本的にないのだから、一から火をいれる機会はすくない。


 考えてみると、利便化されてオーブンの使用頻度があがったとしても、結論は最年長の使用人であるルミアばあさんが焼いたニシンのパイが晩餐にのぼる回数が増えるだけだ。味覚の野蛮人である父さんや慈愛ある母さんは喜ぶかもしれないが、文明人たる僕はあのパイはあまり好きではない。


 真夜中のアイデアはどこか客体の欠くところがある。昨晩の試みは、実用性に乏しかった。まあ、実用なんてものはクソくらえだけれども。


 じつは、キアラの料理に関する負担を軽減するためにこんなことをしていた。


 熱魔法とは、行使者の意図する空間を熱するという魔法である。


 熱したい空間の体積が大きいと難易度は高くなる。空間の範囲を厳密に管理することはより難しい。熱を強くすることはこれら二つより簡単だけれども、やはり強くすれば強くするほど困難さは増していく。


 オーブンやかまどのなかのような狭いところや、物と物が密着した状態での熱魔法は非常に繊細なコントロールが求められる。


 さらにおそろしいのは、熱魔法の効力範囲は壁や金属だってすり抜けてしまうことだ。


 つまり、どんな断熱性のある壁でも理不尽に熱をとおしてしまう。使用者の意志で壁の表から裏にまたがる範囲を設定すれば、壁の表、壁の中、壁の裏が、おおむね等しい力で熱される。


 こんな笑い話があった。


 さる高名な魔法使いがいた。傲慢だった彼は、農民たちから強引なやり方で肉と野菜をせしめて家に帰ると、こいつを鍋に投げ込み、さらに秘密の薬草を入れ、鍋底を火魔法で温めて自分だけの魔法のスープをつくろうとした。魔法使いは、鍋に水を入れるため、水魔法を使って家の外の井戸から水を汲もうとする。ところが、目を離したすきに火魔法が鍋を突き抜けてしまう。せしめた食材と薬草に火がついてしまい、さらに、この火が家屋へと燃え広がっていった。魔法使いはあわてて消そうとしたが、薬草の力でさらに力強く燃え上がった火は、水魔法でもどうすることもできなかった。魔法使いはそれを見ていることしかできず、けっきょく、料理も家も消し炭になったそうだ。


 高名な魔法使いであるはずなのに、そいつの名前が伝わっていない、へんなむかし話だけれど、つまるところ、安易な魔法の使用を戒めるためのものなのだろう。


 また、どんな魔法でも長時間の行使がもっともつらい(だからみんな詠唱呪文や魔法陣で簡略化したがる)。


 こうした理由から、料理で魔法を使うのは賢明とはいえなかった。使用するにしても最初の火おこしくらいではなかろうか。


 けっきょく、台所仕事は楽ではないのだ。


 オーブンやかまどの燃料は薪や木炭、もしくは、高価だがより強い火力が得られる石炭が利用される。これらを用いた調理も火加減の調整が難しく、調理を担当する人間のほかに、火の調子を見張るひとを置かないと調子が悪い。


 当家では、かまどで火力の繊細な調整をできるのはキアラだけ。そして、洗練された技術とレシピを用いて華美なフルコースを用意できるのも、やはり彼女だけである。


 キアラはロマネスクのひとだ。フィレンツェから来た。


 おお! フィレンツェか。強欲な両替商どもの都市。千年以上、繊維産業で食べている。僕の知識ではそうだ。なんとまあ、僕の知識でもそうらしい。Strange, 奇妙な。


 うちのそのほかの使用人は王国の農家の出身で、田舎料理ならばいいものを作れるのだけれど、ロマネスクの秘術については仕様がない。火加減も農家風である。


 僕だって料理ぐらいする。


 家庭的な味噌汁ならば自分でも満足のいく味に仕上げられる。でも、料亭で出されたお吸い物を再現しようとすると、まったくどうやってもおいしくならない。


 ロマネスクの料理も料亭の味と同じだ。これまでに何杯のだし汁をシンクに捨ててきたことだろうか?


 一時期はだしを取ったあとの函館昆布ばかりかじっていた。使用済み昆布を千切りにし、使用済みのかつお節&煮干しと一緒に醤油をつけて食べると美味である。


 つまり、この屋敷の調理場は人材不足だ。人数は足りているはずだけど、それなりの御馳走を用意しようとすると、キアラひとりに負担がのしかかる仕組みになっている。


 まえに遅いお昼ご飯を頼んだことがあった。キアラは、パン生地を焼かずにうすく延ばし、これを端から切って何本もの生地の糸をつくりだす。そして、これを鍋でゆでるという、なるほどつまりスパゲティを調理していた。


 機械式時計を流しに持ち込み、これとあわせて鍋とかまどの三つをチェックしながら、となりのかまどと平鍋で、「アグリオ」という、女の足裏のにおいを焦がしたような臭気(ジョン談)を放つ球根、すなわちニンニクをスライスして油で炒め、このかまどの火の調子も確認するという、複雑な作業をただ一つの肉体でこなす。


 湯のなかで、麺のかたさを木でできた細い丸棒で叩いてたしかめる。ゆであがれば麺をとなりの平鍋に入れる。麺を、炒めたアグリオと油に絡め、あらかじめ粉々にしておいた塩を加えてあとすこしだけ炒める。最後に、できたものを皿に盛りつけたら、僕のところへ()()()する。


 いまで言うペペロンチーノだけど、こんなシンプルな料理でも重労働だ。


 こういうときの彼女はとても怒りっぽくなり、結果として、僕に対する風当たりが強くなる。


 どれくらいかっていうと、キアラは僕の顔を見るたびに、そうとわかるように舌打ちをするようになったり、僕が考え事をしていて廊下を行ったり来たりしていると、「目障りですのでご自分のお部屋に戻られてはいかがですか」なんて言ってきたりする。


 なるほど、そういうことか。


 問題の根本を解消しようとしたのだ。彼女の仕事は大変で、ストレスのたまるものらしい。そこで僕は彼女のために、あるいは彼女にこれ以上嫌われないために、簡単調節機能のついた燃焼魔法陣を開発しようと一晩考え込んでいた。


 なんてこった。


 われながら無謀なことをしたものだ。あれだ、僕はアホだ。


 半永久的に使用できる燃焼魔法陣とは、簡単そうでまったく目途が立たないものの代表として、アリストテレス以来の課題となっている。


 これまで幾人もの賢人がバーニング・マジック・スクエア・チャレンジして、匙をなげ散らかした。


 フィレンツェといえば、リッカルド・アリギエーリなんかは、「この試みは、ルシファーと契約を結んで天国へと召され、主の御許で人助けをし、パンと塩だけを食べて生きるような偏屈だ」とか言って、チャレンジを三日であきらめたらしい。


 こんな大層な代物を、キアラの機嫌をとるために製作するというのは、動機としてかなり不純であったと言わざるをえない。


 もし製図に成功していたら大騒ぎだろう。十九~二十世紀まで僕が生きのびれば、アルフレッド・ノーベルおじさんがメダルを授与してくれたにちがいないのだから。


 ところで、僕の作った熱魔法陣のうえに直に鍋をおくと、最後は魔法陣か鍋のどちらかが使い物にならなくなると考えられる。


 羊皮紙自体が熱に弱いため、魔法陣の性質が変形してしまう恐れがある。また、密着した状態が熱魔法の効果を過大にし、鍋を熔かすところまでいくかもしれない。


 実証の過程でいくつもの鍋を破壊し、けっきょく、キアラに憎まれる未来がみえた。


 でも、魔法陣を発動したらどうなるのか気になるのである。やはり、どうにかして鍋を用意せねばならない。


 実験せねば、真理(しんり)は得られん。


 肝要なことはわかっている。熱魔法の効力のおよぶところに、なにか燃やせるものがあればいい。それも、永遠に燃え続けるものがあれば完成だ。そうでなくても、常に燃料を供給し続ければ燃焼魔法陣として成立する。


 いや、なにかおかしい。そうじゃないぞ。なんだこれは。胸がキュンキュンする。


 プロパンガスとか売ってないのだろうか?


 こんこん。


 ドアをノックする音がした。


「オットー、まだ寝ているのですか。起きてらっしゃい」


 部屋のまえで、母が僕を呼んでいる。


 なるほど、身だしなみを整えなければならない


 髪型をセットし、外着でも通用する服装で家族と接することは、ひきこもりニートを長く続けるためのコツである。言うまでもない。


 さて、鏡はどこだ。


「かがみよかがみ」


 と唱えると、ラケット型ミラーが鼻先に突っ込んできたので、白刃取りの要領で捕まえた。以前、ジョンが酒場の女からもらってきて、それを僕に捧げたものである。


 鏡を見た。僕の顔が映っている。当然だ。


 ――まて! はたして、どうしてだろうか。


 鏡に映っているのは僕の顔であった。ようするに、南出真司の顔だった。


 この鏡には何かの幻術がかけられているのだろうか? いやそんなわけない。


 僕はてっきり、オットーなのだと思っていた。


 ちっともオットー・フリードリヒらしくない、すこしむくんだ顔。鉄血宰相でも大王でも、ケヴィン・グロスクロイツでもない、そこらの普通の東アジア人だ。


 下を向くと、見知った体つきである。体脂肪率十五パーセント、骨格筋率三十八・九パーセントで公称身長百七十三センチメートル、体重六十三キログラム。


 これでよいのだろうか?


 父、母、兄、妹の顔を思い浮かべてみる。父、兄、妹はドイツ人寄りの顔立ちであり、母は地中海の血が混じったゲルマン系である。


 父ベルンハルト・フォン・ヴィーダーベレーブングのこざっぱりした七三分けは、周りの大人と比べておしゃれでかっこよく、子ども心にうれしかったのをおぼえている。もっとも、最近はすこし太ってきて、髪も減ったけど。独立した兄もいまは同じ髪型にしているはずだ。


 そうか、つまり、これでよいわけがなかった。


 ひきこもりの息子の部屋に、見知らぬ風貌の男がひとりいる。しかもそいつはタタール人だ。


 ん?


 タタールと言ったのか僕は?


 “Tatar” はテュルク系民族の突厥がモンゴルにいた他部族のことをそう呼んだのが始まりだ。ロシアがモンゴルに征服 ”Tataro-Mongol yoke” されたあとは、ヨーロッパ人がモンゴロイドを総称してこの言葉を使ったと聞く。


 ラザノフだったろうか、江戸期に蝦夷地をおとずれたロシア人が、御公儀の役人のことを「強情なタタールの気風を持つ」というように記録している。


 日本人からしたら大陸の遊牧民族は遠い世界の存在で、身近なのは相撲取りくらいだ。すくなくとも、僕たちがタタールを自称することはない。


 僕は、いま自分のことをタタールと言った。なぜだ?


 考えられることはひとつオットーがモンゴロイドをそう呼ぶからだろうさらに言えばここの連中もモンゴロイドをタタールと呼ぶ可能性が高くすなわち僕はタタールとして扱われることになる加えて剣と魔法のル・モンド・ファンタジックとは現在の地球から七百光年離れた座標から光学観測した地球の像と近いものでありこれまであたまのなかにでてきた人間の姿は総じて欧州系で文字言語もインド・ヨーロッパ諸語であることからこの “Le monde” は中世ヨーロッパに位置するはずで待て待てなんだ1590という数字が浮かんできたその1590とはなんだまるで小田原が降伏しそうな数字だがついでに伊達藤次郎が死装束を着てそうな数字でもあるなるほどつまり今年は一五九〇年ということでとなると現在の地球からはせいぜい四百数十光年離れた座標から観測された像ということで中世ヨーロッパではなく近世=近代前期ヨーロッパに相当しオットー・フリードリヒがその期間の人物であるならば酸素のことを知らないから彼は燃焼魔法陣を製図できなくて当然なのであるからしておいどういうことだ過去だと過去に行く方法なんてこの宇宙には存在しないだから何光年も離れた場所から観測せねばならないのに僕は過去にいるだとどういうことだ意味が分からないそんなのってないよ助けておくれよ莉花そうだ君は僕の母になってく


 がちゃ。


ドアが開いた


「入りますよ」


 どうして母さんもジョンも扉を開けてからそう言うのだろうか。


「まあ」


 僕の記憶と寸分の違いもない女の人がそこにいた。


 そりゃあ驚くだろうさ。なんとナントの勅令(1598年)で息子の部屋に謎のモンゴ


「オットー! また服も着ないでうろついていたのですか、はしたない!」


「べ、べつにうろついてないし。ちょっと歩いただけだし。というかいきなり入ってこないでよ母さん」


 あわてて毛布をあたまからかぶる。


 母の傍らにいたキアラが舌打ちをした。


「こら、キアラ。あなたもそんなはしたないこと、するものじゃありません」


 と母さんが叱ると、


「申し訳ありません、奥様」


 そういってすぐに自分の礼儀を正した。僕は、母さんがキアラに「あなたも」と言ったのが、どうしてかおもしろく、うれしかった。キアラはすこし目を伏せて無表情。


「ペリーヌ、それを」


「ハイハイ、奥様」


 母さんに呼ばれた使用人兼務役員のペリーヌおばさんは、木目がうつくしい洗い桶を母さんにわたす。


 桶には水が張られていて、水面の波が揺れる際にきらきらとかがやいている。母さんはこのちいさなタライを投げて僕によこした。


 水を入れた桶が放物線をかいて向かってくるのに、ふしぎと落ち着いていられる。


 僕が両方の手のひらを差し出すと、木桶は水一滴こぼすことなく両手におさまった。とても綺麗な魔法と思った。


 窓の光が桶のなかに集められて四方にひろがっていく。ちょっとだけ目が痛い。「この世界において、真の魔法は主語をわかりにくくする」という賢人のことばがあたまに浮かんだ。


「母さんこそはしたないよ」


「そんな格好をした殿方のいる部屋にわたしたちが入るわけにもいかないでしょう」


 と答えた。


 木製の洗面器を机の上に置いて、僕は自分の顔を洗う。はねた水が、開いた毛布のすきまから身体にかかって、冷たい。鳥肌、毛が逆立った。


「早く服を着て下に降りてらっしゃい、オットー。いま、陛下からの使いの方がみえてらしてね」


「ジャン・ルクレール・ド・リュゼ?」


「ええ、そうですよ」


「陛下の近臣かつ身軽で父さんの友だち。本来、使者はより低い身分の者が務めるのが通例だけど、隠居した父さんになにかを頼むのであれば単に気心の知れた人物をよこすのが適当であり、適当の一覧表には枢機卿および公爵ド・ラ・ファイエットのような極位極官もいればスコッチのマッカートニーみたいな飲んだくれもいる。そして、父さんは隠居の身の自由人なので使者を送っても丁重にお断りされるかもしれない。普通なら断られるたびに第二、第三の使者を送り、徐々に使者の身分を上げていって断られにくくするか、公職に就く兄さんを人質にとって要求をのませるところだけれど、陛下はせっかちな性分だし、でも強引な手は使いたがらない。ならば、しっかりとした身分があり、なおかつ枢機卿および公爵なんかとちがって重責のない人間、さらに押しの強い人物がよいとすれば、父さんの友人一覧だとうちと同じ子爵であるド・リュゼが適当中の適当ということになるのです」


 スコッチ? ウィスキーが飲めたらいいな。


 マッカートニー? ポールはファ○キン・ジュエリーに魂を売った。


「ええ、よくわかりました。でもね、オットー。陛下はあなたのお父上のことをそこまで偏屈者には思ってなさらなくてよ。そうです、もっと、より偏屈な者を呼ぶためにド・リュゼはここに参ったのです」


 くそくそくそ僕のことか!


「オットー、陛下とド・リュゼの用がある者というのはあなたのことです」


「Oops...ya' re kiddinee.」


「あら、ブリタニア語ですか? ジョンから教わったのですか? 勉強熱心なことですね」


 なぜだ⁉ 僕の首をはねるためか? それとも串刺しにするために?


「はぁ…」


 大きなため息をついたのはキアラである。


「キアラ、ため息は幸運を遠ざけますよ」


「はい、奥様」


 このやり取りは二度目だ。


「本当なのですかお母様⁉ 姫陛下が僕を? あの……僕、すっごくイヤです!」


「来る日が来たというだけです。……それともオットー、いつまでも屋根裏の部屋でそうしていられるとお思いですか?」


「Oui.」


「そうですか。では、ジョン! オットーのお着替えを手伝ってあげなさい!」


「はい! かしこまりました奥様」


 という声が廊下から聞こえると、すぐにジョンのやつが顔を出して、部屋に入ってきた。


「自分で着替えられるよ、母さん!」


 と僕が言うと、


「それじゃあ、お願いね」


 母さんはそう言って、背を向けて廊下を行ってしまう。


 去り際にペリーヌおばさんが


「坊っちゃん、頑張ってきてくださいよ。わたしらも期待して待ってますからね」


 なんて声を掛けてから、母さんたちのあとを追っていった。




「簡単に言うけどさあ」


 まいった。この局面は、ない。なんとか千日手で切り抜けられないものだろうか。


「ご気分はいかがですか? 若」


 そう言いつつ、ジョンは部屋のドアを閉めた。


「もちろん最悪の気分だよ、ジョン。なるほど、来る日が来たということだね。でもこれは、訪問者が “Taxman” だと思ってしぶしぶ門をあけたら、じつはそいつは “Bourreau” だったという感じだ」


 年貢の納めどき。真司としてもオットーとしても、ここまで憂鬱なのは、なかなかである。


「徴税官は死刑執行人ですか。そうかもしれませんが、でも、なんとかなると思いますよ、若」


 いつのまにか、ジョンは目の前に立っていた。その右足を僕の両足の間に入れてくる。臀部をソフトタッチでなでたあと、背中に腕をまわしてきた。ジョンのほうが若干背は高く、うえからきわめて端正な顔立ちでせまってくる。


 数多の女性と青少年をおとしてきたという技は、これまで以上に磨きがかかっていて、正直、あたまが痛い。


「君、どうしたって僕にはうれしくない結果になるよ」


 ちょっとした突風を思い描く。そして、ジョンの胸元をめがけて「ふーっ」と息を吹きかける。


 ヒュッと風を切った音がした。まき散らされる塵や紙と一緒にジョンの身体は宙に浮きあがった。ジョンは、ドアの方へ向けて二メートルほど飛んでいき、とくに見苦しいところもなく着地する。


「このままいけば、死か、宮仕えか、二つにひとつだよ。いや、どちらも同じようなものだからもはや選択肢はないも同然だね」


 そして僕は再び顔を洗った。三つ目の選択肢があればいいのに。


「でしたら、潔くするのが最も合理的なのではないですか」


 ジョンが手拭を差し出した。それを受け取って顔を拭いていると、ジョンはまた僕の臀部をなでだす。


「なるほどそうだろう。とにかく、これから行くのは、酒と賭け事と、無謬たる神に対するお祈りさえあれば良しの、反知性としか言いようのない連中が、珍妙な権威を振りかざして頭ごなしに怒鳴りつけてくる世界だ」


 ジョンの手を払いのけて、机のまえの椅子に座った。


「酒や賭博、それに無謬たる神にも知性は宿ると思いますが」


「じぶんの目が捉えている景色から離れて、ただ考えるに身を任せたとき、ようやくちいさな知性が宿るのだ、と僕は思う」


「つまりイデアについて思いをはせろということですか。そうであるならば、この身に早々、知性が宿ることはないでしょうね」


「僕にも宿らないよ。これから先、ずっと宿らないままである可能性は高い」


 お腹が空いた。納豆とみそラーメンが食べたい。ああ、なるほど、日本に帰らなきゃ。


「ところで、そこにある魔法陣は、若の言葉による知性とは遠く離れた存在のようですね」


 と言って、今度は背後から僕を抱き寄せようとしてくる。この男は、もしかして僕と性的行為をしたいのではなかろうか。


「君の行動もきわめて反知性といえるだろう。しかし、strange, 奇妙だ。不均衡な体格をしたタタール人の男の、いったいどこにそそるものがあるというんだ」


 おかしなことではあった。まったくそそらないのだ。


「若の口からその単語がでてくるとは思いませんでした。もちろんタタールの民の若い男性は魅力的ですよ」


 そうだ、ジョンは魅力的な男だ。僕の有機メモリーには、ここまで誘惑のある欧米系の男はいない。


「細身のからだつきに、ほどよいかたさと、しなやかさを持った筋肉がついていて、愛らしいブランの瞳は、まるでこの世界の純粋さに祝福されているかのようです。可憐な少女たちの持つ魅力よりもずっと深いところにある人間の本質を光で照らし、導いてくれる、それこそが、そそるのだと僕は思います。といっても、彼らのうちで知っているのは若だけなんですけれどね」


 ということは、僕はこれでいいらしい。東アジア人の外見をした自分、ドイツ系の家族、イギリスやイタリアから来たような使用人、フランス名の領民たち。


「これまで、君はみんなにそんなことを言ってきたのかい? ルイーズ、シルヴィ、アンヌ、パティ、フランソワーズ、ジャンヌ、アントワネット、それにカミーユ」


 いくつか、時代考証的に間違っていそうな名前があると思う。庶民の命名規則なんてそんなものだろうか?


「まさか、こんなことを言うのは君にだけ、ですよ。よくそんな名前おぼえていましたね。ひとの名をおぼえるのは苦手だって言ってませんでしたっけ」


 適当に言ってみただけである。それでもだいたい的中するのがすさまじい。


「酒場の女のなまえは商売用だからおぼえやすいし、それにカミーユは可愛かった」


 カミーユには非常にそそられたのを思い出した。あのとき、どうして横流ししてもらわなかったのか、後悔している。


「たしかに、むかしのカミーユは天使のようでしたね。あれくらいの少年は、ほかにはアントワーヌぐらいでしょうか?」


 オックスブリッジのどちらだったかは忘れたけど、いわゆる男性の両性愛者とは、「たんに性欲が強いだけ」という研究結果を報告している。


「アンテルセクショ・デュ・ノレストの両替商の丁稚の子だったっけ」


「はいそうです、若」


 このノレストは、その名が示すとおり、王都から北東にしばらく行ったところにある、街道と街道のクロスロードするところにできた街のことである。


「かれは悪魔だよ。もはや犯罪だった」


「あの色気はどんな女性にも出せないでしょうからね。とうとう、夜をともにすることはできませんでしたし」


 明るくふるまう、ひかえめな男の子という感じ。ときおりみせる、潤んだ上目遣いと、衣服のすきまからみえる白い素肌。それと、サラサラした黒茶色の髪。手先が器用で、珠枠式Abaque アバクの玉をはじいて計算しているときの憂いをおびた表情に、両足首の交差した、やわらかできめ細やかな薄桃色の裸足の指の動き。


「それで正解だったよ、ジョン。あれは、両替商が召喚した、ほんとうの魔物だったかもしれない」


「さて、どうだったのでしょうか」


 背後の男は僕を放すと、机の上にあった魔法陣のかかれた羊皮紙を手に取り、


「熱魔法のための紋様ですね。力は……とても強いようですけれど、すこし不格好にも思えますが」


 魔法陣を行使して、自由なほうの手をかざす。ジ・ジ・ジという振動音と、ちいさなパチパチという衝突音が熱魔法の作動を教えてくれる。


「危ないからよせ。それは地面と平行かつ平面で安定したところに敷いて使うものだ。不格好なのは、ようするに燃焼魔法陣をやろうとしていたんだ。」


 そう言われたジョンは、魔法陣に手をかざすのをやめ、行使を終えた。


 元の位置に羊皮紙を戻すと、


「燃焼魔法ですか?」


 ふふっ、と笑い、


「さて、そんなものは存在しないと熱弁をふるわれていたのは若だったような気がしますが」


 笑みを浮かべたまま、なんと失礼な使用人だろうか、尋ねてきた。


「僕は熱弁なんかふるってない。ただ事実を言っただけだよ」


 熱弁だなんて、記憶にない。いつだ? まあ、よく考えたら、僕はここにやってきて一日もたってないのだけれど。


「若がおっしゃっていたことはいまでもよく覚えていますよ。魔法というのは、任意に動かすことのできる性質を持った目に見えない砂粒のようなものを、魔法行使者が自らの意志で操ることによって発現する現象のことである。この砂粒のことを、古くは魔法元素と呼んだ。砂粒が目に見えないのは、我々の霊魂が目に見えないのと同じであると考えられ、また、我々が未だ知覚しえないこの世界の本質を追求するための手がかりになると推測されている。砂粒は、四大元素である“火”“風”“水”“土”それぞれに対応する四種類の砂粒が存在しているとされ、風には風の砂粒が、水には水の砂粒が対応している。このことは、魔法元素が魔法元素といわれるようになった所以(ゆえん)でもある。ただし、近年の研究の結果、これら四大元素による魔法はそれぞれのうちで系統の分離が進められている。とくに火魔法は、早くに分離した雷の魔法を別にするとして、熱魔法、燃焼魔法、光魔法という、三つの明確に区別すべき魔法系統に分かれた。故に、火魔法は最も先進した理論魔法学の分類系統としては消滅した。このうち、熱魔法という種類の魔法は、砂粒がお互いにぶつかったときに生じる火花か、あるいは摩擦によって熱がおこり、熱魔法として顕現していることがわかっている。しかし、燃焼魔法は、そのほかの大抵の魔法と違い、何もない空間で発生させることができない。燃焼魔法の行使とは、何か燃やすことのできるものを熱魔法によって熱して、火をつけているにすぎないのである。つまり、これは魔法の現象としては熱魔法に分類されるものであり、この発見は火魔法と燃焼魔法を完全な死滅へと追いやった。よって諸君らが自らの魔法を燃焼魔法と呼称することは、言い逃れのできないインチキであり詐欺魔法だということになる。ところで、すみませんが、若、なにか飲み物はございませんでしょうか?」


 なるほど。


「まさしくそのとおりだ、ジョン。その明快な魔法理論は僕にとって実証済みである」


「ただし、ひとつ訂正するところがあるとすれば、魔法の見えざる砂粒は、じつはこの世界にたった一種類しか存在せず、この唯一の砂粒の集合が世界のすべての魔法の原動力になっているのだ、というふうに、今では考えているけれどね。それと、僕はべつに熱弁なんてしてない」


 系統とか分類という言葉がでてきたが、「分類学の父」と呼ばれるスウェーデンのリンネは十八世紀の人物で、現在のこの世界から百年先の人物だ。


 なぜ、このル・モンドは現時点でこうも分類にこだわりがあるのか。


 いや、リンネのそれは、生物学関連の分類学だから、物理法則や魔法の場合の分類とは科学史がちがうのかもしれない。構造主義の予感がするね。それとも、単に別世界だからなのかな?


「いいえ、たしかに熱弁されていましたよ。若と僕が、十五のときでした」


 十五歳とは、三歳と五歳の最小公倍数、などというのは無意味な考察であった。一年後は十六歳と四歳と六歳。つまり、だからなんだというのだ。しかし、気になる。


「なるほど、当時の僕がソデリーニ先生に、この発見について説明したのは事実である。だけど、熱弁というほどのことではないだろう」


 ジョンは微笑みながら肩をすくめる。無礼な使用人。


「思えば、あのできごとが若の魔法学への最初の貢献でしたね」


「理論魔法学にだよ、ジョン、厳密には」


 僕としては、現段階で魔法学からすでに理論魔法学が分派していることに驚きを感じる。


 物理学などに、「理論」という冠がついたのはいつごろなのだろうか? おそらくは二十世紀初め、どんなに早くても十九世紀末の成立だと思うが。


「ソデリーニ先生のあの喜びようは忘れようがありません。年端もいかない若と喧嘩腰で口論したかと思えば、次の瞬間には舞い上がって “Eureka!!” と叫んでから部屋を飛び出して、王宮の廊下をスキップしていましたから」


 と、ジョンは笑いながら言った。僕も笑った。


「そうだった、あれは傑作だよ。大廊下でスキップするソデリーニ先生を見る王宮の連中の間抜け面ときたら」


 みんなそろって目を点にして、口は半開き。よだれがたれてきて、あわてて袖を使ってふいている女使用人もいた。


「ところで、あの王宮に戻るのだと考えれば、すこしは気が楽にはなりませんか、若?」


「うん、そういう時代もあった。あのころはみんな幼かったけれど、もはやそうではない。故に恐ろしいのだよ、ジョン」


 人間とは恐ろしい存在である。どうして恐ろしいのか、それを知るには、僕はまだ考えが足りない。


「恐ろしい、ですか。当時も、そのようなところではありましたが」


心当たりはいくらでもあった。


「ふだんそこにいたひとが急にいなくなる。陛下に参内した貴族の使用人がどうしてか地下牢にいる。数年に一度くらいのわりあいで誰かが窓から転落する」


 アンニュイな噂話のネタは尽きない。


「そういえば、地下牢に忍び込んだ時はおっかなびっくりでしたねぇ。叫び声をあげそうになる若の口をこの手で押さえたりもしました」


 例のくそみたいな肝試しのことか。


「ジョン、いまだからいえるけど、じつはあれはわざと叫んでみようと思ったんだ」


「ふふっ、本当ですか?」


「本当だ。あのときは、どうしてだか、それがもっとも勇気をしめす方法である気がしてたんだ。それに、捕まっても重い罰は下されないとわかってた」


「わかっていた?」


 ジョンは半笑いで眉を寄せて、また肩をすくめている。


「そうだ、確信していた。」


「確信? どうしてです?」


 腕組みをし、それから右手をじぶんの頬にあて、またすぐ戻す。


「殿下?」


「そう、殿下だよ。あのフ○ッキン肝試しは殿下の思い付きだった。僕らを引っぱって地下牢を連れまわしたのは殿下で、そうした状況と、殿下や周囲のおとな達の性格を考えれば、捕まったとき怒られるのは主犯格の殿下ひとりで、哀れな付き人でしかない僕らにはたいしたお咎めはないと踏んでいたのさ」


 ジョンは大きく息を吸って、吐いた。


「それはまた、大胆な仮説ですね。若と僕だけが臣下の責務として罰を受ける可能性もあったでしょうに」


 封建時代の日本なら間違いなくそうだったろう。


「じっさい、その可能性もあった。でも、それならそれで、僕らも地下牢に送られて、その捕まっているとうわさされてた使用人を見ることができると思ったし、使用人だけをひどい目に遭わすという不正義に対する抗議になりうるとも思った。ほかには、うわさの判例におなじく、処罰されるのはジョンひとりだけで、僕は大丈夫であるという可能性もあたまのなかにはあったのだけれどね」


「それは手厳しい」


「とにかく、だれがどんな罰を受けるにせよ、それに対する言い分は一通り考えてあったから安心してた」


 僕は、すこしだけ、うそをついた。


「それが通じる相手でもないでしょう」


「まあ、そうだね。ようは、まだ幼かったのだ」


「若はいまでも幼さの面影が残っているようですが」


 と言って、ジョンは僕の頬をなでる。


「それでも、もうあのころとはちがうさ」


 莉花の、ウェーブパーマのかかった茶色い髪。シャンプー&トリートメントのにおい。なにをしても考え続けることをやめられず、気の休まらなかった僕を、理解してくれた。


 そして、僕はジョンの手を払った。


「のどがかわきましたね……飲み物は、ないですよね…」


 さっきもそういっていたね、君は。


「ああ、ない。下に行って、くんでこなければね」


「桶のなかに水がありますが」


「それは僕が顔を洗うために使った水だ」


「それでもよろしいので、どうか」


「だめだ」


 ――ガチャ。


 ドアの開く音がした。


 ギィィ…。


 部屋の入り口をみると、キアラが立っていた。手に、お盆を持っている。これに、木で作られたコップをのせている。


 こん、こん。


 と彼女は扉を軽くたたいた。無表情だった。どうして、あけてからノックなのか。


「お坊ちゃま、ご用意ができましたら、急いで下までお越しください。旦那様と奥様、子爵ド・ラ・フォレノワールがお待ちかねです」


 「ああ、そう…」って言おうとしたら、キアラはお盆の上のコップを手に持つ。


 そして、僕の顔めがけて投げつけてきた!


「Non!!」


 僕は右の手のひらをまえに向けて瞬時に壁を構築した。


 木でできたコップは、目のまえで空中停止する。


 「ほっ」と息をつく、が、次の瞬間にコップから水が飛び出てきて、顔にびしゃりとかかってしまった。


「Noooon...」


 かけられた水がしたたり落ちて、身体を伝っていく。じぶんが、いまだに服を着ていなかったことに気づく。


 扉のほうをみると、もうキアラの姿はなかった。


「これは、災難でしたね…」


 そう、ジョンは言いながら、空中に浮いているコップを手に取った。


「よろこべ、ジョン。キアラが水を持ってきてくれた」


「コップは空になっちゃいましたけどね」


 と言い、コップを逆さにする。水一滴落ちてこない。


「すこし、はしたなかったな」


「ええ、すこし、ですね」


 僕はぬれた身体をタオルかなにかで拭き取ろうと思ったけれど、その必要はないことに気づく。


「こぼれた水は僕がひろうよ」


「いえ、若、ここは僕がやりましょう」


「いいよ、ジョン、僕のほうが上手だ」


「では、若は床にこぼれている水を集めてください。僕は若の身体を濡らしている水を集めたいと思いますので」


「いや、それは、ふつう逆ではないだろうか」


 しかし、ジョンはすでに魔法をはじめてしまっていた。


 身体についた水は、ちいさく振動しながら僕から離れていく。ジョンが下手なのか、それともわざとかは知らないが、すこし振動が強いように思う。


 僕も床に落ちた水を空中に浮き上がらせる。もちろん、木の板の表面、目に見えない死んだ植物細胞のちいさな隙間からしみこんだ水も逃さず吸い上げていく。


 途中、ジョンが、僕の身体のなかの水分にたいしても、魔法をかけて抜き取ろうとしていることに気がついた。僕は、汗腺をとおして水分がでていってしまうまえに対抗魔法をじぶんにかけて、この企みをシャットアウトする。


 魔法をかけられた水は、僕とジョンの間の、胸の高さぐらいのとこに集められている。そして、徐々に、大きな水玉になっていった。


 宙に浮いた水は透明でうつくしく、無重力空間の、例えば、宇宙ステーションのなかでみられるような、不定形の丸い揺らめきのある液球となってそこにあった。映画だと金にものを言わせてCGでやるしかなく、アニメーション作品だと作画がやたらめんどくさい。スタンリー・キューブリックなら自由落下する航空機のなかで実写撮影させる(もっとも、キューブリック本人は安全な地上から指示を出すだけ)だろうが。


 こうやって、こぼれた水を拾い集めるとか、うすぎたない水をきれいに浄化するのが水魔法という分野である。ペリーヌおばさんなんて、屋敷の人間全員ぶんの洗濯物を、手と魔法を用いてひとりで処置してしまう。あれは僕でもやれない。


「こんなものでしょうか?」


 水は、コンビニのおにぎり一個分の大きさになってぐにゃぐにゃしていた。


「うん、もういいだろう」


 ジョンは水玉の下からコップを入れ、うまいこと収めた。


「はい、大丈夫です」


 こうして、僕らは水魔法の実施を終了する。


「それでは、若、いただきます」


 と、ジョンは水を飲んだ。


 床にこぼれた水とはいえ、完全なる魔法の働きで不純物を抜き取ってあるので、東京の水道水なんかと比較してもすべての面で勝っているはずである。キアラが、発見および除去の困難な毒薬を仕込んでないかぎり、であるが。


 なるほど、もし仕込んであったとしたら、僕に水がかかった時点でなにかしらの異常があったのか。


 そういう使い方もあるのか。


 キアラもそのことに気づいただろう。きづいた。


「そういえば、若。どうしてまた燃焼魔法陣なんて作ろうと思ったんです?」


「キアラだよ。キアラが最近怖いんだ、尋常じゃなくね」


「なるほど、たしかに怖いとは思いますが…」


「だから、燃焼魔法陣を作図してキアラにやったら、料理が楽になってすこしは怖くなくなるじゃないかと思って、一晩考えてたんだ」


 ジョンは、この部屋のちいさなガラス窓をみていた。まえに、考え事をするときに視線をそらす癖があるのを指摘したことを思い出した。


 やがて、視線を僕のほうに戻すと、


「それならば、鍋の底に直接、魔法陣をかきこんではいかがでしょうか」


 といった。


 そうか、なるほど、つまり、これってさ…


「い、いや、待て、待つんだ、ジョン。それだと油を使った料理を、鍋はなんども使うものだし、かきこんでもいつか、それともすぐに消えてしまう、実験しなければ、いや、これは」


「いっそのこと、魔法陣を鍋底に彫ってしまえばいいのです。そうですね、鍋を鋳造する段階で魔法陣を入れてしまえば。これならば燃焼魔法陣なんて作らずとも、熱魔法陣でいいわけですし」


 Warum? Darum!


「Eureka!!」


「そうだ! そうだ! それでいいんだ‼ 正解だ! なんという僕はおろかなまちがいを! まったく、思いもよらなかった。ジョン、君は天才だ! この偉大なる発明は“ジョンの鍋底”と名付けられるべきだろう。よし、さっそく調理場に行って、実験用の鍋を調達しにいこう!」


「おっ、お待ちください! 若! おそらくですが、これは、もうすでにだれかがやっているはずです。たぶん、町の金具屋に行けば同様のものが売られているのではないかと思いますよ」


「なるほど、そうかもしれない……しかし、まずはやってみなければ!」


「オットー! 思い出してみてください! どうして魔法陣が必要だったのか」


「そりゃあ、キアラが怖いからにきまって…」


「調理場と料理道具の支配者はキアラです。そのキアラの断りなしに、いくらキアラのためとはいえ、勝手に鍋を持ち出してそこに彫りこみを入れたらどうなるでしょう?」


「公平に言って、僕は死ぬだろう。スープ用の鍋の角で殴り殺されるか、さっきと同じ手段で毒殺されるかだ。ジョン、君も僕を止めきれなかった咎で運命を共にすることになるだろうね」


「そこまではしないでしょうが、ある秋の日の朝、とんぼ池の見回りにやってきたムッシュ・エルキュールが、池の真ん中に若と僕が浮いているのを発見する、ということはあるかもしれません」


「いや、さすがにそこまではしないと信じるよ」


 あの池は、どこから来たかもわからない者が、ときどき浮いてでることがあるのだ。父方の祖父の故郷である伊賀の山中のため池でもそういうことがむかしあったけど、こういうのはどこの世界でも同じなんだなぁ、と思った。


「それに、キアラの機嫌はこれくらいのことではなおらないと思いますよ」


「そうか。どうして?」


「キアラの若への風当たりが強いのは、たぶん、若がはたらくこともせず、この屋根の下の部屋にひきこもっているからだと思います」


 ジョンがこのように言うのは、僕のひきニート生活をやめさせたいからなのか、それともふだんからキアラとこういうことを、僕の陰口をたたきあっているからなのか。


 いや、ちがう。ジョンは僕のことで、キアラに対しフォローしてくれているんだ。まあ、ジョンのことだから、それをダシにしてキアラと仲睦まじいことになりたいと考えてもいるのだろうけど。


 ちかごろ、僕の研究は煮詰まってきている。


 『正義と産業資本主義の成立』について、日本やヨーロッパ・北米、ツワナ族の国であるボツワナでは、より小さな単位での所有権の確立から、基本的人権及び産業資本主義の成立までの流れを実証することができる。では、中国はどうなのか。極めて高度かつ長期間におよぶ商業と貨幣経済の歴史を持つ大文明で、なぜ個人所有権が成立しなかったのか。むしろ、小さな単位での所有権が存在していないというのは本当なのか。朝鮮半島諸国家の経済発展の遅れは、民間における農産物の集積率の悪さと貧弱すぎるインフラが原因なのか。資料の少ないマンダラ模様の東南アジアとあまりに大きすぎるインドでは何に基軸となる価値を見出したのか。イスラームと基本的人権は相いれないのか。ローマ帝国初期から盛期の、流通経済のおそるべき後進性は、果たして事実なのだろうか。


 部屋に籠ってひとりで研究するのには限界があって、いまは底が見えつつある。


 おそとで、だれか有識のある壁を捕まえて、弁証や反証を実施せねばなるまい。


「なるほど、どちらにせよ、僕は宮中に参内せねばならないというわけだ」


「そういうことになりますね。そのまえに、若はお着替えを済まさなくてはなりません」


 結論、僕は服を着ることにする。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ