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第十六章 世事はままならない

台湾出身の陸坡と申します。


この小説は、もともと中国語で執筆したものをAI翻訳を通じて日本語に変換しています。そのため、不自然な表現や誤った言葉遣いなどがあるかもしれませんが、どうかご容赦ください。

物事が停滞する時期というのはある。

数日か、数週間か、あるいは何年も。

だが、長いあいだ錆びついていた歯車が急に動き始めると、

たとえ止まってほしいと願っても、

もう後戻りはできないことがある。


「では、この件、呂仔ルーざい、よろしくお願いします。」


「ははは、任せときなさい。いや〜、君の会社もここまで大きくなるとは大したもんだよ。」


その夜の接待。

林志林は、社長に同行して

長年付き合いのある取引先との会食に参加していた。


ただの仕事の話をする食事会。

……のはずなのだが、志林はこの取引先が苦手だった。


理由は二つ。

ひとつは、相手が社長のゲイであることを昔から知っており、

こちらの「特殊性」を完全に把握しているから。

もうひとつは——

言葉の端々が、どうしても不快になるからだ。


「ゲイにしては、本当によく頑張ってるよ、ははは。

うちの“普通の”弟や妹も、あんたを見習ってくれたらいいんだがね。

同性戀より使えないって、どういうことだよまったく。」


大口取引先の呂董ルーどんは、

だいたいこんな調子である。



***



「……あの人、ほんとマナーない。」


会食が終わり、

志林と社長は顔馴染みのゲイ系ミュージックバーで軽く飲むことにした。


志林は、さっそく先ほどの呂董への不満をぶつけた。


「デカい声はまあいいけど、

話すたびに“ゲイだから〜”って絡めてくるし、

若い子はどうとか説教くさいし、

自分のとこの社員をアゴで使うし……

なんなんあの人。」


派手に白目をむいた志林を見て、

社長は吹き出した。


「呂仔、やっぱ君もそう感じるんだよね?」


「私、一〜二回会っただけで無理なんですけど。

社長こそ、よく我慢できますね?

あの呂董って、ほんと……“ダメ”なタイプじゃないですか。」


“很討厭”を “不行” と表現しているのは、

志林なりのやんわりした言い方にすぎない。

実際は会うだけで疲れるタイプだった。


だから、呂董のいる会食は極力避けたいのだ。


志林の社長は、

社員の愚痴を気にしない人だった。

それが志林がこの会社を好きな理由であり、

職員から管理職になるまで

何年も続けてこられた理由でもある。


開放的で、話を聞いてくれる上司。


社長はビールを開け、ゆっくり喋り始めた。


「君が今言ったこと、

実は昔、俺も呂仔本人に言ったことがある。」


「えっ?社長が、呂董に?」

志林は驚いた。


社長は笑い、続けた。


「呂仔とはね、ただのビジネスパートナーじゃないんだ。

大学の同級生で、しかも同じ寮のルームメイトだった。」


「えぇっ!?マジですか!

社長と呂董って、大学の同級生だったんですか?」


何度も顔を合わせてきたのに、

初めて聞く話だった。


志林の驚いた顔は、社長の期待どおりだったらしい。

社長はビールをひと口飲み、

呂董との昔話をゆっくり語り始めた。


「アイツはね、学生の頃からずっとああいう喋り方だったよ。

君が言ったように礼儀はないし、他人の気持ちなんか気にしない。

おまけに偉そうで、自信過剰で……思い返すと、当時は本当に嫌われていた。

俺もその一人だった。」


やっぱり自分の直感は間違ってなかった——

志林はそう思った。


だが、その直後、社長が口にした言葉だけは予想外だった。


「でもね、今の俺は、彼のことを嫌いじゃない。」


「……え?」


志林は理解できず、思わず聞き返した。


「え、それって……大企業の社長になったから、とか?」


「いや、違うよ。

確かに彼は立派に成功したけどね。


でも志林。

世の中にはさ、人を不快にするような言動をするくせに、

悪意はまったくない……

そういうタイプがいるんだ。」


呂仔ルーざいはまさにその典型だ。

見た目が飛び抜けているわけでもないのに態度だけはデカい。

現代なら炎上まっしぐらの発言も平気でする。

それは事実だし、誰が見てもそう思うだろう。


「でもね、俺はアイツと同級生で、

しかも同じ大学寮で寝起きを共にした仲だ。

だから君よりも、“あの嫌われる部分の裏側” を知っている。

そのせいで、反感を覚えることが少ないんだ。」


社長はビールをひと口飲んで続けた。


台湾が今ほど発達していなかった時代。

彼は親の援助なしに、トップ成績の奨学金で大学へ入り、

小さな工場から一代で会社を大きくした。


自惚れる理由がある——

社長にはそれがよく分かっていた。


成功を見せつけたい。

自分がどれだけやれるか誇示したい。

ただ、その「見せ方」が致命的に下手だから、嫌われるだけなのだ。


そして、社長が起業準備をしていた頃。

口だけ出す同級生ばかりの同窓会で、

唯一、真剣に話を聞いてくれたのが呂仔だった。


「おい、俺の工場の製品さ、お前の会社で売れよ!

ほらこれ台湾オンリーワンの特許技術だぜ?

ブランド化すれば絶対儲かるから!」


——その自信満々の顔が鬱陶しくて仕方なかったのに。

真剣に耳を傾けてくれたのは、

結局、アイツだけだった。


「志林が言った呂董のイヤなとこ、

全部わかるよ。

でもね……

彼は“本当にわかってない” んだ。

たとえば、ゲイのこととか。

彼にとっては“普通じゃない”って認識しかない。


俺たちの時代には、

男が女を好きじゃなくて、男を好きになる……

その感覚を理解できない人は多かったんだ。


でも、悪意はない。

それだけは確かなんだよ。」


「でもさ、悪意がなければ何言っても許されるってわけじゃないでしょ?」

志林はグラスを回しながら言った。


「ははは、それは確かにその通り。

若い君たちが、彼みたいな“昭和のオッサン”みたいな言い方に

耐えられないのも無理ないよ。


……でもね、こっそり教える。」


社長は声を潜めて笑った。


「次に呂仔がまたああいうこと言ったら——」


「思いっきり皮肉ってやっていい。」


「えっ、それはさすがにダメでしょ?

社長、酔ってるんじゃないですか?」


まさか社長がそんなアドバイスをしてくるとは思わず、

志林ジーリンは目を丸くした。

だが社長はニヤリと笑いながら言った。


「だから言ってるだろ。俺は君より彼のことをよく知ってる。

あいつはな、ちょっと“M気質”があるんだよ。

反論されればされるほど、なぜかテンションが上がるタイプでね。」


……そんな情報いらないんだけど。

志林はビールを流し込みながら心の中で叫んだ。


だが同時に、ふと妙な疑問も浮かんでくる。


「社長……なんで呂董が喜ぶかどうか

そんな詳しく知ってるんですか……?

まさか……」


嫌な想像が脳裏をよぎる。

しかし社長は答えず、

ただ意味深な、少し気まずいような笑みだけを浮かべた。


——老いぼれ男の世界って、意外と複雑なんだな。


「ま、それは置いといて……

今日の会食に君を連れて行ったのは、

呂董との話だけが理由じゃないんだ。

志林、君と少し話したいことがあってね。」


「えっ、何の話ですか?」


平日の音楽バーは静かで、

楽器の音だけが柔らかく響く。

客はまばらで、簡単なパーティションに区切られた小空間が

自然と“個人的な話”をしやすい雰囲気をつくっている。


契約を済ませた後に話すことといえば——

仕事か、プライベートか。

志林には見当がつかなかった。


そんな彼の思考を見透かすように、社長が切り出す。


「うちの会社は、北部の事業だけじゃなくて

そろそろ本格的に規模を広げようと思っている。

各部門も人材を増やしているところだ。


それで最近、人事部と相談してね……

いずれ中南部に支社を作ろうと考えている。

そこを任せる責任者が必要なんだ。」


中南部。

その言葉を聞いた瞬間——

志林は、たぶん社長が何を言いたいのか理解した。


「……もしかして、俺に“支社長”をやってほしい、ってことですか?」


「そうだ。

君の実家は中南部だろう?

予定している場所は通勤もしやすいし、

もし部屋を借りるなら会社が住宅手当を出す。

もちろん支社長としての給与・ボーナスも見直す。


いい話だと思うんだが……どうだい?」


「俺……」


返事をしようとした瞬間、

頭の中にいろんなものが一気に駆け巡った。


現在の家の契約。

北部の友達たち。

数ヶ月後の推しのライブチケット。

アプリで知り合った微妙に進展中の相手。

そして——


会社の近くに掲げられた大きなレインボーフラッグ。

その下にある、例のジム。

あの……口の悪い、でも何かが気になる“ノンケ”の恐同トレーナー——

藤毅騰。


何故だろう、

考えたくもないのに、その顔が浮かんだ。


「……今すぐ返事しなくていい。

よく考えてからでいいんだ、志林。」


社長は穏やかな声でそう言った。



※※※※



午前十時。

ジムの開店まではあと一時間。


普段なら学生が最も少ない時間帯で、

藤毅騰が開店準備を担当するのが日課だった。

だが今日は珍しく、数人のトレーナーがすでに集まっていて、

フリーウェイトエリアのあたりで何かを囲んでいた。


——そして今日、もう一つだけ“いつもと違うこと”が起きていた。


「ほら、あと一セット。」

藤毅騰が言う。


ベンチにぐったり倒れ込んでいたのは、

若手トレーナーの小龐シャオパン

息が荒く、汗だくで、

ボトルの水を飲むだけでも精一杯という有様だ。


そんな彼の目の前で、

藤毅騰はフリーウェイトのバーに

さらに10キロのプレートを追加した。


「ちょっ……! 嘘でしょ!?

この重量、絶対ムリ!

イータン先輩、公私混同はダメっすよ!?」


「これくらいやらないと意味ない。

お前、いつも“楽な重量”でごまかしてるだろ。」


そう言う藤毅騰は、いつもの仏頂面。

妙に説得力がある。


「自分から“大会出たい”って言ったんだろ?

だったら大会レベルのメニューこなせよ。

今のお前の筋量と体脂肪じゃ、

新人戦の上位五位にも入れないぞ。」


小龐は涙目になりながら震えた。


——そしてジムの朝は、今日も騰騰テントン先輩によって

地獄のように始まるのだった。


「その……俺、やっぱりコーチは大会に出て入賞したことのある、経験豊富な人のほうがいいと思うんですよ。」


何年も小龐シャオグァンについていた女性クライアントが、ある日突然こんなメッセージを残して契約更新を断った。

ふたりの関係は良好で、特に喧嘩も問題もなかった。

だが彼女は残っていた数回のレッスンにも来ないまま、去っていった。


女性クライアントにいつも人気だった小龐にとって、これは衝撃だった。


「しかもさ、その子かわいかったよな? イケるって思ってたんじゃない?

なのに “大会経験なし” って理由で落とされてさ。

それで面子取り返そうとして、騰騰テンテンに大会準備見てもらってんだろ。

動機、不純すぎ。」

隣で撮影していた阿諾アノーがぼそっと言い、小龐が汗まみれのタオルを顔に投げつけた。


「黙れよ! じゃあお前がこの重量やってみろよ!」

小龐はさっきなんとか5回だけ無理に上げて、最後は騰騰の補助でやっと持ち上げたバーを指差す。


「やだね、俺は彼女いるし。

お前みたいに女のために頭に血のぼらせて大会出ようと思わんし。」

阿諾が言い終わるや否や、小龐に腕で首を固められ、ふたりは子どもみたいに取っ組み合いを始めた。


そんな騒ぎの横で——

騰騰は無言でベンチに横たわり、さっきの重量を軽々と持ち上げた。


フォームが乱れないまま十回。

呼吸も動きも、無駄がひとつもない。


「……これ、5キロ軽くしたほうがフルレンジでできる。」

騰騰は静かに起き上がると、小龐の重量設定を真面目に考え始めた。


正直、小龐も「騰騰に見てもらえば絶対強くなる」ことは分かっている。

だけど、あの人生のすべてを“大会に勝つための身体づくり”に捧げているような異常なストイックさを見ると、


(……いや無理だわ。俺は絶対ああはなれねぇ。)


と心の底から思ってしまう。


それでも、ジムのコーチたちは誰も騰騰の専門性を疑わない。

性格が変わってるとか無口とか、そういうツッコミはするが——

仕事に関しては一切逆らえない。


奇哥が騰騰を護るのも当然だった。


なにせ、毎回大会で上位に入り、

今もっとも “台湾代表としてオリンピアを狙える新世代のボディビルダー” は、

藤毅騰ただ一人だからだ。


「次、上胸。」

騰騰は小さなノートに小龐用の修正メニューを書き込むと、

「休ませろよ……」という小龐の願いを完全に無視して腕をつかみ、

そのままダンベルエリアへ引きずっていった。


後輩を指導するときの騰騰は絶対に手を抜かない。

そして小龐は、この瞬間だけは本気で思うのだ。


(……この先輩には逆らえねぇ。)


「本気で大会準備してるんだな。今回も口だけだと思ってたのに。」


ジムのオープンまであと三十分。

だが扉が開き、教練たちがよく知る女子大生――瑀玟ユウェンが入ってきた。


阿諾は彼女を見るなり手を振り、ふと思い出したように口を開く。


「瑀玟って、小龐と付き合ってたことあったよな?」


その瞬間、場の空氣が固まった。

瑀玟も無表情で阿諾を見る。


「……俺、なんかまずいこと言った?」


自分の口が招いた空気の重さに気づき、阿諾は青ざめた。


瑀玟はため息をつきながらも、

「まあいいよ。どうせ何年も前のことだし。」と肩をすくめた。


「うん、数ヶ月くらいかな。

教練としては悪くなかったよ。面白いし、優しいし。

でも彼氏としては……」


「最悪だった。」

そう言う瑀玟の顔は、笑っていた。


「でも、今回騰騰テンテンに大会準備頼んでるみたいだし、今回は本気っぽいね。

一度くらい見てみたいんだよ、あいつの “本気” っての。

じゃないと、ただの “顔はいいけど口だけの教練” だから。」


瑀玟はそう言いながら髪を結び、ヨガマットを敷いてストレッチを始めた。


阿諾は冷や汗をかいた。

(……うちの彼女で良かった。俺、あんなふうに言われたら死ぬ。)

同じジムで働いていても、教練たちの私生活は本当にバラバラだ。


女の子に囲まれている小龐、

筋トレしかしてない藤毅騰。

あのふたりの生活は、阿諾には理解不能だった。



※※※※



その日の勤務中、小龐は朝から完全に死んでいた。

騰騰にしごかれすぎて疲労が隠せないのだ。


異変はすぐに老闆・奇哥の目に留まり、

騰騰は呼び出された。


「でもこのメニューじゃ、彼は絶対伸びないです。」

怒られた藤毅騰は、不満そうに眉を寄せた。


「メニュー、持ってきて。」

奇哥は騰騰の作ったトレーニング表、食事管理、睡眠、サプリの計画まで全部目を通した。


内容は――


完全に “昔、奇哥が騰騰に課した鬼メニュー” だった。


彼は心の中で苦笑した。

(これ、俺が若かった頃にやった作り方じゃん……。)


当時の奇哥のメニューは、今思い出しても「人道的とは言えない」。

正直、暴力的だった。


ただのショック療法のつもりだった。

“とにかく叩き上げて、あとで調整すればいい” くらいの軽い気持ち。

ところが――


騰騰はその鬼強度を“当然”のようにこなし、

そのまま成長してしまった男だった。


だから彼の基準は、もう一般人には高すぎる。


「強度、少し緩めろ。ちょっとやりすぎだ。」

奇哥はそう言ったが、

本音はまったく “緩めたい” と思っていない。


(この子は緩めたら逆に崩れるタイプだ……。)


そうわかっていても、

他人に同じメニューを課したら死ぬ。

だから止めるしかないのだ。


「この性格、本気で潰れるぞ。」

奇哥の妻でありジムの姉貴分・琇姊ショウジエはいつもそう言っていた。


奇哥は深くうなずくしかなかった。


騰騰を変える方法は、誰にもわからない。


帰宅した藤毅騰は、荷物をまとめる妹・藤毅亭トウ・イーティンを見つけた。


「帰るの?」


「レスリング隊、来月から高雄で合宿。

本当は大会終わったらすぐ戻るはずだったんだけど、ちょっと休みたくてね。

もう戻らないと練習に間に合わないし。」


毅亭は服を綺麗に畳んでスーツケースに入れていく。


「あとで鶏むね肉ゆでるけど、食べる?」


「……あんたの家って、鶏むね肉とプロテイン以外に “食べ物” ってあるの?」

毅亭は盛大に白目をむく。


兄の家にある食材といえば、鶏むね肉・プロテイン・サプリ。

ジムのロッカーと何が違うのか。


「ほんと、筋トレ以外に趣味持ちなよ。」


「見つからないんだよ、そういうの。」


藤毅騰は頭をかいた。

見た目は“運動大好き爽やか男子”なのに、

実態は――


職場と家を往復するだけの超絶インドア。

違うのは、仕事が筋トレってだけ。


「何か捨てるものある? ゴミまとめたいんだけど。」

藤毅騰はそう言い、小さなゴミ箱の袋を手に取り、結び上げようとした。

そのとき――袋の中に、自分の名前が書かれた封筒があるのに気づいた。


カード会社の請求書でも広告でもない。

茶封筒に切手が貼られ、手書きで彼の名前が書かれている。


(俺宛て……?)

なぜ自分への手紙がゴミ箱に入っているのか、まったく意味が分からず、手を突っ込んで拾い上げた。


荷物を整理していた妹・藤毅亭トウ・イーティンは、

兄がゴミ箱から何か取り出したのを見て、

一瞬だけ顔を強張らせた。

取り上げようと伸ばした手よりも早く、

藤毅騰が封筒を開いた。


それは――中学の同窓会のお知らせだった。

藤毅騰は、初めて自分の中学が同窓会をしていると知った。

どうやらここ数年は毎年やっているらしい。


同窓会、と聞いた途端、胸の奥からざわざわと記憶が押し寄せた。

複雑な感情を抱いたまま、日程を見ると――

偶然にも、その日は彼の「公休日」だった。


「なんで俺宛ての手紙、捨てたの?」

藤毅騰は妹に聞いた。


毅亭はすぐに言い返す。

「行くの? あんた、なんであの連中に会いに行くの。

正直言って、よくあの人たちが“あんたを呼ぼう”なんて顔できるよね。

同窓会なんて何様。」


兄より妹のほうが明らかに感情的だった。

彼女は再び手紙を奪い取ろうとしたが、

藤毅騰が阻止する。


「俺が行くかどうかくらい、俺が決める。

なんでみんな俺のやることいちいち勝手に決めようとするわけ。」


「それは……あんたが何もしないからでしょ!」


毅亭の声がぐっと大きくなった。

藤毅騰はその場で固まった。


「何もしない。

ずっとそうでしょ? 全部“誰かが何とかしてくれる”って顔してさ。

自分で考えて動いたことなんて、ある?

あたしが心配しないわけないでしょ!」


部屋の空気が一気に重くなる。

高地みたいに息がしづらくなる。


卒業してから今まで――

周りはみんな彼を心配し、支えようとしてきた。


藤毅騰だって、それくらい分かっている。

でも、自分の中にどうしても越えられない壁があった。

胸の奥に引っ掛かったままの何か。


それは、中学からずっと消えずに残っている――“あの日の記憶”。


筋トレして、汗だくになって、

何も考えられなくなるまで身体を動かせば、

全部消えると思っていた。


だけど今日は――

妹の言葉に刺され、

胸の奥の“中学のあの影”がまた顔を出す。


あの男の子の顔。

まわりの視線。

耳元で渦巻く言葉。


そして、

そのすべてが 同窓会の招待状 へとつながっていく。


「……トイレ。」

藤毅騰は全てを処理しきれず、逃げるようにその場を離れた。


便器に落ちる尿の音を聞きながら、

手に持った手紙で顔を覆う。


閉め忘れたトイレのドア。

膝まで下がった短パン。

突き出された締まったお尻。


シリアスなのに、どこか間抜けな光景だった。


「ちょっと買い物してくる。」

手を洗っている兄の背後から、毅亭の声。


鍵を持って立っている。


「大型スーパー、連れてって。」


「ちょっと待って、着替える。」

藤毅騰は答えた。


どれだけ言い争っても、

時間が少し経てば互いに一歩引く。

それが兄妹の“暗黙のルール”。


藤毅騰はときどき思う――

自分のほうが妹に“世話されてる”んじゃないか、と。

でも、それでも彼は妹のためにできることはやりたい。


今日は、同窓会の案内状が藤毅騰のベッドサイドに置きっぱなしになっていた。


ここ数週間、藤毅騰は「林志林のこと、前ほど怖くないかもしれない」と思い始めていた。

その一番の理由は──とにかくゲイのことを考えない。

頭の中を全部トレーニングメニューで埋める。

無駄話を減らす。


これを林志林は 「ティーチングモード」 と呼んでいる。


ただ、このモードには欠点があった。

藤毅騰は、自分の学生が大会選手ではなく、ただの筋トレ初心者だということを完全に忘れてしまうのだ。


すぐに林志林は、ロボットみたいな追い込みに耐えきれなくなり、藤毅騰を現実に引き戻した。



※※※※



「ちょ、ちょ、ちょっと何!?」

突然呼ばれて、藤毅騰はびくっと跳ね、

まるで驚かされた子犬みたいに後ずさって、危うく転びそうになった。


元の「藤毅騰」に戻った姿を見て、林志林は頭を抱えながらも言う。


「ちょっと休ませて。

一つの動作やって30秒休んだら、すぐ次の動作とか無理。

マジで身体ぶっ壊れるわ、トン。

今、水飲みに行くから!!」


「お、おう……」

怒られた藤毅騰は素直に頷くが、どこか寂しそうな顔をしていた。


やだ、またその表情。

こっちが悪者みたいになるじゃん。


水を汲みに行きながら、林志林はチラッと藤毅騰を見る。

寂しそうな顔で次の器具を準備している。


最近、自分の体脂・筋量の数値がみるみる良くなり、

アプリで声をかけてくる相手も急に増えた。

本来なら、この“恐同ノンケ教練”にお礼を言うべきなのだろう。


でも──最近、老闆(社長)の話を聞いてから……

彼の中で何かが変わり始めていた。


正直、自分でもわかっている。

たかが一人のジムトレーナーのために、ここに留まるわけにはいかない。


物事は止まらない。

常に変化し、前へ進んでいく。


ただ──

藤毅騰だけは、林志林の中で何故か言い出しづらかった。


「藤毅騰、話がある。」

「え、えっと……今日はメニューがキツすぎた?

それとも、詰めすぎちゃった?」


いつかは言わなくてはいけない話。


「違うよ。

あのね、トン……

今期のレッスン終わったら、続けて契約しないと思う。」


「…………」


まさかそんな言葉が出てくるなんて、これっぽっちも思っていなかった。

更衣室でその一言を聞いた藤毅騰トンは、林志林リンの目の前で完全に固まったまま反応がない。


このままじゃ変に誤解されかねない──そう思った林志林は、もっとはっきり言うことにした。


「会社から南部(南の支店)を手伝ってほしいって言われててさ。

だからしばらく北部には戻れないんだ。

トン、あんたの指導は本当に良いよ。必ずまた新しい生徒だってつくから。

必要なら紹介もできるし……。

藤毅騰?藤毅騰?トーン!!」


「う、うん!あ、ああ、わ、わかった……」

藤毅騰は、ただひたすら頷くしかない。


その様子に林志林はつい我慢できなくなった。

藤毅騰がゲイに触られるのを怖がるとか──そんなのもうどうでもいい。


彼はズカッと歩み寄り、両肩をがっしり掴んだ。

更衣室に他の人が出入りしていようが関係ない。


「藤毅騰、あんたは“いいトレーナー”だよ。

それだけは、絶対に覚えときな。」


その言葉を聞いた藤毅騰は、また反応が止まった。

でも、さっきまでの“思考停止”とは違う。

驚愕したような目で、まっすぐ林志林を見つめている。


なぜだかわからない。

身体の奥から、じわっと熱が上がってくる。

耳も、頬も、火がついたみたいに熱い。


「……ありがとう。」

藤毅騰は、かすれた声でそう言った。


「うん、言いたかったのはそれだけ。

じゃ、シャワー行くわ。

安心しなよ、残りのレッスンはちゃんと全部やるから。

途中で消えたりしないって。」


大きなバスタオルの入った袋と、ケア用品を抱えて、林志林は浴室へ向かっていく。


その背中を見送りながら──

“あんたはいいトレーナーだよ”

その言葉がどうしても胸に残り続けた。


数拍遅れて、

込み上げてくる涙が目の奥でふるえているのに気づく。


落ちてしまう前に、藤毅騰は慌てて両目をこすった。

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