五
おっさんのその問いかけは、今までひとりよがりにしゃべり続けていただけに、いささか唐突に思えた。なんと答えればいいのか、とっさにはわからなかったが、判明していることが一つだけある。
つまるところこの男、愚痴を言っているだけだ。
この男はさっき、「自分は孤独だ」という意味の発言をしていた。よほどアピールしたかったらしく、わざわざ二回同じことを言った。
ようするにこの男は、仲間がいなくなったことで愚痴を吐く相手も失ってしまい、それをオレたち捨て猫に求めることになった、ということらしい。
おっさんのように愚痴ばかり言うやつは猫の中にもいる。オレはそういうやつに愚痴られたとき、真剣に取り組むのも馬鹿らしいので、適当に話を聞いた上でこう答えることにしている。
「捨て猫の身分で文句を言うな、嘆いてもどうにもならないから諦めろ」――と。
だが、この男は猫ではなく人間。いつもとは違う答えを用意する必要がありそうだ。
オレが思うに、人間は必要以上のことをやりたがる生き物だ。図書館で本を読んで知識を吸収したり、毎日朝に山道をジョギングしたり、わざわざ外に出向いて飯を食ったり。極めつけは、猫という生意気な生き物を喜んで面倒を見るという、生きるために必要どころか、負担になることまで好き好んでやっている。
そういう余計なことばかりするから、悩みごとが増えるのだ。考えなくてはならないことがあるから、気持ちが沈むのだ。オレの眼前でうつむき加減に座っている中年男は、そんな悪循環に陥った典型的な例だろう。
その点、オレたち猫には悩みごとなど一つもない。煩わしいことは放っておいて、日々を悠々自適に過ごしている。眠たくなったら寝て、腹が減ったら食べて、天気のいい日には日向ぼっこをして、暇なときは人間観察でもして過ごす。そんなとてもシンプルな暮らしを送っている。
そういうわけで提案なのだが、おっさんもオレたちのような暮らしをやってみる、というのはどうだろう。
いろいろと欲を張るから悩みごとが増えるのだ。考えなくてはならないことがあるから気持ちが沈むのだ。おっさんもぜひ、オレたち猫のようにシンプルに生きてみるといい。眠たくなったら寝て、腹が減ったら食べて、天気のいい日には日向ぼっこをして、暇なときは人間観察でもして過ごす。最高の暮らしだと思うのだが、どうだろうか?
そう伝えるつもりで声を発したのだが、出てきたのは「にゃあ」という、猫にとってはありふれた鳴き声でしかなかった。
「おっ、慰めてくれるのか。ありがとな。……って、猫しか慰めてくれるやつがいないようじゃあおしまいだな、俺も」
おっさんは少し笑って、またオレの頭を撫で始めた。
オレは確かににゃあと鳴いたが、別におっさんを慰めたくて鳴いたわけではない。どうやらこの男はまた勝手な解釈をしたらしい。
だが、おっさんには一つの変化が生じていた。暗く淀んでいた瞳に、淡い光が灯っているのだ。
「愚痴ってみるもんだなぁ、猫相手でも。少しだけ心が楽になったよ。ま、俺が置かれている状況はなに一つ変わってないんだけど」
おっさんはてきぱきと弁当箱をリュックサックに仕舞い、それを肩にかけてベンチから腰を上げた。そして、太陽の光を体いっぱいに浴びるように大きく伸びをした。
「あー、腰が痛いなぁ、ちくしょう! 山道なんか歩いたからだよ、まったく。……しょうがない。気を取り直して明日から、いや、今日から仕事を探すとするか」
誰に対して言っているのかわからないおっさんの言葉は、これまでで一番大きな声だった。どうやら元気を取り戻したらしい。
気が楽になったのはオレのおかげ、とおっさんは言ったが、実はそうではない気がする。オレはアドバイスを口にしたが、おっさんの耳には「にゃあ」としか聞こえなかったはずだ。
この男はまたしても勝手な解釈をしたのだろうか? そうでなければ、この男は最初から、愚痴を誰かに向かって吐き出すことさえ叶えば、それを機に立ち直るつもりでいたのかもしれない。
なんにせよ、この男が勝手に愚痴を言って、勝手に立ち直ったことには変わりない。そう考えると、とんだ茶番だ。
だがしかし、悪い気分ではない。やはり、曇り空よりも晴れているほうがいいものだ。
「じゃあ、俺はこのあたりでお暇させてもらうよ。さびしいおっさんの愚痴に付き合ってくれて、ありがとな。近いうちにまた来るよ。今度はたまごやきのひと切れでも恵んでやるから、また話を聞いてくれ。じゃあな」
そう言い残して、おっさんはオレのもとから去っていく。
「そのうちにまた来るから話を聞いてくれ」……か。
せいぜい好きにするがいいさ。どうせオレは一日中暇なのだ。途中で眠ってしまってもかまわないのであれば、いくらでも長話をすればいい。
どうせオレは、もう拾い手のない、不細工な大人の猫。心配せずとも、探せばこの公園のどこかに必ず。気軽にオレの隣に腰を下ろして、勝手に話をすればいい。
だが、体を頻繁に触ることと、暗い顔をすること、この二つはできればやめてもらいたい。オレは撫でられるのは好きではないし、暗い表情をされるとこちらまで気が滅入ってしまう。
もしどうしてもと言うのなら、たまごやきを用意しておくといい。そう、お前が言っていた、砂糖が多くて焦げているという、お前が自らの手で作ったたまごやきのことだ。
安心しろ。オレは捨て猫の身分だ。恵んでくれる食べ物は、食べられるものであれば文句を言わずに食うさ。お前は知らないだろうが、オレはたまごやきが好物だ。多少の失敗作くらいは喜んで食ってやる。
もし食べさせてくれるのなら、特別にそれらの行為を許してやってもいいぞ。オレが食っているあいだだけなら、暗い表情も、身体を撫でるのも、特別に許可しよう。オレは弁当のおかずをくれる人間には、頭や背中を撫でさせてやっているからね。
遠くなっていくおっさんの後ろ姿が見えなくなって、オレは空を見上げた。晴れ渡った上空の高い位置で、相変わらず太陽が輝いている。




