無題(フェチの習作)
起きると、ベランダに出るスライドドアのところにかかったカーテンの隙間からは藍色を薄くしたような色がこぼれていた。
一瞬、曇りの昼なのか、朝なのか、私の頭は答えを迷った。
だって、ずっと何もないのだ。彼と暮らすようになってから、本当に何もない。
彼は私が不自由しないように、必要であろう物を先回りして与えてくれる。
そういう日が続くと、欲求とは何だったのだろうと、まず求めるものが分からなくなった。
だって、求めなくても生きていくのに必要なエネルギィは食べるものとして与えられる。
其れだって決してまずいものではない。むしろおいしい、と思うようなものだろう。
もともとあまり意識していなかった洋服も、可もなく不可もないものがちゃんとタンスに入っている。
あくせく働きに行ってた日々が嘘に思えるほど、この2LDKの世界は完璧だ。
さっき洋服のことが頭をよぎったけれど、この小さな世界は私に合うようにに作られた洋服そのもの。
ぴったりと自分に合ったそれを纏っていれば、私は満足なのだ。
何も求めるものが考え付かない。
私にとってのそういう世界を作り出した彼は、床に敷いた柔らかい布団の上で死んだように眠っている。
いつだったか、私は彼のあまりに完璧な就寝スタイルに、本当に彼が生きているのか心配になって鼻をつまんだことがある。
そうしたら、彼はふごっと完ぺきではない音を立ててむせた。
ああ、生きているんだな、と納得した私を彼は寝ぼけ眼で見つめていた。
私にとっての完璧な彼は、客観的にみるととても凡庸な人だ。
絶対に流行の雑誌に載るような所謂「イケてる」人ではない。
身長も体重もたぶん、彼の年齢の平均ど真ん中。
髪も寝起きはぼさぼさの中途半端な長さのものを、出かけるときに見られるくらいに撫でつけて。
そうして、そのごつごつとした指に鍵のついたキーホルダーの金具を絡ませてくるくると回しながら、アパートのドアの向こうにその背中が消えていく。
今日もそうやって出かけてしまうんだろうな、と珍しく朝早く起きてしまった私は、いつもと変わらず死んだように眠る彼の睫毛に唇を寄せた。
平均という言葉を地で行くであろう彼の、きっと唯一平均から逸脱しているのがこの長い睫毛だと思う。
全ての構築を完璧に行った彼でも、自分の睫毛の完璧でない様は見逃してしまっているのだろう。
私はその睫毛の弾力を自分の唇で確かめるのが好きだ。
今まで唇で確かめたものの中なら、水彩絵具のセットに入っている中くらいの筆の感触にそっくりだと思う。
それは細くても太くてもいけない。中くらいの良さがあると思っていたが、まさか平均という中くらいにいる彼の睫毛が、あの緑の柄の絵筆のようだとは思わなかった。いや、彼の睫毛はそれ以上の感触だ。
あの弾力、毛のφ(ファイ)、長さ、平均的ではないその魅力を、私の唇が気に入ってしまった。
しばらく、唇で彼の睫毛に触れていたけれど、大事なことを思い出した。
そう、そろそろ彼の睫毛の毛周期がやってくる。
彼とこの完璧な世界で暮らし始めたころ、これはとても重要なことだったので、念入りにインターネットで調べた。
毛周期というのは毛の生え変わる周期のことで、彼の睫毛は大体45日。そう、1か月半くらいだ。
その、重大なイベントに気付いた私は、唇が味わう感触を名残惜しく思いながらも、彼の睫毛から唇を引き離した。
そして、彼の睫毛の感触の素晴らしさをたいして感じられない自分の親指とひとさし指で、彼の睫毛をゆっくりと引っ張る。
思った通り、抜け落ちるべくしてその時を待っていた彼の睫毛の一本が自分の指に引っ張られて、黒光りしながら私の視界に入ってくる。
思わずその平べったい形の毛に弾んだ声であいさつしそうになって、私は思いとどまった。
彼を起こしてはいけない。まだ朝早いのだし。
私は彼の睫毛を指に挟んだまま、そろっと布団から抜け出した。
そして、壁に引っ付いた自分専用の棚にきちんと収まった缶を注意深く左手に取る。こちらは効き手ではないから何かやらかすかもしれない。この缶に触れるときにいつもそれが頭をよぎる。そして何事もなく定位置にやってきたそれ。百均で買ってきた赤くて丸い小さな缶の蓋をとる。
さあ、お友達だよ。
声には出さずに、先に缶に収まっていた睫毛達の中に、新入りの睫毛を混ぜて私は暫しうっとりとした。
ひとしきり、今まで収集した彼の睫毛を眺めて、少しむなしくなる。
やっぱり、彼にくっついてる睫毛の方がいいな。
もう、抜けてしまったこれらは残念ながら生きてはいない。
死んだように眠る彼の瞼から生えている睫毛はちゃんと生きている。
一か月半に一度毛周期を迎える度、その事実は私に彼が大事なのだと教えてくれる。
私は中身を零さないように注意深く缶に蓋をする。
そして、同じように神経をとがらせて元通りに棚に戻した。
その缶がちゃんと棚に収まりあるべき姿で静かにそこにいることを確認して、私はようやく安心するのだ。
ほっとすると、なんだか眠たくなってきた。
それで私は、布団をめくって眠る彼の隣にまたそろっともぐりこんだ。
もう、ベランダから入ってくる光は、それこそ朝だと主張するような黄色味の強い光に変化していた。
そのけたたましい叫びを発する光を遮るように私はもぐりこんだ布団を自分の顔のところまで上げた。
彼がいれば、この完璧な世界は続いていく。
私が何も求めなくても、私の必要なものは全部そろっている。
φ(ファイ)は直径のことです。
お読みいただきありがとうございました。