Prologue 平凡な日常ブレイク
「離婚しましょう。」
そうさらっと大事なことを言われて時が止まったかのように思考も体も固まってしまった。
俺は凡人で健全な一般的なサラリーマンの夫なのでとやかく言うのは勘弁してほしい。
思わず聞き返す言葉が出なくて嫌な沈黙だけがこの空間に拡がっていくのをただただ何もせずに感じていた。汗が背中を伝っていくのがうっとうしかったが拭くことができなかった。
だが、いつまでたっても返事がないのに耐えかねたのか彼女は再び繰り返す。
「離婚しましょう。私とあなた。」
は?ちょっと冗談にしては笑えない勘弁してくれよ、などと言ったありふれたことさえ言えない俺はチキン野郎だった。
結局、彼女が用意周到に近辺の整理までしていたことに気付かなかった俺は鈍感で間抜けな夫で、彼女は強かな妻、いや〝女〟であったのだろう。
そのまま気の抜けたように彼女の言葉が俺の頭を通り抜けていくだけで、解決策どころか現状に対応することもできずに彼女との話は終わり、そのまま彼女は家を出て行った。
また後日、俺が落ち着いてから弁護士を交えて今後のことを話しましょうと淡々と述べて颯爽とウチの敷居をまたいで出て行った。
それからの俺はどうしようもなく情けなさと疑問が頭の中でグルグル回っていくことで精一杯で今後についての対応や現状への理解まで至らなかった。
どうすんだよこれから・・・?
ああ、・・・なんも考えたくねェ・・・。
どんだけ弱い人間なのかを思い知らされた。
メンタルが弱すぎた。へこんでばっかで前に進めなかった。
「勘弁しろよ・・・。」をどれだけ言ったか分からない。
こんな感じでその夜は更けていった。
そして悪夢の夜から一週間後、彼女からの連絡を受けて弁護士事務所に呼び出されまたそのままいきなり離婚についての詳しい説明を受けることになったのだ。
自分の意見をこんなにスパスパいってくる奴だったか?などと今更ながら彼女の変貌に順応できていない俺だった。
「慰謝料、親権についてですが・・・。」
目の前の小奇麗なかっこした化粧クセェババアが何やら言っているのだが俺は目の前にいる〝元〟妻に対してまともに見れずにいた。
そのままなし崩し的に離婚の話し合いは進んでいき、いまさらこの崩壊の理由のことを聞き出しにくくなっていった。
だが、次回の話し合いについて日時や場所などを決めている時に思い切って彼女に尋ねてみることにした。
「俺と離婚するのは・・俺が原因・・か?」
苦し紛れに出た言葉は息絶え絶えで、情けない質問だった。
そんな質問を投げかけた俺の顔もさぞかし滑稽であったろう。
ババアが若干顔をしかめ、その問いかけに何か言いだそうとしたのに手をババアの目の前に出して制し、こともなげに言い放った彼女は知っていたどの顔をも見せなかった。
「ええ。そうよ。」
なんだその顔は・・。見たことねェぞ・・・。
彼女の顔は輝くようで艶やかな笑い顔だった。
彼女の顔を見た瞬間俺は悟っていたのかもしれない。
いつのまにか外堀やらなんやら固められ、慰謝料など細かいことは円満に解決し和解であったという風に俺たちの離婚は終結した。
マジで女性不審になってしまった。
よくよくこのことを後日考えてみたんだが、危機感のない俺だからこそ彼女の手のひらで転がされただけで、普通ならもっと殺伐で泥沼な離婚裁判になっていたんだろう、というのがとりあえずの結論だった。
「あなた〝達〟とはこれから会うことは無いでしょう。お元気で。」
最後に交わした言葉がこれである、なさけねぇ。
彼女の後姿は俺の記憶には無い〝女〟だった。
俺の良き〝妻〟であり娘の良き〝母〟であった彼女は恐らく幻想であったのだった。
俺の知らない服、イアリング、ネックレス、香水すべてが俺の五感に訴えかけていたのがなにやら俺を嘲っているようで憎らしかった。
というかさらりと流したが、俺たちには〝子供〟がいたのだ。
それも小学5年になる娘が。
どうしようもなくテンパった俺はとりあえず実家に娘を預けて離婚の話し合いをしていた。
彼女の最後の言葉の通り娘は俺に親権がある。これは彼女がそのように誘導した節があったのだが、今更女であることを見せつけた彼女にわざわざ親権を譲る気もなかったのですんなり俺は受け入れた。
「あの子にはあなたに話す前に伝えていたのよ。どっちに着いていきたい?って聞いたらコンマ一秒かからず『父』ですって。本能的にあなたの方が大事 にしてくれるって思ったのかしら(笑)」
彼女はカラカラっと笑いながらなんでもないことかのように話していたが、その時には怒る気力が俺から無いのに気付いていたのだろう。
今となっては問いかけようもないのだが・・。
そんな俺の情けないエピソードはともかく娘が即答したのはうれしいやら恥ずかしいやら。
いや、本来は喜ぶべきことなのだろうが心を折られた今の俺には娘との将来が追い打ちのように苦痛に感じられた。
これから二人でやっていくのだから支え合っていかなければならないのだが、どうやっても幸せになるイメージができないのだ。
どうやら俺も良い〝夫〟でも良い〝父〟でもなかったようだ。
というか、最近仕事で遅くまで帰らなかったり、休みに寝てばかりで娘との会話が思い出せない俺を選んだ娘の選択はいわいる〝消去法〟であったのだと思っていた。
実のところ今は〝元〟妻の面影がある娘に会いたくないというヘタレな心境なのだが・・・。
しかし、やらねばならないことは山積みであったため俺は宙ぶらりんの気持ちのまま娘との久しぶりの対談をすることになった。
最近になって発症した女性不審は割と俺に影響を与えていた。
そう、小学生とはいえ身内の女というカテゴリーにトラウマを植え付けられていた俺には気が重かった。
ということで、下手に出るかのような卑屈さで俺は娘が好きと聞いていた馴染みのファミリーレストランに娘と二人きりで今後の生活について話すことにした。
その情報も何年前に聞いたのだったか・・?
昼ごろ店に入店したオレは久しぶりに禁煙席へと着くことになった。もちろん仕事は休みを取ってだ。
しばらく仕事は有給をとることにして娘の希望に沿った生活に移行しようかなとぼんやりと思いつつドリンクバーとハンバーグランチを店員の若い女性にキョドりつつ頼んだ。
その様子が若干怪しかったのは御愛嬌ということにした。
中年のおっさんが情けなさ過ぎて凹んでダメージを受けていたのだが、娘は気にした様子もなく「父、オレはオレンジジュースにするが?」と問いかけてきた。
オレッ娘が流行りなのかなど思い苦笑してしまったのはいつだったかな?としょうもないことが頭をよぎり皮肉な笑みを浮かべつつ娘と一緒にドリンクバーへと向かうため席を立った。
その後、うまいか?などと他愛ないことを会話しつつ注文してテーブルに届けられた食事に舌鼓を打っていたがあまりにも娘の雰囲気が穏やかなので、女はこんな時強いっていうななどアホなことを思っていたのがいけなかった。
「そういえば離婚というのはどんな気持ちになるのだ?」
ぶっ!思わず飲んでいた食後のホットコーヒーを噴出してしまった。
まさか実の娘にそんなストレートに傷をえぐられるとは思っていなかったのだ。許してほしい。
しばらく咳き込んで心を落ち着かせてから答えることにした。
子供ってほんと無〝邪気〟だわぁ・・。
「う、うぅーんと・・。悲しいよ。」
なんだそれは。小学生の読書感想文か。
「そっか。」
冷めてねぇか!?もっとあんだろ!
・・・子供ながらに察しているところはあるのだろう。
深く追求してはだめだと。
「まぁ女は星の数だけいるさ。気にしない方がいいぞ。」
どこのおっさんのアドバイスだよ!誰から聞いたんだよ!
・・子供はすぐ聞いたことを真似するから親父かだれかから聞いたんだろ。
ふぃーっと深呼吸しながら努めて冷静にその言葉に応えることにした。
・・・すこし口元がヒクついていたのは気にしてはダメだ。
「あ、ありがとうな・・。それで!あれだー・・。
その・・。これからどうしたいか・・っておもってなー。父さん。
お前のことだからなー。ハハッ・・・。
いや、どうしたいかっていうか、どうして父さんに着いていこうって思ったのかなーって。」
馬鹿か俺は・・。流石にそれはねぇよ。自分で自分を絞め殺してぇ・・。
「んー?よくわからんが・・。オレは弱っている、もとい弱い方はどっちかくらいわかるぞ?」
全俺が泣きました!!!!!
顔を思わず伏せて涙を見せないようにしていたのだが、どうしても体の震えを止めることができなかった。
その震えがどんな感情からくるのかもわからず俺はただただ震えが止まるのを待っていた。
そんな俺に気を使ってか娘はドリンクバーの方へと向かって行ったようだ。
いや、ただドリンクが空になっただけかもしれないが。
数分後、ずずぅーとストローでドリンクをすする音を聞くと何やら馬鹿らしくなってきて自然に震えが収まった。
どうしよーもねぇな・・。
「・・・そっかー。わかっていたんだなー。まぁそんな弱そうな父さんについていくことにした、と。
なるほど、うんうん。
か、母さんは強いもんなー。」
失笑もんだ。これはひどい。
俺が〝強さ〟を知ったのは最近だと言うのに。
「そ、それで、父さんに着いていくことにしたのをほ、本当に後悔・・・していないか?」
視線を合わせていられなくて顔をそむけてみたら硝子の窓にヨレヨレのTシャツに古びたジーパン姿でろくに手入れもしていない髭ジョリジョリの中年がそこに映っていた。
ていうか俺だった。
そんな俺の姿を真っ直ぐ見据えている娘は体型は起伏のない少年のようだった。
写実的な鷲のイラストが描かれている黒のロングTシャツに短パン・サンダル姿の活発というか洒落っ気が感じられない目つきの悪い子供だった。
かろうじて伸ばしている黒髪がポニーテールに結ばれていることから女児というのが分かる。
髪をまとめているゴムには変な顔のライオンがついている。
ダセぇ。
だが顔立ちは母に似かよったものだったので中性的で整っていた。可愛い系でなく綺麗系な将来性である。
俺に似ていると言われて喜ばないであろう目つきの悪さが遺伝として父娘の唯一つながりように感じた。
沈黙がいいようのない気まづさを伝えたのか、少し周囲の目がチラチラ感じられる。
見てんじゃねぇよ・・。とばかりに横目で睨んでしまった。
すると何人かはあわてたように視線をそらしてしまっていた。
なにやってんだ・・と少し自分に呆れていると少し高いソプラノボイスが前から聞こえてきた。
「ハッハー。なんだそんなことか?
オレは後悔などしてないさ。
むしろそろそろ我慢の限界と言ったところだったのでちょうどいいタンミングだったさ。」
久しぶりに聞いた我が娘の声は明瞭で聴きやすかったが、どこか他人のもののように感じられた。
だが、そのいいように思わず「我慢?」と聞いてしまった。
俺ってばどんだけ余裕ないんだよ。
「母は気に入らなかったのだろう。
性格的に合わない、というのが表向きだがとどのつまり〝本能的に離れていった〟のが真相だよ。
父、ではなくオレのことだがな。
授業で習った言葉でいえば〝冷戦状態〟だった。」
びっくりどころではなかったが俺には問い続けるしかなかった。
「えーっと・・つまり仲が悪かった?母さんと?」
「うむ。」とにんまり笑う娘に悪役顔だなとしか感想が持てなかった俺は本当に今まで父親でもなかったのかもしれなかった。
「気付かなかったよ。」と普通の答えしか出せなかった。
「だろう。」と、してやったり顔の娘は俺との血のつながりを疑いそうなものだったが、とりあえず俺の女性不審はやっぱり身内によって育てられそうだなと呑気に考えてしまっていた。
そこまで聞いてみたら更に聞いてみたくなった。
毒を食らわば皿までというやつだ。
「いつぐらいからそんな感じだったの?」
「そーだなー・・。父が大阪に一時期赴任していた時のことは覚えているか?」
「あぁー、・・っと四年前くらいかな。半年くらいいたっけ。」
「うむ。オレが小学二年になる少し前、母は同窓会にいって近況を当時のクラスメイトの級友たちと話し合い、楽しんできた。」
「へぇー。」
「そして、その三日後当時の彼氏とやらとホテルでイチャコラしてから何回か楽しんだ。」
「はっ?」
「まぁそいつとはもう会ってなかったが、次にそいつの前につき合っていた当時の先輩とホテルに入っていった。
で、イチャコラしてつきあったのだろう。
ハッハー。お盛んなことだったよ。」
「お、おぅ・・。」
「で、次に・・「まだ!?」
「合計32人だったかな。そこで海外の外資系社長とも会っていた。
いや、〝出会ってしまった〟のが正解というのかな。
で、運命的な出会いをした二人にとって〝我々は〟邪魔だった。
しかし、男にも邪魔な存在や都合があったわけである程度の年数が掛かった。
要するに計画的に父は離婚をさせられたのだ。
ハッハー。
強かすぎる〝雌〟に引いてしまったよ、うむ。」
一息とばかりにストローでジュースをすする音が気が抜けるのを促しているようでうなだれてしまった。
昼ドラはあった!!ってか?
「そこで生きるためには父を選ぶしかなかった、というか着いていったら死んでたかもなー。
〝不幸な〟事故とかでぇ。
ハッハー。
冷戦状態にしていたからこそ意志は伝えれたのかもな。
まったく危ない危ない。
悔やむ必要はないぞ、父。
あの雌はいつかは離れていただろう。
隠すつもりは父に対してはあったが、オレにはなかったしな。
本能的に〝あれ〟は結局〝ああ〟で、父には荷が重かったのだろう。
だからそう青い顔をするな、父よ。
オレは大丈夫と言って気丈に振る舞うつもりはないが、同情されるのもごめんだね。
尖りたい年頃なのさ、オレは。
え?最初から夫婦に愛は無かったのか?
おいおい、そんなこと子に聞くものではないさ。
愛はあったのかなんてあったのか知れないし無かったかも知れない。
ただオレに言わせれば男女の愛なんぞ尊い信条もってないな、としか言えないさ。
ん?じゃあオレを産んだ理由はって?
そんなの知らないさ。
知ってどうする?
オレたちが気付くことができなかった過去にチャンスはあったさ。
でも活かせなかった。
ならば、愛は〝築く〟ものであって〝気付く〟ものではなかったということなのさ。
今回得た教訓は多分そんなものなのだろう、きっと。」
俺の娘に引いてしまった。
ていうか誰だこいつ。
小学生の振りした厨二かよ。
なんだか矛盾的な言い回しだがこれは俺の心が目茶目茶に踏み荒らされ混乱しているのだろう。
ここでドラマなら怒りに任せて小学生の顔をぶん殴るか抱きついて二人で涙を流すのだろう。
しかし、俺には抱きつくことはおろか、ぶん殴るのに触れることすら恐怖していた。
得体の知れなさがキモチ悪いぃ!と思ってしまった俺はなるほど男女の愛どころか家族の愛すら〝築く〟ことができてなかったのだろう。
とりあえず癖みたいなもので顎ヒゲを抜きながら目の前の娘?を観察してみる。
え?昼ドラの内容?もうお腹いっぱいです。
平凡なんです。勘弁してつかぁさい。
あいも変わらず無愛想な餓鬼の面を眺めていると不思議な気分になってくる。
なんか背筋がゾクゾクするのだ。
背徳的な意味ではなくて。本能的・・?
忘れ去った根源的な恐怖?
動物園の欠伸している猛獣などでは味わえないスリル的な感覚がよみがえってくるような気がする。
「お前ってホントに俺の子供?」
前後の話から考えてみると最悪な問いかけだがふと言ってしまった。
しかし、その言葉に込められた意味を感じ取ったのだろう。
娘?は少しびっくりしたかのようなリアクションをとった。
鋭い目つきを少し見開き、ストローをかじっていた口を開けたのだ。
「やっぱり〝父〟には・・。
いやぁ・・。
はっはー。」
「なんだそりゃ?で?」
「ん?」
「俺の子供?」
「〝父の子〟だよ。
まぁ、DNA鑑定したければすればいいさ。」
「んなアホな真似するか。
いや、アホなのは俺か・・。」
「でも・・。半分はちがうさ。」
「違うって?」
「んーーっとー・・・。」
「なんだよ、あんま引っ張っても面白くねェぞ。」
「じゃあ言うか。
父よ、オレはグリフォンなのさ。
ハッハー。」
ぐり・・?なんだって?
この言葉から俺の平凡の終結は決まったのだった。