第十四章 ホモフォビアな人
台湾出身の陸坡と申します。
この小説は、もともと中国語で執筆したものをAI翻訳を通じて日本語に変換しています。そのため、不自然な表現や誤った言葉遣いなどがあるかもしれませんが、どうかご容赦ください。
「今日はここまで。」
藤毅騰がそう告げた瞬間、クランチをしていた林志林は、全身の力が抜けてその場に倒れ込み、息を荒くしたままピクリとも動かなかった。
――はあ……死ぬわほんと。さっきも「今日はちょっと疲れてるの」って言ったじゃない。まっっったく、この男、あたしの言葉なんて一文字も聞いちゃいないんだから。
志林は、今日どうしてもサボりたくて「最近仕事が忙しくて、体がキツくて……」と嘘をつき、トレーニング量を減らしてもらおうとしたことを思い出す。
すると藤毅騰は、彼をじっと見つめて、ちょっと眉をひそめてから「わかった」と頷いた。
志林は心の中で(よしっ、作戦成功!)とニヤけた――が、その直後、目の前に25キロのプレートを二枚抱えて戻ってくる藤毅騰の姿が。
志林の目の前で、ガチャリとその巨大なプレートをバーに装着し、藤毅騰は言った。
「はい、じゃあ第一セット、始めようか。」
「ちょっとアンタ、ホモフォビアすぎて人間の言葉通じないわけ?藤毅騰。」
目の前の重量に呆れきった志林は思わず毒づいた。
「だって、サボろうとしてるだけでしょ。」
藤毅騰は当然のように返す。
「わかってんじゃないの。で、もし本当に具合悪かったらアンタ責任取るわけ?」
嘘を見抜かれても、志林は意地で食い下がる。藤毅騰は困った顔で頭をかき、器具の方へ歩いていきながら言った。
「はいはい、じゃあ軽いの持ってくるよ。」
――そうそう、それでいいのよ!
志林は満足げに藤毅騰の背中を見送った。だが、戻ってきた彼の手元を見て、だんだん眉間にしわが寄っていく。
「はい、始めるよ。まずはデッドリフトから――」
「藤毅騰、アンタふざけてんの!?」
志林はブチ切れた。「そのダンベル22.5キロでしょ!?さっきより2.5キロ軽いだけってどういうことよ!」
「今の君は筋肉量を増やしたいんだから20キロ以下はダメだよ。軽すぎて効果ないし……」
藤毅騰も負けじと反論する。
その言い合いの様子は、周りのトレーナーや会員の視線を意外と集めていた。
「イヤよ!今日はラクしたいの、わかるでしょ!?」
志林が駄々をこねると、藤毅騰は深いため息と共に本音を言った。
「そうやってちょいちょいサボるから、せっかく運動しててもリバウンドするんだよ。見て、この体脂肪……どうせまた甘いものつまんだり、夜更かしして韓ドラ見たり、テキトーにタピオカ飲んだり、ビール飲みすぎたりしてるでしょ。」
その一言一言が、志林の胸にストレートに刺さる。
志林は怒りに燃え、藤毅騰の手からダンベルをひったくると、瞬時にやる気を復活させて第一セットを開始した。
(このバカ異性愛男……ぜっっったい許さないんだから!あたし、汗だくになったら、そのままアンタに “大きくて、強くて、ぎゅ~~~っと密着するゲイの抱きしめ制裁” してやるんだから!)
復讐心で燃えながら、志林は第一セットをやり切った。
……だが。
あまりに運動量が多く、息も上がりすぎて、復讐のことなどすっかり吹き飛んでしまった。
そして現在、90分後――
志林は床に大の字になり、全身が悲鳴を上げていた。天井を見つめながら、ようやく(そうだ、あいつに抱きついてやるんだった……)と思い出したが、もう体力が一ミリも残っていない。
――まあ、今日は見逃してあげるわよ。
そうして志林は、藤毅騰をひとまず赦すことにした。
そのとき、林志林は、自分の痛む部位のどこかが誰かに触られた感覚を覚えた。
てっきりジムのオーナーの阿奇哥か、琇姉が様子を見に来たのかと思いきや――
そこにいたのは、あのホモフォビアな ノンケ、藤毅騰だった。
しかも志林が驚いたのは、それだけではない。
あれほど自分に触れようとしなかった ノンケ藤毅騰 が、なんと素手で、しかも迷いもなく、志林の痛むところを揉んでくれているではないか。
……え、ちょっと待って。
今日ずっと、このノンケ男、手袋してなかった!?
あんなにゲイに触られるの嫌がってたクセに?
――こいつ、偽者?複製人?中身すり替えられてない?
「いっ……! ちょ、ちょっと痛い痛い痛い……!」
痛みのツボを正確に押され、指でグリッと揉まれた瞬間、志林は声を漏らしてしまった。
「やっぱり、ちゃんと俺の言うとおりやってないでしょ。家でも体、ほぐしてないよね。」
藤毅騰は淡々と言った。
そのまま藤毅騰は、床に倒れていた志林の上体を起こし、脚を持ち上げて回したり、じっくり圧をかけたりしながら、丁寧にストレッチをしていく。
二人の距離は、かなり近い。
志林は藤毅騰の脇から漂う、爽やかなデオドラントの匂いまで感じた。
――もしかして、まだ“真剣モード”が解除されてないってだけ?
志林はそう思いながら、真剣に手を動かす藤毅騰の横顔を見る。
確かにこのノンケは普段ちょっと抜けてるし、性格も変わってる。
けれど、トレーニングとなると妙に惹かれるところがある。
……まあ、散々バカな姿見てきた私が、この程度でときめくわけないけど。
「アンタ、手袋してないじゃん。」
志林は軽く注意した。
藤毅騰は自分の手を見下ろし、一瞬固まったが、すぐにまた揉み続けた。
その掌には、大小さまざまなマメができていて、志林のものよりずっと厚い。それは長年の鍛錬の証だった。
「別に、いいよ。」
藤毅騰は短く言った。
「ほんと? ゲイ触るの嫌なんじゃなかった?」
志林はわざと意地悪く言う。
「そんなことない。ゲイがどうとかじゃない。」
藤毅騰はキッパリ否定した。
「いやいや、めっちゃ嫌がってたじゃん。ノンケ特有のやつ。」
志林は白目を向きかけ――そこで、藤毅騰の“次の言葉”に思わず息を呑んだ。
「……俺が触ったら、君が嫌なんじゃないかと思って。」
「……え?」
志林は素で声が漏れた。
今まで出会った“ホモフォビア”のノンケは、
ゲイに触られるのが嫌、
近くにいるのが嫌、
そういう「自分基準」の嫌悪感だった。
でもこの男は逆だ。
“自分がゲイに触れたら、ゲイ側が嫌かもしれない”――
本気でそう思っていた。
思い返せば、昔の藤毅騰の過剰な消毒、手袋、距離感。
あれは「ゲイが嫌」ではなく、
もし触って、相手を嫌な気持ちにさせたら……
という、気を遣いすぎた結果?
「藤毅騰、アンタ……」
どうして、そんなこと考えるのよ――。
そう問いかけようとした瞬間、
藤毅騰が志林をじっと見つめていることに気づいた。
その顔を見た途端、志林の言葉は喉につっかえて出てこなくなる。
藤毅騰は困ったような、考え込むような表情をしていた。
――このノンケ、何考えてんのよ……。
男同士でこんな距離近いとか、普通に気まずいんだけど。
志林は痠痛も忘れてさっと立ち上がり、
「な、なによ、じーっと見て……まさか“そっち”に目覚めた?」と冗談めかして言った。
「……君、俺の知ってる“ゲイ”と違う。」
しゃがんだまま、藤毅騰はぽつりと漏らした。
「はぁ? 意味わかんない。」
志林はため息をつき、水筒とタオルを取って更衣室へ向かった。
汗でびっしょりのウェアを脱ぎながら、志林は考えた。
――今日のこれは、
あたしと藤毅騰が“喧嘩と筋トレ”以外で、
いちばんちゃんと“ゲイ”の話した瞬間じゃない?
「違う」って……私が?
林志林は、自分が“どう違うのか”まったく理解できなかった。
自分なんて、ゲイの世界じゃそこら中にいる「よくいるタイプ」だ。
見た目は少しナヨってるくせに、同じようにナヨったゲイには微妙に距離を置く。
飲み会ではわざと男らしい服を選んで、声も低くしてカッコつける。
スポーツ嫌いのくせに、プロフィールには「趣味:筋トレ、アウトドア」。
仲良しのオネエ仲間と一緒に宮廷ドラマや韓ドラを見て、ネットで海外ドラマのイケメンや台湾のイケメン選手の写真を保存してニヤニヤする。
――こんなの、ゲイコミュで適当に掴めば何人でも出てくるわよ。
あたしのどこが、藤毅騰の目に「特別」に映ったってわけ?
シャワーを浴びながら、志林は考えても考えても答えが出ない。
ただでさえゲイがノンケの考えなんて理解するのは無理ゲーなのに、
まして藤毅騰みたいな「変則系ホモフォビア」なんて、余計に意味不明だ。
――そもそも、なんであたし、こんなところに毎週通って苦しんでんのよ。
また自問自答する。でも今の志林は、阿奇哥のジムにすっかり慣れてしまっていた。
器具の取り合いをしなくてもいいし、更衣室には男臭が全然なくて、ほんのりバニラの香りがする。
シャワーは三段式で、シャンプーもボディソープも高級ブランド。
日本製の高いドライヤーに、足元温めるマシン、女優が使うような高級クリームまで置いてある。
これで会費は無理のない金額。
もう通俗的な量産型ジムには戻れない、と志林は思った。
「そういえば、この前あんた、騰騰の試合見に行ったでしょ?
その夜、家帰ってから妹さんとケンカしたらしいよ。」
「……は?」
櫃台で琇姉やトレーナーたちと雑談しながら、今日の藤毅騰の妙な行動について話そうとしていた志林は、突然の爆弾発言に思わず固まった。
レッスン後、電子パネルで次の予約を確認していた最中のことだ。
「いやいや、あたしが? なんで兄妹ケンカになるのよ。」
志林は信じられないという顔で言い返した。
自分はただの生徒にすぎない。
その自分が、藤毅騰と妹の仲を悪くするなんて、どんな因果?
たしかに数回、兄妹が一緒にいるところを見た限り、仲は良さそうだった。
少なくとも“あたし”が原因でケンカするような雰囲気じゃない。
まして――
ノンケ男と異性愛女子が、あたしみたいなただのゲイのためにケンカ?
それこそ、イケメン二人があたしを取り合うよりよっぽど現実味がない。
「どうせ騰騰のノンケ特有の口の悪さで、妹さん怒らせただけでしょ。」
志林は適当に言った。
「まあ……それもあるかもね。」
櫃台のトレーナーたちも、この推測には納得顔だ。
「ほらね……」
志林は言いながら、二日後の藤毅騰とのレッスンを確認した。
「でもね……」
琇姉は少し考えてから続けた。
「騰騰、確かに口悪いし説明下手だけど……
あの日、試合終わって打ち上げのときにね、珍しく自分から“あんたの話題”を出したのよ。
で、それがきっかけで毅亭(妹)とちょっと言い合いになったみたい。
ま、兄妹なんて大人でも平気でケンカするし、気にしないほうがいいよ。
ただの雑談と思って流しな。」
そう言い残して、琇姉は仕事に戻っていった。
志林は櫃台に取り残されたまま、ポカンとする。
さっきは「ケンカの原因はあたし」って言い、
後から「藤毅騰があたしの話をしたせいでケンカ」って言う。
――なんでどっちも中途半端なのよ!
志林は思わず天を仰いだ。
林志林は、藤毅騰がなぜ自分の話をわざわざ周りにするのか、本気で理解できなかった。
考えてみれば、トレーニング以外の場面では、二人の生活はまったく交わっていない。
志林自身も、ジムの外の藤毅騰に興味を持ったことなど一度もない。
――ないはずなのに。
なのに、この ホモフォビアのノンケ は、毎回きっちりレッスンをこなし、
食事の管理だの、トレーニング後のケアだの、
あげくに「今日は何時に寝た?」と毎晩のようにメッセージで確認してくる。
……意味わかんないでしょ。
どうせ藤毅騰だって、あたしと深く関わる気なんてないはずだ。
あの日 “生徒ゼロでクビ寸前” じゃなければ、あたしみたいなゲイと関わるわけない。
そんなの考えるまでもない。
志林は心の中で文句をブツブツ言いながら、
自分がさっきからずっと藤毅騰のことばかり考えていることに気づいていなかった。
エレベーターの扉が閉まりかけ――
直後、再び「ウィン」と開いた。
「……あ」
志林は、その瞬間うんざりするほど見慣れた顔を見てしまう。
打勾勾(チェック柄)のスポーツバッグを背負った 藤毅騰 が、そこに立っていた。
目が合った途端、空気が気まずく張りつく。
藤毅騰は、入れかけた足を引っ込めようとした。
その動きを見た志林の胸に、
さっきから貯まりに貯まっていた “藤毅騰への疑問とモヤモヤ” が一気に噴き出した。
「ちょっと藤毅騰!
あんた、どんだけあたしのこと嫌いで、同じエレベーター乗るのも避けてんのよ!」
「えっ、あ、ああ違う! ただ、今俺、汗臭いと思って……」
「アンタの体臭なんて、毎週レッスンで嗅ぎ慣れてるわよ。入ってこいっての。」
動かないノンケを見て、志林はイラッとし、
勢いよく腕を掴んで中に引っ張り込んだ。
その瞬間――
「うわっ!?!?!?」
藤毅騰は、思いもよらない高音の悲鳴を上げた。
「……ぷっ、はははははっ!
ただ引っ張っただけで何叫んでんのよアンタ!」
密室のエレベーターに響いたその声に、志林は堪えきれず吹き出してしまう。
「だ、だって急に引っ張るから……俺、なんか悪いことしたのかと思ったし……」
藤毅騰は完全に混乱した顔だ。
「藤毅騰、あたし聞きたいことあるの。」
志林は真剣な表情になる。
エレベーターが下へ動くたび、階数表示の数字がひとつずつ消えていく。
四方を鏡に囲まれた小さな密室。
二人だけしかいない空間。
沈黙と機械音だけが落ちていく中――
志林は、ずっと脳内で渦巻いていた疑問を口にした。
「アンタが妹とケンカした理由……
それ、本当に “あたしの話をしたから” なの?」
林志林は遠回しが嫌いだった。
だからこそ、本人である藤毅騰に直接聞くことにした。
志林の質問を聞いた藤毅騰は、まず志林を見つめ、
次にエレベーターの鏡、その後下降していく階数表示をぼんやり見ていた。
チン――という音とともに扉がゆっくり開く。
二人は無言のまま外へ出た。
さっきまでの密室の静寂から一転、
車の音、人のざわめき、雑踏の匂いが一気に押し寄せる。
ほんの数秒だった “二人だけの空間” は、
まるで最初から存在しなかったかのように消えてしまった。
志林は、さっきの問いも、あの時の距離の近さも、
この現実のざわつきの中で霧散するだろうと思っていた。
――でも。
騎樓に差しかかった瞬間、
隣にいる藤毅騰が、はっきりと口にした。
「妹には……
“お前は悪くないゲイだ” って言った。」
「ちょっと、藤毅騰。
あんた、まさか“悪いゲイ”に会ったことあるノンケなの?」
志林はあきれ気味にツッコむ。
怒る気もしない。もう慣れた。
そして、以前ジムで藤毅騰が妙な客に絡まれたことを思い出し、
志林は自分で補足した。
「まあ……確かに。ゲイだって人それぞれだし、全員が良い人とも限らないけど。」
「……妹は、お前の接し方が “下心だ” って思ったみたいで。
ちょっとキツい言い方をしてさ。」
藤毅騰が言った。
そのとき、空からポツン、と大きな雨粒が落ちてきて、
藤毅騰の肩に濃いシミを作った。
「それは……まあ、前にちょっと感じたわ。」
志林は手のひらを外に向け、落ちてくる雨を受け止める。
「でも、アンタの妹さ、前に会ったときは感じ良かったじゃない。
あたし、何かした? 嫌われるようなこと。」
数滴の雨が志林の髪に落ちる。
思わず手で頭を庇いながら尋ねた。
「……多分、俺のせいだ。」
藤毅騰は静かに言った。
志林は即座に毒を吐く。
「アンタが悪いとこなんて、いつものことじゃない。」
「うん。」
藤毅騰は否定しない。
そのままバッグのチャックを開けながら続けた。
雨はどんどん強くなっていく。
「妹は……“昔のことが繰り返される” のが怖かったんだと思う。」
「昔? なにそれ。意味わかんない。」
志林は混乱した。
雨脚はさらに激しくなる。
次の瞬間――
街全体が一気に雨の音に支配された。
土砂降り。
強烈な雨音が地面、屋根、車、看板を叩き続ける。
しかし志林の頭も肩も、一滴たりとも濡れなかった。
上を見ると、無数の雨粒が透明な膜に弾かれている。
藤毅騰がバッグから取り出した折りたたみ傘を、
雨が本格的に降り始める “半秒前” に開いたのだ。
傘の片側はすでに濡れているのに、
志林の立つスペースはきっちり守られていた。
むっとする湿気の中、
雨に濡れた街の匂いと、
その奥に微かに混じる藤毅騰の “汗の匂い” が鼻に届く。
運動後の、正直あまりいい匂いではない―
でも、ノンケの体育会系トレーナーのそれとしては、
妙に “正しい” 匂いだった。
雨音に包まれる二人だけの傘の下で、
藤毅騰が静かに口を開いた。
「林志林……俺のこと……好きなのか?」
「心配すんな。好きじゃないわよ。」
間髪入れず志林は答えた。
土砂降りの中、
そのやり取りだけが妙に鮮明に響いた。
自分がゲイだと知った頃、
多くのノンケの男たちは、決まってこんな冗談を言ってきた。
「もしかして俺のこと好きなんじゃない?」
「やめてくれよ、俺に惚れるなよ?」
どこから湧いてくるのか知らないその自信。
志林は、その日の気分次第でその冗談をいなした。
そして「好きにならない」と返すと、
決まってノンケたちは聞いてくる。
「なんで?俺、ダメなの?」
――ほんと、どの世界も自意識だけは強いのよね。
しかし、藤毅騰の表情は違った。
志林が「好きじゃない」と答えた瞬間、
藤毅騰は、ふっと 何かを下ろしたような微笑み を浮かべたのだ。
どこか悩みが解けたような、
大雨の灰色の空には似合わない優しい笑みだった。
その雨が弱まるまでの間、
志林は藤毅騰の傘を借り、一人で百貨店の軒下へ避難した。
「……良かった。」
あの声は、大雨にもかき消されることなくはっきり聞こえた。
藤毅騰は「良かった」と、確かに言った。
志林は借りた傘を閉じ、
百貨店のビニール袋に丁寧に入れた。
藤毅騰は不器用だし、顔もタイプじゃない。
少しホモフォビアだし、好きになることはない。
でも――嫌いってほどでもない。
むしろ最近は、
このノンケのことが、やたら気になる。
だけどそれは恋じゃない。
長く接することで生まれた、あの馬鹿ノンケへの 好奇心と心配 だ。
兄妹げんかの理由も、
どうして恐同なのかも、
志林には全くわからない。
――でも、深入りする必要はない。
ノンケのトレーナーのプライベートを探るなんて、やめとくべきだ。
「ホモフォビア」の裏側にあるかもしれない過去。
「お前の距離の詰め方は下心だ」 と言われたこと。
――あたしって、そんなふうに見えるのね。
女性に嫌われることの少なかった志林は、
藤毅騰の妹にあからさまに警戒されたことが、
藤毅騰自身の恐同よりずっと胸に刺さった。
――藤毅騰、あたしたちの関係って……何?
たかが、筋トレが続かない生徒と、
そのトレーナーでしかない。
志林はイヤホンを耳に差し込む。
お気に入りのプレイリストには、
報われない恋の歌や、初恋、失恋――
祝福されない感情ばかりが並んでいた。
誰だって青春には恋をする。
学校には青い思い出がある。
でも志林は、そのどれにも選ばれなかった。
――だけど、藤毅騰は違う。
****
「学生のとき……ゲイの友達がいた。でも、良くないことがあった。」
「あんたは俺の初めての生徒だ。ゲイだけど……いいやつだと思う。」
「でも毅亭が言うんだ。
“ゲイは同じだよ。優しくすれば最後は好き放題される” って。」
「『また前みたいになるよ』 って怒られてさ。」
その数言だけで、兄妹の間の空気は一気に険悪になった。
しかも二人にしか通じない過去の話だから、
周りの誰も会話に割り込めず、
気まずさだけが広がった。
――正直、聞きたくなかったわよ。
志林はぼんやり理解しつつ、
深く追及する気にはならなかった。
だが藤毅騰の語り方が下手なのもあって、
断片だけを聞かされた志林は、
想像したくないことまで想像させられた。
雨は止まず、
藤毅騰は「戻らなきゃ」と言って、
別の傘を取りにジムへ戻っていった。
志林は百貨店の中を歩きながら考える。
――学生時代の“そのゲイの友人”。
それが藤毅騰のホモフォビアの根源、ってこと?
どんな過去があったのか。
本当は何があったのか。
知らない。
知らないけれど――
志林は、
藤毅騰というノンケの「恐同」の理由を、
ようやく少しだけ理解し始めていた。
藤毅騰の“恐同”は、
決して差別でも悪意でもなかった。
そして志林も、
藤毅騰がゲイを貶したり、悪口を言ったところなど
一度も聞いたことがない。
藤毅騰は、ただ 「恐れていた」 のだ。
ゲイに触れることを。
ゲイと一緒に過ごすことを。
自分の言動が相手にとって不快ではないかと、極端に怯えることを。
その恐れが、いつしか「ホモフォビア」という形で
固く、深く、偏ったものになってしまった。
――過去、彼に何があったのか。
志林は知ろうとしなかった。
それは、当事者だけが抱えるべき物語だと思ったからだ。
****
「藤毅騰、お前……俺のこと好き?」
放課後の校庭。
男子生徒が、制服姿でひとりバスケをしている藤毅騰にそう尋ねた。
ドリブルしていた藤毅騰は、
何の躊躇もなく答える。
「好きだよ。お前、漫画貸してくれるし、家でゲームもさせてくれるし。」
シュッと放ったシュートは外れ、
ボールはコロコロとその男の子の足元へ転がっていく。
「違うよ、その意味じゃない。
ほんと、藤毅騰ってバカ。」
男の子が白い目を向ける。
「バカってお前だろ。いつも横で見てばっかで、
一緒にバスケしようって言っても来ねえし。
ほら、ボール返せ。」
藤毅騰は手を伸ばしたが、
男の子はボールを抱えたまま、
こちらをじっと見て言った。
「ねえ。藤毅騰、こっち来て。
……秘密、教えてあげる。」
藤毅騰は好奇心に目を輝かせ、
その子の方へ歩み寄る。
「……秘密? なにそれ。」
「誰にも言っちゃダメだからね。」
男の子は神妙な顔をして言った。
藤毅騰はワクワクしながら身を乗り出す。
「耳、近づけて。……あのね、俺……」
夕方の校庭、
制服姿の中学生二人。
風も止まった静かなバスケットコート。
そこでひそひそと、
一つの秘密が落とされた。
「俺……女の子、好きじゃないんだ。」
思わず藤毅騰は、
「誰? 誰のこと嫌いなの?」
と天然な返しをしてしまう。
男の子は小さく息を吐き、
でもどこか決意を込めて続けた。
「……俺、男の子が好きなんだ。
藤毅騰、誰にも言わないで。
あんたにだけ言うんだよ。」
その言葉は、真っ直ぐ、藤毅騰の耳に落ちた。
中学生の藤毅騰の頭の中には、
健康教育の授業で聞いた
「恋愛にはいろんな形がある」
という先生の言葉が一瞬よぎる。
そして気づけば、こんな質問をしていた。
「女の子好きじゃないなら……
じゃあ、誰が好きなんだよ?」
男の子は、ただ藤毅騰を見つめて……
ふっと笑っただけだった。
長い沈黙のあと、
彼はゆっくりとボールを藤毅騰に投げ返しながら言った。
「……それは、ナイショ。」




