第4話
「夏季講習っていつまで?」
少し間を開けてから「今日?」と死確者は眉を上げた。「分かった。じゃあ……あーあ、まあ理由は後で。会ってから話すよ。それじゃあ5時に病室で、またね」
電話を切ると、途端にベッドから降りた。何かに引っ張られたかのようだ。
死確者は体が前傾になる。よろけたのだ。私は危険を察知し、体を動かす。死確者はテレビが置かれた茶色い台の引き出しの突起部分を掴んだ。
「大丈夫」
その言葉で私は止まる。差し伸べた手を引っ込めた。
そのままの格好で少し。動かず掴んだまま、死確者は強く握った。そして、おもむろに手前に引っ張った。
「久々だ……」
死確者は肩から緊張していた力を抜くと、何かを取り出した。A4サイズの白い紙と黒のボールペンだ。ベッドに戻ると、可動式の長机の上に置いた。
再びベッドに乗り、足に毛布をかけると、机を手元に寄せた。
「よーし」
腕まくりをし、早速死確者は黙々と紙に何かを書き始める。
「何をしようとしてます?」
私は手を後ろ側で掴み、覗き込むように見た。
「シセンで曲作るの」
シセン? てことはつまり——
「飛行機に乗るんですか?」
「……は?」
「いやだって、シセンで作るって……」
「え……」
「中国でしょ?」
「……ああ!」
何かに気づいたようだ。少しすると死確者はぷっと口を吹き出した。
「それは地名よ。中国の辛いものとかよく食べる場所の地名。私が言ってるのは、詞を先に作るで、詞先。歌詞を書いてから、そこに曲をはめながら作っていくことよ」
「はぁ」
私は音楽には疎いため、そういうのには詳しくない。確か、死神は色々な音楽を聞くと言っていた気がする。
「もうですか?」
「無駄に過ごしてられないからね、もう1日もないんだから」
「いや、1日はありますよ」
「そうなの?」驚いた表情を浮かべる。
「はい」
「正確には?」
「えー……1日と7時間ちょっとです」
「それぐらいの誤差、1日ってことでいいじゃん。まあ、少しでも練習時間伸びてよかったけど」
嬉しそうに笑みを浮かべると、少し下がって来た裾を再び上げる。今度は少し折りたたんだ。
時計を見る。13時手前だ。
「ちょっと休憩〜」
死確者はペンを半分投げるように置いて、両腕を思いっきり伸ばし、離す。
今は16時。つまり、書き始めてから3時間経った。その間、休むことなく、文字を書き綴っていた。正確には、医者やナースらがやってきて病人を演じていた時以外、ただひたすらに書き綴っていたのである。
最中、真剣な眼差しで、だが口元はリズムに乗って軽いまま、曲を作っていた。時折指を数えながら、小声で口ずさみながら、付けっ放しのテレビから聞こえるキャスターやナレーションの表現に耳を傾けながら、黙々と取り掛かっていた。
紙の文字には、バラツキがあった。綺麗さのバラツキ。最初は歪で習いたてみたいな文字だったが、終わりに向かうにつれて整っていく。普段から何不自由なく書けている人と変わりない、丸文字だ。
「何か飲まれますか?」
誰かが来るのをすぐ知らせられるよう、入口の見えるテレビ側に移動した私は、声をかけた。
「じゃあそこから」
死確者は私の真横を指さした。
「そこから?」
「冷蔵庫」
上半身を曲げると、テレビの下に確かにあった。正方形の小さな冷蔵庫だ。低い位置にあったため、今まで気づかなかった。
「承知しました」私はしゃがむ。
「コーヒーがいいかな」
扉にあるへこみに手をかけたのとほぼ同時だった。
えっ? 思わず開ける手が止まる。
「コ、コーヒーですか?」
私は死確者を下から見つめた。思わず口ごもった。
「うん、コーヒー」
言い方に違和感を感じたのか、なんでそんな顔を?、と死確者は疑問の表情を浮かべていた。
「わ……かりました」
私は目線を戻し、扉を開ける。中は二段に分かれていた。高さはさほどなく、どの飲み物も横になって差し込まれていた。お目当てのコーヒーは、二段目にあった。ペットボトルのタイプのものである。
手に取り、立ち上がった。
「どうぞ」机に置いた。
「ありがと」
死確者は手を伸ばす。その顔は嬉しさだけであった。
「お好きなんですか?」
「コーヒー?」
「ええ」
「うん」コーヒーのフタを開ける死確者。「好きだよ」
「ちなみにですが、どのくらい?」
「お店を持つのが夢なぐらい」
「コーヒーの?」
「コーヒーの」
「お店を?」
「お店を」
「持つのが??」
「なんで刻むのよ」
「いや……」
そんなの、好きそのものじゃないか。大好き、いやもう愛してるレベルじゃないかっ。
「そ、それを何かに書いたことはありますか?」
「何かって例えば?」
「ええっと……その、あれです。作文とか短冊とか。そういうのです、はい」
動揺でしどろもどろになっている自分は十分理解できている。
「あるよ、両方」
ということは、死定課の担当者がミスした、ということだ。今回なら、記入漏れか認知してなかったか、そのどちらかだろう。別に特段珍しいことではない。時々あることだ。
表象化していないこと、例えば心の中で思ったなどであるが、そういうもの以外は必ず資料に明記しなければならないという決まりになっている。当の本人も覚えてない未練の判断材料になる可能性があるからだ。死定課は死期を決めるだけが仕事ではなく、未練解消のために必要な情報を出来る限り多く、精査し、書き記していくのも仕事の一つなのである。
天使も死神も完璧ではない。心血、無いのだがとにかく注ぐのは、おおよその死の時間など未練解消に直結する部分。それ以外は多少疎かになってしまうのは致し方ない……がしかし、よりによってこの情報か……
「じゃあ、それは未練ですか?」
「うーん……ちょっと違うかも。今からじゃ無理だし、仮に作れても親が困る」
「何に困るんです?」
「経営」あっさりとした返答。
「そんなに大変なことなんですか、経営って」
「うーん、実際にやったことはないけど、仕事っていうのは大変だから。何にしろ、親が困るのには間違いないよ」
仕事は大変——常日頃から身をもって感じていた私は納得し、「なるほど」と数回軽く頷いた。その揺れのおかげか、それともせいなのか分からないが、疑問がひとつ奥の方から出てきた。
「そもそも、夢と未練って同じじゃないんですか?」
「確かにそうかもね」
死確者はボールペンの頭を頬に当てた。「未練の1つに夢を叶えられなかったっていう項目があるかもしれない。けど、それ自体がイコールにはならないかな。だって、夢を叶えられなかったからこそ、得られた良い人生もあるんだから」
「そんなの、あるんですか?」
そう言うと、死確者は布団からこちら側に足を出して、まっすぐ伸ばした。
「私のパパはね、昔パティシエになりたかったの」
パティシエは知っている。ケーキやらクッキーやらを作る人のことだ。甘い物好きな私としては知らなければ申し訳ないぐらいの当然な知識だ。
「だけど、その時の彼女から、まあママなんだけど、私が生まれるっていうのを聞いて、パパは夢を諦めた。サラリーマンになったんだ」
足の先まで力を込める。
「もう少し、もう少しだけ残っていれば、その業界でかなり有名な人になってたかもしれないんだって」
「チャンスがあったと?」
「うん、ちょっとやそっとのものじゃなあ。すっごく大きなチャンス」
死確者は目を細める。
「お父さんは夢を犠牲にした、ということですか?」
「そう。まさに大正解」
両足を一気に解放した。重力に負けて、落ちる。勢い余ってブラブラと揺れている。死確者は無理に止めようとはしなかった。
「それをさ、小二とかの頃に知っちゃったんだよね。なんの拍子にどうして知ったのか覚えてないんだけど、とにかく知っちゃったの。だから私、顔を涙でグシャグシャにしながら謝ったわ。『わたしのせいでごめんなさい。ゆめをうばってごめんなさい』って。その姿を見て、パパは諭さなかった。ただ笑ったの」
そういう死確者の顔も不思議と笑っていた。
「で、頭をポンポンって優しく落ち着かせてくれた。『パパは夢を諦めたんじゃない。お前がこうして生まれて元気に育ってくれることを夢にしたんだ。優香は奪ってなんかいない、叶えさせてくれたんだ。だから、謝らなくていい』そう言ってくれたんだ」
死確者は私の方を見てきた。
「私の勝手な解釈になっちゃうんだけどさ、きっと夢っていうのは大事なことなんだけど、叶えられなかったからって、不幸だとか負け組だとか、それこそ未練が残っているわけじゃないと思うんだよね」
「それはつまり、叶えられなかった夢が未練ではないということでしょうか?」
「近しいかもしれないけど、同じじゃないと思うよ」
「成る程」
そう口にはしたものの、私は正直理解できなかった。
だが、その心から吐露した想いに嘘はなく、少なくとも死確者の人生に大きな意味を与えてくれた経験があったということは間違いないと言えるだろう。