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昼下がりの猫  作者: 阿波野治


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4/5

「おっ、なんだ? エサが欲しいのか? そうか、よしよし、ちょっと待ってろよ」

 おっさんはやっとのことで撫でるのをやめた。そして、背負っていたリュックサックを膝の上に置き、中身をまさぐり始めた。

 オレがじっと見つめたのを、腹が減っているのと解釈したらしいこの男の行動、見当違いもいいところだ。オレは小一時間ほど前に食事をすませ、現在空腹感は完璧に満たされているのだから。

 取り出されたのは、弁当箱。においですぐにわかった。おっさんはそれをオレの鼻先へと近づけると、「じゃーん」などと効果音を口にしながら蓋を開けた。箱の中身は空っぽで、残っていたのは二、三の米粒のみ。

「あはは、残念でした。弁当は小一時間前に食べちゃって、もうないよ。……おっ、なんだ? 怒ってるのか? 悪い、悪い。米粒でいいなら遠慮なく食えよ。ほら、ほら」

 なにがおかしいのか、おっさんはにたにたと笑いながら、弁当箱をオレの鼻先に押しつけてくる。別に米粒など食う気はないし、なによりうっとうしいので、俺は顔を背けた。おっさんが呆れたような笑い声をもらした。

「お前、ほんと愛想悪いなぁ。そんなんだから誰からもかまってもらえないんだぞ? ん?」

 おっさんは膝の上のリュックサックに空の弁当箱を置いたまま、またオレの頭やら背中やらを撫で始めた。相変わらず、オレを蔑む言葉を口から垂れ流ししながら。

 さっきから、この男はいったいなにがしたいのだろう?

 このおっさんもそうだが、人間という生き物はどうもよくわからない。三年もの長い期間を生きて、狭い世界で暮らしているなりに、世間のことはそれなりにわかったつもりだが、こればかりはいまだに謎のままだ。不可解としか言いようがない。

 それはともかく、この男、いつまでオレの体を触っているのだろう。オレはそもそも、人間に触られるのはあまり好きではないから、不必要に撫で回すのはただちにやめてほしいのだが。

 などと胸中でぐちぐちとつぶやいていると、思いが通じたのか、不意にオレの頭から手が離れた。やっと立ち去ってくれるのかと思いきや、おっさんはベンチに座ったまま動かない。

 おっさんは首をだらりと垂れてうつむき、こちらをいっさい見ない。ついさっきまで馴れ馴れしくオレに絡んできたくせに、今は元気がまったく感じられない。雰囲気がどこか陰気だったのは元からだが、よりいっそう生気を失ったという感じだ。

「なあ、暇そうに座ってる捨て猫さんよ、ちょっと付き合ってくれないかい? ……きっと聞いてくれるよな。俺と同じひとり身のお前なら」

 おもむろに口を開いたかと思うと、おっさんは不可解なことを口走った。やはりこの男、なにを考えていて、なにを望んでいるのかがわからない。オレは耳を真っ直ぐに立て、瞳を丸く見開き、おっさんの顔を凝視する。

「いきなりこんなことを言われても困るだろうが、俺はつい一か月前に離婚したばかりなんだ。十何年間連れ添った女房と、かわいい盛りの愛娘と別れたばかりの、お前と同じひとり者なんだよ」

 ようやく話が見えてきた。

 この男はようするに、さびしかったのだ。長いあいだいっしょに過ごしていた家族と離れ離れになり、さびしかったのだ。オレがこの公園に捨てられて、二・三日ずっと啼いていたように。

 だからと言って、オレと同じにしてもらいたくないものだ。オレも確かに落ち込んだが、三日で立ち直った。それに比べておっさんの打たれ弱さといったらどうだ。寿命が異なる人間と猫では時間の感覚も違うとは思うが、一か月もあれば充分に未練を断ち切れるものなのでは?

 暗い顔をしている理由はわかったが、そのことをオレに打ち明けてどうするつもりなのか、それがまだ見えてこない。おっさんもまだなにか話したそうな様子だし、もう少し耳をかたむけることにする。

「娘は女房のところに引き取られてね。会いに行くことすら許されないのに、養育費だけは毎月きっちり払えっていうんだから、ひどい話だよな。うちの娘は今五歳で、一番かわいい年ごろなのに、一目顔を見ることすら叶わないんだぜ? 俺の血が確かに半分入っている、目に入れても痛くない愛娘だっていうのに。まったく、笑えないよな。離婚のショックで長年勤めていた会社を辞めて、月々の養育費さえ払えなくなって、正真正銘父親失格の烙印を捺されちまったんだから」

 誰一人通っていない歩道を、人間の代わりに一陣の風が、右から左へと冷たく吹き抜けた。おっさんの乾いた笑い声と、風に揺らいだ頭頂の薄い髪の毛が侘しい。

「とにかく自分が食っていかなきゃいけないから、今必死に仕事を探しているんだけど、一生懸命だけが取り柄の中年男を雇ってくれるところはなかなか見つからなくてね。もしかすると、離婚のショックで、取り柄だった一生懸命ささえどこかへ行っちまったのかもしれないな。家に帰ったところで、食事を用意してくれる嫁さんも、玄関まで出迎えてくれるかわいい娘もいない……。毎日毎日、自分が情けなくて仕方ないよ」

 おっさんの声は弱々しい。今にも消え入ってしまいそうなのに、それでも無理に絞り出そうとしている感じが、とても痛々しかった。

「家にこもっていると腐っちまいそうだから、意識して日光を浴びるようにはしてるんだよ。その習慣を続けてみて気がついたのが、外にいようがどこにいようが、さびしい気持ちになる瞬間は必ずあるってことだ。さっき、両親といっしょに子猫を拾って帰っていた男の子を見かけたときがまさにそうだ。ちょうどうちの娘と同じくらいの年齢だったから、思わず泣きそうになったよ。弁当を食うにしてもそう。山道のベンチで食ったんだけど、あまり美味くなかったな。場所が場所っていうのもあるけど、自分が作った料理が不味いんだよ。たまごやき一つとってみてもそうだ。砂糖も多いし、焦げてるし、不味くて食えたものじゃない。嫁さんの手料理とは雲泥の差だ」

 おっさんの目は深い哀しみに染まっていたが、潤んではいなかった。もう涙は枯れてしまったのだろうか。

「一人で山道を歩いているときもそうだったよ。静かで薄暗い山道を歩いていると、だんだん惨めな思いが強くなっていってね。歩き疲れて立ち止まるたびに、『俺、こんなところでなにやってんだろう』なんて思ってさ。歩いているさなかは、言ってみれば無心だから問題はないんだけど、立ち止まるとだめなんだよ。ふと目にとまった、いい感じの高さにあるいい感じの太さの木の枝を見て、あそこにロープをかけて首を括れば楽に死ねるかな、なんて普通に考えちゃうんだからな。でも、いざ実行しようとしても踏み切れないだろうな、俺は。なんてったって、ささいな口論でかっとなって、勢いで離婚届を叩きつけたくせに、それを撤回する勇気は持ち合わせていない男なんだから」

 おっさんがこちらを向いた。自発的に向けたというより、風に流されてこちらに向いたというような、なんとも力のない首の動かしかただった。オレはおっさんの顔をずっと見ながら話を聞いていたから、目が合った。

「なあ、名もなき捨て猫さんよ。こんな俺を、お前はどう思う? 哀れか? 惨めか? 軽蔑するか? それとも同情してくれるかい? なあ、どう思う……?」


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