第10話
今日も今日とて独り。
別に寂しいわけではない。これは強がりでも何でもない。
窓際の席は昼には日当たりが良くなるから気持ちがいいし、誰に気を遣う必要もないから楽だ。
俺はイヤホンを耳にはめて音楽を聴いている。流れているのは何の変哲もない、売れっ子アーティストとかバンドとかアイドルとかの、CMで誰もが一度は聴いたことがあるようなヒットソング。え、こんな尖ってる臆病者が普通の曲を聴いてるなんてありえない? 失礼な。いくらエッジの利いた俺でも感性は人と違わないことだってあるのだ。
しかし、プレイリストに流しているこの群れ群れが好きというわけではない。
そもそも俺は音楽が好きではない。
ではなぜ聴いているのか?
答えは簡単、誰かに話しかけられたくないからである。
昼休み、生徒は先生の監視の目を逃れて自由になる。束の間の自由。それを生徒は友人との談笑なり食事なり遊びなり勉強なりに費やしている。友達のいない俺ではあるけど、暇を持て余した奴らにちょっかいをかけられないわけではない。罰ゲームの告白だとか、パシリだとか。ちなみに全部実体験である、悲しいことに。そんなことに巻き込まれたくない、それによく知らない人間に話しかけられても困る。
だから……
「ねえ、水島くん。何聴いてるの?」
こんな事態になっても、俺は聞こえないふりができるのだ!
しかし、こんな、いかにも話しかけんなオーラを出してそうな奴に話しかける酔狂なのはどこのどいつだ。顔くらい見てやろうじゃないか。
窓に反射する姿を盗み見る。
腰まで届くような黒い髪を優雅に下ろした美少女。透き通るように肌が白いのが、窓に映し出された像からも分かるくらいだ。
こいつは多分学級委員長の京極香苗。多分、というのは接点が全くないからだ。ぼっちは、クラスメイトの名を、覚えない。
「水島くん……水島くんってば」
なんだ、しつこいな。
引き下がりそうもなかったので、俺はしぶしぶ右のイヤホンを外した。
「なんだ、いたのか。気が付かなかった」
「嘘。だって窓に映った私の姿に気づいてたよね」
「なっ……」
こいつ、できる! 新手の刺客か? アメリカのスパイか?
俺がシュババっと身構えると、そんなことにはお構いないようで。俺がさっきまで片耳につけていたイヤホンをおもむろに手に取ると、それを己の右耳にはめた。ためらいなく、優雅に、造作もなく。
奇しくも、一つのイヤホンを二人で共有することになる。
「へえー、意外だな。水島くんってこういう曲聴くんだ。私も好きだよ、このバンド」
「お、おう……そうか……」
近い。
すごく近い。
京極の豊かで絹のような髪が眼前にかかる。左手で髪を耳にかきあげた。おかげでうなじまではっきり見える。雪のように白い、同級生の、うなじ。
はっきり言ってめちゃくちゃエロい。
こいつの彼氏は普段こんなのを目にしているのか。流石に教育に悪すぎる。性癖が歪むぞ。
「ねえ、今日一緒に帰らない?」
「は?」
突然の提案に、思わず素っ頓狂な声が出る。
「あはは、何その反応。告白されたわけじゃないんだし」
「び、びっくりしただけだ」
「びっくりすることでもないじゃん。……はーおかし。で、いいの?」
「え? いや……」
「水島くん、人を避ける傾向があるよね。君と話したい子も多いのに、それだといつまでも壁は壊れないままだよ?」
正直、ものすごく嫌だ。
今の会話でも分かる。こいつは俺をからかおうとする。俺の帰路は誰にも邪魔されず、静かな道を黙々と歩く、時々妄想しながら歩く帰路なのだ。京極はそれを乱しかねない。ただでさえ優衣に邪魔されているというのに。
だが、ここで断ったらどうだろう。
俺はクラスの空気。対して向こうは学級委員長、しかもカースト最上位の化け物級。
多分ろくな目に遭わない。俺の平穏な日常も脅かされかねない。
「分かった、帰ろう。今日だけな」
「やった!」
わざとらしく喜ぶと、京極はそれじゃあ、とだけ言い残して自分のグループへ戻った。
放課後、俺は優衣の誘いを断って、京極と並んで歩いていた。断られた時優衣は悲し気な顔を浮かべていたが……まあやむをえまい。余計な誤解は生まないに限る。
歩いている中、彼女は俺にいろんなことを話しかけてきた。今日の授業内容、友達との会話、最近のマイブーム、などなど。
よく喋る。
話好きだなあ、とは以前から思っていたけど、いざこうして一対一で初めて話すと改めてそれが実感される。俺とは大違いだ。当然か。違う世界の住人なのだから。
俺が興味なさそうに相槌を打っても口を動かすことをやめない。しかし一方的に話すというわけではなくて、俺に返事をする間を与えたり、俺から話を引き出そうとしてくる。うまい。やっぱり人間としての性能が違う。
「それにしても水島くんはいつも一人でいるよね?」
「いいだろ、別に。好きなんだよ、一人が」
「またまた~。優衣ちゃんと話してる君、すっごく楽しそうだよ?」
「嘘はやめろ」
「嘘なんかじゃないって~」
俺が憤怒の形相を浮かべると「ごめん」と軽く言いつつ、
「でもさ、やっぱり高校生なんだから、友達と遊んだり恋人作ったりなんてこともした方がいいんじゃないかな? 一度きりの高校生活、楽しまなきゃ損損、だよ?」
「お前には関係ないだろ。これは俺の人生だ。静かで、人間関係の苦悩もない、友情や恋愛には無縁だけど居心地のいい俺の人生だ」
「ふーん」
と言うと、突然京極は足を止めた。
「どうした?」
俺が何気なく訊くと、
「ちょっと……羨ましいな」
信じられない言葉をいただいた。
「は? 何が?」
「だから、水島くんが羨ましいってこと。二回も言わせないでよね、恥ずかしいんだから」
彼女は大げさにジェスチャーをする。
「いやいやいや、天下の京極さんが――友達も多くて、学級委員長で、いつもクラスの中心にいる京極さんが、いつもぼっちで暗くて嫌な空気を醸し出してる俺が羨ましい? 何かの間違いだろ、落ち着け。そうだ、これは夢だ、夢なら覚めろ……」
「現実だよ、げ・ん・じ・つ」
京極が口を尖らせて俺の頬をつねった。そして彼女の方へぐいと引き寄せられる。
痛い。近い。痛い近い痛い近い近い。
「私ね、いつも友達に囲まれてるし、男子からは告白されるし、運動神経もよくて学業も優秀でしょ?」
「自分で言うかそれ」
俺のツッコミを無視して「でもね」と彼女は続ける。
「こんなに出来がいいと、逆に負担も増えるの。主に精神面で。親からは将来を嘱望されるし、教師からは一流大学へ進学することが決まっているものと思われる。女友達からはいつも『優しくて可愛い京極香苗』を望まれるし、男友達からは『いい女としての京極香苗』であってほしいと思われている。私も今まではそう振舞ってきたし、振舞うべきだと思ってきた。でもね、最近思うの。私がなりたい私はこの私なのかって。優しくて文武両道の才媛なのかって。私ね、水島くん」
と、彼女は通りかかった公園に入って両手をがばりと広げた。
「私、本当は今まで知らなかった世界を知りたい。未知の世界に挑戦したい。それで……本当のなりたい自分を見つけたいの。それが、周りから望まれてる私とはかけ離れていても。でも……やっぱり怖い。パパとママから見放されたくないし、先生の期待も裏切りたくない。友達に嫌な思いさせたくない。ねえ、私、どうすればいいの? 私は何者なの?」
じっと、潤んだ目で彼女が俺を見つめる。
真剣そのものだ。だから茶化すような回答も言えない。
ただ、俺にそんなこと分からない。
周りから期待されたこともないし、女子から憧れを抱かれたこともない。恋も友情も知らない人間。そんな俺が何を言える?
しかし、彼女はかけられたいのだろう――救いの言葉を。俺みたいな奴にしかかけられない言葉を。ならば望み通りにすべきだ。そう、これは与えられた役割をこなすだけ。俺という人格とは関係のない――、
「お前は本当にいい奴だよ。俺なら自分勝手に進んで、自爆して、信頼も何もかも失ってるところだ」
「だろうね」
だろうねって、おい。
「お前が周囲のしがらみにとらわれるのも分かる。誰だって期待に応えたいから。愛されたいから。だから怯えているんだろう?」
彼女は答えない。沈黙は肯定なり。
「お前はお前の意志に従うべきだ。そしてそれが周囲から与えられた仮面を被ることであっても、胸をはって誇れるならいいんじゃないか? もしなりたい自分が別にあるのならそれになればいい。それで友達を失っても……彼氏を失っても、友達を、信頼を、愛情を、絆を失っても、心配するな。その時は俺がいてやる。その時はお前の友達になる」
言ってしまった。今時流行らない、説教じみた訓戒。キツいラブコメの主人公が語るような、幼い人生観。しかも最後は明らかに余計だ。喋っている間は気持ちが良くて、自分に酔ってついついクサいセリフも吐いてしまうが、冷静になると恥ずかしいことこの上ない! あ、前にもこんなことあったな。確か加賀谷先生と面談した時だっけ?
俺が脳内で自虐を続けていると、最初は固まっていた京極がクスリと笑った。
「あはは、やっぱり水島くんって面白い。そんな照れくさいこと、誰も言わないよ」
「う、うるさいな。お前に訊かれたから答えてやったんだろうが」
「しかも『俺が友達になってやる』って……水島くん友達いないのに」
「それ以上はやめて!」
本当に恥ずかしい!
京極はひとしきり笑うと、笑い涙を拭って、
「でも、良かった、水島くんに相談できて。君、しがらみとかなさそうだから本当に羨ましかったんだよ?」
「そうですか」
もはや何も言うまい。
「今日はありがと。君のおかげでちょっと楽になった」
「それは――」
何より、と言おうとしたが、そのセリフは一瞬で俺の頭から吹き飛んでしまった。
なぜなら。
京極が俺のところへ走り寄って来て、そして――、
俺の口に、彼女が背伸びをしてキスをした。
「……え?」
それは時間にすれば数秒だっただろうが、俺にとっては永遠に続くかのように思われた。初めてのチュウ。字面に起こせばそっけないが、男子高校生にとっては人生の一大事である。
「えへへ、びっくりした?」
「……」
「ねえ、今のってもしかして水島くんのファーストキスだった?」
「あ、ああ……生憎な」
「良かった。私もだったんだよ。後ね、一つ誤解を解いておくと、私、彼氏いないよ? いたこともないし。つまりフリー、絶賛口説かれ待機中。さあ今がチャンスだ、男を見せろ水島一翔!」
ばっちこいとポーズを決める京極。
それにツッコミを入れたいところだが、俺の頭が出来事を処理しきれていない。
「でもやっぱり水島くんは優しいんだね。私、二回も救われちゃった」
「は? 二回?」
「じゃ、また明日学校でね!」
気になる言葉を言い残して、彼女は走り去った。
残された俺は。
俺は。
まだ唇に柔らかい感触がある。ファーストキスは何の味、だったっけ?
「綺麗な夕焼けだなあ……」
しばらく俺は突っ立ったままだった。




