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神様の休日

作者: 如月はな

いつもの場所で杉村実は立ち止まる。

夕暮れがとても綺麗に見えるが、見晴らしのいい場所のわけではなかった。

しかし杉村は足を止める。

申し訳程度にある杉村の胸元までのフェンスに手をかける。

遠くから轟音が聞こえてくる。

段々、近付いてくるその音と共に少々レトロな車体が見えてきた。

そう、それは電車だった。

杉村はこれを時折見届ける。

・・・何かの儀式のように。

それはいつからだっただろう?

少なくとも小学生低学年の頃。

紅い夕焼け。脱げた白いハイヒール。黒いずり落ちたランドセル。赤い血。

今でもまだ覚えてる。

僅かに顔をしかめる。

その時、列車は通過した。そのままフェンスに両腕をつき顎を埋める。

今日もまた寒かった。

顔が吐く息で僅かに暖まる。

時折、人が通る気配がしたり声が聞こえたりしたが彼は何に対しても、もう興味はなかった。

そう、興味はない。

自分にすら。


しばらくその場で電車を通るのを見ていたら気付かない内に雪が降ってきていた。

・・・帰るか、杉村は体勢を立て直す為、手をフェンスに付き肘を伸ばした。

そのまま立ち去ろうとした時

ブァーーーン

とまた轟音鳴った。

遠目に見る。

フェンスから離していた手をまたかける。

目を一瞬、伏せた。

腕に再度、力を入れた時

くいっ

と杉村のブルゾン右の肘を掴む者がいた。

反射的に振り返る。・・・近所の高校の生徒らしい。

茶色いブレザーでそれが分かる。

黒いダブついたジャンパーに制服のズボン、黒いリュックザックを背負っている。黒いニット帽に黒いマフラー。

服装は変わってないが風貌が独特だった。

長い前髪、少し長めに伸ばした左右はぴんっとはねさせいて、全体的に明るい金髪で左の耳に2つのピアスと1つのカフスをしている。

顔つきがとにかく幼かった。

あどけない丸いフェイスライン、細い鼻、小さめの唇、目が印象的だった。

アーモンド型の綺麗な瞳をしていた。

制服さえ着ていなければ確実に高校生でなく、中学生だと思っただろう。

それほどに幼い顔立ちをしていた。

おまけに杉村より頭1つ半分背が低かった。

少年は黙ったまま杉村の袖を掴んでいる。

顔は真剣そのものだ。なにを言うべきか、と杉村が思案している内に電車は通過した。

特急列車だったらしく風に煽られる。

そこで我に返った杉村は

「放してくんない?」

と、迷惑そうに言った。

少年はしばらくそのまま杉村の顔を黙って見上げている。

「・・・フェンスに近付くと危ないよ。そこに書いてある」

真っ直ぐな瞳でそう言う。

そう言われてふとフェンスを見ると確かに「危険、近づくな」という看板がある。

毒気を抜かれてため息をつく。

「死んじゃ、ダメだよ」また真っ直ぐな瞳で呟くように言う。

次の瞬間、緊張は途切れた。

少年の腹が鳴ったからだ。

しかも大層に。

「・・・」

「・・・」

お互い無言になる。

少年の白い頬が徐々に赤くなる。

「・・・なに食いたい?」

杉村が聞いた。

「えっ」

少年が目を瞬かせる。

「腹減ってるんだろ?奢ってやるよ。どうせ暇だしな。なに食いたい?」

「オムライス!」

今度は少年は笑顔で言った。

「ガキ」

「失礼な、ボクこう見えても16だよ」

「やっぱガキ」

雪の降る中、杉村は久しぶりに人と会話しているのに気付いた。

“あれ”からろくに家を出ていなかった。

・・・俺はいつもどこかで死にたいと願っていたのかもしれない。

こいつの言う通り。

少年を見下ろす。

少年はそのアーモンド型の瞳で杉村を見上げる。

この少年を前にすると意固地になるのは馬鹿げた気がした。

飯に誘ったのもただの気まぐれ。

ただそれだけだ。


近所にあるファミレスに入った。

店内に入っても少年は帽子とマフラーをとろうとしない。

運ばれてきたオムライスを見つめていた。

「食べていい?」

「帽子とマフラー取ればな」

少年は眉を歪ませる。

「やだ」

「取るまでおあずけ」

「分かったよ」

少年はむくれながら帽子とマフラーを取った。

するとますます幼くなる。

「中学上がったばかりか」

杉村が笑う。

「だからやだって言ったのに」

ますますむくれる。

「まぁ食えば」またしばらく上目遣いで杉村を見ていたが

「いただきます」

と、元気に食べ出した。

「名前は?俺は実だけど」

杉村がおいしそうにオムライスを食べている少年に聞く。

「彰」

食べる合間に言う。

「彰ね」

うん、と頷く。

「その制服、こっち方面あんまり住宅街じゃないけど下校途中なのか?」

ちょっと彰は黙った。

学校からの彰の足取りを考えると繁華街に向かえているように思えたからだ。

「用事でも?」

彰はスプーンを置いた。

「ちょっと・・・ね。ネット喫茶に行こうと思って」

笑いながら頭をかくが杉村にはなぜかそれが取り繕ったものに見えた。

「パソコン、家にないのか?」

「えと、ないけど、いや、別にパソコンしに行くわけじゃないんだ」

なぜか徐々に焦りだす。

「・・・お前、もしかして」

杉村は彰を見据える。

「家出中か?」

彰は完全に沈黙してしまう。

それこそが答えを物語っているというものだ。

「違うんだよ・・・」

と、呟くがなにが違うかも本人も分かっていないようだ。

「学校にはちゃんと通ってるんだな?」

「うん、学校は好きだから」

彰はうなずく。

「家に帰りたくない?」

「家に帰れないんだよ」

彰は言い換えた。

杉村はあえて理由を聞かなかった。

自分が彰の立場だったとしたらそんなに立ち入ったことは聞かれたくない。

しかし・・・。

「俺の家に来るか?」杉村は言ってみた。

「あんたの・・・?」

彰はきょとんとした顔をしている。

「飯から風呂から洗濯から寝ることにしたってネット喫茶じゃ大変だろうが」

なんてことはない、というのを装う為に杉村は頬杖をつきながら言った。

「どうして会ったばかりのボクにそんなこと言ってくれるの?」

少し戸惑っているようだ。

「・・・それは」

あの時、本気で飛び込む気があったかどうかは分からない、が・・・彰は杉村を止めてくれたから。

世界に一人でいるかのような泥の中のような毎日。

いつどうなってもいいとさえ思う。

しかしあの時、彰が掴んだ腕の部分が熱くて・・・。

なんだかその温もりに対するお礼をしてやりたかった。

もちろん、それは言わずにいたけれど。

「ガキはからかうと面白いからな」

代わりに杉村は言った。

「なにそれ、ひどいよお」

彰は泣きそうな声を上げたがそんな彰を杉村は微笑ましく思った。

「さ、来るか?来ないか?」

オムライスをやっと食べ終えた彰はしばらく考えた様子だったが

「じゃあ、よろしく頼むよ」

と、ぺこりと頭を下げた。


「あんたの部屋って広いんだね」

家に着いた彰が感心したように言う。

「本、集めるのが趣味だから広い部屋は選んだな。ま、でもワンルームだし」

「でも本以外は物がほとんどないんだね」

確かに大きな本棚が数個ある程度だ。

「いらないからな。テレビも本当は買わないつもりだったし」

「ニュースくらいは見た方がいいよ」

「そうだな」

彼はやはり世情にも興味がなくどうでもよかったがそう言っておいた。

「テレビ、つけていい?」

そう聞いてくるのでうなずく。

テレビの向かいのソファに座ると彰はチャンネルを回し始めた。

それを見ながらさて、風呂でも入るか、と杉村は風呂場に向かった。


風呂から上がってもまだ彰はテレビを見ていたが彼を見ると

「ボクもお風呂借りていいかな」

と、聞いてきた。

「ああ、自分の家だと思って好きに使ってくれていいから」

「ありがとう」

彰は笑う。

本当に表情が両極端で見ていて飽きない。


彰はいつもネット喫茶で寝る時は洋服で寝ていたらしい。制服、普段着、パジャマを持ち歩いているとかさばるからだろう。幸い、寝巻きは何枚かあったので彰に貸してやった。

しかし風呂から上がってきた彰に杉村は呆れたように言った。

「それ、一番小さいパジャマなんだけど・・・」

彰はむくれると

「悪かったね。ボクよりパジャマの方が大きいんだよ」

と、言う。

本当に小柄な少年だった。

華奢過ぎる、というほどではないが・・・。

「そういう男女兼用の服を着てると」

杉村が言う。

「ん?」

「お前って女にも見えるのな」

彰は口をへの字に曲げると

「これでも男子高校生ですから!」

と、主張する。

「ま、どっちでもいいけど」

軽く杉村は笑った。

壁にかけられてる時計がそろそろ夜中前なのに気づき彰はそわそわしだした。

「ボク、ソファで寝るよ」

「あ、悪い。毛布の予備がない。お前ちっこいし大丈夫だしこっちで寝ろ」

杉村はシングルベッドの自分の隣をぽんぽん叩く。

「え・・・一緒に寝るの?」

なぜか照れているようだ。

「俺は気にしないって。お前は嫌か?」

「い、いや。そういうわけじゃ」

とやかく黙らないので「湯冷めするから早く布団入って寝ろ」と、言ってごろりと壁側を向いた。

おずおずと彰が布団に入ってくる。

「んと・・・あのね」

彰が言った。

「何?」

杉村はめんどくさそうに言う。

「初めてなんだ。家族以外と寝るの。なんだかどうしたらいいのか分からない」

どうやら緊張しているらしい。

「どうしたらって・・・布団入ったら、寝ればいいだけだろ?」

杉村がそんな彰に言い放つ。

彰が笑った。

「そだね。お休み」

「ああ、電気消すぞ」

枕元の電気のリモコンを取り、スイッチを押した。

「・・・ありがとう」

眠りにつく間際、彰の声を聞いた気がした。


次の日の朝は彰がセットしていたらしい携帯のアラームで杉村は目が覚めた。

隣を見ると彰はアラームが鳴り響く中、すうすう寝息を立てて寝ている。

その頬をぺしぺし叩き、杉村は彰を起こした。

「おはよう、お腹すいたよお」

欠伸をしながら言う。

「簡単なもんでよかったら作っとくからお前は用意しろ、学校あるんだろ?」

彰は目を擦りながら頷く。

立ち上がり洗面所に向かっていった。

杉村はキッチンに立つと、冷蔵庫からベーコンと卵を取り出した。

それを炒めながら湯を沸かす。

インスタントみそ汁を作ると皿にベーコンと卵を移す。

茶碗に飯を盛り、箸をソファ前のテーブルに置く。

一式をテーブルに移したら簡易朝食の出来上がりだ。

シャワーを浴びてきたらしい彰が制服で現れた。

制服を着ていたら少しは中性的ではあるがやはり男にも見えて、杉村は不思議な奴だなと、思う。

「いい匂いだね。こんな朝ごはん久しぶりだよ」

彰は感激している。

「冷めない内に食べろよ」

「いただきます」

杉村自体は普段、朝は食べない。

ベッドに戻り腰かけてぼんやりと考えた。

これで俺達はもう会うことはないんだろうな。

彰はまだ16だ。

親も家出している彰をずっと放っておくわけじゃないだろう。

また、逆戻りだ。

そこまで考えて杉村ははっとした。

昨日、会ったばかりの高校生に少しは救われた気分になっている。

自分らしくない、と心の中で自嘲した。

1日ばかりのお遊びだったんだ。

あいつはもう来ないだろうから。

「ごちそうさま!」

彰が食器をキッチンに運んでいる。

洗おうとするので

「早く学校行け。俺がやっとくよ」

と、言った。

「うん、いってきます」

彰は笑いながらジャンパーをはおる。

用意が終わるとちらり、と杉村を見た。

眉根を寄せて何か考えている。

「?」

「・・・」

しかし黙ったままだ。

「なんだよ?」

杉村が聞くと

「もし、迷惑じゃなかったらここに、また来てもいいかな」

杉村は正直驚く。

あまりにも予想外だったから。

もしそれがただ安定した宿がほしい、という理由でも構わないな、と思った。

「いいよ、お前といると俺はなぜだか楽しいから」

「・・・ガキはからかうと面白いからね」

彰は前に杉村が言った言葉を笑いながら復唱した。

思わず、杉村も笑ってしまう。

「そういうこと。んじゃ、行ってらっしゃい」

杉村がそう言うと彰は玄関で靴を履き、「いってきます!」と、再度言って元気よく出ていった。


杉村は彰が出ていくととりあえず食器を洗った。

仕事をする気にもなれなかったが部屋の隅のテーブルとはまた別の机に着いた。

彼は売れない作家だった。

出版したばかりの書籍が絶版になってしまったりも多々ある。

締め切りすらあるかどうかも定かでない。

なので気が向いた時にだけ仕事をする。

パソコンを一応、起動させる。

やる気が出ないな、とその瞬間に思った。前にパソコンを起動させたのは一週間前くらいだ。

売れないとはいえ事故死した親がそこそこの遺産を遺していたので普通にしていれば生活にも困らない。

しかし彰が今日、また来るとしても夕方くらいになるだろう。

単にそれまでが暇だった。

自分一人の生活ではなにも待つことはない。

しかし彰が自分の生活に入ってきた今は待つことが出てきてしまう。

“二人”とはそういうものなのだ。

僅かにその事実にたじろいだ。

こんな風に誰かを待つなんて初めてかもしれない・・・、杉村はそれがいいことか悪いことか分からなかったが変化、というのも大事なことかもしれない。

やはり今日はやる気はしないとはいえ執筆してみよう。

簡単なあらすじを言うと三人の仲のいい高校生がいた。

そのうち一人が女子だった。

主人公は日をおうごとに更に親密になっていく二人の姿を見せつけられる。

まだ、恋人とまで進展してない今の内に・・・!

主人公は焦る。そして主人公はその焦りからその思い人を無理矢理自分の物にしてしまう。

そして子供ができてしまった彼女は・・・自殺してしまう。

そしてそれを自分の子供だと思った主人公の親友も。

いつもこんな話しか書けない。

自分には陰と陽の内、陽の時など存在しなかったから。

彼には明るい輝く物が書けない。

それが少し、ネックには感じていたが仕方ないことだ。

軽く、ため息をつきそれでもなんとか文章を連ねる。

夕方前、コンビニに行く。帰りにあの線路の横を通る。

二本、列車が過ぎるのを見る。

そのまましばらくそこにいると

「危ないってば」

その声が聞こえた。振り替えると彰が立っていた。

「学校は終わったのか?」

彰を見ずに言う。

「うん。今日はちょっと疲れたよ」

彰は伸びをした。

「帰るか」

「うん」

二人でマンションまでの道を歩く。

しばらく歩くと彰がふと足を止めた。

きょろきょろと辺りを見回す。

「どうした?」

「呼んでるよ。あっちだ」

そう言うといきなり駆け出す。

意味も分からず杉村は後を追う。


それは近所の広い公園だった。

植木がとにかく多いので一角は雑木林にも見える。

彰はその辺りで足を止めた。

「ほら、聞こえない?」

「なにが?」

普段、運動しない杉村は息を切らせていた。

「猫が助けてって言ってるよ」

そう言われて耳をすます。

すると確かにか細いが、猫らしき声で「みゃー」と、聞こえる。

彰はまたきょろきょろと辺りを見回した。

「あっち!」

雑木林の一角の隅の一番、草木が生い茂る場所。

そこに草の蔭に隠れるように白い物体がいた。

「いた!」

彰は駆け寄ると躊躇いなくそれを抱き上げた。

杉村はというとあまり動物に触った経験がないので固まっている。

「・・・それ鼠じゃねえの?本当に猫?えらく小さいけど」

それは彰の手に収まるほどの小ささだった。

「生まれて多分三週目くらいだと思う。毛並みが綺麗な子だから捨てられたのかも・・・可哀想」

リュックを下ろすとタオルを出して仔猫をくるむ。

「こんなに小さいと二、三時間置きにはミルクもやらなきゃいけないし一人では歩けもしない。まだお母さんが必要なのに・・・」

オカアサン・・・その言葉に杉村の心がとくり、と鳴る。

「あ!しかも怪我してるよお・・・お腹に切り傷が・・・」

慌てる彰に

「・・・家に連れて帰るか」

と、杉村は言った。

「え?」

彰はポカンと杉村は見上げた。

「怪我は消毒だけでよさそうだがだいぶ衰弱してるみたいだからな。とりあえずペットショップか。ミルクや色々買わなきゃならない」

彰は目線をさ迷わせた。

「いいの?」

「そんなに小さくて無力な生き物を目の当たりにしたら俺でも庇護してらないと、って思うさ」

杉村はわざとどうでもよさそうに言う。

「わぁ。よかった。しろ、しろ~」

「しろ?」

「この子、白いから」

にっこり笑って彰は言うがどうやらネーミングセンスには欠けているようだった。

粉ミルク、哺乳瓶、消毒液、クッション、寒いかもしれないとペット用のとても小さなホットカーペットも買い、家に戻る。

しろはしきりにみゅーみゅー鳴いている。

杉村が慣れない手でミルクを作る間に彰はしろの消毒をしている。

「お腹がすいてるんだろうね。でもこの傷なんだけど、もしかしたら人間にやられたのかも。動物にやられたって感じじゃないよ」

ミルクを持ってきて、杉村はそう言うしろの傷を再度、見る。

傷自体は浅いのだが真っ直ぐな裂傷が腹に縦に入っている。

まるでナイフで切られたかのようだ。

「とりあえずミルクをやろう。・・・俺、やってみたいんだけど」

彰は目をぱちくりさせたが笑うと、柔らかくしろを抱き上げて杉村に手渡した。

しかし杉村は生まれてこの方まともに動物に触ったことがない。

そっと抱いてみる。

ふわふわで柔らかい。

「抱いたまま、哺乳瓶をくわえさせて」

そうしてみる。

よほど腹が減っていたのだろう。

しろは哺乳瓶をくわえると鳴くのを止め、懸命にミルクを吸い出した。

これが命というものなのか、その脆さに杉村は驚いた。

自分を含めた全てがこんなに脆く弱く愛しい命なんだ。

・・・愛しい?

そう思ったことにまた杉村は驚いたがすでに一度発生したこの優しい気持ちは消せないな、と思った。

「お前が学校に行ってる間は俺がミルクをやっておくよ」

「あんた、なんか意外に優しいよね」

彰が少し茶化したように笑う。

「妊婦の気持ちが少し、分かった」


その日の晩、どうせ彰は寝起きが悪いから杉村は学校に行ってる間は、と言いつつ手の空いている時はミルクをやってやろうと思っていた。

しかし寝入ってしばらくして目を覚ますと横に彰がいない。

寝ぼけ眼でもしっかりミルクをやっていた。

「代わろうか?」

「大丈夫」

うとうとしながらも手付きだけはちゃんとしていた。

二人で育てればなんとかなりそうだった。

彰を杉村は見直した。


その日は学校がなくて休みだと彰が言うので少し久しぶりに執筆活動の構想を練りたい杉村はしろを拾った公園にいた。

ベンチでノートに思うことを書き綴っていく。

その時、ノートに影が降りた。

顔を上げると見知らぬ少女が立っている。

彰と同じ制服だ。栗色の髪の毛が風にそよいでいる。

なかなか可愛らしい少女だった。

「おじさん、なにしてるの?」

「仕事だよ」

おじさん、という名称にあえて反論しなかった。

あと数年で三十路になる杉村は高校生のその少女からは立派なおじさんなのかもしれない。

「ねえ、暇?」

仕事をしていると言っているのに少女はそう聞いてくる。

「暇じゃない」

暇だと言われれば暇だが杉村は言った。

「今月、ちょっと困ってて。援助してくれない?」

少女はまるで杉村の話を聞いていないようだ。

「は?援助?」

「うん」

なんの悪びれもない様子だった。

「・・・他を当たってくれ」


自分が援助交際をするような部類の人間に見えたのだろうか?

元から無愛想な杉村の顔からますます愛想が失せた。

「せっかく制服着てきたのに。もういいよ、オヤジ!」

そう言うと少女は踵を返し去って行った。

確かに制服、という物に固執し欲情する男は多い。

若さ、もそれだけで特権なのだ。

彰もそうなのだろうか?杉村は思った。

宿と食事と猫つきの杉村である。

こんな自分の傍にいたがるのももしかしたら打算的に考えているのかもしれない。

前もそんなことを考えた。

その時はそれでもいいかと思ったが今はあの自分に向ける温かい笑顔が演技だったら少し悲しいかもな、と杉村は思った。


「おかえり」

彰がソファの横に置いてあるしろの寝床の所にいた。

「弁当買ってきたし夕飯にするか」

二人で弁当を食べる。

「あんたって物書き?」

彰が聞く。

そこまで大層な仕事内容はしてなかったのでなんとなく黙る。

「パソコン、しようと思ったらフォルダ見ちゃって」

「ああ、そう」

見られたくなかったわけではないが見られたかったわけでもないのでお茶を濁した。

「高校生達の話、夏目漱石のこころ、みたいだね」

無邪気に感想を述べている。

「何作か軽く目を通したけど、あんたっていつも“死”がテーマになってる」

「そうかもしれない」


いつも文面に蘇らせたいのはあの事故の事、紅い夕焼け・・・。

こいつもいつか俺の前からいなくなるんだな、杉村はあの線路沿いにまたいる気分にでもなった。

ふいに彰は食べていたハンバーグ弁当をテーブルに置いた。

「なんであんたはいつも何も話さないの?」

だってそれは怖い事だから。

突き放されたら、それは恐怖だった。

それなら始めからなにも要らない、杉村はそう思った。

「ボクでは力になれないのかな?」

彰は真摯な眼差しで杉村を見つめた。

「大した話じゃないよ」

でも、杉村は話してみようかと決意した。

「小学生の一年の頃だ」


俺はは恵まれた家庭に生まれた。

父は広く事業をこなしておりまず金には困らないような家だった。

母は美しく優しい人だった。

しかし小学生に上がりランドセルを買ってきてくれた父がその足で仕事に向かう途中、車の追突事故で帰らぬ人となった。

いっそのこと母は財産目当ての結婚であればよかったんだ。

でも母は父を心から愛していた。

だからだろうが心の安定を計れなくなってしまったようで急に泣き出したり、怒り出したりすることもよくあった。

そんなある日、学校が終わると校門に母が立っていた。

迎えに来てくれるのなんて初めてで、しかも母は久しぶりに美しく化粧をしていてにこにこ笑っていたから俺は嬉しくなって母と手を繋いで歩き出した。

始終、母は機嫌がよくて歌を口ずさんだりしていた。

そして夕暮れにあの線路に着いたんだ。

母は俺の手を引き一緒に線路の上に立った。

母がこっちを向いて、と言うから向かい合わせになる。

夕焼けに染まった母の表情は初めて見るくらい穏やかで・・・。

だめだ、いけない。

そう思った瞬間に警報が鳴り響き遮断機が降りた。

なんとかして母を助けなきゃいけない。

自分の命の心配より母がいなくなることのほうが恐ろしかった。

電車の音が聞こえる。

どんどん近付いてくる。

母は俺を抱き締めた。

それが母の温もりを感じた最後だ。

電車が肉眼でもかなり近くに見え、警笛が鳴らされた時に・・・。

母は俺を突飛ばした。

線路の外に飛ばされ、背中を打つ。

母は線路の上で静かに微笑んだ。

電車が

母を

轢いた。

紅い夕焼け。

脱げた白いハイヒール。

黒いずり落ちたランドセル。

赤い血。

目の前でもっとも愛する人間の轢死を目撃した。

母の残骸を目の前にして、いわゆるショック状態だったのか突き飛ばされて地面に着いた姿勢のままどれ程の時間が経ったのか。

周りに人が集まり、救急車のサイレンが鳴り俺は病院に担ぎ込まれた。

中学に上がるまではずっと入院してたよ。身体的には問題はなかった。

・・・精神的な病院だよ。

中学も施設で過ごした。

親の財産はあるから家族で過ごした家も本当はまだある。

だけどもう戻りたくなかった。

もう彼らはいないんだ。

家族のいなくなったあの家からは死の臭いしかしない。

義務教育が終わるとその時からもうこの部屋を借りてずっと一人で生きてきた。あれからずっと。


「そんな人生を送らせるためにあの人は俺を突き飛ばしたのかな」

話の最後に杉村が言った。

「なんのために助けたのか、俺には分からない」

「生きててほしいからだよ」

杉村が言うか言わないかの内に彰は口にしていた。

「自分はもうだめだけど愛するあんたには生きていてほしかったんだよ。そんな簡単なこと分からない?ボクだって・・・」

一度、言葉を切った。

「あんたに生きていてほしいと思うもん。始めから、死んじゃ、ダメって言ってるじゃないか」

“生きていてほしい”生まれて初めて言われた気がした。

杉村は窓の外の空を見ながら口にした。

「生きることがとても下手な俺だけどさ。こうして一緒に生きていてくれるか?」

彰はいつもの笑顔で頷いた。

その笑顔を見ながら思う。

これでもう自分はあの線路沿いで立ち止まることはないだろう。


その夜、杉村は不思議に思った。

なぜ彰はこんなに強いのだろうか?

それはもしかしたら彰もなにかの悲しみを背負っているからなのか。

たまに垣間見る、強い瞳。

聞いてみようか、と彰の方を向いてみるがしろへの授乳にやはり疲れがあるらしくベッドに入ったばかりなのに寝入っているようだ。

隣に感じる彰の温もりを微笑ましく思う。

杉村も眠りにつくことにした。


朝、起きると彰が寝巻きのまましろを抱いていた。

左手に抱き、右手にタオルを持ち後ろ足の間に突っ込んでいる。

「なにしてんの」

「これくらいの月齢の子はね、自分の力じゃ排泄できないんだよ。タオルでつつくと出てくるの」

どれどれ、と見に行くとタオルでつつくたびに股間から尿が染み出していた。

「お前これ一人でやってたの?」

「だってあんた、動物免疫なさそうだったし、第一ボクが拾った子なんだからおしっこくらいボクがさせるよ」

「馬鹿、学校の時はどうすんだよ」

「あ」

彰はしろを見る。

「えっと、ボク学校しばらく休むよ」

そう決意した彰に杉村は追い討ちをかける。

「義務教育じゃないんだぞ。学校好きだって言ってたじゃないか。学校はちゃんと行け」

「でも、それじゃあ・・・」

しろを手放さなければならないのでは、と彰は身構える。

「俺もやるから」

「へ?」

「一緒に生きててくれんだろ?なら一緒にやるべきだろ?」

杉村は少し、照れ臭そうに目線を外す。

「おしっこくらい俺にだってやらせられるから。なんでも一人でしようとすんなよ。お前は」

照れ隠しに杉村は彰の髪の毛をわしゃわしゃかき混ぜた。

「うん、うん。本当にありがとう」

彰は髪の毛をばさばさにされながらしろを抱き締めた。


次の日、彰はなかなか学校から戻って来なかった。

少し心配になった杉村はしろを抱きながら彰の通学路だと思われる道を歩く。すると、住宅街の中見覚えのある黒いニット帽が見える。

そしてさらにもうひとつの見覚えのある顔。

杉村が公園にいた時に援助交際を持ち掛けてきた少女。

しかし杉村といた時の様子とはまるで違う。

顔を赤らめて俯いている。

杉村には聞こえないがしきりになにかを訴えている様子だった。

彰の表情はこちらからは見えない。

これはもしかして告白シーンなのか?杉村はどうしたものかと考える。

彼女は援助交際をする女の子だ。

もし彰が告白を受け入れてしまったらその事実を知ってる自分はどうしたらいい?

いや、しかし彰も彼女を好きだったとしたら・・・。

杉村があれやこれやと考えていた時、手の中のしろが「みゃーー」と、鳴いた。

はっとした感じで彰は振り替える。

その表情からはかなり困っている、という印象を受けた。

少女も杉村に気付き、あっと黙り込む。

彰は少女と杉村を交互に見る。

少女になにか・・・多分、謝罪の言葉だろうか。

を、告げ小走りに杉村に向かって駆けてきた。

「迎えに来てくれたの?しろ、元気?」

「えっと、いいのか?彼女・・・」

「え?あ、うん。ボク駄目なんだ」

なにが駄目なのか杉村には分からなかったがあえて、それは聞かなかった。

彰の笑顔が空元気に見えた。


部屋着に着替えた彰がなにか考え事をしているように見えた。

何十分かお互い珍しく黙り合う。

時計の針が進む音が大きく聞こえる。

杉村がなにか喋ろうかとした時に彰が言った。

「ボク、恋愛って駄目なんだよね」

「駄目って?」

杉村が聞き返すと彰は頭をかいた。

「恋愛っていうか・・・そういう対象として見られるのが小さい頃から苦手なんだ。特に性的対象として見られるのが。区切るのが嫌なんだ。男なんだから、女なんだからって。だからボクもそう見られたくない」

杉村にはよく分からなかったが家出している事実もある彰だ。

彼のこともなにからなにまで知っているわけじゃない。

むしろ知らないことのほうが多いのだ。

「お前は、お前だろう?過去になにがあろうが、なにを考えてようが、お前は“彰”っていう一個人なんだから他人に左右されなくていい。俺はお前、っていう人間が気に入ってるんだ。だからお前も自分に自信を持て、な?って、説教って俺も年かな」

杉村が特に意図をなく口にしたセリフだったが

「そういう説教だったらされてもいいかもね」

と、やっと彰はいつもの笑顔になったので杉村は安心して微笑んだ。


しかし彰の言っていた言葉の意味を意外にも早く知ることになった。


次の日、目覚めると杉村としては珍しくもう7時半だった。

彼はあまり睡眠をとらないほうだ。

しろの世話で夜も何度も起きるからその疲れがたまっていたのかもしれない。

隣を見ると彰がいない。

洗面所からなにやら音が聞こえてくる。

杉村の部屋はワンルームだが広いので洗面所とバスルームは一緒だがトイレは別だった。

顔を洗いたくて躊躇いなく洗面所の扉を開けた。

そこに彰がいた。

が。

お互い固まってしまった。

彰は下は制服のズボンを穿いていた。

しかし上は軽くカッターシャツを羽織っているだけだった。

それだけならなにもおかしいことはないシチュエーションである。

しかし、隠されていなかった彰の胸にはどう見ても女性のものだとしか思えない乳房があった。

しばらくそのまま見つめ合う。

彰の顔は真っ赤になっていく。

胸元を隠すようにその場にしゃがみこんで

「いやーーー!!出てって!!」

と、叫んだ。

我に返った杉村はまだ混乱しつつも部屋に戻った。

それから長い間、洗面所から嗚咽が聞こえていた。

杉村も混乱していた。

あいつは今までのことを考えると確かに男だった。

でも、あの胸はどう考えても女性のものだった。

一体どういう事だろう。杉村は懸命に考えるがそんなこと答えが出る筈ないのだ。


30分ほどそのままの状態は続いた。

しかし洗面所の扉が開く。

やはり泣いていたようで彰の目は赤くなっていた。

制服をしっかり着込んでいる。

「あんただけには知られたくなかったよ」

ぽつりとそう言った。

杉村はあえて急かさなかった。

彰がなにかを告白しようとしているのを感じたからだ。

「ボクね」目を伏せる。

「ボク、両性具有なんだ」

両性具有、知識としては知っていたがそう言われても杉村は理解するのに時間がかかった。

「ボクはきっと、神様の休日に産まれたんだよ。神様っていうくらいだから365日の内、休みなんてきっと一日くらいしかないんだ。

そんな神様の休日に産まれたからボクはこんな体に産まれたんだよ。小さい頃から不思議に思ってた。どうして自分だけこんな体に産まれたんだって。女でもない、男でもない。こんなの気味悪いよね。仕方ないよね。神様に見放された子供だから」

淡々と話す彰だがその小柄な体は微かに震えていた。

「ボクの家はボクが小学生の時離婚してボクは母方につくことになったんだ。

お母さんはいつもボクを守ってくれた。体のことで苛められたりしたら。でもそのお母さんが中学の時に肺炎で死んじゃったんだ。ボクはお父さんに引き取られた。久しぶりに会うお父さんは・・・ボクの体を好奇心に満ちた目で見るとボクを思うがままにしようとしたんだ。

そんなこと絶対嫌だって思ってなにかをされる前に逃げ出そうとしたボクに吐き捨てたセリフは“せっかくその面白い体を楽しもうとしたのにな”って・・・」

ぽろりと一筋、ついに涙が頬を伝った。

そんな彰を見て杉村はやっと今までの彰の言動や行動に合点がいった。

なにかを言わなきゃいけない、杉村は立ち上がる。

「俺は、一度もそんな目で見たことはない。好奇心なんかでお前を見たことはないよ」

そう言っても彰は黙って俯いてしまう。

このままではこいつはどこかに行ってしまうのでは?そう考えるとなんだか杉村は不安になっている自分に気付いた。

だからその次の行動は杉村自身が驚いたが、思わず彼は彰を抱き締めていた。

彰がアーモンド型のその目で杉村を見上げていた。

「え?」

少し間の抜けたように言う。

杉村も自分の行動にかなり戸惑っていた。

しかし言葉は連ねた。

「初めから言ってただろ。俺はお前が男とか女とかじゃなく、本当に人間として。それだけでいいんだ。だから、それを否定しないでくれよ。お前のおかげでやっと俺はずいぶん楽になれたんだ。お前に感謝してる。でもそのお前がお前自身を否定してしまったら俺は馬鹿みたいじゃないか」

一気にまくし立てる。

そうしないと彰が本当に消えてしまう気がした。

彰はしばらく微動だにせずそのまま杉村を見つめていたが、やがてそわそわしだし顔が赤くなった。「あの、これ、すごい恥ずかしいんだけど」

慌てたように言う。

「ハグは男女共用だよ」

杉村も顔が赤くなるのを感じたので彰の頭を自分の胸に埋めさせて視界をふさいだ。

しばらくそのままでいた。

「・・・こういう風に抱き締められるのは初めてだよ」

ぽつり、と彰が言った。

「俺だってこういう風に人を抱き締めるのは初めてだよ」

杉村も負けじと言うがなんの自慢にもなりはしないな、と少し情けなく思った。


制服を着た彰だったが朝からの一連のどたばたで始業時間から大幅に遅れてしまっていた。

たまには休んでもバチは当たらないよね?彰はそう言って今日はもう休むと決めたようだった。

しろをはさんで二人でいた。

「しろ、初日よりお腹がふっくらしてきたね。二人で面倒見てるんだもん。早く大きくならないかなあ。あー、でも小さいのも可愛いしね」

彰は落ち着いたようでにこにこしながらしろを触っている。

お腹の傷もほとんどかさぶたになっている。

ふと杉村は思った。

二人の出会いのこと。

「俺だったら止めれなかったかもしれない」

呟く。

知らない振りをする方が楽に決まっている。

今の彰の様に今にも電車に飛び込みそうな危ない奴に関わるより。

その一言は独り言のつもりだったし、短い言葉で彰には意味は分からないと思ったが彰はふいに杉村を見ると

「だってボク、前からあんたのこと知ってたから」

そう言ってくすり、と笑った。

「中学生から家にいたくなかったからできるだけネット喫茶に行ってた。あの日も言ってたでしょ?そしたら一年半くらい前かな、初めてあんたを見かけたのは。線路脇のフェンスにもたれて電車を見てた。・・・うん、前から知ってたんだよね」

杉村は驚いた。

彼自身は行き交う人々など気にしてなかったし、いつも電車の方を見ていた。

だから杉村は彰には気付かなかった。

「なんで俺を見てたんだ?」

そんなに自分は今にも電車に飛び込みそうに見えるくらい頼りなく見えただろうかと少しばつが悪くなった。

「ボクも同じこと考えてたから」

そう言いながらも彰の表情は穏やかだ。

「いっそのこと、死んでしまおうって思ってた。なにもかもから逃げたかったんだ。だけどそう思った時はあんたがいつもいてさすがに飛び込めない。でもその内この人もボクと同じ気持ちなんだなって分かった。だからね、最初にボクがあんたの命を救ったんじゃない。あんたがボクの命を救ってくれたんだよ。だからボクもあんたを死なせたくなかった」

意外な彰の告白に杉村はこいつをどうしてでも幸せにしてやりたい、と思った。

例えなにかを犠牲にしてでも。


それからしばらくして彰は急に立ち上がった。

「ちょっと散歩してくるよ。また雪が降ってきてなんか綺麗だから」

そそくさと部屋を出ていく。

なにか様子がおかしい気がした。

杉村はベランダに出てみた。

確かに大粒の雪が降り始めている。

八階の杉村の部屋から地上を見ると彰の姿が見えた。

なぜか公園に入っていく。

キョロキョロ辺りをうかがっていた。

姿を隠そうとするかのように生け垣の傍に身を沈めた。

もしかして・・・しろを傷付けた犯人を探すつもりなのだろうか?

でもそれは相手は刃物を持っているということだ。

ふいに不安になった杉村は思わず上着も羽織らずに部屋を飛び出した。

赤い血はもう見たくなかった。


彰は慎重に辺りを伺った。

しろの傷。

実際、学校で聞いた公園での相次ぐ猫の虐待死の話を聞いた。

雪が降っているとはいえまだ夕方にもなっていないのでそんな明るい時間に犯人が現れるかどうかは疑問だった。

しかしこれ以上あんなに可愛く、非力な猫達を傷つけたり殺したりされるのは我慢ならなかった。

彰は怒りを感じていた。

絶対捕まえてやる、そう思った時にカーキ色のジャンパーを着た眼鏡の二十代、前半くらいの男性が公園内に現れた。

しきりに辺りの様子を窺っている。

しかし彼は猫用の缶詰を空けると猫に餌をやり出した。

彼ではないみたいだ、と彰が安心した時にやおら男はナイフを取り出す。

鈍く光る。

猫は三匹集まってきていた。

男はその中でも一番小さい猫に向かってナイフを降り下ろそうとした。

餌を食べている猫は気付かない。

彰は走り出しながら「なにをしてるんだよ!」と、叫んだ。

びくっと男は振り向く。

しかしにたり、と気持ちの悪い笑みを浮かべた。

しまった、彰は自分の行動が少々浅はかだったと気付いた。

ナイフを持った男と結構近い距離で向かい合わせになっていた。

バタフライナイフとでもいうやつだろうか。

少々小ぶりのナイフだった。

それでもナイフを持った男と対峙するのは、小柄な彰には余計無茶だと言えた。

動けなくて彰はただ立ち尽くした。

男が彰に向かってナイフを構え直す。

そして突進してきた。

思わず目を閉じた。

しかし温かくて大きな物が自分を抱き締め、そのまま倒れこんだ。

彰が体を起こすと杉村が彼の体を庇っていた。

本来、彰に刺さるはずだったナイフは杉村の右の脇腹に深々と刺さっていた。

見るからに深傷のようだった。

上着を羽織ってないシャツだけの姿だったのでよく分かったが、血がどんどんシャツを染めていった。

とっさに辺りを見回すがあの男は消えていた。

「とりあえず救急車を呼ぶから」

彰は震える指で携帯を操作し、救急車を要請した。

「痛い?大丈夫?」

地面には血だまりができていて杉村の顔は真っ白になっている。

温めなきゃ、凍えてしまう、血がどんどん逃げていく。

彰は杉村を抱き締めた。

杉村は目を閉じていたがふと目を開けた。

そして小さい声ではあったがはっきりと言った。

「ずっと考えてたんだけど。お前が神様の休日に産まれたって話し。でも逆じゃないかと俺は思うんだ。天使っているだろ。神の化身の。あれって中性なわけ。お前と一緒だろ。神様なんてきっと365日の内働いてるのは一日なんだよ。それがお前の産まれた日なんだと、俺は思う」

そう言って微笑むと彰の髪の毛を撫でた。

そしてそのまままた目を閉じた。



それから三年後、彰は一人杉村のマンションにいた。

しかししばらくすると杉村が帰ってきた。

久しぶりに編集長と会いにいっていたらしい。

「時が過ぎるのは早いものだね」

彰が言った。

「あの時はどうなるかと思ったよ」

三年前に彰を庇って刺された杉村は一時、意識も戻らず彰はずっと泣いていた。

しかし後に意識も回復し、傷の経過もよかった。

彰はそれからずっと杉村と共に暮らしている。

彰の父が何度か彰の携帯に電話してきたりしていたが杉村が追い払った。

そしてそれは十ヶ月近く前、彰から言い出した。

ボク、あんたの子供がほしいな。

かなり照れ臭そうだった。

しかし二人はお互いに性的対象としては見てなかったのでその案は一度、頓挫しかけた。

それでも杉村の方も二人の子供ならほしいと思っていたので人口受精という形をとった。

幸い、一度目で着床し彰の体の中に命が芽生えた。

「腹、でかくなったなぁ。今日も蹴ってるな」

杉村が優しく笑いながら彰の腹に触れる。

「そりゃ双子で臨月だもん。お腹も大きくなるよ」

彰も自分の腹を撫でた。

「この子達は神様の休日に産まれるのかな?」

そう聞いた彰に

「もしそうなら俺が神を叩き起こしてきてやるよ」

杉村はそう言った。

二人は目線を合わせると幸せそうに笑う。

杉村は今日、編集長に言われた言葉を思い出した。

最近、作風変わったね。”生きること“がテーマになってる。

作風だけでなく彼は変わった。

彰と子供達とずっと生きていきたい。

傍らでは大人になったしろが喉を鳴らしている。

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― 新着の感想 ―
[一言] 素敵ですね。私は、自殺願望で検索した小説を 読んでいながら、この作品に出会いました。 なぜ自殺か…、まぁ、私が病んでいないと いうと嘘になる、ただ、それだけで。 私はこの小説のおかげで、こ…
[一言] よかったです。神様の休日…なるほどと思いました。私も少年のような方を知っているので、こういう温かい話はいいですね。これからも頑張って下さい!
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