第13話
俺は今自分の部屋にいる。
妹以外滅多に入れたことのない禁足地、聖域。ここには俺の安らぎがあり、憩いがあり、情熱や夢もある。
しかしあろうことか、そんな俺だけの聖域に女子が三人、雁首揃えてテーブルに向かっている。
なんだこの状況は? 夢か、夢なんだな? と自分の手の甲を思いっきりつねる。めちゃくちゃ痛い。ああ、残念ながらこれは現実のようだ。
リビングにあった手頃なサイズのテーブルを運んできて、四人がそれぞれ座っている。俺から見て右が優衣、左が京極、そして向こうが霧雨といった配置だ。今は皆が皆、数学の問題集を出して、取り組んでいる。
「あ、一翔くん、ここの計算が違うよ。これはね、こうやって……」
と、自分の勉強もあるだろうに、優衣は俺の勉強を時折見てくれては解き方を教えてくれる。
「ああ、なるほど。サンキューな」
「え、ううん、そんなことないよ」
俺が素直に礼を言うと、優衣は驚いたような顔をする。なんだ、俺がそんなに無礼者だと思っていたのか。腹立たしい。
「私が一翔くんの勉強見たいだけだから」
などと言う。少々悔しいが、優衣は学年でも一桁に入るくらい勉強ができるから仕方がない。むしろ勉強を見てもらっていることで、普段よりも三割増しではかどっている気がする。悔しいが、勉強会の効能を認めざるを得ない。
「それにしてもアレだな、こうしてお前と一緒に勉強やってると、なんだか昔を思い出す」
「ああ、習い事で英語の宿題出されたこと? あの時は参っちゃったようね。一翔くんはすぐにできたけど、私は理解するのにすごく時間がかかっちゃって……結局、一翔くんにつきっきりで教えてもらったね」
「今とは立場が逆だな」
「アハハ、その時の恩返しかも」
「なんだそれ」
と勉強中でも昔話に花が咲く。
そんな様子を見ている霧雨は「汚らわしい」と鼻を鳴らし、京極は「何よ、私だって勉強ができるんだから……」などとブツブツ言っている。なんだか不気味である。
事の次第は前日放課後に遡る。
「じゃあこっから家が一番近いのは水島くんだし、水島くん家に土曜の13時に集合でいい?」
と、何やら京極がよくない提案をした。
「は? おい、ふざけ――」
「うん、いいよ。私も近いから助かる」
「私も異論はない」
「俺の意思はないの?」
思わず真顔で聞いてしまう。もちろん皆無視。
「いや、俺の家は両親がいるし、妹も受験でピリピリしてるから……」
「なら、今電話かけて確かめてみたら? 親御さんと妹さんに」
「イヤ、面倒だし」
「駄目だ。やれ」
関係ない、行け、というノリで霧雨が言う。俺は反論を試みたが、彼女の有無を言わさぬ圧力に、結局屈してしまった。無力な自分が憎い。
『もしもし』
出たのは綾乃だ。
「もしもし、俺だ、一翔」
「あ、お兄ちゃん。どうしたの?」
「いやさ、なんか今度の土曜家に来たい人が来るんだけど、いいか?」
「え、別にいいよ」
「でもほら、受験勉強の妨げにもなりはしないかと」
「私は自分が高校に合格するよりも、お兄ちゃんがお友達を連れて来てくれる方が嬉しいなー?」
それでいいのか、我が妹よ。
「じゃ、じゃあさ、父さん母さんはどうかな? 二人とも折角の休日だし、ゆっくり休みたいんじゃないの?」
「多分パパもママも私と同じだと思うよ」
「マジか……」
電話を切る。途端に近づいてくる三つの顔にたじろぎながら、俺は至極不本意そうに言う。
「いいって……」
「ほんと? やったー!」
京極がわーいわーいと万歳する。別に議員選で当選したわけじゃあるまいに。
というわけで、俺の家で勉強会が開かれることになったのだった。
当日、そろって俺の家にやって来た彼女たちを迎えた母は、まあまあ、と嬉しそうな顔をして、
「いつもウチの一翔がお世話になってます~」
と礼儀正しく挨拶する。
「あ、こちらこそ……」
と京極を先頭に、三人は頭を下げて玄関を上がる。そうして三人を案内して、リビングのテーブルを運ぼうとしているところに母が、
「もう、一翔ったらいつの間にあんなに可愛い子たちと仲良くなったのよ~」
「別に仲いいわけじゃ……」
「あらあら、恥ずかしがっちゃって」
そうして顔を近づけてきて、
「それで、どの子が本命なの?」
ブーッとアニメのように噴き出してしまった。
「は、はあ!?だから別にそういうのじゃないって!」
「もう、我が子といえ本当に罪な男ねえ。ま、ゆっくり選びなさいな」
俺の狼狽に笑いながら、台所へ戻っていった。
そうして現在に至る。
俺がたっての希望で数学をやるということになり、全員でテスト範囲の問題を解いてゆく。途中、分からないところがあったら遠慮せず質問するという方針だ。京極いわく、
「教えるってことは知識の定着にひときわ役に立つ」
とのこと。半信半疑だったが、いざ霧雨なんかにここはどう解けばよいのか聞かれると、思うようにいかない。おかしいな、これは解ける問題のはず、と四苦八苦するところで、自分が曖昧な理解をしたまま勉強を進めてしまっているということに気づいた。
正直、数学の公式なんかは暗記すればいいとか思っていたけど、人に教えるとなるとどういう定理からどうやって導き出すのか、そこから解説しなければならないのだ。だから、霧雨に「ここはなぜこうなる?」と聞かれるとお手上げ。自分で考えているうちに、京極や優衣がさっさと教えてしまう。
「情けない……」
俺は数学が特別できるわけではないが、それでも毎回テストで8割はとれているから、苦手でもない。しかし、こうやってみると自分ができているのは「問題を解く行為」なのであって、「数学」ではないんだなあ、と気づかされる。
そして結構ためになる。
4時間ほど経っただろうか。
既に優衣と京極は解き終わっており、俺と霧雨に二人がついて教えるというマンツーマン方式。霧雨に京極が、俺には優衣が、という取り合わせだ。これ、塾よりもお得なんじゃないか?
「あ、ここはこうじゃなくて、こう解くんだよ」
「あ、ああ。ほんとだ」
俺が間違えていればすかさず優衣が指摘してくれる。しかも教え方が丁寧で分かりやすい。
「しかしお前、教え方うまいな。将来教師になったらいいんじゃねえの?」
「そんなことないよ。教師になる自身なんてないし、それに……一翔くんだから教えられるんだよ」
「俺だから? なんで?」
「だって、昔こそあんなことがあったけど、古い付き合いなんだし、一翔くんの思考回路とかもなんとなく分かるから」
そんな照れくさいことを言って、エヘヘと笑い、髪をかき上げる。その仕草一つ一つが絵になるくらい可憐だ。気のせいか耳が赤くなっている気がする。
「やめろよ、なんか気恥ずかしいから」
「そうかなあ? 私は全然気にしないよ?」
「俺が気にするんだよ」
ダメだ、これ以上まともに目を合わせられない。
慌てて机の上の数式に目を移す。が、さっきまで意味らしいものを持っていた数式が、今は訳の分からない記号の羅列にしか見えない。
完全に頭が混乱している。
そんな様子を見て、京極がなぜか歯噛みをしているのが分かった。
「できた……」
さらに数時間が経って、ようやくテスト範囲を一周することができた。
「お疲れ様、一翔くん」
「お疲れ~」
ごろんと寝っ転がる俺に、優衣と京極が労いの言葉をかけてくる。一方、霧雨は俺よりも早く終えていたので、今はずずっとお茶を飲みながら「やっと終わったか、単細胞め」と罵ってくる始末。だから、後半はもう俺に優衣と京極がつく、1対2ならぬ2対1の指導体制に入っていた。
「どう? 勉強会ってのも悪くないでしょ?」
京極がニヤニヤしながら聞いてきて、イラっとくるが反論ができない。
実際、一人だと解けなかっただろう問題も、二人にかかればお茶の子さいさいだった。ただでさえ優秀な二人が力を合わせるんだから、むべなるかな。普段なら飛ばしてそのままにしていただろうが、おかげで今はどんな問題も解けそうな気がしてくる。
「まあ……悪くなかったな」
「またまた、素直じゃないんだから」
と、京極がからかってくるのをふふんと鼻で笑ってかわす。
「それにしてももうこんな時間だ。この後どうする? 晩御飯食うなら、近くのファミレスで奢るぞ」
「本当? ありがたいんだけど、今日はもう遅いからね~。申し訳ないんだけど、また今度誘ってくれれば嬉しいな」
京極が残念そうに言う。「ああ」と適当に言うと、「絶対だよ? 絶対誘ってね?……できれば二人きりがいい、かな」と、誰にも聞こえない声で囁くものだから、思わずドキッとしてしまう。
「私も帰る。夕飯は家で食べるからな」
霧雨はそっけなく言って、玄関へ降りてゆく。
「優衣は?」
俺が聞くと、
「私は……うん、もし一翔くんがいいなら」
「そっか。ならここで食べるか。優衣なら多分、母さんも用意してくれるだろうし」
「いいの? ありがとう、お母さんに連絡するね」
玄関にて、京極と霧雨の家へ行くを送る。
パタンと玄関の戸が閉じられると、それを待っていたのか、優衣が控えめにこんなことを言う。
「でも、本当に今日は楽しかったね」
「まあ、そうだな」
「私、てっきり強情に断るかと思ってた。だってやろうと思えば断れたよね?」
否定ができない。
確かに、妹から許可を得て、そのうえ両親からもゴーサインをもらったとしても、俺の一存でいつでもふいにできたはずだ。
なぜそれをしなかったのか。答えは明瞭だが、何分自分らしくなくて気恥ずかしい。
だが、今日くらいそんな頑是ない自分を――頑なに人と交流しようとしない自分を取っ払っても、いいんじゃないか?
人は大人になってゆく。つまり人は変わるのだから、俺も窮屈(窮屈)な幼稚さを脱ぎ捨てるべきではないか。が、いきなりそれをやるのは流石にハードルが高い。
そんな心があるからだからだろうか。
「まあ、そんなに迷惑じゃなかった……から。それに俺もたまには人と遊びたいし」
そんな言葉を柄にもなく口にしてしまう。
結局、自分が寂しがりやで臆病者だということは、他ならぬ自分がよく知っているのだ。だから、自分に正直になることだって、自分にしかできない。
「本当? 嬉しい。私も……来てよかった」
だが、停滞した自分から進みだす勇気を、きっかけを与えてくれたのは、目の前の優衣であり、霧雨であり、京極だ。だから、こいつらになら素直になっても……なんて、考えるだけで顔から火が出そうだ。
「俺だってもういい年した男子なんだ。そろそろ過去から、駄目な自分からは訣別しないといけないんだって、思うようになってさ。だから、その……」
そこからは勇気がいる。その言葉こそが、俺が進みだす決定的な一歩になるのだから。
だけど、不思議とためらいはない。
「お前……優衣とももっと仲良くなれたらな、って、お、思わんでもない、かも……」
ああ、恥ずかしい。
泳がせていた目線を優衣に戻すと、彼女は一瞬ハトが豆鉄砲を食らったような顔をしたが、すぐに破顔して、
「うん、私も一翔くんともっと仲良く……昔よりも仲良くなれたらいいなって、思ってるよ」
と言い、唐突に胸に飛び込んできた。
「なっ、おまっ……!」
「エヘヘ、今くらいはこうさせてもらいたい、な……」
顔を俺に埋めたまま、優衣はくぐもった声で言う。
下から漂ってくる甘い匂いとか、女の子の感触とかが俺の五感をダイレクトアタックしてきて、もう何がんだか分からなかったけど、俺も笑えるくらい不器用に、彼女に抱擁を返した。




