本当の事……
***本当の事……***
宮本の結婚式も終わり、季節はすでに秋の色に染まっていた。
部屋にあるエアコンもその稼働率はぐんと減り、窓を開ける心地よい風が体に優しくまとう。
大学もあと開催まで僅かとなった学園祭の準備に忙しくなってきた。
僕ら文芸部も学園祭で販売する文芸誌と共に単行本に作り上げたライトノベル小説も出来上がってきていた。
今年は5点のラノベを出店する。もちろん各々表紙絵や挿絵などもある、その中で一番目を惹いたのは、愛奈ちゃんが書き下ろしたイラストだった。
どの部員からも絶賛で、宮村ともう一人が書いた共に異世界を舞台にしたファンタジーを分筆した形で一冊の本として書籍化した。
愛奈ちゃんのお腹は見る見るうちに大きくなり、お腹に赤ちゃんがいることが一目でわかるようになっていた。
それにつれ、愛奈ちゃんも母親になると言う自覚が芽生えて来たのかもしれない、あの薬も今では半分以下に落としても何とも無くなってきていた。
その証拠に宮村を呼ぶときいつも「高ちゃん」と呼んでいたのが、時折「孝之」と呼んでくれるようになったと宮村はまた泣いて僕に言ってくれた。
多分、赤ちゃんが彼女のお腹の中にいる間だけかもしれないが、宮村はそれで十分だと言っていた。
来年、僕らが4年生になるころには、二人の子がこの世に誕生していることは間違いない。
沙織は相変わらず勉強に没頭していた。たまには息抜きに僕のところへ来いと誘った。
「うん、そうね。ちょうど行き詰まっていたから」
そう言って来るも、僕の部屋でも辞書を開き調べ物をしている。
そんな事が何回かあり、沙織を見るその顔も少し痩せて、何か自分を追い込もうとしている姿に、苛立ちを感じるようになっていた。
そしてそれは、会うたびに感じる。沙織が僕を避けようとしている姿に。
次第に強く感じる僕を避けようとする。沙織のその気持ちが募っていることを。
そんなある日、僕は自分が書いた小説を読みながら修正を繰り返していた。沙織はテーブルでまた辞書をめくりレポートを書いている。そんな今の僕らには会話はあまりない。
ただその空間に二人がいるだけ。お互いを干渉せずお互い自分の事をその場でやっているだけ。そんな空気が二人の間をさまよっていた。
そんな時、ちょっとした事から僕らは口論となった。
お互い、そんな空気を感じながら疲れた体で、行き詰まりながら、その時言えなかった気持ちを少しづつ砕きながら。
「ちょっと、どこ行くの」
「煙草、買ってくる」
居た堪れなくなって僕は煙草を買うと言って部屋を出た。
修正していた小説のエディタを表示したまま。
すぐには戻る気にはなれない、まだ気持ちが落ち着いていない。このまま帰っても、また口論になるだけだ。
そんな思いから僕はぶらぶらと商店街を歩き、パチンコで千円を磨って部屋に帰ってきた。
帰った部屋にはすでに沙織の姿はなかった。
ふと見るノートパソコンに、エディタをスクロールした跡がある。
沙織が読んだんだと解る。加筆修正してからまだ一度も沙織には読ませていなかった。
「ふん」としながら位置を戻し、また修正に入った。そしてその日は苛立ちが収まらないまま暮れていった。
次の日、大学で講義と学園祭の準備をしてバイトに入った。そしてその日。大学で沙織の姿を見る事は無かった。
バイトが終わり、アパートの部屋の電気を付けると……異様に部屋がガランとしていた。
気が付いた時には、もうそこには沙織の荷物が全て無くなっていた。テーブルに一通の手紙を残して……
あの時と同じように……美野里が残した手紙の様に……
-------
達哉へ
ごめん、私もうあなたの前にいることが出来ない。
あなたを目にすることが出来ない。
小説、黙って読んだことはお詫びします。
あなたは何時から知っていたの。
私が記憶を失ってしまうことを……
私に付けられた病名
「特定感情消失症」
私は、私は、自分の一番大切にする記憶を失う病気。
それはいつ来るのか、そしてどの記憶が無くなるのかは分からない。
あなたはその事を知って小説にそれを書いた。
貴方がどうして、いつ知ったかは分からない。でも書いていることは、私がこれから迎える事。貴方はそれを書いた。
私はずっと隠してきていた。
私は今までの記憶を失いたくはなかった。本当は。
ナッキの事も、私を育ててくれた両親の事も、喧嘩ばかりしている佑太の事も……。
あの時、公園であなたの小説を拾い上げ、そして読んであなたの暖かさに触れて、初め私はあなたに甘えた。
もしかしたらこの人の事を一番に想えば、私の大切な人の記憶を守れるんじゃないかって。
でも、それは違った。大きく違ってしまった。
私は、あなたを達哉を本気で愛してしまった。本気であなたを失いたくないと思った。
私の中で一番失いたくないもの。それはあなた、達哉。
教育実習の時、私生徒達と話したの。自分にとって一番大切なものは何かって。その時、浮かんでくるのはあなた達哉の事しか浮かんで来なかった。だから勉強をしだした。
少しでも貴方だけしか考えられない自分を変える為に。
貴方の記憶が守られる様に。
こんな形であなたの前にいられなくなったけど、これで多分貴方の記憶は残るかもしれない。辛い記憶として……
辛い記憶。それでも貴方の事を思い出すことは出来る。どんなに辛くても、達哉の事は消されずに済む。
だから、その辛さが薄れない様に、私はあなたに会うのをやめます。
ごめんなさい。達哉、ごめんなさい。
私が一番愛した人。そして一番失いたくない記憶。
今までありがとう達哉。
亜咲達哉へ
今村沙織
----
僕はその手紙を読んで、沙織の手紙を読んで……泣いた。
-----
泣いた。あの時よりも、美野里と別れた時よりも泣いた。泣いた。 枕を顔に強く押し付け、ほのかに香る。沙織を感じながら泣いた。
嗚咽と涙。それをその枕に押し付けて……
それからしばらく僕は大学に行くこともなかった。
バイトにも、恵梨佳さんにしばらく休むと。
彼女は何も訊かなかった。「ただ頑張って」と一言言ってくれただけで……
何回か宮村からも電話があった「どうした」と
ただ具合が悪いとだけ伝え「行くか」と訊くが、「それ程じゃないよ」と言い返した。
いつしか学園祭も終わっていた。
そんな時、僕は有田優子のマンションのドアの前にいた。
多分、彼女に会おうとして来た訳じゃなかったのだろう。無意識に彼女のマンションに向かっていたのだろう。
インターフォンを押す。静かにドアが開いた。
彼女は何も言わず。そっと僕の顔を見つめて中に招いた。
あの居間のソファに座り、静かに
「心配していたよ」と言った。
その一言で、僕はまた崩れた。保っていた何かが崩れた。
そんな彼女は僕を優しく抱き抱えてくれた。彼女の胸の中に。
「うん、いいよ。いいよ。思いっきり泣きな。思いっきり……」
いつしか僕は彼女を有田優子を抱いた。
何かを忘れるように。すべてを忘れさせたい様に。
彼女はそれを受け止めた。僕のすべてを受け止めてくれた。
もう彼女の部屋の居間から見える小高い山は次第に色を換えようとしていた。11月になり、季節は冬へと向かっていた。
あれから僕は、大学にもバイトにも行かず、有田優子のところへ通っていた。彼女から、めんどくさいから一緒に住まないと言われたが、まだあの町を離れる気にはなれなかった。
そして、僕の書いたあの小説へのアドバイスも怠らなかった。
「これ、私が手を付ければその時点でもう意味がなくなるわ。私が出来るアドバイスは頷くことだけ。その部分の修正に対して頷くだけよ」
「ああ、そうだね。そうしてくれないと僕の作品じゃなくなってしまうよ優子」
「ふふふ、そう私は美野里ちゃんが昔、あなたにそうしてあげた様にしてやる事しか出来ない」
「また美野里の事出しやがって」
僕は彼女の後ろから抱き着いた。そして静かに
「そう美野里ちゃん……もしあなたがまた沙織さんとよりを戻すことが出来るのなら、あなたは迷わず行くべきよ。沙織さんに。どんな結果が待っていようとも、あなたは沙織さんに向かうべき人だから」
「…………」
「あ、私は大丈夫よ。たまにあなたが私の家政婦兼オナペットとして来てくれればそれでいいから」
「はぁ、返す言葉がありません」二人で笑い合った。
「来週よねそれ出稿するの」「ああ」
頑張ってね。そう言って軽くキスをした。
ある日、有田優子のマンションから僕のアパートへ帰る途中、あの公園で僕を待つ人がいた。
それは、沙織の弟、今村佑太だった。
彼は僕が公園の前を通り過ぎるのを呼び止めた。
「おい、そこの元、姉貴の彼氏」
僕はその声に振り返った。
そこに居たのは、ブレザーのボタンをはずし、ぼさぼさの髪をした沙織の弟、佑太。少しためらったが
「久しぶりだね。確か佑太君て言ったけ」
「ああ、」彼はぶっきらぼうに言う
「お前さぁ、今までどこ行ってたんだよ。かなり待ったぜここで、おかげで風邪ひいちまうとこだぜ」
「ん、僕に何か用事があったの」「だからさみぃて言ってんだろ」僕はそっかと言って自販機からホット缶コーヒーを一つ渡した。
「ほれ」「お、ありがてぇ。サンキュー」と言ってごくごくと飲み始めた。
「ところでどんな用事なんだい佑太君」彼は、ハッとして口を拭きながら
「俺さ、あんたらの事とやかく言うつもりはないんだけどな、お前ら別れたんだろ。多分そうだと思うがよ、それにしても姉貴をあんな状態にしてよくへえへえとしていられんなと思ってよ」
「あんな状態って」
「姉貴よう、多分別れた頃からだろうけど、毎日泣いてんだ。毎日目を赤く腫れらかしてよう。夜遅くになると姉貴の部屋から聞えてくるんだ。達哉ってあんたの名前がよう。それが毎日毎日、姉貴が疲れて寝付くまでよう」
僕は呆然としながら佑太の話を訊いていた。
「まぁ、いろいろあって別れたんだろうけど、姉貴をあんなままの状態で別れさせるなんて、最低だと思ってな。俺……」
一発あんたをぶん殴りに来たんだぁ
ゴシャツ、
佑太のこぶしが僕の頬を殴りつける。
僕は地面に倒れ込んだ。そして佑太は涙ながらに
「俺はなぁ、あんな姉貴見ているのが嫌なんだ。あんたと一緒にいた時の、あの姉貴の顔が好きなんだ。それをあんたは取っちまいやがったぁぁ」
佑太はもう一発僕を殴ろうとして、その場に崩れ落ちた。
「俺はよう、姉貴が好きなんだ。あの姉貴がよう。例え姉貴の記憶が、俺の事綺麗さっぱり忘れてもよう、俺の記憶だけが無くなったとしてもよう。
俺は姉貴が好きなんだ。
俺ら兄弟だし、家族だから。いや、例え家族じゃなくても、兄弟じゃなくても、俺の事忘れても、姉貴の事見守ってやりでぇんだよう」
そう言って地面を何度も殴りつけた。何度も何度も。
「佑太……」
「ゆうたぁ……」
僕は涙を流しながら、何度も地面を叩き付ける佑太を抱き抱えた。
「ごめんっ、ご、ごめん。ごっめん……」
叫びながら僕は佑太に詫びを入れた。彼が佑太がこれほどにしてまで……沙織が未だ僕の事を忘れずに、僕の事を愛したまま苦しんでいたなんて……
僕は卑怯だ。最低だ。佑太に殴られて当然だ。
僕は、はっきりと解った。沙織の事をまだ、いいや、ずっと愛していた事を。
僕は沙織から初めて知らされた、沙織の病気に脅えていたんだ。
でも沙織はその病気とずっと戦っていた。一番つらくて一番怖かったのは、沙織本人だったのに。
僕はまた美野里の時と同じ事を繰り返す所だった。
今なら、まだ間に合う。例え、僕だけの記憶が彼女の中から、消し去られ様とも。例え、僕の事が解らなくなっても。
僕は いい
僕はそれでもいい、例え沙織の病気が発症しても、それまでの間でも。僕は沙織を愛する。愛し続ける。どこまでも……
「佑太、ありがとう。目が覚めたよ。お前のおかげで」
佑太は顔を上げ、その涙で見るも絶えない顔で
「あ、亜咲さん……」
「達哉でいい。お前の兄貴になれるかもしれないからな」
そして僕に抱き着きながら大声で泣いた。
「達哉さん」と叫びながら
僕はすぐに沙織の家に向かった。沙織を僕の中に連れ戻すために。
家に向かう途中、佑太は
「達哉さん、さっきの事は内緒でおねげぇしやす」とあの時初めて会った佑太に戻っていた。
沙織の家に着き、僕は沙織の両親に詫びを入れながら、自分の気持ちを素直に話した。
沙織のお母さんは、涙を浮かべ、お父さんは、そんな娘を思う僕を暖かく迎えてくれた。そしてここで、この場で沙織と話をさせてくれと両親と、その後ろで少し晴れ晴れしく僕を見つめる佑太の前で言った。
-----
しばらくして、2階から降りてきた沙織の姿は、僕が想像していた沙織より酷かった。
僕は沙織をこんなにしてまで苦しめてしまったと、改めて自分の身に訴えた。
「沙織」彼女を見て呼びかけた。
だが無言で、僕の前のソファに座った。
そして手を握りしめ、下を俯いている沙織にもう一度名前を呼んだ「沙織」と
「どうして、どうして来たの」俯きながら小さな声で沙織は言った。
「迎えに来たんだ。とはいっても今、沙織が帰る家はここだけどね」
沙織は黙っていた。そして
「あなたは私をどこへ連れ出そうとしているの」
「もちろん、僕にところに」
「貴方は読んだんでしょ、私が置いてきた手紙を」
「ああ、読んだ。読んだから知っている君の病気を。君がどうして僕の前から姿を消したのかを」
「それなら、どうして今来るのよ。家にまで押しかけて」
「そうだ、押しかけて来た。もう一度君を、沙織を僕のところに戻すために」
「そんなこと言ったって、私の記憶は、あなたの記憶が消えてしまうかもしれないのよ。私の気持ち解っていないじゃない。あの手紙読んでも、全然あなたは解っていないじゃない」
沙織は声を大きくして、僕に怒鳴るように言う。
「そうだよ、解ってない。解りたくない。そんな事。そんな事俺は解りたくない」
僕も声が大きくなった。それでも沙織の両親は黙って僕らを見守ってくれていた。
「あなたは馬鹿なの。私はあなたの事、達哉の事忘れたくないから、忘れたくないから辛くても、どんなに辛くても達哉の事失いたくないから……こうしたのよ。
そんな私の気持ちも分からないほどの馬鹿だったのあなたは」
「ああ、大馬鹿だ俺は。例え沙織が俺だけの記憶を失くしたとしても、俺はそれでいい。
だから、俺はそれまでの間でいい、いやそれからも俺は沙織を愛し続ける。だから俺は大馬鹿なんだよ」
「ば、ばか。貴方が辛いだ、だけで、しょう……」
沙織は涙を流した。たくさん沢山の涙を流した。馬鹿、馬鹿と言いながら。
「沙織、戻って来い。僕のところへ。そして一緒に作ろう二人の思い出を。例えそれが失わようとも、めいいっぱい二人で思い出を作ろう」
沙織の顔はもうぐちゃぐちゃ。涙に鼻水、髪は乱れるは。でも、でもその表情は今まで見た事が無い位、幸せな表情だった。
そして、涙と共に肩を揺らす嗚咽で声にならないまま頷いた。
そして「達哉ぁっ」と叫びながら。大泣きした。
それを傍でずっと見守っていた沙織の両親も目が濡れていた。
佑太は、薬指で鼻をヘンとやって、晴れ晴れしい顔をしていた。
やっぱこいつは、僕らより一枚も二枚も上手のような奴だった。
そして歪み消え始めたキャンバスに再び思い出が描かれた。
だが、一度歪み始めたそのキャンバスは、もう……




