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異邦人と魔法の旅  作者: 中森 壮
1/4

No.1 女との会話

 目をあけた。


 すっきりしている。


 なにもない。


 あたりにはなにもなかった。


 そっちは、ただ暗いのである。


 まえ、ひだり、みぎ。


 見まわしてもなにもない。


 視線を落とすと、色白い素足があり、これにすね毛がまっすぐ生えている。さらに、モジャモジャにちぢれた陰毛があって、両方の太ももに色黒くちぢこまった仮性包茎と、陰嚢が挟まっていた。


 ああ、自分の姿だけがここにあるのだ。あられもない、自分の姿がね。


 あしのうら、床はひんやりとしている。


 肌寒い。


 手でお腹をさすろうとしたが、両腕とも背中のほうにやったまま動かせない。


 色白の肌、乳首、へそ。


 お尻と大腰筋が痛い。


 なるほど、僕は椅子に座っているのだ。目をとじていたとき、ずっと椅子に座っていたのだ。全裸であり、両手は椅子のうしろで縛りつけられている。両足もそう、足首がふたつとも椅子の前脚に括り付けられている、紐か縄のようなもので。


 椅子は金属製だろう。硬くて冷たい寒い、あと重い。


 これは……どうやら動かせるものではないらしい。体中をねじり、筋肉の瞬発を使ってとび跳ねようとしたけれど、ちょっと臀部が浮いたくらいで、椅子じたいは、うんともすんとも言わん。


 後頭部にも冷たく硬い感触があった。見てみると、この椅子の背もたれが僕の座高よりも高いことがわかった。


 椅子の色は白みのかかった青緑。表面はなめらかに研磨されている。目に見えない小さな穴やでっぱりが無数にあるのだろう、お尻の皮がぺたぺたとはりつく。銅製、つまり青銅。酸化した銅だ。この椅子はそれなりに古いものなのか、それとも野外に置かれているのか。まわりは無明無音で無風だから室内であると思うのだけれど。


 上を見ると、まぶしい。おもわず目をつむる。


 まぶたの裏に光が焼きつく。強烈な電燈があるのか。


 この空間では、僕にだけスポットライトがあてられている。


 僕が寝ているあいだに、何者かが僕を全裸にして、この椅子に座らせて縛りつけて監禁したんだ! どこのウンコ野郎だ! まちがいない。お腹を冷やし、小便と下痢便をもらして汚臭にあえぐ僕の姿をみて喜ぶ蛆虫がこの暗闇のなかに隠れているのだ!


「あのー、だれかいらっしゃいませんかー」


「すいませーん」


 声は暗闇にきえていった。反響のないということは、ここはよほど大きな部屋か、じっさいには屋外なのか。


 光源は僕のあたまのうえにある。太陽光ほどではないけど、とても強力な光だ。光は僕や椅子や床にあたって乱反射しているのに、それで周囲になにも見えないのだからふしぎだ。


 うまくできた舞台装置だね。


 案外、この暗闇のなかは観客で埋め尽くされているかもしれない。むこうからは僕のことが丸見え。縛られた貧弱で薄っぺらい若い男の身体! すべてをあきらめて、うちひしがれるのを待っている! めそめそしていて、無抵抗で、そうすれば差し出された男の逞しい一物をも咥えこんで許しを請うだろう。うん、 なんと美しい羞恥!


――こつ、こつ、こつ。


 音がした。うしろから。


――コツ、コツ、コツ。


 音が大きくなる。


――コツ、コツ、コツ。


 なにかが僕の左の肩をそっとなでた。興奮が胸をしめつける。キュンキュンする。鳥肌が立つ。


「南出真司さんですね?」


 女の声だった。メゾソプラノの、少女の余韻を残す、でも、すこしかすれた声。


 女が僕の左脇を通り抜けて、目のまえにあらわれた。おでましだ。


 ブロンドの髪を背中の半分まで伸ばしている。前髪は全部上げていて、まだ若い、おでこのせまいのが、なんかうらやましい。目は大きく、瞳の色は明るい青緑。眼窩の彫り深く鼻は高く、野性味のあるあごはわずかに割れていて、耳は小さい。野暮ったい焦げ茶色のマントを羽織っているが、その下は肩肌を露出した抹茶色のドレスでおそらく絹製品。細身で手足が長く頭部は小さい。北方系ヨーロッパ人でスカンジナビア半島の出、女優のあれに似ている……スウェーデンの、ビビ・アンデショーンではなく、『第七の封印』で彼女と共演していた……


「南出! 真司さんですよね⁉」


 そうだ! グンネル・リンドブロムだ!『第七の封印』のときの村娘役の、グンネル・リンドブロムだ! モノクロの記憶しかないけど、とにかく似ている。女の足元は素足にミュール。右手には黒い蝿叩きのようなもの、叩きの部分が妙に小さい、ああ、これはきっと乗馬鞭


ピシッ!


「いっっ! ははい、そうです」


 乗馬鞭が僕の太ももの内側をうった。陰茎のすぐそば、二センチしかはなれてない場所に。


 陰嚢が縮み上がったのを感じた。うたれたところが熱い。女は無表情で、僕のことを目線だけで見下ろしていた。


「もういちど確認します。南出真司さんですね?」


 この女が僕を椅子にくくりつけて監禁したのか。すべてはこの女がやったのか、それとも共犯がいるのか、いや共犯がいると考えたほうが自然。どうしてだ? Warum ? Darum ! なんのためだいったい。僕はただのニートでしかない。このところ、ほとんど自室に引きこもって生活していたのだから犯罪はない。危険思想はあるかもしれないがたいしたことではないし、だれかにそれを漏らしたおぼえもない、第一、危険思想だけで人を裁くことはこの国ではできない。インターネットはやるが、書き込みは一度もしてないし、オンラインのゲームもやったことがない、いや、Y○HOOきっずのゲームコーナーでオセロと将棋をやったことならあるけど、トークはしていないのだから他のゲームユーザーとの接点はない。つまり、世間とほぼ接点のない僕が、だれかに、とがめられるとしたら、とがめるとしても家族しかいないが、としてもいきなり全裸椅子はないだろう。なにか予告があってしかるべきで、ニート更生施設職員もこんなことはやらない。いやまて、図書館は…これもない、借りた本は返却日にきちんと返却しているし、図書館がこのように非道な取り立てをしていたら、それで小説が一個書けそうだか、取り立て


 ピシッ!


「そうか君は奨学金の取り立て代行業者の一味なんだね。そうかそういうことか! たしかに僕はざっと一年もしくは三年ほど滞納して」


 ピシピシッ!


「はい! そうです、僕が南出真司です! だから顔は叩かないで。君は顎の部分に多少のテストステロンの影響を受けてはいるけれど外見は結構可愛いと思う」


 ピシッ。


 左の乳首に鞭があたった。衝撃が心臓に響いてむせそうになった。脳から出る快楽物質の名前をなんというのだったか。


 女はやはり、表情がない。どうしてだろうか、すこしうれしい。


「では、南出真司さん。これから読み上げることの内容をよーく聞いてください。けっして、他事を考えることのないようにしてください。質問は最後に受け付けます」


 と、起伏のない、まったく平たんな音程で言った。この西洋人の日本語に違和感はない。ネイティブ話者なのか。


 女は、左手にA4サイズの黄味がかった白い厚紙を持っていて、そっちのほうをみている。僕の罪状でも書かれているのかな? しかし、払いたくないものは払えない。


「あなたは、いまはわたしの支配のもとにありますが、しかるのちに、わたしの支配から離れます」


 そうだ、この気持ちはあれだ。あの気持ちだ。小学生のころ、女の子をからかって、追いかけ回されて、またからかって、追いかけ回されて、しばらくしてから追いつかれて女の子からぶたれたりけられたりする制裁を受ける。このときの痛みについてくる、奇妙で変態な高揚感だ。下半身からやってくる。そうなのだ。いま、僕はこれを感じているのだ。


「あのっ、君。僕はドMなんです。もっとその鞭で僕のことをぶってくれませんかっ!」


 ぴしっ。


 鞭は左頬をうった。いままでで、いちばんやさしかった。表情は変わらない。厚紙を読み込んでいる。


 なるほど、そういうことか。


 どこまでも事務的な女なのだ。ほぼ間違いなく、この女はサディストではない。仮にそうだとしても、残虐な嗜好を僕にぶつける気はないようだ。


 つまり、あの鞭は僕の注意を自分に向けるためのアイテムである。ただそれだけ。


「質問はあとでと言いました。いいですね、はじめから言い直します。これから読み上げることの内容をよーく聞いてください。けっして、ほかごとを考えることのないようにしてください。質問は最後に受け付けます」


 おかしなことだ。僕は真性のマゾヒストではない。


 もちろん、マゾヒズムの感覚を楽しむことがないわけではないし、サディストとして行為におよぶこともあるし、いや、やはり、そのどちらにも関心がないことのほうが多い。


 第三者がどのように僕のことを評価しているかについては自信がないけれど。


「あなたは、いまはわたしの支配のもとにありますが、しかるのちに、わたしの支配から離れます。それ以降のことにつきましては、どうぞあなたのご自由に行動なさってください」


 女は自身が楽しむためにこの場を用意したのではない。なにしろ、その手のやつなら持ち合わせているはずの、鞭で人間をうつときの喜びを感じとれないからね。業務のように、労働のようにやっている。とても面倒くさそうにする。正直、僕も面倒だ。


 ただ、ひとついえるのは、僕もしくは他の誰かに合わせてこんな無意味の芝居がかったことをしているということで、つまり相手は、裏に何人いるかは知らないが、僕のことをよく知っているつもりでいるのではないかということだ。


「あのっ、すいません。トイレに行きたいんです。なんていうかその、手と足をほどい」


「コアギュラシオン」


「ねっ」


 おっと、なにを、言葉がさえぎられた。


 僕の口のなかにものを詰めたのか?


 いや、そうではない。


 女はなにもしていない、なにかをつぶやいただけ。


 なにをつぶやいた? なんだ? おお! なんと! まばたきができないではないか! どうしたことか! 息もできない! なるほど、身動きひとつとれない。金縛りか。これ、どういった仕掛けなのだ⁉


「おめでとうございます、南出真司さん。あなたはこれから、剣と魔法のファンタジーワールドで…ブリタニア語? 変なの。……いえ、失礼しました、あなたはこれから、剣と魔法のファンタジーワールドでじっさいに旅をし、冒険をし、探検をし、自らの道を開拓する権利が与えられ、また、義務を負います。つきましては」


 「コアギュラシオン」といったか、シオンという発音は、おそらくはフランス語、“coreguiracion”。違う! スペルが違う、ええっと“coagulation”! なんだ! くそ! 英語でもスペルは同じではないか! 魔法? 意味は、凝固! スペル“spell”綴り、呪文、魔法!


 なんだ、魔法か。ということは、この女は魔法使いか魔術師か魔女かピエロか詐欺師。ふん、それだけのことか。つまんない。


 権利⁉ 義務⁉ Oh, kidding me ? なにを言っているんだこの女は! 権利と義務だと! なんと愚かな! リディクラス、ばかばかしい! 一個の目的に、ここでは僕のことを指すのだけれど、僕にファンタスティック・ヒッチハイクガイドで旅をする諸々の権利と義務をだって? これを矛盾と言わずしてなんとする? 権利と義務は同じ対象にはぜったいかからないだって意味が真逆だ同時に実現できない権利には行使しない自由があるのにそこに義務を重ねたらそのせいでそれが妨げられるし義務は果たされなくてはならないが権利によって果たさなくてもいいという自由が発生するのだ。


「つまりなにが言いたいのかというと君は昭和二十年代の革新系議員が挿入した日本国憲法第二十七条勤労の権利・義務と同じ間違いを犯している! これは正義を根底から覆す暴きy」


「コアギュラシオン‼ イ! ネ! トゥパイスペペポロアルジ‼」


 おうっっぷ。ああああああああぁぁぁぁぁーーー…


 両方の肺のなかに何かが、胃に、心臓に、腸に、腕に、足に、陰茎に陰嚢に、鼻の穴、眼球、脳! そこらじゅうのそこらじゅうで、もぞもぞと動き回って、噛みついている!


「さすがに、おどろきました。いや、さすがというべきでしょう。こんなことがあるとは。そうですね、あなたはうまくやっていくのでしょうね。でも、いまの自分が置かれている状況をなんだと思っているの。どうしてそんな反応をするの……まあ、いいでしょう。ちゃんと人の話を聞きなさい、南出真司。ここからが本題です」


 と言って左手でもっていた厚紙を僕のひざのうえに置いた。書かれている言語は…理解できない。なんだ? フラ語か?


 そんなことより、このムカデとチャバネゴキブリがスクラムを組んで荒らしまわっているような気持ち悪いざわざわをなんとかするべきだろう。


 いやまて、なんとかするよりも、どうしてのほうが先か。


 どうやってこれをやっている? 薬を使ったのか? 幻覚剤。まあ、そうだろう。どの薬だ? LSDか? 違う! LSDの幻覚はもっと世界の輪郭がぼやけて、きらきらと輝いているはずだ。いつ盛られたんだ? くそ! なんで僕はいままで薬物をやってこなかったんだ! 僕には薬物の知識はあまりない。幻覚なんて、薬に頼らなくても脳内の化学物質だけで見ることができた。そのせいで、僕には薬物の知識はあまりない。なんと行動力のない恥の多い人生であったことか。


 息もできなくて苦しいし、僕は3分くらい息を止められるのが自慢だけど、そろそろだ、限界がおぼろげに見えてくるころじゃないか。


「先ほどからのわたしの説明はその紙に書かれてることをそのまま読み上げただけなのですが、本当のことを言えば、あなたがこれから行くところは、そのような甘い幻想郷などではないのです」


 僕の膝のうえに置かれたのは厚紙ではなく木の板だ。板に白いものがかぶせてある。なんだ? 紙よりも滑らかだ。おそらく、羊皮紙だろう。


「その紙のとおりに、聖なる剣が邪を切り裂き、魔法がこの世のことわりをすべて網羅するというのであれば、」


 どうしてこのように高級なものを。かんたんにはお目にかかれない。俗世の友人の家にあそびにいって、羊皮紙をだせと言ってもでてはこまい。羊皮紙は動物性だ。植物性ではない。植物にさわったときの、あの乾いた、よそよそしいセルロースの壁が、ひざのうえからは感じられないのだ。そう、感じる、感じる…いま感じるのは、大量の無脊椎動物がからだじゅうを我が物顔で踏み荒らしていることと、肉体がピクリとも動かずに返事をしないこと。ものすごい不快感。不快、気持ち悪い。やめてください、やめてほしい、やめてくれ、やめろ、やめるんだ、さっさと! やめるんだぁぁぁぁぁぁぁぁ‼


「それよりも君ね、息をさせてほしいんだけれど、ジョン・ロナルド・ロウエル・トールキンはもういいから、いくら僕でも、そろそろやばいし、窒息するし、この気持ち悪いのもはやくなんとか……」


 っと。っと、おっとっと。なんだ、息ができるではないか。


 縛られているせいでとっても限定的だけれど、からだを動かせる。このように、手をグーぱーグーぱー。


 血行障害もない。


 陰茎も微弱ながら上下に動かせる、じぶんの意志で、ほらね、ワン、ツー、ワン、ツー。


 いや、でも全部が解決したわけではなく、目に見えぬ虫の軍団は、いまだからだのなかでうごめいているようだ。じつにキモイ。


「………………」


 女は、きょとんとして固まっている。


 ははっ、なんか笑える。


 そして、力なくうつむき、下を見ながら小さく、キツネを見てふるえてる仔ウサギのように三回首を横にふり、また頭をあげてこちらを見る。


「…………そうですか、南出真司。そう、べつに、ご懸念にはおよびません、あなたは窒息はしませんわたしがあなたにかけてあなたが勝手に自分で解いてしまったこの古い魔法は相手の動きを術者の随意に止める魔法でわたしはあなたから動きを奪いましたがあなたがたの言うオクシジェーヌは奪ってはいませんので窒息することはありません」


 えらい早口ではないか。この女にも感情があったのだ。焦燥を感じて、早口になったのだろう。オクシジェーヌ? これもフランス語だね、習ってよかった第二外国語。英語におなじく会話はできないけれど。オキシゲン、酸素。


「正直、もう疲れましたので、説明は…省いちゃいましょう、要点だけで」


 と言って、女は目をつぶり、両の目頭を左手の指で押さえ、眉間にしわを寄せている。


「説明って?」


「質問は最後。あなたは人の話を聞かないね、本当に。よく言われるでしょ?」


 口調がくだけた。説明のまえにお説教だろうか。


「言われない。よくは言われない。すくなくとも、そう言われることが頻繁では」


「夜更けのパンの味だね」


 うん、ああ、「言ってもらえるうちが華」かな。パンは早朝に焼かれ、時間が経つごとに味が落ちる、だから夜更けのパンはまずい、だれも食べてくれない。つまり「華は枯れました」だね。そんな慣用句があるのか。知らなかった。


「で、説明って?」


「南出真司、あなたは次に目が覚めたとき、“オットー・フリードリヒ・フォン・ヴィーダーベレーブング”という、さる王国の都の周辺に領地を持つ、もちろん都の周辺といってもただの農村領ですが、」


 目が覚めたとき? フォン? 鳥肉仔牛の骨? いや違うスペルが違う、すなわち、ドイツ貴族か。領地が農村なのは当たり前だ、よほどの大貴族でないかぎりは、領地が農村なのはあたりまえだ。「都市の空気は自由にする。」


 ともかく便利なことだ。貴族か、わるくない。貴族になって、空いた時間で『正義と産業資本主義の成立』についての研究にまい進すればいい。


 すばらしい! 僕は貴族だ。明日からの座右の銘は「有職故実」で決まりだな。明日なに着て生きてく? 素っ裸で好きなように生きてくさ!


 ピシィッ‼


「やっぱり話聞いてない! あなたはどうしていっつもそうなの⁉」


 痛っっっっったっ‼ ほっぺだ! ほっぺに鞭だ! まただ! すっごく痛い。いまのは本当に痛かった。炸裂した。首からうえが吹っ飛びそうだった。


 きっと、しばらくのあいだ、ちいさな蝿叩きの跡が僕のやわらかい頬に残るだろう。顔にたかっていた目に見えない虫たちが一斉に逃げ出す。ぞわぞわ気持ちわるい。


 しかし、この女、ママみたいなことを言いだした。


「ごめんホントにごめん、もうしないから。約束、約束するから。ぶたないで、おねがい、君と僕の…社会契約だ」


 この女、まえに会ったことがあるのか? 「いっつもそうなの」ね。いっつも、いっつも…


「ふーっ」


 鞭の先を指ではじきながら、息をついている。わざとらしく、僕にきかせるように。すこしだけほほ笑んだのを見た。すぐ無表情にもどる。


「違う世界の人間であったあなたが、いきなり現世に来てもなじめないでしょう。ですから、救済措置として、あなたにオットー・フリードリヒの記憶を授けたいと思います」


 僕は違う世界の人間で、そしてこの現世という。つまり女は妄想の世界に居たがっているか、それとも本当にそこの人間なのかだ。まあ、どちらでもいいだろう。じきにわかる。前者に一万二千ウォン。


「記憶? オットー・フリードリヒの? どうやって?」


「とりあえずオルガンのまえに座りましょう、南出真司。すぐにわかることですから」


 なるほどね、口調は丁寧なものに戻った。落ち着いているように見える。


 だけど、いま、こちらを見ている女の瞳孔は開いている。瞳の色が青緑なせいでわかりやすい。思考力は落ち、心を奪われつつある。あきれている人間の顔ではない。瞳孔が開くときは、それに映る対象にポジティブな感情を抱いている場合が多い。


 目のまえの女が、僕に惚れているかはわからないが、内心で好意を抱いている可能性が高くなった。


「目が覚めた直後、あなたは南出真司の記憶を持ったままそこにいることでしょう。ですが、なにかのきっかけがあれば、その都度オットー・フリードリヒの記憶を引き出すことができます」


 僕は、裸で椅子に縛りつけられているわけだが、これ以上のひどい目にはもうあわないはず。


「つまり、ものを見る、聞く、におう、感じる、味わう、考えることで呼び起こすということだね、そのオットー・フリードリヒ・フォン・なんちゃらの記憶を。記憶の植え付けは魔法的ななにかでどうにかして、僕はこの先、先々でなにかをするたびにオットーの感覚を身につけていくわけだ。おかげで、生身のままよりは安全に過ごすことができる、その、剣と魔法の “Le monde fantastique” というところで」


 どっかちがう世界にとばすというけれど、それはどの程度のちがうということなのか?


 外国か、別の惑星・星系・銀河・星雲か、未来世界か。過去がありえないのは文系の僕でもわかる。楽しい世界だったらいいな。いまの、この状況より楽しいということはないだろうけどね。


「そういうことです。理解がはやくて助かります。やはり、あなたは賢いですね。あなたほど頭のいいひとはそうはいません。知性を感じます」


 出会ってすぐの人間に、たったこれだけの会話で「あなたほどの大天才はいない」という。ほめすぎだ。Strange, 奇妙だ。


「いえ、僕なんかは所詮、ディスインテリですから」


 確実だ。彼女は僕に会ったことがあるにちがいない。残念ながら、僕はまったくおぼえていないけど。


 どういうつながりだろうか。いままで出会った女子に該当はないはず。ならば男か? ニューハーフになったやつがいたのか? いやまて、彼女は北欧系だ。話したことのあるヨーロッパ系はそれほど多くない。ここにも該当はない。うん、やはり、おぼえていないか。


 まあ、とりあえず、好意は抱かれている。良い兆候だ。なんにせよ、僕はこの場をしのげるだろう。次はどうする? あまり考える必要もないか。彼女を信用し、僕を信用させればいい。縄をほどいて、身に纏うものぐらいはくれるだろ。


「ねえ真司」


「なに?」


 何?


「褒められるとうれしい?」


「…うれしい」


 急に馴れ馴れしくなった。距離が縮んでいる。精神的に、物理的に。


 顔が近づく、僕は動けない。彼女の息を感じとることができる。むこうもたぶんおなじ。


「真司はさ、わたしに褒められてうれしくなってる。ママンに褒められてうれしくなってるこどもみたいに」


 彼女は白い歯をみせて笑う。僕とは、20cmも離れてない。ママン? オイル語の発音か? 褒められてうれしいだと? それは、


「承認欲求だね。人間の…基本的な欲求だ。マズローは、二種類あると言った、他者からの承認と、自分自身からの承認。この場合は他者からの承認で、たしかに君の言うとおりだ、母親からの承認は、人間心理の土台を形成しているものだから、君からの承認が母親からの承認と擬似的に受容されることは極めて自然なことだと思うよ」


 ああ、どうして僕は浅ましきアメリカ人=マズローの話なんてしなくちゃいけない。こんな、擬似科学、大衆扇動者……、極めて不愉快だ。嘆かわしい。


「そっか、それが真司の照れ隠しなんだね。真司はわたしのことが好きなんだ」


 そう言って彼女は後ずさりで一歩、二歩、三歩僕から離れ、床にぺたんと体育座りした。


 照れ隠し? そうかもしれないが微弱。好き? いやまて、うん、意識はしている。彼女の外見は人間として美しい。ただそれ


「さっきから、わたしを見ているときの真司の目、とろんとしてて、でも一生懸命わたしのことをみようとしてる。好きなんでしょ? わたしのこと」


 僕を、したからのぞきこんでくる。じーっと、ちょっとだけ首を傾けて。


「どうして。わからない。いや君、人間の目を見ただけで好意があるかどうか判断するなんて、あまりに不確実で、実証に欠けるよ」


「そう思うの?」


「そうでしょう。目を見ただけでは、そんなもの、ときどき目を見たらわかるという人が、そう、相手の考えることがわかるという人がいるけれど、それはあまりにもオカルトだよ。根拠としては脆弱だ。人間の思考するパターンは置かれている状況でかなり絞り込まれるけど、だからって目を見たぐらいでは考えていることなんて……うん、そうだね、ああ、なるほど、だいたいわかるのか」


 推測される思考のパターンを二択まで絞り込み、これが瞳孔の開閉それぞれに対応していたなら、わかってしまうものか。いや、それを、それでだした結論を信じきれるものなのかな。さっきの僕は、彼女の瞳孔が開いているのを見て、僕にポジティブな感情をむけている可能性が高いと思った。そうだ、僕は、そう思っていただけだ。頭のなかでそう思って、表には出さなかった。どうしても不確実に思える。


「ふーん。やっぱり賢いね、真司は」


 彼女は、行動に移した、表に出したのだ。僕の目を見て、僕が彼女に好意を抱いているに違いないというのだ。自信があるらしい、僕よりも。


「君は、僕よりもずっと賢いかもしれない」


「そう思うの?」


 ほほ笑んでいる。さっきからずっと、ほほ笑んだままだ。勝ち誇っている顔だ。僕に対して優位にあることを。優位なのは当然だろう、僕はなにも身に着けず、縛られて座っているのだからね。こどもに相対するママのようなもの。僕はママのまえでこどもになっている。やっぱり、たのしくなってきた。


「そうだろう。だけど、僕が君に対して好意を、君を好きかどうかは、まだ不確かに揺れ動く可能性のひとつの段階に過ぎないと思う。それを証明できるなら、君は確実だ」


「ふふっ」


 と彼女は笑った。


「したを見て」


 言われてそうすると、そうか、そうだね、納得だ。これはない、ひどい、ずるいだろう。


「すこし、うえを向いているでしょ。だんだん力強くなってる。血の通る筋もはっきりと浮き出てきてるし」


 なるほど、たしかに、僕の陰茎は彼女の言うようになっている。すこし持ち上がっている。しかし、それはすべての過程の半分にも達していないものだ。だから、これくらいは仕方ないことではないか。たんに血の巡りの問題ということも。


「寝起きとはこういうものだよ」


「それにね」


 彼女は立ち上がり、僕のほうへ身を乗りだした。羊皮紙のはりつけられた木板を僕のひざから床におろし、右手を乗馬鞭ごと僕の太ももに押しつけて体重をかける。左手の指先がのどにふれ、押さえられてすこし苦しい。そこからなでるように手が下へと動く。くすぐったい。手のひらを僕の胸にあてる。彼女の手はあたたかい。


「ほら、心がこんなにも高鳴ってる。はじけそうになるくらい、強く、うごいてる」


 彼女の顔が近づいてくる。


 徐々に、僕からみて右に首をかしげながら、みつめて、のぞきこんでくる。ゆっくりとした動きで、せまってくる。


 おかげで、僕は考える時間を得た。プレッシャーをかけるのであれば、少々雑であっても急いでやらねばならぬ。相手の判断する時間をうばって、ボールをかっさらうのだ。日本のフットボールも、欧州や南米の圧力の速さに慣れなくては躍進できない。


「君は、賢い。そう、賢いよ。詩的、文学的だね。非常に想像力がある。僕よりもね。正直、びっくりした。ところで、君と僕とは両想いなのかな? 君の手はあったかいし、すこし汗ばんでいる。いい、緊張感だ」


「そう思うの?」


 と言って動きをとめた。それでも、彼女は近づきすぎている。かすかだけど、花のにおいがした。フリージアとユリだろうか。押さえつけられた太ももが痛い。だんだんと重くなっていく。


「そうだよ、うん、君は確実だ」


「そうは思わない」


「そっか。じゃあさ、君は僕をどうしたい? 僕は君のことが大好きになったけれど、僕は君になにをしたらいいのかな」


「世界を救って。わたしが真司にしてほしいことはそれ」


 世界を救ってくれたら付き合ってもいいよとでもいうのか。救うてだてはない。残念だけど、人類社会は滅亡する運命だよ。


「さっきはさ、剣と魔法の “Le monde fanastique” で、旅行でもしてればいいって言ってたのに、いきなり世界を救ってほしいっていうのは…………不条理だ」


 旅行する気もないけれどね。貴族になれるんだったら、館の一室に引きこもって『正義と産業資本主義の成立』について研究するだけだ。


「ご懸念にはおよばずだよ真司。オルガンのまえに座ってれば、それだけでいいの」


 それだけ、か。


 なるほど、「オルガンのまえに座る」というのは、「案ずるより産むが易し」ということだと思っていたけれど、ほかの意味も含む言い回しらしい。複数の答えをもった慣用句って、日本語に存在しただろうか?


「予定説ということだね」


「なにそれ?」


 彼女はニヤニヤしながら僕の顔をのぞく。


「人生はあらかじめ決まってるってこと。この世界における人の意志や行動は最初のうちに決定していて、また、その結末は変えることはない」


 まっすぐにひかれた頬のラインにえくぼができている。


「宇宙に偶然などなく、すべて必然でしかない。ある人が汗水たらして働いてお金を貯める。それから、じぶんの、すこしばかり勉学に秀でたこどもを進学塾にでも入れて勉強させて高い入学金を支払って大学に行かせ、こどもはそこで学問を修めて無事に卒業し、不況のため就職先がみつからず無職となってタダ飯を食いちらかしながら家で本ばかり読んでいるのも、どの当事者にも動かしようのなかった結論だね」


「ある人の道筋は最初から決められていたんだ。働き者だからお金を稼ぐし、でもろくな使い道を知らないから、とりあえずこどもに投資する。きっとアジア系の父親だね。こどもは相対的には頭がいいから、投資されれば試験で良い点を取ることができるし、それなりの大学に入ってまじめに勉強して、卒業する。でも政財界のボスたちでさえどうすることもできない恐慌論の必然性によって経済状況が悪化すれば、こどものすこし良いだけの頭脳では学歴に見合った待遇の企業に入れない。となれば、より待遇の悪い職場で働くか、いや、こどもの親、つまりある人は働き者でお金を稼ぐから、この、ある人の子であるこどもは無理に働くこともないだろう。よって結論に至った。僕らはあとからこの結論を得るから自由意思で結果を変えられると錯覚するけれど、じっさいにはあらかじめ決められていることなんだ。ところで、予定説は、もともとは神による救済の有無について論じたものであり、フランスのノワイヨン出身の神学者Jean Calvinがいい」


「ゆくさきざきにて教会などもございましょうが、ゆめゆめ、そのようなことを申すことのなきよう」


 彼女はそう言って、僕の言葉を遮った。


 なるほど、経験でいえば女の子好みの話じゃない。


 そして、彼女は僕の右肩をなでてくれる。手のひらから彼女の体温が伝わり、わずかな震えとほのかな湿り気が、肌と肌のあいだにある摩擦係数を高めていく。


 心地よかった。好感情を持っている相手とのスキンシップはストレスを軽減する効果がある。笑えるね、僕はストックホルム症候群を患ったのだろう。


「承知いたしました」


 これから行くらしい世界の教会というのは権威主義の集合であるらしい。教会が存在するのか。まあ、人間のいるところ神もいるのだから、教会や神社のひとつやふたつあるのだろう。予定説を嫌がるというのであれば、知性の世界ではあるまい。どこだろうな、アメリカ合衆国南部かな。スパゲッティを食べられるところであればよし。


「もうひとつ言うことがあります。よく聞いてくださいね。南出真司、あなたは、結局、そんなにたいした人間ではありません。それだけは忘れないでいてほしいのです」


 なるほど、それはそうだが。


「君、世界を救いたいのであれば、それなりにたいした人間をつれていくべきではないのかな。送り込まれた先にドナルド・トランプがいても、僕にはどうすることもできないよ」


「そうじゃない。ただ忘れないでほしいだけ」


 彼女は僕から離れた。僕は、立った彼女を見上げる。彼女は僕をじっと見つめて、表情の読み取れない、まじめな顔している。


「忘れないでね、オットー・フリードリヒ」

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