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いつつの四季

いつつの四季01『桜並木西洋菓子店』

作者: 藤邑微風

春 の 夜 の 闇 は あ や な し 梅 の 花 色 こ そ 見 え ね 香 や は 隠 る る

凡河内躬恒

『桜並木西洋菓子店』


 その朝、私はなぜだか家を出ていた。

 手には何も持たず、身支度も最小限。いつもの休日のように計画された散歩ではない。ただ、何かに引かれるように玄関のドアを開け、水路沿いの道へと足を進めていた。


 春だった。水面に映る桜が風に揺れている。風が頬を撫でて、どこか遠い記憶の底をくすぐる。

 と、不意に甘い匂いが鼻先をよぎった。シナモン、そしてわずかに油の香り。焼き立ての何か。まだ人通りの少ない朝の街に、それだけが確かに存在していた。


 目をやれば、そこには例の店がある。

 水路沿いの桜並木道、そのわきにひっそりと佇む、京長屋を改築した小さな西洋菓子店。


 こげ茶色の木格子、洋風のアーチ窓、季節の花が植えられた小さな鉢植えが並ぶ店先。和と洋が混ざり合い、不思議な調和を見せている。休日に買い物へ出るたびにこの前を通っていたけれど、店内が観光客で賑わっているのを横目に、いつも入らずじまいだった。


 今日は違う。まだ暖簾もかかっておらず、誰の姿もない。

 でも、開け放たれた扉からは確かに、人の気配がした。


 無意識のうちに、私はその中へと足を踏み入れていた。


 店内は外よりも薄暗く、窓の少なさと古びた木の質感が、静かな重みをもたらしていた。年季の入った棚には、どこか懐かしい小物たちが所狭しと並べられている。清潔なのに、整いすぎていない。今どきのカフェのような洗練された空間ではないけれど、そこには明らかに、時間の積み重ねがあった。


 ――こんな場所が、ずっとここにあったんだ。


「いらっしゃいませ」


 奥から声がした。


 振り向けば、カウンターの向こうに一人の男が立っていた。狐の耳――そんなものが一瞬、彼の頭に見えた気がしたが、次の瞬間にはただの髪の輪郭へと紛れていた。まるで最初からなかったかのように。


 男はこげ茶色の和服を着ていた。物腰は静かで、目元には糸のように細い微笑みが浮かんでいる。どこか人ならざる気配を漂わせているのに、なぜだかその場に自然と溶け込んでいた。


「……すみません、まだ開店前だったんですね」


「ええ、でも、もう仕込みは終えました。よろしければ、コーヒーだけですが」


 彼はそう言って、流れるような動作でカウンターの奥へ戻った。

 音もなく、けれど確かな手つきで道具に触れていく所作は、まるで儀式のようにも見える。


 ――何かを作るとき、二種類の作り手がいる。


 独創的でこの世に一つしかないものを作る人。

 たくさんあって、広く人々の生活に寄り添うものを作る人。


 私は後者だ。ずっとそうだった。

 誰かの記憶に深く刻まれることはなくても、そっとそばにあって、気づかれないまま生活の中に溶け込んでいくようなものを、私は作ってきた。


「こちらは朝一番出しの水出しコーヒーのテイスティング分ですが、よろしければ」


 彼が差し出したのは、小さなグラス。

 薄い琥珀色の水面が静かに揺れている。陽光の欠片を映しながら、なんとも言えない澄んだ香りが立ち上っていた。


「……水出し、ですか。こんな朝に?」


「時間をかけて抽出したものです。味わいはまろやかで、苦みよりも果実のような酸が立っています。 目覚めには、意外とこちらのほうが優しく効くこともありますよ」


「……ありがとうございます。じゃあ、いただきます」


 口に含んだ瞬間、冷たい液体が舌を包み、驚くほどやさしい酸味が広がった。苦くないのに、しっかりとした輪郭を持っていて、まるで静寂を飲み込んでいるような気さえした。


「……すごく、静かな味がする。冷たいのに、体があったかくなる」


 思わず口に出すと、男はふっと微笑んだ。


「“静かな味”……面白い表現ですね。

 

そう言っていただけるのが、作り手としてはいちばん嬉しいかもしれません」


 その言葉が、胸の奥にふわりと沈んだ。

 作るということ。残すということ。その意味を、改めて問い直されたような気がした。


 そのとき、不意に、どこかから声がしたような気がした。


 ――ねえ、あなたは、なにをつくるひと?


 振り返っても、そこには誰もいなかった。ただ、春風とコーヒーの香りが、静かにこの店の中を漂っていた。


「まもなく開店の時間になりますので、よろしければこちらを」


 そう言って、彼は一冊のメニュー表をそっと私の前に置いた。

 その手の動きは静かで、どこか舞うように滑らかだった。

 手の甲にかかる袖口は、こげ茶色の和服。薄く細い微笑がその頬に浮かび、ふとした瞬間、額の上――狐の耳のような影が揺れた気がした。けれど、私はなぜかそのことに驚かなかった。ただそれが、ここでは自然なことのように思えた。


 メニュー表を開きながら、私はそっと視線を落とす。


 並ぶ名前のひとつひとつに、どこか詩のような響きがある。

 “林檎の白”、 “桜の雫”、 “春霞のカラメル”。

 その中で、“桜の雫”という文字に心が引き寄せられた。

 でも、すぐには口に出せなかった。


 なんてことはない、ただのお菓子の名前なのに。

 選ぶという、それだけのことが、なぜこんなにも難しいのだろう。


 私はずっと、そうしてきた。

 「自分の選んだもの」を、「誰かの肯定」によってようやく受け入れられるような生き方を。

 選ぶ前に、周りの空気を読んでしまう癖が、深く根づいてしまっていた。


「なにか、お決まりでしょうか?」


 その声に、私はふと顔を上げる。

 春の光の中に浮かぶ彼の輪郭は、どこか淡く、けれどはっきりとした存在感があった。


「あの……おすすめは、どれでしょうか?」


 目を合わせることができなくて、私はメニューの端に視線を落としたまま、そう言った。


「今の季節でしたら、“桜の雫”がよく出ます。

 桜の花びらの塩漬けを刻んだホワイトチョコレートのムースでして、

 底には道明寺をあしらっています。春を閉じ込めたような一品です」


 ――ああ、やっぱり。


 私が惹かれていたもの。

 たった一言の肯定で、やっと自分の気持ちが声になる。


「……それをひとつ、お願いします」


 少し息を整えるように言葉を乗せると、彼は頷き、穏やかに尋ねた。


「お飲みものはいかがなさいますか?」


 そうしてまた、迷いがよぎる。

 飲みたいものは決まっていた。ホットのコーヒー。

 でも、濃くて苦いものは今日はちょっと、避けたい。


 それだけのことなのに、言葉が引っかかる。

 「気にしすぎだよ」と誰かが笑う声が脳裏に浮かぶ。

 けれど――今日は少しだけ、勇気を出してみたい。


「コーヒーを……お願いします。ホットで。あの、酸味があるのって、どれでしたっけ?」


 彼の目がふっと細くなる。

 まるで、どこか遠くから、ずっと前から、私のことを知っているかのように。


「それでしたら、“エチオピア・イルガチェフェ”を。

 柑橘のような香りと、やわらかな酸味が特徴です。

 お菓子の甘みを引き立ててくれますよ」


「……それにします」


 ほんの短いやりとりなのに、なぜだろう。

 胸の中に、さざ波のような感覚が広がる。


 選べたことが、少しうれしかった。

 それだけで、朝の光が少し柔らかく見えた。

店主が厨房に向かって歩きながら、ふと振り返り、微笑みを浮かべた。


「それではごゆっくりどうぞ。」


主人公は深く頷き、店主が店の奥に消えるのを見送った。


その瞬間、視線がテラス席の先に広がる苔庭に溶け込んでいった。暗がりの中に苔の緑が一層引き立ち、ひんやりとした風が枝を揺らす。目の前の景色はまるで、時間が停止したかのように静かで、夢の中にいるような感覚を覚える。


何かに引き寄せられるように、心も視線もその庭の一部になったようで、細かな苔の葉に潜む水滴や、うっすらと顔を覗かせる小さな花々にまで意識が広がる。


そしてふと、心の中に静かな疑問が浮かんだ。どうしてここに来たのだろうか。散歩をしていたわけでもなく、ただ偶然、この店に立ち寄ったような気がする。


その思考に浸りながらも、ふと視線がカウンターに戻った。


そして、そこで見たのは、コーヒーの香りに誘われて漂っている金魚の姿だった。きらきらと輝きながら、空間を優雅に舞っているその姿。見ているだけで、何か温かく、穏やかな気持ちに包まれていくようだった。


「……金魚だ。」


小さなきらめきが、ふわりと宙に浮かび上がり、店内の空気を吸い込んで揺れる。それは夢の中の一場面のように、しばし現実感を忘れさせる。


その瞬間、店主の声が響いた。


「お待たせしました。」


現実が再び姿を現し、私はハッと我に帰った。店主は手にコーヒーとお菓子を持ち、私の前にそっと差し出した。


「あ、ありがとうございます。」


微笑みながら、店主はコーヒーを手に取り、静かな空間に溶け込むように言葉を紡いだ。


「お庭の苔が、ずっと気になっていまして。」


私の視線が無意識に庭へと向けられたことを、店主が感じ取ったようだった。


店主は少し目を細めて、庭を一瞥した後、笑みを浮かべた。


「ええ、どうです? かわい子たちでしょう? ここに店を構えた時から育てている庭なので、我が子のようにかわいくて。」


彼の声には、優しさと誇らしげな気持ちがにじんでいた。私はその言葉に、庭に対する思いが込められているのを感じた。


「とても。なんだか、手を加えているはずなのに、どこかのびのびとしていて、無邪気に朝日を浴びて背伸びしているみたい。」


私は庭を見つめながら、思わずそのように言った。小さな草花が風に揺れ、苔の絨毯が優しく広がっている。まるで、時間が緩やかに流れ、そこに生き物たちが共に息をしているようだった。


店主は静かに笑い、やわらかい声で答えた。


「ふふふ。そうなんですよ。この子たちがやりたいようにやっていますから。お世話って、自分ひとりではできないことをお手伝いする程度のことだと思うんです。私の思うままに形をとってしまうと、どうしても窮屈になってしまいますからね。子どもの爪を切るのも、まだ刃物をうまく扱えないから、大人が『手伝い』をする、そんな感じですね。」


彼の言葉は、まるで庭の木々や草花のように穏やかで、どこか自然なものを大切にしている気配が感じられた。


「やりたいように…。」


私はその言葉を繰り返すように呟いた。自分自身の中でも、これまでそうして周囲に合わせてきたことが多かったからこそ、ふとその言葉に込められた意味を深く感じた。


店主は少しだけ視線を外し、微笑みながら続けた。


「今日のお召し物、とても春らしくて素敵ですね。」


私は驚いて店主の方を見ると、店主は優しく目を細めていた。


「え?」


「普段は何かから身を守るように、美しい装いで歩いて行かれるのを、度々目にしていましたから。」


その言葉に、私は少し赤くなりながらも、軽く笑って言った。


「…見られていましたか。」


店主は軽く肩をすくめて、さらに笑った。


「ふふ。あんなに戦場に赴く武者のような気迫をお持ちの方も中々お見かけしませんからねぇ。」


その言葉に、私は少し言葉を失ってしまった。


「私は…満たされているんです。子どもの頃から、大体いろいろなものが与えられて。それで、自然と人よりできることも多くて、いつの間にか尊敬や嫉妬の目で見られるようになって…。あっ、すみません、初めてなのにこんな話を。」


店主は静かに笑って、少しだけ頷いた。


「いえいえ。この時間は私も暇ですから、よろしければもっとお話を聞かせてください。」


私は店主の優しさに少し肩の力が抜け、心の中でこぼれ出る言葉を続けた。


「いつも目立っていた。人からうらやましがられていた。でもこれって、私が望んで手に入れたものなのかって…。そう思うと、なんだか虚しいような気がして。今って、掌の上で画面越しにいろんなことを叶えてきた人たちがいくらでも見られるから…。いいなぁ、自由だなぁって。」


店主は少し黙っていたが、やがて静かに頷いた。


「ふむ。そうですか。そうだ、あのつくばいをご覧ください。」


店主が指差した先には、小さな蹲があった。そこには文字が刻まれていた。


「何か書いてある…。」


私はその文字を目で追った。


「『吾、唯足るを知る』。」


その言葉をしばらく噛み締めると、店主は静かに続けた。


「…私が満ち足りているのはわかっているんです。」


その言葉に、私は少し驚いたような顔をして店主を見つめた。


「ええ、物質的には。ね。どうです?それが引け目になって、どこかに忘れてきた、本当に満たしたい器があるのではないですか?」


店主の言葉に、私は思わず何かに引き寄せられるような気がして、視線を庭に落とした。


「『吾、唯足るを知る』。そう。これは、自分自身がすでに満ち足りたものだと自覚すること。余計な野心を抱かず、平穏を手にすることができるという意味もあります。しかし、同時に足りているものと足りていないものにきちんと線を引いて、見定めることができるのです。」


店主の言葉に、私は深く頷いた。


「足りていないなら、それを求めることができる…。私は、そうやって欲張ってきたものですから。」店主は笑いながら言った。


「欲しいもの…。」


その言葉を、私は呟くように続けた。


「人の子らの生は、そんなに長くはありませんからねぇ…。」


「え?」




店主は微笑みながら、ゆっくりと首を振った。


「いえ、何も。気にしないでください。」


その軽い返事に、私は少し安心しながらも、何か思いを巡らせている店主の背中を見つめた。



フレンチプレスに残ったもう半分のコーヒーをカップに注ぐ。チョコレートのように舌にしっとりと吸い付く苦味は、朝に味わう粉末の目覚めるような荒々しい苦味とは異なり、まだ私を幻想の中にいさせてくれる。


その瞬間、私は思う。人生は長いようで長くないのだろう。私はまだこの熟しきった色ではないのだろうか、と。


その思考が、すっと消えていくように、次第に体の中で何かが解き放たれていく感覚を覚える。ずっと心に封じ込めてきた言葉が、静かに私の中で動き始める。


財布を手に立ち上がる。


「ごちそうさまでした。とてもおいしかったです。」


「それはそれは。お喜びいただけて私も幸いでございます。」


店主の微笑みに背中を押されるように、私は思わず言葉を続ける。


「私、踏み出してみようと思います。いろんなものをちゃんと手に入れてきたから。」


店主は少し目を細め、深い声で答える。


「ふふふ。そうですか。あなたの道に幸多からんことを。 またお越しください。」


店主の言葉を胸に、私はひと息つき、外の景色へと視線を向けた。すっかり高くなった陽が、まぶしさと共に私の顔を照らし、温かい地面からはおひさまの香りが立ち上る。空が見えた瞬間、私の体を涼しく包み込む風が吹き、まるで新しい何かを感じるようだった。


「おや。眠り猫。お前も今日はお散歩ですか。」


店主は、テーブルの上を片付けながら店の外の苔庭に猫を見つけると、少し微笑みながら言った。


「あの方からは梅の香りがしました。人々は今も昔も桜ばかりを愛でますからねぇ…。」



私はゆっくりと席を立ち、店のドアを開けると、目の前には静かに春の日差しを浴びる桜並木が広がっている。まるでひと足早く、春がすべてを包み込んでくれるような、穏やかな温もりが私を迎え入れた。


桜の花びらがひらひらと舞い落ちる。その一片が私の肩に触れた瞬間、何かがふっと泳いで消え去った気がした。胸の中でずっと閉じ込めていた言葉や感情が、いま、解き放たれていくような不思議な感覚に包まれる。


「私は、これからどう歩いていこうか。」


心の中で問いかけると、ただ風が答えるように、空気が柔らかく私を包み込んだ。どこか遠くから聞こえる鳥の声、陽の光が木々の間を縫って差し込み、桜並木の道を照らし続けていた。


金魚の姿は見当たらなかったが、確かに私の歩む先には、静かで温かい春の息吹が感じられる。


わたしは、いま自分の意志でこの足を動かしているみたいだ。


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