漂う煙はキスの味
大学の講義棟を出たとき、空はもう夕暮れに染まりかけていた。オレンジ色の光がキャンパスのガラス窓に反射して、やけにまぶしい。
校門の近く、自販機の横のベンチに見慣れた姿を見つけて、俺は思わず足を止めた。
黒髪のボブ。その毛先だけが、夕焼けを吸い込んだみたいに紫に光っている。だるそうに半分伏せた目元には黄色いアイライン。どこか幼さの残る顔立ちなのに、薄く引かれた赤い口紅が妙に色っぽい。
草原琴音。
俺の彼女は、小さな空き缶に灰を落としながら、ベンチに座っていた。
「……いっぺい」
俺に気づくと、気の抜けた声で名前を呼ぶ。表情はほとんど動かないのに、それだけで嬉しくなる自分が悔しい。
「お、おう。待ってたのか?」
「ん。いっぺいの顔、見たくてね」
短い言葉。だけどちゃんと覚えててくれてるのがわかる言い方、それだけで、胸の奥がくすぐったくなる。
「タバコ……また吸ってんのかよ」
「んー」
琴音は返事ともつかない声を出しながら、吸っていたタバコを口から離した。
次の瞬間――
ふぅ、と。
わざとらしく、俺の顔に向かって煙を吹きかけてきた。
「ぶっ……ごほっ、ごほっ!」
「……あ」
むせ返る俺を見て、琴音の目がわずかに見開かれる。
「な、なにすんだよ……! タバコの煙ほんと無理なんだけど!」
「……ごめん」
小さく言って、少しだけ口元がゆるむ。笑ってる。絶対わざとだろ。
「一平、いい反応するから」
「するわ! 人に向かって煙吐くな!」
文句を言いながらも、隣に座ると、琴音は自然と俺の腕に肩を寄せてくる。体温が伝わってきて、怒る気力が一瞬で消える。
「……許した?」
「……まあ」
「ちょろ」
「うるせぇ」
くす、と小さく笑う声。ほんと、こういうとこずるい。
しばらく他愛もない話をしていると、琴音がスマホを見て立ち上がった。
「バイト、行く」
「今日も? 何のバイトか、まだ教えてくんないの?」
「ひみつ」
人差し指を口元に当てて、少しだけ首を傾ける。その仕草が妙に色っぽくて、思わず目を逸らした。
「じゃあね、一平」
手をひらひら振って、琴音は街の方へ歩いていく。紫の毛先が揺れて、夕闇に溶けていった。
――その後。
俺は偶然、琴音の友達と大学のコンビニ前で会った。
「え、一平くん知らないの? 琴音、駅前のシーシャバーでバイトしてるよ」
「……シーシャバー?」
水タバコの店。煙、酒、夜の匂い。嫌な想像が一気に広がる。
「最近ナンパも多いって言ってたし、気をつけなよー」
軽く言われたその一言が、やけに胸に刺さった。
気づいたら俺は、駅前の雑居ビルの前に立っていた。
細い階段を上がると、甘ったるい煙の匂いが漂ってくる。扉を開けると、薄暗い店内に色とりどりのライトがぼんやり揺れていた。
そして、すぐに見つけた。
カウンターの奥。黒いエプロン姿の琴音。その前に、やたら距離の近い男二人。
「ねえ連絡先教えてよー」
「仕事終わったら飲み行こ?」
琴音は無表情のまま、困ったように目を伏せている。断りきれない時の顔だ。
頭がカッと熱くなった。
「すいません」
気づいたら間に割って入って、男たちの前に立っていた。
「この子、俺の彼女なんで」
「は? なんだよ兄ちゃん」
「仕事の邪魔なんで、どいてもらえます?」
自分でも驚くくらい低い声が出た。空手で鍛えた体が、無意識に前に出る。男たちは舌打ちして離れていった。
振り返ると、琴音が目を丸くして俺を見ていた。
「……いっぺい?」
「迎えに来た」
「……ばか」
そう言った次の瞬間、琴音は顔を真っ赤にして俺の胸に飛び込んできた。
「ちょ、琴音……!?」
華奢な体が思いきりぶつかってきて、心臓が一気に跳ね上がる。腕をどうしていいかわからず固まっていると、琴音は俺の胸に顔を埋めたまま小さくつぶやいた。
「……探して来てくれたんだ、うれしい」
その一言で、さっきまでの嫉妬も怒りも全部吹き飛んだ。
けれどここはまだ店の中だ。甘い煙とざわついた笑い声が漂う空間で、抱き合ったまま立っているのはさすがに目立つ。
一平は慌てて小声で言った。
「こ、琴音、仕事中だろ。ほら、戻れって」
琴音はゆっくり顔を上げて、一平を見つめる。赤いままの頬、少し潤んだ目。
「……帰らないの?」
「帰るわけないだろ。終わるまで外で待ってる」
「……寒いよ」
「空手やってるから平気」
「関係ない」
小さくそう言って、琴音は一歩だけ距離を取る。名残惜しそうに袖をつかんで、それから離した。
「……すぐ終わらせる」
「無理すんなよ。ちゃんと仕事しろ」
こくん、と小さく頷く。その仕草がやけに素直で、一平の胸がまた変な音を立てた。
「じゃ、外いるから」
一平はそう言って店を出た。扉が閉まると、さっきまでの甘ったるい煙の匂いが途切れ、夜の冷たい空気が肺に入ってくる。
「はあ……」
ビルの壁にもたれて、大きく息を吐く。
中、めちゃくちゃ大人っぽかったな……。
あんな場所で働いてるとか聞いてないし。
ナンパとか、あんなの毎回……?
考えるだけで落ち着かなくなって、思わずその場でぐぬぬと歯ぎしりを立ててうずくまる。
その頃、店内。
カウンターに戻った琴音の背中に、同じバイトの女の子がにやにやしながら近づいてきた。
「ねえねえ琴音〜?」
「……なに」
「さっきの人、彼氏でしょ?」
「……」
「超かっこよくない? あの割って入るやつ、少女漫画かと思ったんだけど」
「……うるさい」
グラスを拭きながら、琴音は目も合わせない。けれど耳まで赤い。
「てかさー、あんな顔して迎えに来てもらえるとか愛されすぎじゃない? ずっと胸に顔埋めてたし」
「見ないで」
「見えるっての。店のど真ん中だし」
同僚はくすくす笑いながら、小声で続ける。
「琴音があんな顔するの初めて見たわ。いつも無表情なのに」
「……仕事する」
「はいはい照れ屋さん」
琴音は無言のまま次のシーシャの準備に取りかかる。けれど手元が少しだけぎこちない。
ー外に彼がいるー
それだけで胸の奥が落ち着かなくて、あたたかくて、むず痒い。
やがて閉店時間。
エプロンを外し、私服に戻った琴音は小さく息を吐いた。
「お先に失礼します」
「はーい、彼氏待たせすぎないようにね〜」
「……言わなくていい」
ぶっきらぼうに返しながらも、足取りはいつもより少し速い。
琴音が店の外に出ると、夜風が火照った頬を冷やす。琴音はポケットからタバコを取り出した。
「……また吸うのかよ?」
横から待ってたいっぺいが言い終わる前に、カチ、とライターの音。オレンジの火が彼女の顔を照らす。
大きく一口吸って、煙を肺に溜めたまま、琴音は俺を見上げた。
頬はまだ赤い。目は少し潤んでいて、いつもの気だるさが消えている。
「いっぺい」
名前を呼ばれた次の瞬間、唇が重なった。
思考が火花みたいに弾けて消えた。
驚いて息を吸い込んだ拍子に、琴音の口の中に溜められていた煙が、ゆっくりと流れ込んでくる。
熱いはずなのに、冷たい。
メンソールの鋭い清涼感が喉をすり抜け、胸の奥まで一気に落ちていく。その冷たさが逆に感覚を際立たせて、心臓の鼓動が痛いほど強く跳ねた。まるで氷の粒を含んだ火を飲み込んだみたいに、身体の奥がちりちりと灼ける。
甘さの奥にある、澄んだ苦み。
夜の空気みたいに透明なのに、確かに彼女の体温を帯びた煙。
酸素が薄れていく代わりに、琴音の存在だけが濃くなる。
視界がくらりと揺れる中で見える彼女の顔は、夜に灯るタバコの火そのものだった。小さく赤く揺れて、消えそうなのに目が離せない。
唇が離れたあとも、吐き出せなかった冷たい余韻と熱い鼓動が胸の奥に残り続ける。
琴音はわずかに息を乱しながら視線を逸らし、誤魔化すみたいに小さくつぶやいた。
「……かっこよかったよ」
メンソールの淡い香りをまとったその横顔は、さっき灯した火よりもずっと熱を帯びて見えた。
そしてまた、俺の手をそっと握ってくる。
煙の匂いが残る夜の街を、俺たちは何も言わずに歩き出した。
繋いだ手だけが、やけに熱かった……
後日談
シーシャバーのバックヤードで、琴音はいつも通り無表情でエプロンを身につけていた。
「おはよ、琴音〜」
「……おはよ」
ロッカーを閉めた瞬間。
パシャッ
「……なに」
振り向くと、昨日からやたらテンションの高い同僚の女の子がスマホを構えてにやにやしている。
「はいこれ」
画面を見せられた瞬間、琴音の動きが止まった。
そこに映っていたのは――
店の外、夜の路地。
一平と唇を重ねている、自分。
しかも角度的に、完全に煙が流れ込んでる瞬間。
「シ ガ ー キ ス じゃん!!!」
「……っ!!?」
琴音の耳まで一気に赤くなる。
「な、なんで……」
「昨日ゴミ出し行ったらたまたま見えたの! ロマンチックすぎて撮っちゃった♡」
「消して」
「やだ記念」
「消して」
「顔真っ赤なのウケるんだけど」
琴音は奪い取ろうとするけど、同僚はひょいっとスマホを上に上げる。
「クール系彼女が実は激甘なのバレましたねぇ?」
「……仕事する」
「話逸らした!」
そこへ、シーシャの準備をしていた後輩の女の子がそっと近づいてくる。
「草原先輩……」
「なに」
「シガーキスって……どんな感じなんですか?」
「!?!?!?」
琴音の思考が止まる。
「やっぱ煙入ってくるんですか? 苦しいですか? それとも甘いんですか? ちょっと憧れてて……」
「憧れなくていい」
「え、でも好きな人とですよね? え、どっちからしたんですか? 先輩から? 彼氏さんから?」
「仕事して」
「照れてる……」
そのとき、カウンター席から低めの声が飛んできた。
「なーに若い子らで盛り上がっちゃってんの」
振り向くと、常連のスナックのママがシーシャをくゆらせながらにやりと笑っている。
「聞こえちゃったわよ〜? シガーキス?」
「……聞かなくていいです」
「いいわねぇ青春。あたしなんて若い頃、タバコくわえたままチューしたら前歯ぶつけたわよ」
「参考にならない」
「で? どっちが攻めたの?」
「言わない」
「顔が答え合わせなのよ」
カウンター越しにママが笑う。
「でもねぇ琴音ちゃん」
「……なに」
「煙の味で覚えてるキスは、大体本気よ」
琴音は一瞬だけ言葉を失って、それから視線を落とした。
耳まで真っ赤なまま、小さくぼそっとつぶやく。
「……知ってる」
「きゃーーー!!認めたーーー!!」
「尊い……」
「若いっていいわねぇ」
店内が勝手に盛り上がる中、琴音は無言でシーシャの炭をトングでいじる。
けれどその手元は、昨日よりずっと落ち着かない。
ポケットのスマホが震えた。
画面には一平からのメッセージ。
『昨日ありがとな。また迎え行っていい?』
琴音は数秒見つめてから、短く打つ。
『……来なくていい』
送信。
間。
すぐにもう一通。
『でも来たらうれしい』
画面を伏せて、琴音は小さく息を吐いた。
「……ばか」
その横顔は、今日もタバコの火みたいに赤かった。
友人のリアル恋愛話に甘々脚色加えて小説にしてみた!恋愛弱者の俺にはオシャレすぎん?とか思ったりする(「・ω・)「




