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第4話 熱と涙と、守りたい人


 朝から降り続いていた雨は、昼を過ぎてもなお止む気配を見せなかった。

 森を包む雨音は最初こそぽつ、ぽつ、と静かに屋根を叩いていたが、やがてざあざあと勢いを増していく。

 濡れた木の葉が風に揺れ、小屋の屋根からは雫が規則的に落ちていた。

 小屋の中にもじわじわと湿気が染み込んでくるような、そんな肌寒い一日だった。


 薪の火が消えかけていたのを見て、陽菜は立ち上がろうとしたのだが。


「……あれ……?」


 ふらり、と体が傾いだ。


 視界がぐらつき、天井が波打つように歪む。

 額から汗が滲み、背筋を伝う寒気がぞくりと走る。

 身体が重い。手足に力が入らない。

 陽菜は反射的に近くの棚に手をついてなんとか体勢を保った。


(……これ、風邪……?)


 朝から体がだるかったのは、気のせいじゃなかったらしい。

 それでも洗濯物を干したり、濡れた薪を取りに外へ出たりいつも通り動こうとしていた。

 なのに、どうして気づけなかったのだろう。

 その時、背後から低く、静かな声が落ちた。


「……横になれ。お前、熱がある」


 ぴたりと動きが止まる。

 振り返ればレオンがいつの間にか立っていて、じっとこちらを見ていた。


「へ……?だ、大丈夫です、これくらい……」


 思わず笑ってごまかそうとする陽菜。

 だが、自分でも声がかすれているのがわかる。

 レオンは目を細めるようにして、陽菜の足元から額までを素早く見て取った。

 そして、何かを悟ったように、一歩前に出る。


「いいから、寝ろ」


 その声は、いつものように低く、感情を抑えた響きだった。

 けれど、その言葉の端にいつもとは違う『色』があった。

 冷静なようでいて、微かに揺れている。

 レオンはすぐに近づき陽菜の手をそっと取り、自分の額に当てるような仕草をする。

 その手が、驚くほど熱いことに気づいて、彼の表情が一瞬だけ険しくなる。


「……熱が高い。すぐ寝ろ。水も飲め」


 強引ではないが、有無を言わせぬ口調。

 気づけば、陽菜は引き寄せられるように寝台に向かって歩いていた。

 レオンに背中を押されたわけではない。

 でも、彼の声に無意識のうちに従っていた。


 横になり、掛け布をかけられ、湯飲みを手渡される。

 その一連の動作のすべてが、どこかぎこちなく、だが……とても優しかった。

 レオンの手は大きくて少し荒れていて、でも温かい。

 陽菜はその手のぬくもりに、心がじんわりとほぐれていくのを感じていた。

 そして、意識がまた深い眠気に引き込まれていく中で陽菜は心の中でぽつりと呟く。


(……レオンさん、優しいな……)


 そんな考えが浮かんだまま、彼女はまぶたを閉じた。

 外では、冷たい雨が、まだ静かに降り続いていた。


 布団にくるまった陽菜の体は、熱に浮かされていた。

 汗ばんだ額、湿った髪。

 薄く閉じたまぶたの奥で世界はぼんやりと霞んでいて、時間の流れさえ曖昧だった。

 じっとしていても、息が苦しい。

 熱のせいか、空気が重たく感じられる。


 そんな中――額に、ひんやりとした布がそっと乗せられた。


「……っ……気持ち、いい……」


 微かに、かすれた声が漏れてしまった。

 その直後、木椅子が引かれる音。

 重い足音が、ゆっくりと小屋の奥へと消えていく。

 それが誰かなど、言うまでもなかった。


 ――レオン、彼しかいない。


 やがて再び足音が戻ってきて、湯気の立つ器の香りがふわりと鼻をくすぐった。

 煮詰めた薬草の少し苦くて、どこか懐かしい匂い。

 ふと、手が頬に添えられる。

 そして、唇にぬるい器が当てられ、薬湯が少しずつ口の中に流し込まれた。

 少しえぐみのある味。

 だが、それ以上に――不思議な安心感があった。


「……ありが……とう……ございます……」


 意識の境目で、陽菜はぽつりと呟いた。

 その声に、返事はない。

 けれど、布団の端をそっと直してくれる手のぬくもりが、何よりの返事だった。


 夢うつつのような状態のまま、陽菜の口からぽろりとこぼれた言葉。


「……レオンさん、あたたかい……」


 静かな小屋の中に、その寝言のような声がふわりと落ち――その瞬間、レオンの手が、ぴたりと止まった。

 陽菜の額に乗せていた冷却用の布を交換しようとしていた手が、中途半端な位置で固まる。

 時間が、少しだけ止まったような感覚。

 木と石でできた小さな空間には、雨音だけがぽつりぽつりと鳴り続けている。

 レオンは、ゆっくりと手を引いた。

 そして、陽菜の寝顔を見つめる。

 濡れた髪に薄紅に染まった頬、少しだけ開いた唇。

 苦しそうな表情の中にもどこか安心しているような気配が見えた。

 言葉を、飲み込むようにして。

 それでも――届かないとわかっているからこそ、そっと吐き出す。


「……俺も、お前のそばが……心地いい」


 その声はいつもよりほんの少し掠れていて、低かった。

 彼自身ですら気づいていなかった『感情』が、ようやく言葉になって滲み出る。


 この想いを、伝える気はなかった。

 彼には、その資格がないと思っていたから。

 歳も、過去も、生きてきた世界も違う。

 だからせめて、寝ている今なら――この胸に溢れる感情をこっそり吐き出しても許される。

 聞かれていないとわかっているからこそ、ようやく言える。


 彼女の小さな寝息だけが響く、小屋の中。

 そして、外では静かに、雨の音が続いていた。

 夜は深まり、冷たさを増していくというのにレオンの胸の奥はなぜかぽっと、灯るような温かさを覚えていた。


    ▽


 翌朝、まだ寝床の中にいた陽菜はまどろみの中でゆっくりと目を開けた。


 頭はすっきりと軽く喉の痛みも、寒気も、もう感じない。

 すっかり熱が引いたことを、体の感覚が教えてくれる。

 窓の外には、青く澄んだ空が広がっていた。

 昨夜までの雨はすっかり止み、濡れた葉が朝陽を反射してきらめいている。

 草葉を撫でる風は冷たいが、どこか清々しい。

 小鳥たちのさえずりが、森の静けさを破るように響いていた。


「あれ?レオンさん……」


 寝ぼけ眼のまま、陽菜は体を起こし、部屋の中を見渡す。

 すると、小屋の隅の椅子に座るレオンの姿が目に入った。

 薪ストーブの傍で、じっとこちらを見つめている。

 姿勢は変わらず背筋が伸び、無表情でいるように見える。


 けれど――どこか、いつもと違った。


 彼の眼差しは、ほんの少しだけ柔らかく。

 唇の端は、かすかに緩んでいる。

 陽菜と目が合ったその瞬間、レオンは何かに気づいたように視線をすっと逸らした。

 その頬が、わずかに熱を帯びているようにも見えた。

 そして――無意識なのか、ほんのわずかに、口元が緩んだ。

 それは、レオンにしては珍しいほどの、微かな『笑み』だった。


(……もしかして……)


 胸の奥が、ふわりとあたたかくなる。

 昨夜の出来事が、ぼんやりと頭に浮かんできた。

 熱に浮かされながらも感じた、冷たい布の感触。

 ほんのり苦いけれど、どこか懐かしい味の薬湯。

 そして――あの低くて優しい、彼の声。


(「……俺も、お前のそばが……心地いい」)


 本当に聞いたのか、それとも夢だったのかは分からない。

 でも、確かにあの時のレオンはいつもとは違っていて――聞き返したくても確かめたくても、言葉にできなかった。

 陽菜はそっと胸に手を当て、小さく微笑む。

 彼のその言葉が本物だったとしても、今はまだその意味を受け止めるには少し勇気が足りなかった。

 その、あたたかな静寂を破ったのは――突然の、激しい音だった。


 ――ドンッ! ドンッ!


 小屋の扉が乱暴に叩かれる。

 木の壁を通しても分かるほど、強く急を要するような音。

 レオンが立ち上がる。

 鋭く、無駄のない動きだった。

 彼の表情が、さっと緊張に切り替わる。


「――誰だ」


 低く、鋭い声。

 それは、将軍として戦場を駆けた男の声だった。

 扉の向こうから、焦りを含んだ若い声が返ってくる。


「し、失礼いたします!こちら、王都よりの使者!レオン・ヴァルト殿に急ぎのご用があり、参上つかまつった!」

「……!」


 陽菜は、驚きに目を見開いた。

 王都からの使者――それは、間違いなく彼の『過去』に関わる何かだ。

 ふと見ると、レオンも無言のままわずかに眉をひそめていた。

 その顔には怒りでも驚きでもなく――迷いとも戸惑いともつかない、重たい沈黙があった。

 陽菜は、レオンの背中を見つめる。

 少しだけ遠く感じるその背中に、不安がよぎる。


(……レオンさん……)


 さっきまで見せていた、わずかな笑み。

 それは本当に、短い瞬間。


 胸の奥に、小さな不安の波紋が広がる。

 陽菜は、布団の中で膝を抱えながらその背中をそっと見守るしかなかった。

読んでいただきまして、本当にありがとうございます。

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