光も音もあなたのもの
喧騒に追い立てられるように、私は橋の上にいた。
真っ暗闇の底に、淡く明かりが見える。正確を期するならば、それは月のような明かりだ。自ら光るのではなく、地上にあって煌々と光を放つ街灯のおこぼれ。それで輝けるなら、とても幸せなことだと思う。輝くことのできないちっぽけな生き物は、そのおこぼれにだって憧れる。
後ろで括った髪がうなじに触れた。ヒールを鳴らしながら橋の上を進む。脚がパンパンになろうと、今日は歩きたい気分だ。どうせ明日からは祝日を含む三連休、多少の筋肉痛なら、二十代後半の私は十分治るだろう。
何があったのだったか? ……どうだっていい。これが女という生き物の宿命だと、母はいつでも言葉無いまま私に教え続けてくれたから。それでも破れたスカートを隠す自分の右手が何だか滑稽だ。
今一度、私は水面に視線を移した。悠々と流れているように見えても、その明かりの裏側には深い暗闇が横たわる。
近くの鉄橋を電車が走り抜ける。ちょうど私を追い抜いていくとき、車内の明かりが川に映って闇を照らし出した。かすかに、自分の顔も私の瞳に映り込む。水面は鏡のようだった。ふと脳裏をよぎる光景。
――床に散乱した鏡の破片を、手袋もつけずに拾う。
そのみすぼらしい背中は、だけど私の救いだ。だって今目の前にいるのは未来の私だから。
いずれこうなることはわかっている。ならばいくらでも自分の未来予想図は眺めよう。他人の絶望を笑い、あるいは憎んで、遠ざけ続ける人間は、いつか自らの身に降りかかる絶望に耐えられないだろうから。大事なのは未来の自分であり、そこへの積み重ねだ。ならば、他人さえも糧にするその行為をだれも否定できはしない。眼前にいる母親を嘲りもせず、悲しみもせず、ただ受け止めることに何の非があろう。それによってどれほどの報いがあろう。
涙が頬を伝うはずはなかった。
知っている。幾人もの詩うたいが向かい合う『あなた』は私のことではないと。たとえどれほどの人間を救う歌も、そのメッセージが包み込んでいる銀の銃弾を消せはしない。
街角には、大きな声を張り上げて青年が歌っている。そこに絶望の色はない。確かな地面を一歩一歩踏みしめて、噛みしめて歩くような詩とメロディと声が、道行く人々の視線を引き寄せている。とても上手いわけではない。彼を見る視線のいくらかは好奇の色を帯びているし、あるいは迷惑そうに睨み付ける背広姿もある。だが、誰一人として彼の思いを否定しようとはしない。
私だって否定はしない。誰も傷つかない世界や、愛を確かめ合える人がいるのなら、それはとても幸せなことだ。それは人類皆が望み続けていて、希求されるべき理想の形だろう。
だが、世界に完成はない。必ず運命は一秒ごとに針の先端を隣の目盛に突き付ける。逃れ得ない不幸が人の心を刺す。そこから染み出した血液が、『痛みを分かち合う』という美徳によって不幸を連鎖させる。
人が理想を追い求める限り運命がそれを遠ざける。そうして運命の針は何周もまわり続ける。それが止まった時、そこには理想も現実もない虚無が残るだけだ。予め完成していなかった世界が完成することはないのだろう。
だからいつも、人の言葉は絶望という銀の銃弾を隠したまま世界に放たれている。
――母親の指先は真っ赤だった。
何気なく、私は洗面台に取り付けられた鏡の殻に視線を止めた。自分を真っ直ぐ見返し続けてきたあの腹立たしい板の裏側には何があるのか、と。今から思えば、それが知りたかったのだろう。自分を見なくていい世界になら、自分の理想の断片だけでも垣間見ることはできるのではないかと。
それでも、結局何もなかった。たとえ自分がいない世界があったとしても、そこには理想も現実もない。ただ無機的な板が、じっと立ち尽くしていた。血の通わない客観の世界の裏側には、血の通わない虚無の世界があるだけだった。
自分が積み重ねてきた失敗を忘れ、自分が生み出してきた罪業を忘れ、ただそこにあれたら、と思う。今の私には、記憶喪失はこの上ない救済だ。
世界に絶望し、未来に絶望し、その割に命を自ら断つ勇気はない。ちょっと面白いと思う。見下し続けた世界と自分に見下されている気分だ。それならばいっそ、気づけない不幸で他の不幸を消し去ってくれればいい。
それなら備忘録が必要だ。今自分の中にある思考などどうでもいい。ただ一文、すべてを失った後の自分に残さなければいけないフレーズがある。
「何も思い出すな」
苦しい世界から逃げる言い訳を与えられるのだ。気づけない不幸は不幸とすらいえない。ただの出来事だ。
そうだ、それがいい。
――破片に男の顔が映りこんでいた。
嫌悪以外にその表情に映る色はない。目にも、頬にも、口にも、その顔すべてが醜悪で人間的な感情に歪められていた。母親がその破片を持ち上げると、赤い汚れが金属バッドの先端を掠めた。さも男に割られた鏡が血を流しているようにも見えたが、すぐに間接的な明かりが私の視界を奪って、実態がつかめないままその光景は過ぎ去った。
あの時、父親は私にどんな罵倒を浴びせたのだったか。記憶の海にそのフレーズは紛れ込んでいて掴みだせない。どうせ月並みで、思い出す必要もない海水だろう。
考えることはやめてしまいたかったけれど、考える以外のことはあの男に禁じられていた。物を食べることも、あの男の目を盗んでしていた。寝付くのは男より遅かったし、目覚めるのも男より早かった。鉛筆も教科書も持っていなかったし、キッチンには母親が何もせずに突っ立っていた。
気づいたら、考える癖がついていた。
信号を渡ろうとしたところで、突然自分の体が傾いだ。無様に倒れて、起き上がるときに足元を見る。右のヒールが路傍の石を踏んでいた。
誰も悪人にならない世界ならあるのに、誰も善人になれる世界はない。その理由は何だろう。石を踏んだ自分に問いかけて、導き出された答えに安堵のため息をついた。
不幸なのはこういう思考なのだ。
何気ない障害を踏んづけて、足を掬われたのは誰だ。俯いていたくせに足元を見もせずに自分は何をしていた。振り返れば、いつの間にか街灯のついた道が伸びている。黒く見えていたアスファルトが照らされて、少しだけ白い。
少し笑って、たまらず走り出す。ヒールは邪魔だ。五歩で脱ぎ捨てる。荷物も邪魔だ。五歩で投げ捨てる。元来た道を、前へ。
どんどん腹の底から滾るような喜びが湧き上がってきて、気づけば私は大笑していた。ストッキングが破けても、足の皮が破けても、前へ走る。
街角に歌う青年は希望を世界のかたわらに振り撒く。それを追い越して、ヒールの代わりの靴にする。
橋の上に躍り出て、髪を縛るゴムを解いて、今だけは希望の風を体全体に纏う。
近くの鉄橋を電車が走り抜ける。ちょうど私とすれ違うとき、車内の明かりが川に映って闇を照らし出した。街灯の明かりを背負った私が降ろした真っ暗なシルエットが、波間に揺らいで、電車とともに過ぎ去っていった。