第1話
見上げれば真っ青な空。見渡せば眩しいばかりに緑に萌える木々の葉。一日中歩きっぱなしのようなサラリーマンは暑さにウンザリしながらハンカチで額の汗を拭う。
そんな夏のある日、また俺の通う県立第一高校の生徒も涼しげな格好をして廊下を行き交っていた。さまざまなところで生徒の「暑いねー」とかいう愚痴が聞こえてくる。
そんな中、俺は一人で窓際の隅っこの席で友達とも喋らず読書にふけっていた。
別に季節の先取りだとかいうつもりではない。俺はそんな高尚な趣味はないし季節外れだと言われる行動も進んでやろうとは思わないタチだ。
では何故一人でいるかというとこれは単純明快、友達がいないからだ。まあ俺を見たやつらは進んで俺に関わろうとはしないだろう。
俺の顔は口元まで伸びた生来茶色い髪の毛で覆われている。今年で高校生活は二年目の中間を迎えているが、未だに俺の素顔を見た生徒は誰一人といないだろう。女は秘密を持って美しくなるとか言うけど男だって秘密の一つや二つ持っていてもおかしくないだろう。
そんなわけで俺の周りの席には誰も寄り付かない。俺と関わると不幸になるとか友達いなくなるとかひょうきんな奴が言った可能性もあるが、そういうことを言わなくても俺は間違いなく一人だった。誰も俺に話しかけてくるやつはいない。昨日の宿題のことも、テストのことも、ニュースのことも。
──ただ一人を除いては。
「一翔君おはよう」
不意に頭上から声をかけられ、今まで読んでいた文庫本から目を離してそちらを向くと14年間見てきた顔がそこにあった。
「おはよう」
それだけ言うと俺はまた文庫本に目を戻してさっきまでの会話をまるで無かったことのようにする。
彼女は何か言いかけたが俺の雰囲気を察してか俺からはだいぶ離れた席へと自分の荷物を置いた。賢明な判断だ。
彼女の名前は柊優衣。俺と14年間人生をともに歩んできたたった一人の特別な存在──と言えば聞こえは良いだろうが生憎人を飾り立てるという言葉の技術を俺は持ち合わせていない。
彼女とは一言で言うと腐れ縁だ。幼稚園、小学校、中学校、高校と何故か今までずっと一緒のところに通った。どっかで手が回っていたとは考えにくいが、とりあえず偶然と片付けておこう。
優衣は俺に小学校からずっと親身に話しかけてくる。俺はそれを残らず適当に片付けて会話に発展させないようにしている。が、それでもどうしてか、今でもまるで俺が友達とでも言うように話しかけてくる。
内容はそこらの高校生たちとは変わらないものだった。昨日の雨すごかったね、とか、明日体育だね! とか。俺がそれにろくに返答もしないと分かっているのに、だ。
彼女の友達は時折俺に話しかけた優衣に「どうしてあんなやつに構うの?」「優衣は顔も可愛いし性格もいいんだから他の男なんていくらでもいるのに」とワケが分からないと問いただしている。確かに彼女は美少女だ。美少女すぎる。まるでこの世の中に一人舞い降りた天使のように、整った顔立ちとそこから振り撒かれる見るだけで幸せになれそうな笑顔を併せ持っている。おおよそこの世に存在するとは思えないほどの可愛さだった。だが、優衣は決まってその質問には穏やかに笑いながら
「腐れ縁だからね」
と返していた。腐れ縁だから、とは全く理由になっていない。今まで友達だったやつとも急に話さなくなることはいくらでもあるというのに、今までろくに喋っていない俺に対して繰り返し繰り返し語りかけてきていた。まるで……俺が何かの病気にかかっているかというように。
その態度に俺は腹を立てていた。彼女をずっと無視し続けているのも別になんとなくとかうるさいからとかではない。彼女は分かっているのに、俺が柊優衣に対してここまでそっけない態度をとっている理由を。
彼女は俺の心と体に消えない傷を刻み付けた。
幼い時──あれは幼稚園のあたりだっただろうか──彼女は近所でも有名ないじめっ子として名を轟かせていた。男女構わずその毒牙にかけ、それらの一人残さず徹底的に痛め付ける。
幼稚園に入る以前から彼女の知り合いだった俺は度々恐る恐る注意をしていたのだが、彼女は俺が眼中にないかのように我が物顔で突き進んでいった。やがて彼女の振る舞いに周囲が我慢の限界だ──となったとき、事件は起こった。
突然、幼稚園でたまたますれ違い様にぶつかってしまった俺に彼女は激昂し、たまたま近くにあった大きめの石を片手で持ち──
ガシュッ。
……そこから先は俺は覚えていない。ただ、石で額を思い切り殴られたこと、しかし俺の傷は思い切り殴り付けられたのに奇跡的にも後遺症が残らなかったことは知っている。
その事件の後から稀代のいじめっ子、柊優衣はその狂暴性を徐々に潜めていってやがて更生し、今のようなまた稀代の美少女となっている。
だから俺は彼女を絶対に許さない。何を心の小さいことを、と言うかもしれないが、理不尽な暴力をされるというのは想像を絶する恐怖を覚える。それに、彼女の行為は俺という一個人に消えない心と体の傷を負わせた。その罪はたった一人の美少女にはとても償いきれないものである。
俺のその怒りに震える様子を彼女は横目で見て、時々ピクリと小さく体を震わせていた。
しばらくするとホームルームのチャイムが鳴り、俺は読んでいた文庫本を机の中へとゆっくりとしまった。