思い出が……***
***思い出が……***
案の定、ナッキはカンカンに怒っていた。
「今日の飲み分、沙織のおごりな」そう言ってすたすたと向かう。私を置いて私を無視して
なんだろう、なんかとても寂しくなった。
そして涙が溢れてきた。
なんだろう。
解らない。
でも涙は溢れてくる。止め処なく涙が溢れてくる。
胸が苦しくなって、締め付けられてとても痛い。
息もできないくらい痛い。
どうしても苦しい。でもとても悲しい……涙は止まらない。
どうして……
私はそこにうずくまった。
ナッキは振り返り、飛び込むように私のところに向かう。
少し上げた顔……目に映るナッキの姿がゆっくりと、スローモーションで細切れ写真の様に……落ちる……
次の瞬間叫びながらナッキは私の体を抱き包んだ。
そして私は、またここに戻っってきた。
胸の痛さも苦しみもすべて治まった……涙も……止まった。
ナッキは私をベンチに座らせた。
「大丈夫か沙織」
ナッキは私を心配する。でももう、落ち着いていた。
「大丈夫よナッキ。ごめんなさい」
ナッキはホット肩を落とした。
「どうする買い物、無理しなくても……」
「ううん。大丈夫だよ、もう落ち着いたから。走ってきたからちょっとめまいがしただけ」
それでもナッキは心配しながら
「病院、行かなくて大丈夫か」
「病院、どうして。ちょっとめまいがしただけなんだけど。大げさね」
「そうか、沙織がそこまで言うんだったら」
「うん。さ、買い物行きましょ」
それからは、なんともなかった。むしろ元気だった。
そんな私に、さすがのナッキも今日はちょっと押され気味。
居酒屋でナッキと一緒に飲んだ。
とっても楽しかった。ビールとっても美味しかった。
ジョッキ2杯が限度だけど……もう少し飲みたいけど帰れなくなっちゃう。
その日はナッキのところに泊まった。
ナッキのところにはよく泊まりに来ていた。家には暗黙の了解的にナッキのところと言えばそれで済んだ。
「ねぇ、ナッキ」
「ああ、何だ沙織」「えへへ、ちょっと呼んだだけ」
「こらぁ」と言ってナッキは抱き着いてきた。
「ちょっとナッキ、抱き着いたら暑いじゃない」
「うふふ、ちゃんとエアコンは訊いてるぜ……」
「んもう」と言う私の顔をナッキはじっと見つめている。
そして目を閉じて……私もそれに応えるように目を閉じた。
唇が触れ合う。柔らかいナッキの唇の感触が私の唇に伝わる。
何だかとっても暖かな気持ちになる。
でも、超えてはいけない様な、これ以上行ったら戻れなくなりそうな。そんな気がする。
でも、体がそれを許さない。
私の気持ちじゃない、体が止まることを拒んだ。
私の手がナッキを包み込んだ……なぜか強くそしてまた彼女の唇をせがむ。
でもそこまでだった。
私の体は求めていたでもナッキは止めた。これ以上進めては来なかった。
「どうして……」
「うん、シャワー浴びてくる」
「うん」そっかぁ。そうだよね。
「私もその後浴びるから」「ああ」そう言ってナッキはシャワーを浴びに行った。
出てくるなり冷蔵庫から缶ビールを出して一気飲みした。
「うんめぇ」と言いながら、まるで男の様に「うんめぇ」と言いながら……
私がシャワーから出てきたときにはもう4本の缶が開けられていた。
お酒弱いのに、無理して飲んで……ベットに倒れ込むようにして酔いつぶれ寝ていた。
次の日ナッキはひどい二日酔いにさいなまれた。
「まったくもう。本当に無鉄砲なんだから。お酒飲めないのにあんだけ飲むからよ」
出かける前のてきぱきお化粧。私はこう呼んでいる。
ナッキの家からだと少し早めに出ないといけない。化粧品は共通の、二人が好んで使っているものだけで済ます。
「わ、悪い。頭がとても痛いんだ。それには、吐き気も……う、ううう」
と言いながらトイレに駆け込む。
「教頭には私から言っておくから。昼過ぎからこれそうだって」
トイレからナッキが返事をする。
「お願い。頼んます……」
「それじゃ行って来るから」
私はナッキの部屋を出た。
ナッキの家から通う電車。いつもと違う路線の電車。
外に流れる景色も違う。
揺れる電車の中、いつもと違う景色を混み込みの電車の中で眺めながら昨日の事を思い出した。
どうして昨日突然涙が出て来たのか
どうして胸が苦しくなったのか。
私には解らない。
どうして……
その日ナッキは昼過ぎに学校にやってきた。
そして教頭にこってり絞られた。
「怒られたでしょ」
「ああ、大会も近いのに自己管理が成ってないって」
「ふふふ、それも体調が悪いって事にしておいたから、それで済んだのよ。これが正直二日酔いだなんて知られたらもっと怒られたわよ」
「まったくだ」
放課後の校舎屋上、生徒は立ち入り禁止。私たちは暗黙の了解。
つまり無断侵入。
ここなら誰も来ない。たまに二人で無断侵入してくる私たちの秘密の場所。それは、この学校の生徒の時から続いている。
私は一本タバコを取り出し咥え火を点ける。
そして鉄柵に肘を乗せ煙を流す。
時折吹く風がここは気持ちいい。
ナッキはその下で鉄柵に背をかけていた。
「ねぇ、ナッキ」「ん、」
「どうして昨日、やめたの」
ナッキは黙っている。
風が煙と一緒に髪をたなびかせる。少し風が強くなってきた。
そして
「どうしてだろうな」自分でも解らない様に言う。
「私は……よかったのに」「そうか……」
それでもナッキは曖昧な返事をする。
吸殻を携帯灰皿に入れ
「ま、いいか。ナッキが止めたんだったらそれでいい」
「うん、ごめん」
「そろそろいこっか」「ああ、そうだな」
その後ナッキは部活に、私は残務を終えて帰宅した。
夜、自分の部屋でスマホを見ながら
「いつだっけ、これ機種変更したの」なんて考えていた。
「まっいいか」
そして鞄から、美鈴ちゃんからもらった小説を取り出し机の上に置いた。
まだ、なんとなく読む気がしない。
大好きな作家が書いた小説。
しかもそのデビュー作。増版が中止になった作品。
いつもならすぐにでも読みたいのに、この物語だけはなんだか違っていた。
その日は手を付けることはなかった。
そして次の日も。その次の日も……また次の日も……
でも夢は続いていた。
その夢は次第に悲しみ包まれていく。次第に悲しみに
夢を見ているのが辛くて、苦しくて……悲しくてたまらない。
何度も目を覚まし、覚まされる。
そんな事が、毎日続く。
さすがに体が悲鳴を上げた。暑さと睡眠不足によって体が悲鳴を上げた。体も心も悲鳴を上げていた。
「ちゃんと寝ていなさいよ」お母さんが部屋に来て言う。
「はぁーい」ちょっとふざけた返事をする。でも心は痛かった。とっても痛い……心が。
眠ると夢が私を悲しみの中にいざなう。
ようやくあの本を手に取る。
一ページ目をめくる。二ページ目をめくる……
止まらなかった。止める気がしなかった。
何かを見つけたような。ページをめくるごとに、少しづつ悲しみが薄れていく。苦しみが……何かとてつもなく固くてそして氷の様に冷たいものが暖められ溶けていく。
解らない。何も解らないでもどうして涙が出るの。
全然悲しくないのに、それよりとても心が暖まる。優しくてそして懐かしい想いで……思い出。
そんな思い出なんて知らない。いつ私はこんな思い出を持ったの記憶はない。あってたまるもんか。ないんだからそう自分に言い聞かせる。
でも、でも。
溢れてくる思い出が、懐かしいあの人の面影が
誰かは解らないその姿も形も解らない、まして人なんだろうか、それすらも判断できない。でも人の様な気がする。
いつも傍にいて私をいつも見ているような、暖かい心のまなざし。
もどかしかった。とても、もどかしかった。
これが恋という事なら、私は恋をしていた。恋愛していた。
でもそれが、何か。なんだろう。ふわっとしたつかみどころのない霧が集まった、それより形になりそうでならない。
表現が出来ない。するなと言っている頭が。
それを表現するなと……言っていた。
私はその小説を全て読み終わった。
最後に書かれていた。
…………この物語を僕の最愛の人に贈る…………
それから私は一週間学校を休んだ。体調不良で……
一週間後学校に行くと私のクラスの生徒たちはこぞって心配していたことをかわるがわる言ってくれた。
私は生徒にこんなにも愛されていたなんて、その時実感した。教職についてよかったと。頑張ってきてよかったと心からそう思った。
あの小説を読んでから私は夢を見なくなった。
悲しい想いをする事は無くなった。
いつしか暑さは遠のき、あの活発だった日の光も大人しくなっていた。
秋と言う季節が来ていた。
彼の、亜咲達哉と言う作家の描く新刊小説が発売された。
私はもう一度、あの彼のデビュー作を読んだ。
始めよりは心が楽だった。
あの時よりは、ずっと楽だった。
読み終えても戸惑う事は無かった。
自分なりにいい物語だったと感じていた。
でも何か違和感を感じていた少しだけど……
二人お同じ人物がお互いを慈しみながら、恋をすることの意味を探し、心の旅に出るストーリー。
そして後半に登場する男の子の想いと、その男の子に宿すもう一人の主人公。
今まで空でしか、夢でしか、もう一人の自分に会うことが出来なかった。 でもその男の子の体に宿り、空にいた主人公は思いを隠しながら地上にいた自分に投げかける。
ようやく探していたものを見つけようとしていた時、地上にいた主人公はその男の子を愛してしまう。
男の子もその子を愛し始めていた。
そしてその男の子に宿っていた空にいた主人公もその男の子を愛していた。
だがその男の子は、地上にいる主人公を愛しながらも、本当は自分に宿る主人公を心から愛していた。
最後、男の子に宿っていた主人公は消えてしまう。その子に想いを告げて。
そして一緒にその男の子の記憶も全て無くなった。
主人公二人とその記憶を。
私はこの物語の最後の方が何となくふに落ちなかった。
なんで最後、男の子は二人の記憶を消さなければいけなかったのか。そして自分の記憶までも
それが物語としてあるのなら、それはそれでいい。
でも何となくこれが現実の様な気がしている。おぼろげながら。
だからかもしれない。最後に違和感を持ったのは。
そして。2学期の中間テストが始まった。
あの小説を読んですぐに中間テストの準備に取り掛かった。
今までの授業を振り返り、やって来た事を振り返り、範囲を決め問題を選出する。
その問題に受験と言う傾向を組み込み出題を組み立てる。
これは、英語を教えるナッキも同じこと。
「沙織、ヘルプ。たすけてくれぇ」と泣きつかれても、教科が違うから私は心を鬼にして
「駄目」と突き返す。
しぶしぶナッキは自分で問題を組み立てる。
以前、ナッキが題した考査で、あまりにも生徒にとっては難しすぎた問題を出題したばかりに、学年成績が極端に下がってしまった。後で指摘されていたのが未だに引っかかっているようだ。
そしてテストが終わり採点をする。
その採点結果を報告し、生徒一人一人にその後の方針を決めていく。
この作業が思いほか面倒くさい。
全て細かくとは行かなくても、そうしなければ授業の進みにも関わってくる。
ようやくひと段落着いたのは、取り掛かってから2週間が立とうとしていた。
「ふう、ようやく終わった」
「ああ、ようやくな。でもすぐに期末があるじゃんか」
「そうね。仕方がないでしょ。それが仕事なんだもの私たち教職の」
「おお、沙織もベテラン教師の様な事言うようになってきたか」
「あははは、口だけ、まだまだ」
私とナッキは、またいつもの居酒屋に来ていた。
「ナッキは飲んじゃ駄目よ。夏の時みたいになるからね」
「解ってるって。私はジュースでちびちび飲んでいますよ。それより料理、料理。腹減ってたまんないんだよね」
「あははは、ナッキは食べるの専門でお願いします」
ナッキは「まかしとき」とガッツポーズをして答えた。
「でも沙織、最近体調落ち着いているみたいじゃんか」
「うん、お陰様でね。夢も、もう見なくなったし」
「そうか、じゃ良かったな」
「うんでもね。ちょっと悩んでいるの」
「え、何だよ。悩みって」
実は最近、体重計に乗るのがとても怖いんです。
先月からすると5キロも太っているんです。幸い胸の成長期は収まっていますけど。
そうなれば、ほかのところにお肉……いや脂肪がついている事になるんですよね。
怖い話です。
そんなことをナッキに相談すると。
「あははは、そんな事気にしてたんだ。いいんじゃない今の沙織の方が大学時代みたいで可愛いよ」
「え、大学の時私そんなに太っていたの」
「うーん、太っていたって言うよりは、あれで均等が取れていたんだと思うよ。今までが痩せすぎていたんだよ。もとに戻ったていう事かな」
「ふー。そう言われると安心するんだけど」
本当にそうなのかは解らないんですけどね。
「ところでさぁ、私スマホいつ機種替えしたんだっけ」
「え、」
とナッキは一瞬顔色を変えたが。
もう忘れたのかと、機種変更してからもう4年くらいになるかなとナッキは言った。
そうか4年か。随分と大事に使っていたと思う。
今ではこのスマホのデータは、4年分の私の記憶が一緒に詰まっている。
データはそれなりにある4年分。でもその前のデータはない。
「ナッキ、これ変える前のデータ探したんだけどないのよね。どうしたのかしら」
ナッキは焦るように
「あの時、ほら確か……えーと……」
ナッキは考えながら理由を探していた様だった。
「ナッキ」私は呼んだ。ナッキと
こういう話し方をするナッキは必ず何かを隠している。いつもそうだ。話し方ですぐわかる。
もう一度呼ぶ「ナッキ」と
「ご、ごめん。黙っていた。謝る」
「な、何よ」
「沙織のスマホ水の中に落としたの私だったんだ」
「え、何よそれ」
「覚えてないのか。佑太が沙織のスマホ風呂の中に落としたっていう事。実はアレ私だったんだ。ごめん。佑太に俺が落とした事にしておいてやるよって言ってくれたから。甘えたんだ」
「そうなんだ。じゃデータも消えちゃったんだ」
「そういう事になる。ごめん隠してて」
でも実は違っていたみたいです。どうして私のスマホ変わったかそれは今だに解りませんけど……
「もう、いいわよ昔の事だから、許してあげる。それに大したデータ入っていなかったと思うからいいよ」
でも本当はたくさんの思い出が入っていました。
たくさんの思い出が……
あの作家の最新刊を手にとって読み始めた。
秋遅くになって。
いつも秋になると私は、意固地になる。
それはどうしてかは解らない。
静かに読んだ、あの新刊を。
またその小説から何か呼びかけて来る、私に
それが何かは未だ解らないけど、もう深く考えることはやめた。
たとえ、どんなに呼びかけられても……
私には、それにに応える……記憶がない。
……記憶……が失われている。
それに気が付いたのはその新刊を読んでから。
はっきりと解る。その部分だけの記憶がないことを。
だから読んだ後も、その消えた部分を補おうとはしなかった。
失われたものは、もう戻らない。それを知っていたから。
失われた思い出。
それはとても優しく、そして暖かい思い出。
でも、またそれをほしいとは思わない。
思わないようにしている。今は意固地だから……今だけは。
最終回本日22時配信いたします。




