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灰銀の王子と、仄毒の花嫁

作者: 入多麗夜

久しぶりの短編作品です。

 暁の光が、邸の高窓をそっと染めるころ。

 鏡の前に立つエリシア=ヴェルナールは、ただ静かに、自分を見つめていた。


 白銀に金糸を織り込んだ礼装が、彼女の華奢な肩にそっと重くのしかかる。

 

 淡い金色の髪と、静かな青い瞳――。


 それは、和平の証として、敵国へ送り出される花嫁の衣装だった。


 「やっぱりお似合いですよ、お嬢様! 緊張してますか? ね、してますよね?」


 明るく声を弾ませたのは、後ろで襟元を整えていた侍女、リーナだった。


 高く結い上げた栗色の髪に笑顔を浮かべ、いつものように元気な調子を崩さない。


 「……していないと言えば嘘になるわね」


 「えっ、それでもこの完璧な立ち姿! さすがお嬢様。私だったら震えて倒れてますよ、もう」


 エリシアはふっと微笑んだ。


 だが、その空気を裂くように、背後から冷ややかな声が響いた。


 「お似合いですわ、姉さま。まるで、処刑台に立つ聖女のよう――」


 背後から嫌味のような声に、エリシアは微かに眉を動かした。


 声の主は、腹違いの妹、セリーヌ=ヴェルナールだった。

 濃い金髪を背に流し、淡い緑の瞳には幼い誇りと苛立ちが揺れている。


 「そのような物言いは、あまり良くないわね。妹としての立場を忘れたのかしら?」


 「あら、ご忠告どうも。当主の跡継ぎにそんな口をきいて」


 エリシアは、それ以上何も言わなかった。

 競うことも、争うことも、もはや意味をなさない。


 自分は嫁ぐ者、彼女は残る者――

 ただそれだけなのだから。



 「どうせ、姉さまはこの家からいなくなるのですもの。今さら取り繕っても意味はないわ。――それとも、まだ何か未練でも?」


 エリシアはその言葉に、初めて鏡越しに視線を動かした。


 「未練など、あるわけないでしょう」


 そう言って、エリシアはそっと髪を整える。金糸の刺繍が揺れ、朝の光を受けてほのかに煌めいた。


 「私はただ、ヴェルナールの名に恥じぬよう、務めを果たすだけ。あなたも、それを誇りに思ってくれると嬉しいわ、妹として」


 セリーヌは唇を噛み、何も言わずに踵を返した。

 高鳴る足音を残し、早足で部屋を後にする。


 扉が閉じたあと、エリシアは一度だけ、深く息をついた。


 扉が閉じられたあと、エリシアは深く息をついた。


 生意気なセリーヌも、もうしばらくすればこの屋敷を取り仕切る立場になるのだ。振る舞いの未熟さは気になるものの、それも時が経てば少しは落ち着くだろう――そう思いたかった。


(あの子なりに、不安なのよね)


 エリシアにとって、憎たらしいのは妹のセリーヌというよりも、その背後にいる義母だった。


 かつて父が再婚したとき、エリシアはまだ幼かった。セリーヌは義母にとって唯一の実の娘。だからこそ、姉であるはずのエリシアは何かにつけて比較され、疎まれた。いつしかエリシアは、何も感じぬふりを覚え、何も求めぬことを身につけていた。


 それでも、彼女はこの家を恨まなかった。それは矜持であり、そして弱さでもあったのかもしれない。


 けれど今、こうして嫁ぎ先へと向かう支度を整えた朝に、エリシアはようやく、その「弱さ」と訣別できる気がしていた。


 誰のためでもなく、義母の期待に応えるためでも、妹に勝つためでもない。和平の花嫁という重荷があったとしても、それを自らの誇りとして背負うならば、きっと未来は今とは違う景色を見せてくれるはずだと。


「ふぅ……お嬢様って、ほんとに格好いいですね」


 不意にかけられた言葉に、エリシアが視線を向けると、リーナが手を止めて彼女を見つめていた。


 「さっきも、あんな風にピシャリと言い返して……もし私だったら、あの子の顔に枕でもぶつけてますよ」


 「それはあまりお行儀がよろしくないわね」


 「でもスッキリはしますよ!」


 エリシアは、ふっと笑って首を振った。

 リーナも、つられて笑う。

 部屋の中に、わずかに温かい空気が満ちた。


 (……リーナがいてくれるから、私は崩れずにいられる)


 エリシアは、そっと心のなかでそう思った。


 そのとき、控えめなノック音が響く。

 

 エリシアは顔を上げた。窓の外では、朝靄がすでに晴れはじめ、遠くで馬車の車輪の音がかすかに聞こえる。


 「――ご出立の準備が整いました」


 使用人の声に、エリシアはゆっくりと姿勢を正した。


 「……行きましょう」


 リーナにひとことだけ告げると、裾を翻して歩き出した。







 ヴェルナール家の見送りは、建前上は盛大なものだった。


 門前には白い絹で装飾された馬車が用意され、屋敷の使用人たちは一列に並んで頭を下げる。格式ある貴族家の娘が、和平の証として嫁ぐというのだから、それなりの体裁は整えねばならない。貴族たるもの、世間の目に何より敏感だ。


 しかし彼らの姿がなかった――本来、そこにいて然るべき人々の姿が。


 義母は病と称して寝所に篭りっきりで、セリーヌは姿を見せたが、遠巻きに様子をうかがうだけで、最後まで一言も言葉をかけなかった。


(ええ、最初から分かっていたわ)


 彼女は一人、足元を見つめて微笑む。


 これがヴェルナール家の答え。

 自分はもう、この家の娘ではないのだと。


 ひとつ深く息を吸い、吐く。


「さようなら、ヴェルナール家。あなたに生まれたことを、私は……誇りに思う」


 その言葉は、誰に向けたものでもなかった。けれど確かに、それはエリシア自身を支える最後の言葉となった。


 リーナがそっとその隣に並び、小声で囁く。


 「……お嬢様。胸を張って、まいりましょう」


 彼女はまっすぐに馬車へ歩み、静かに乗り込む。


 最後に、屋敷を振り返ることもなく


 エリシア=ヴェルナールの旅立ちの朝は、そうして始まった。








 馬車は静かに屋敷を離れ、石畳の道を進んでいく。


 外の風景は徐々に変わっていったが、エリシアの瞳は、膝の上に広げられた一冊の資料から離れなかった。


 それは、嫁ぎ先――敵国であるレナスト帝国の第一王子、ラディウス=レナストに関する情報をまとめたものである。


 軍服姿の肖像画は、どこか冷たさを帯びた美貌をしていた。整った顔立ちに、感情を感じさせぬ灰銀の瞳。そしてその下に綴られた文字たち――


「第二次国境紛争における指揮官としての手腕は高く評価されている。容赦のない判断を下す冷徹な性格として知られ、味方の犠牲も厭わぬ非情な戦略家と見なされる一方、国内での人気は高く、民衆の信頼は厚い」


(……本当に、こういう人なのかしら)


 エリシアは指先で、紙の端をそっとなぞった。


 政略結婚。それは始めから承知のうえだった。だが、こうして相手の顔を見てしまうと、胸の奥にざらついた不安が浮かび上がる。


 敵国の王子と婚姻を結ぶ――それは名目上の和平の証にすぎず、誰もその先に真の幸福など期待していない。


 「うわ……きれいな顔してますけど……ちょっと、怖そうですね」


 隣で資料を覗き込んでいたリーナが、小声でつぶやいた。


 「ラディウス様って、やっぱりあの“灰銀の王子”って呼ばれてる方ですよね? 武勲もあるし、人気もあるとか……」


 「民衆には、ね」


 「え、ちょっと待って、お嬢様。その“ね”の響き、怖いですって……!」


 「ごめんなさい。でも、ここに書いてある、“味方の犠牲も厭わぬ”って……」


 「うっ……そ、それはつまり、ええと、国家のために冷静な判断ができるってことで……きっと、うん……きっと、優しいところもある……かも……?」


 エリシアは、リーナの困困ったような笑顔に、ふっと唇をゆるめた。


 「何とかなるわよ。それに優しさなんて目に見えるものじゃないんだから」


 エリシアは静かに微笑み、資料に視線を戻した。


 ページに並ぶ文字を追ううちに、自分の今ある立場を、改めて思い知らされる。


 アルディア王国――

 格式と伝統を重んじる国。

 貴族たちの合議によって政が動かされ、血筋と家柄が何よりも尊ばれる世界。


 ヴェルナール侯爵家もまた、その中心にあった。

 エリシアの父は、王政に忠誠を誓い、家の名を高めた名誉ある人物だった。


 しかし、度重なる国境紛争が国を疲弊させ、王室もまた不安定さを増していった。


 王家には、もはや一人の若い王子――リオネルしか残されていなかった。


 王位継承の危機。

 それは、貴族社会全体に重くのしかかった。


 だからこそ、リオネルにふさわしい妃を迎えることが、急務とされた。


 社交界では、有力な家々の娘たちが次々に推挙され、ヴェルナール家の娘、セリーヌ=ヴェルナールの名も挙がった。


 本来なら、家の長女であるエリシアが選ばれるはずだった。


 だが、義母――現侯爵夫人は、自らの実の娘であるセリーヌを押し上げることに執着した。


 表向きは気品に満ちた貴婦人として振る舞いながら、裏では有力者たちに接触し、賛辞と噂を巧みに織り交ぜて、セリーヌを持ち上げた。


 そしてもう一方で、エリシアには「和平の象徴」という名目を与え、敵国へと嫁がせる道を選ばせたのだ。


 エリシアは、すべてを知っていた。

 だが、何も言わなかった。


 それが、自分に課された役割なのだと、静かに受け入れていた。


 実に合理的な判断であった。


 「お嬢様……セリーヌ様のこと、まだ気にされていますか?」


 「……気にしているというより、考えていたの。やっていけるのかなって。」


 「お母上のことも?」


 エリシアは少しだけ視線を落とした。


 それは、義母にとって願ったり叶ったりだった。一人は王妃として王宮に送り込み、家の中心に据える。もう一人は政争の場から遠ざけつつも、和平の象徴として国の誉れとなるよう仕立て上げる。両方の娘を“使い分ける”ことで、ヴェルナール家は表向き、国家と王政に忠義を尽くした名家としての立場を上げ、内実では義母の思惑通りとなったのである。


 実際にセリーヌは婚約者として的を得ていた。


 王の側近たちは、彼女の若さと愛らしさ、そして何より“従順そうに見える”性質を好意的に受け止めており、それはエリシアから見ても、それが“求められる姿”なのだと、認めざるを得なかった。


 セリーヌは見事だった。己の立場を理解し、どう振る舞えば自分が望まれるのかを、正確に、無邪気さすら装いながら実行していた。


 (おそらく、何も考えていないような顔をして……すべて……)


 だが、それを批判する気にはなれなかった。セリーヌには、母親譲りの“処世術”があった。


 誰にどう見せれば得をするのか、どの場面で言葉を選び、どこで黙るべきか――それを本能のように理解していた。


 エリシアには、それがなかった。いや、必要とされてもこなかったのだ。生まれながらにして与えられた立場、静かに気品を保ち続けることだけが求められ、誰からも「器用に世を渡れ」と教えられたことはなかった。


 処世術を磨くことは、時に誇りや本心を捨てることでもある。だから彼女は――そういったことは、しなかった。


 それが愚かだと笑われても構わない。自分を曲げずに歩いてきた道を、今さら否定するつもりなどなかった。


 「……そういうところが、私、お嬢様の一番好きなところです」


 思わず漏れたリーナの一言に、エリシアは目を瞬いた。


 「そう?」


 「はい。正しくて、まっすぐで、それでいて優しくて……ちょっと頑固で、理屈っぽいけど」


 「最後のは余計よ」


 「ふふっ、でもほんとですよ」


 エリシアは少しだけ目を細め、目を閉じた。


 馬車の揺れが次第に収まり、御者の声が扉の外から響いた。


 「――まもなく、国境でございます」


 エリシアはゆっくりと瞼を開けた。窓の外に広がる景色は、緩やかな丘陵の先に、重々しい石の砦を映し出していた。それは、長き戦の象徴であり、そして今から越えるべき境界でもあった。


 砦の石壁には、かつての戦で受けた傷痕がいくつも刻まれていた。崩れかけた外壁、再建途中の監視塔、焼け焦げたままの地面――それらが、ここが確かに“争いの地”であったことを物語っている。


 その荒れた風景を見つめながら、エリシアは胸の奥に重いものが降り積もるのを感じていた。


 (いよいよ――)


 リーナは無言で、そっとエリシアの手に触れた。


 「……大丈夫です。私がついてますから」


 エリシアはその手に目をやり、小さくうなずいた。


 砦の前には、レナスト王国の紋章を掲げた騎士たちが整列している。その先頭――彼の姿が目に入った瞬間、エリシアの胸に微かな緊張が走る。


 灰銀の瞳、冷たいまでに整った顔立ち。漆黒の軍服に身を包み、威厳のある佇まい。ラディウス=レナストだった。


 馬車が止まり、扉が開かれる。従者の手を借りて地に降り立つと、空気が一段と冷たく感じられた。緊張のせいか、それともこの土地の気配か――。


 リーナも後に続いて降り、エリシアの背に寄り添うように立つ。その瞳は警戒を帯びていたが、どこか誇らしげでもあった。


 ラディウスは無言のまま馬を降り、ゆっくりと歩を進める。その視線は真っ直ぐに、そして――


 「――アルディア王国よりの使節団を、レナスト帝国第一王子、ラディウスが迎える」


 低く、よく通る声だった。


 エリシアは一歩前へ進み、礼装の裾を整えると、優雅に膝を折り、深々と頭を垂れた。


 「アルディア王国・ヴェルナール侯爵家のエリシア=ヴェルナール。和平の証として、貴国に参りました」


 ラディウスの目が、一瞬だけ細まる。


 そして彼は、静かに口を開いた。


 「……長旅、ご苦労だった。今後は、こちらで預からせてもらう」


 アルディア王国の使節団といえど、レナスト帝国への入国は許されていなかった。


 和平は成立したとはいえ、互いの信頼は脆く、国境を越えるのは“花嫁”であるエリシアと、その侍女であるリーナ、ただ二人だけだった。


 地理的に、双方の軍の監視が及ぶ緩衝地帯を挟んで築かれたこの国境は、未だに緊張の空気を孕んでいた。表面上は静かに見えても、一触即発の火種が燻る場所――それが、彼女の最初の足跡となる地だった。


 エリシアたちが乗る馬車は、ラディウスの指揮のもと、レナスト側の兵によって守られながら進む。


 「こちらへどうぞ」


 すると、リーナが前へと進み出る。


 「わ、私、お嬢様のお荷物を持ちます……! それに、あの……私、馬車には乗らず、歩いてお供します!」


 緊張と遠慮が入り混じった声でそう申し出るリーナを、ラディウスは一瞥する。


 「そんな事をする必要ない。」


 それだけを淡々と告げると、ラディウスはエリシアに視線を戻した。


 ラディウスの指示に従い、レナスト王国側が用意した黒塗りの馬車へと向かった。装飾は控えめながらも整然としており、軍の移動車を思わせる堅牢な造りだった。


 扉を開けられた車内は、冷たいほどに整えられていた。華やかな装飾も、絹のクッションもない。ただ薄い毛布と、揺れを和らげるための革張りの座席があるのみ。


 エリシアとリーナは何も言わずに馬車に乗り込んだ。これが彼らなりの“礼”なのだという事を、エリシアは理解していた。


 扉が閉められようとしたその瞬間、ラディウスが無言で一歩踏み出し、エリシアたちの隣に腰を下ろした。


 「誤解を避けるためにも、私も同乗しよう。君達を粗略に扱ったとは、誰にも言わせたくない」


 その言葉に、扉の外で控えていた兵士の一人が慌てて進み出る。


 「し、しかし殿下。ご身分をお考えいただければ……そのような――」


 言葉が最後まで続くことはなかった。ラディウスは静かに、しかしはっきりと兵に視線を向けた。


 「私の判断に口を挟むのは、命令違反だと理解しているな?」


 そう言った次の瞬間だった。


 ラディウスは無言のまま一歩前に出ると、鞘に収めた剣を抜かず、そのまま兵士の腹に――鈍い音を立てて、強く打ちつけた。


 「ぐっ……!」


 兵士は膝をつき、苦悶の声を漏らす。だが、血が出るような傷ではない。明確に「痛み」で制される示威の一撃だった。


 リーナはわずかに息をのんだが、声は上げなかった。ただ、じっとエリシアの裾をつかみ離さなかった。


 「後方に下がれ。彼女に無用な緊張を与えるな」


 兵士は顔色を変え、咄嗟に姿勢を正して敬礼した。


 「はっ……申し訳ありません、殿下!」


 静けさが戻る。余計な言葉はもう交わされず、兵たちは黙って持ち場へと戻っていった。


 エリシアは隣に座るラディウスを横目に見た。


 帝国軍人は――かくあるべき、という理想像を体現しているようだった。


 どちらかと言うと、それは尊敬というよりも、畏怖に近い。


 統率された行動、無駄のない所作、命令には即座に従い、私情を交えず任務を遂行する。その厳しさの根底には、「個」よりも「国家」を重んじる精神が強く根付いていた。


 馬車の中は静寂に包まれていた。アルディア王国の貴族社会を知る者からすれば、会話を交わさぬこと自体が一種の「不作法」に思えるほどに。


 (このまま黙っていていいのかしら……)


 エリシアは横目でラディウスの横顔を盗み見る。微動だにせず、視線すら合わせようとしない。その姿からは、彼がいったい何を考え、何を見つめているのかがわからなかった。


 ましてや――先ほどの場面が、まだ脳裏に焼き付いている。


 あの場面を目の当たりにしてしまった以上、軽々しく話しかけてよいものかどうか分からなかった。

 それでも沈黙を続けるのも、また居たたまれない。


 「……すまなかった」


 思いがけない言葉に、エリシアの胸が一瞬だけ跳ねた。低く落ち着いた声音。けれど、確かにそこには謝意が含まれていた。


 彼は正面を向いたまま、視線も合わせずに続ける。


 「先ほどの叱責。……君の前で見せるには、少々荒々しすぎた。」


 エリシアは驚きと戸惑いを隠しながら、そっと視線を落とした。まさか、あのような冷徹な振る舞いの直後に、謝罪の言葉が口から出るとは思っていなかった。


 「……お気になさらず。わたくしのほうこそ、戸惑いを隠せずにおりました」


 「君は、もっと怖がってもよかった」


 「怖がりましたわ。でもこの国は軍の統率が取れていて素晴らしいと思いましたわ」


 エリシアはすっと背筋を伸ばしたまま、わずかに唇を緩めた。


 「……そうか」


 ラディウスの口元が、ほんのわずかに動いた。笑ったのか、それとも何か言いたかったのか。


 しかし彼はただ、わずかに視線を逸らす。


 沈黙が、ふたたび二人の間に落ちる。


 けれど今度は、前とは違い、互いの存在を意識し合う、静かな余白だった。


 リーナもまた、じっとその空気を感じ取りながら、膝の上で手を組んだまま黙していた。


 エリシアはそっと目を伏せ、馬車の揺れに身を預けた。


 やがて、馬車の速度が落ち始めた。窓の外に広がる風景が、緩やかに変わっていく。


 レナスト帝国の首都――ディアローテ。


 重厚な城壁に囲まれたその都市は、軍事国家らしい規律と秩序に満ちていた。石造りの建物はどれも直線的で堅牢。装飾は最小限に留められ、華美よりも機能美を重んじる思想が街全体に貫かれている。


 通りには隊列を組んで行進する兵士たちの姿があり、剣の音、号令、そして足音が、遠くから一定のリズムで響いていた。


 エリシアは窓越しに街の様子を見つめていた。リーナもまた、息を詰めるように隣で身を小さくし隠れていた。


 帝国の民――その顔に浮かぶのは、希望ではなく警戒。とりわけ、馬車を見つめる視線には、明確な“拒絶”が混じっていた。


 誰に告げられずとも分かる。この婚姻が、決して皆に歓迎されているものではないことを。


 敵国の令嬢。和平の象徴という名目で送り込まれた、異邦の女。

 彼女の存在は、戦で家族や故郷を失った者たちの怒りの対象になってもおかしくはなかった。

 馬車の中からさえ、道行く者たちの視線が突き刺さるのを感じる。言葉はなくとも、彼らの表情が語っていた。


 ――何故、あんな女を帝都に迎えたのか。


 そんな視線を前にしても、エリシアは顔を上げることなく、まぶたを下ろした。


 「殿下、城門が見えてまいりました」


 御者の声に、ラディウスはわずかに顎を引く。


 馬車は緩やかに速度を落とし、帝都の中心に位置する城へと近づいていく。黒々とした石造りの外壁は厳格な意匠で整えられ、入口には兵士たちが整列していた。


 城門が重々しく開かれ、馬車はそのまま中庭へと進む。中庭では、帝国軍の衛兵たちが無言のまま並び立ち、その奥から衛兵長らしき男がラディウスに歩み寄った。


 「ご帰還、お待ちしておりました。……そちらが、アルディアの姫君にございますか?」


 エリシアは無言で立ち上がり、礼装の裾を整えると、規範に則った動作で深く頭を下げた。後ろに控えたリーナも、遅れぬように丁寧な礼を取る。


 「帝国にご挨拶を申し上げます。ヴェルナール家のエリシアと申します。以後、よろしくお願い申し上げます」


 その所作に、場の空気がわずかに変化する。


 ラディウスは一歩、彼女の隣へと出た。


 「この者は、本日よりレナスト帝国の賓客である。以後、私の許可なく無礼な扱いをすれば、軍律に従い厳罰に処す」


 その言葉に応じて、衛兵長は即座に片膝をつき、敬礼の姿勢を取る。兵士たちもそれに倣い、整然と頭を下げた。


 リーナはわずかに息を吐いた。歓迎されていないとはいえ、最低限の礼節が守られる環境に安堵の色が滲む。


 ラディウスはそれを確認することなく、踵を返す。視線は前方をまっすぐに向き、背筋はわずかも崩れない。


 彼は手をわずかに掲げ、従者に合図を送った。エリシアとリーナの案内を任された者たちが、間を空けて控える。


 「案内を」


 短く告げると、先導役の従者が歩み出る。エリシアの前に立ち、軽く会釈してから、城内への通路へと向かう。


 城内の廊下を抜け、しばらく進んだ先の控えの間。薄い絨毯が敷かれ、窓から差し込む光だけが室内を照らしていた。装飾は最小限だが、清潔で整えられており、必要な家具が簡素に並ぶ。


 案内を終えた従者が一礼し、部屋を後にする。扉が静かに閉じられた後、わずかな沈黙が訪れる。


 「……この部屋は、今後しばらく君の滞在場所となる」


 ラディウスがそう告げると、エリシアは軽くうなずく。リーナはすぐに部屋の隅へと移動し、備品の確認を始めていた。


 その姿を一瞥したラディウスが、ふと視線を戻す。


 「君の侍女についてだが、一時的に別室で待機させる」


 エリシアの表情にわずかな緊張が走る。


 「……それは、長くかかるのですか?」


 「数日は必要だろう。だが、君の要望があれば、近衛の者を通じて再び君の元に戻す手続きを急がせる」


 リーナが振り返り、エリシアのもとへ歩み寄る。その表情には、不安ではなく、覚悟がにじんでいた。


 「エリシアさま、心配なさらないでください。ちゃんと戻ってきますから。……少しくらい、平気です」


 リーナは、エリシアに聞こえるかすかな声で、そう言った。


 「ちゃんと、役所の人たちに礼儀正しくしますし、問題なんて起こしません。だから――ちゃんと戻ってきます」


 エリシアは微笑み、そっとリーナの手を握った


 「待っているわ。リーナは、私の大切な侍女だから」


 そのとき、部屋の扉が再びノックされる。


 ラディウスの近衛兵が、扉の向こうで告げる。


 「リーナ殿をお連れいたします」


 リーナは一つ頷き、エリシアの前で丁寧に一礼した。


 「では、少しの間だけ、失礼します」


 エリシアは静かに息を吐き、部屋の中央に戻ると、用意された椅子に腰を下ろした。周囲はしんと静まり返り、外から届く足音や風の音だけが、空間に動きを与えていた。


 ラディウスは室内を一瞥し、扉の前で立ち止まると思いきや、側に備え付けられた鍵を手に取り、音を立てぬよう静かに扉を閉め、内側から鍵をかけた。


 エリシアがわずかに眉を寄せる。リーナも、緊張を含んだ視線をラディウスに向けた。


「……この話は、外には出せない。今のうちに伝えておきたい」


 ラディウスは背を向けたまま低く言い、そのままゆっくりと振り返った。


 「まずひとつ。結婚式は、すぐには挙げられない。政務の調整と、帝国内の諸事情がある。正式な儀式は、時機を見て行う。それまでは“賓客”という建前で滞在してもらう」


 「……なぜ、後に?」


 「今、挙げれば反発が起きる。君にとっても、帝国にとっても得策ではない。……穏やかに進めるには、時間が要る」


 言い終えると同時に、ラディウスは再び鍵を外しにかかった。


 「それと、君の侍女の件だが――、君の元に帰るまでの数日間は別の部署に移ってもらう」


 エリシアは小さく目を見開く。


 「彼女がここに居続ければ、余計な視線を集めかねない。君の存在は公になっているが、彼女は非公式に同行しているという事になっている」


 そう言いながら、ラディウスはエリシアの方へと振り返った。


 「これは彼女自身のためでもある。どうか理解してほしい」


 「……わかりました。ただ、リーナには、あまり無理をさせないでください」


 「任を終えた後は、君の元へすぐ戻す手はずを整えてある」


 ラディウスの声が部屋の空気を引き締める。


 「……必要以上の負担はかけさせない。それは約束する」


 エリシアはわずかに目を伏せ、息を整えた。


 「ありがとうございます、ラディウス殿下」


 ひとつだけうなずいた後、静かに部屋を後にした。








 それから、幾ばくかの月日が過ぎた。


 エリシアは目立つ事なく過ごしていた。そのお陰もあってか、表だって敵意を向ける者は、ほとんどいなかった。


 だからと言って認められた訳ではない。


 ラディウスの言う通り危機とは常に隣合わせであり、いつ誰が牙を剥くかも分からない。


 なので外出は最低限につとめたり、なるべく多くの時間をリーナと一緒過ごしたりとしていた。


 結局の所リーナは思ったより早く帰ってきた。

 この城の中では彼女はレナストの民という扱いになっていた。

 ()の王国から来たという事実は伏せられ、あくまでレナスト王国で雇われた新入り侍女の一人、そういう建前でエリシアに仕えることを許されていた。


 そんな静かな日々の中。


 ある日の午後、控えめな陽が差し込む部屋で、リーナがそっと声をかけてきた。


 「そういえば、今日、後宮の方たちと少しだけ顔を合わせました」


 エリシアは顔を上げる。

 手元の本から目を離し、リーナに目を向けた。


 「何か問題は?」


 リーナは小さく首を振った。


 「いえ、特には。でも……ちょっとだけ、嫌味を言われちゃいました」


 苦笑いしながら、リーナは肩をすくめた。


 「“異国のお姫様に仕えるのも、楽じゃないでしょう”って。

 でもまあ、慣れました。口だけの人、たくさんいますから」


 エリシアは静かに頷いた。


 「無理はしないで。何かあったらすぐに私に言うのよ」


 リーナはぱっと顔を上げ、にっこりと笑った。


 「はい! お嬢様にそう言ってもらえるなら、なんだって平気です」







 その日、エリシアは、控えの間でささやかな休憩を取っていた。


 朝からの来客応対や書類仕事が続き、

わずかな時間でも休めることは貴重だった。


 もっとも、今の彼女は、

本来そういった業務を担う立場にはない。


 しかし、いかんせんやることがなかった。


 そんな彼女に、ラディウスは言った。


 「……もし退屈なら、書簡の整理でもしていていい」


 差し出されたのは、城内で滞っていた簡単な書類の束。


重要な政務ではない。だが、誰かが手を入れなければ、いつまでも放置される雑事だった。


 エリシアは静かにそれを受け取った。

 何もせずに時間を浪費するよりは良いと思いながら。


 一段落ついたところで、控えめなノックの音が聞こえた。


 「失礼します、お嬢様」


 リーナだった。

 手にした盆には、小ぶりな菓子と温かな茶が載っている。


 「厨房からお菓子をいただきました。よろしければ、休憩にどうぞ」


 エリシアは顔を上げ、盆の上を一瞥した。


 果実のタルト、蜂蜜でコーティングされたナッツ菓子。


 「……ありがとう、リーナ。少しだけいただくわ」


 そう答えて、エリシアはタルトを一つ、指先で摘み上げる。


 そんな、ごく僅かな油断。


 口に含むと、ほろりと崩れる生地の甘さが、疲れた体に優しく染みわたった。


 エリシアは小さく息を吐き、ほっと背を預ける。


 リーナも、隣で小さな菓子を口に運びながら笑った。


「おいしいですね。こういうときくらい、甘いものに頼らなきゃ」


 エリシアも、わずかに目を細めた。


 穏やかな時間。忘れかけていた、束の間の安堵。


 彼女はその場から立ち、戻ろうとした瞬間だった。


 視界がぐらりと揺れる。

 呼吸が浅くなり、体温が急速に引いていく感覚

 エリシアの身体は、椅子ごと横に傾き、力なく、床へと崩れ落ちた。


 意識が霞む中、エリシアは隣にいるリーナに向かって、かすれるような声で命じた。


「……底野迦(テリアカ)を……持ってきて……」


 その言葉を最後に、彼女の意識は、ふっと途切れた。


「お嬢様――!」







 どこか遠くで、誰かが呼ぶ声がした。


 意識の底で、微かな光を探すような感覚。

 沈む身体を、かろうじて誰かが引き留めている。何か温かなものが、そっと手を包み込む。

 そのぬくもりに引き寄せられるように、意識は、少しずつ浮上していった。


 白い天幕。薬草の香り。

 ひんやりとした布の感触。


 エリシアは、ゆっくりと瞼を開けた。


 目に映ったのは、

 泣きそうな顔をしたリーナだった。


 「お嬢様……!」


 リーナは、今にも泣き出しそうな声で呼びかけ、ベッドの傍に駆け寄った。


 エリシアはかすかな声で問いかける。


 「……ここは……」


 その一言が引き金になったかのように、リーナの目から涙が溢れた。


 「よかった……本当によかった……!」


 しゃくりあげるようにして、

 リーナはエリシアの手を両手で包み込み、顔を伏せた。


 「お嬢様が目を覚まさなかったら……どうしようって……!」


 声が震え、言葉が途切れる。

 リーナは必死に泣くのを堪えようとしたが、もう止められなかった。


 やがて、言葉を探すように、震える声で呟いた。


 「……私……私が……!」


 顔を伏せたまま、リーナは絞り出すように続けた。


 「私が……ちゃんと毒味しておけば、よかったんです……!」


 涙混じりの声。

 自分を責める言葉。


 「お嬢様にこんな思いをさせるくらいなら、私が先に……!」


 言いながら、リーナはさらに強くエリシアの手を握った。


 「私、侍女失格です……。何のために……お嬢様のお傍にいるのか……!」


 エリシアは、そっとリーナの手を握り返した。


 「リーナ。……毒見は、あなたの役目じゃないわ」


 リーナの肩がわずかに震える。

 それでも、エリシアは掠れた声で話続けた。


「誰の責任でもない。偶然よ。それに、私が口にしたのは、私の判断」


 微笑みを浮かべて、エリシアは静かに言う。


 「あなたが心を砕くことじゃないの。……だから、もう心配しないで」


 それでも、か細く震える手で、必死にエリシアの裾を握りしめた。


 しばらくして、彼女は涙を拭きながら話す。


 「……あのとき、お嬢様が倒れた直後、すぐに殿下が来てくださったんです。私がどうしようって慌てていたとき……お嬢様が“底野迦(テリアカ)”って言ったんです。小さな声でしたけど、ちゃんと。私、それを殿下に伝えました。そしたら……」


 リーナの声が、少し熱を帯びる。


 「殿下はすぐに“それは解毒の成分だ”って。一度聞いただけで、状況を理解して、侍医に命じて――」


 「“底野迦(テリアカ)を用意しろ”って。周囲が混乱してる中で、真っ先に動いてくれて……」


 リーナは、そっと視線を落とした。


 「……あのとき、お嬢様を一番“助けよう”としていたのは……やっぱり、殿下だったと思います。お嬢様が目覚めるまで


 エリシアは何も言わなかった。

 ただ、そっと目を閉じた。

 わずかに震える胸の奥に、何かを押し込めるようにして。


 リーナがようやく落ち着きを取り戻し、医務室には穏やかな沈黙が戻っていた。


 外の光は、少しだけ傾き始めている。

 まだ体は本調子ではないものの、エリシアはゆっくりと、深い呼吸ができるようになっていた。


 「お水、もう少しだけ、持ってきますね」


 リーナがそう言って部屋を出ていくと、再び静寂が訪れる。


 エリシアは、ひとつまばたきをして、ふと視線を天幕に向けた。


 その時――


 扉の外から、控えめなノック音が響く。


 「……入るぞ」


 入ってきたのは、ラディウスだった。


 制服の裾がわずかに揺れ、靴音も静かに響く。

 彼は黙ってベッドのそばまで来ると、そばにあった椅子に腰をかけた。


 「……具合はどうだ」


 「おかげさまで。少し、体が重いくらいです」


 ラディウスは頷いた。いつもの無表情ではあったが、その瞳には、ほんのわずかな安堵の色が滲んでいた。


「……あの時、お前の侍女から“底野迦(テリアカ)を”と告げていなかったら――命の保証はできなかった」


 ラディウス曰く、今回エリシアに盛られた毒はベラドンナの乾燥粉末だった。


 ベラドンナは、古くから“死の美人”と呼ばれ恐れられてきた植物であり、その葉・根・果実のすべてに強力な毒素を含むと言われている。


 ベラドンナの厄介なのは無味無臭で毒草にありがちな苦味や刺激臭がほとんどなく、乾燥させて粉末状にすれば、砂糖や小麦粉に紛れても気づかれることはまずなかった。


 「“底野迦”(テリアカ)が効いたのは幸いだった。」


 底野迦(テリアカ)はエリシアがとっさの思いつきで口にしたものだった。


 記憶のどこかで聞いたことがあるような言葉。印象のあるフレーズ。

 まるで沈んでいく命を底から引き上げるような、不思議な響き。

 意識が朦朧とするなかで、浮かんできたその一語が、命を繋いだ。


 偶然とも、奇跡とも言える。


 エリシアがふと視線を上げ、言葉を選ぶように声をかけた。


 「……あの、ラディウス様」


 「“様”は要らない。ラディウスと呼べばいい」


 エリシアは少し目を見開いたが、すぐにわずかに微笑みを返した。


 「……では、ラディウス。ありがとうございます」


 彼は何も言わずに、ほんの一瞬だけ目を細めると、そのまま視線を外した。


 「犯人については大方の検討がついている。」


 その言葉に、エリシアの背筋がわずかに伸びた。


 「――わたくしの命を狙った人物を、もう?」


 「おそらく君の国の者だろう。」


 エリシアはわずかに目を見開く。


 「……アルディアの、者が?」


 「この国では、ベラドンナは咲かない。気候も土も合わない。つまり――持ち込まれたものだ」


 ただし、とラディウスが続けて言う。


 「……ただし、必ずしも“同行者”の仕業とは限らない」


 「どういうことですか?」


 「和平が結ばれた直後、一時的に貿易が再開された。物資の流通が許されたのは、ごく限られた経路に限られていたが……その中に“贈答品”の名目で運ばれた物もある」


 「まさか……その中に?」


 「可能性としては否定できない。君に出された菓子は、見たところこの城の厨房で調理されたものだった。だが、素材そのものに細工がされていたのなら、城の誰かが気づくのは難しい」


 「……ベラドンナを、贈り物の中に?」


 「乾燥粉末ならば、香辛料や菓子用の材料に紛れさせるのは造作もないだろう。」


 「敵の手か、味方の裏切りか……いずれにせよ、“和平”の名のもとに仕組まれた毒であることに変わりはない」


 その瞬間、エリシアの中にこみ上げてきたものがあった。悔しさ、怒り、そして――譲れない信念。


 「それでも、私は和平を諦めるわけには……!」


 言いかけながら、彼女は勢いよく立ち上がろうとした。


 だが次の瞬間、視界がふわりと揺れた。

 足元がぐらりと崩れ、全身から力が抜けていく。


 「っ――!」


 ラディウスが素早く動いた。


 倒れかけたエリシアの腕を掴み 身体を支えた。


 「……まだ無理をするな」


 「……すみません。気持ちばかりが、先走って」


 「とりあえず、だ。まずは身体を直してからだ。犯人については任せてくれ。君が退院するまでには絶対に捕まえる。」


 その言葉に揺らぎはなかった。


 「……無理はしないで」


 「あぁ…心配するな。エリシア」


 初めて、名をそのまま呼ばれた気がして、彼女の胸が、かすかに震えた。

 言葉にならない想いが、静かに胸の奥に満ちていく。


 制服の裾がわずかに揺れ、石の床に靴音が響く。そのまま扉へ向かい、振り返ることなく部屋を出ていった。


 残されたエリシアは、薄く目を伏せたまま、静かにその背中を見送った。





 エリシアが退院を許されたのは、それから数週間後のことだった。幸いなことにどこか後遺症があるという訳でなく、早期発見されたこともあって倦怠感が残っている事以外は何とも無かった。


 彼女が療養をしている間、帝国の内側では密かに犯人の特定が進められていた。


 誰が毒を盛ったのか。

 なぜ、エリシアが狙われたのか。

 和平という表の顔の裏で、何が(うごめ)いていたのか。


 そして――


 捜査の手が伸び、浮かび上がった名前は、ヴェルナール侯爵夫人。エリシアの義母だった。


 報せを受けたとき、エリシアはただ黙っていた。


 驚きはなかった。

 心のどこかで、うっすらと、そうではないかと感じていたのかもしれない。


 レナストに嫁いだ姉娘が、敵国の中で死ねば、その罪は自然と帝国に向けられる。和平は破綻し、帝国は非難を浴び、アルディアは“被害者”の立場に立てる。

 そうなれば、アルディアにとっては不本意であっても都合がよかったのかもしれない。


 家の名誉、王政における影響力、そしてセリーヌの将来。

 得られるものは多く、失うものは、たった一人の娘の命だった。


 全て計算通りだった。ただし――“バレなければ”。


 そういった些細なミスが、思惑の綻びを生んだ。


 一つの家の問題は、いつしか国家の品位と信用を問うものへと変わりつつあった。

 帝国にとっては屈辱であり、王国にとっても、無傷では済まされない事でもある。


 ラディウスはきっと、これを許さないだろう。

 たとえそれが他国の内情であっても、たとえそれが“義母による裏切り”という、個人的な復讐に見えたとしても。

 彼はきっと、しかるべき手段で、しかるべき形で、報いを求める。


 それは私怨ではなく、国家の矜持のために。







 数ヶ月の緊張状態のち――


 アルディア王国は、ついに公式な声明を出した。


 ヴェルナール侯爵夫人の行為は、国家の意思とは無関係な“私的な犯行”であり、和平を破綻させる意図はなかったと。


 それは形ばかりの言い訳だったが、帝国はそれ以上を求めなかった。

 双方とも、戦争は望んでいなかったのだ。


 ラディウスは 必要な責任だけを求めた。


 ヴェルナール侯爵夫人は断罪され、その処分は迅速に下された。

 だが、完全に家が潰されることはなかった。


 その裏にあったのは――ラディウスの働きかけだった。冷徹と呼ばれた彼が、あえて情けをかけたのだ。


 エリシアには、彼がその理由を口にすることはなかった。


 ただし、それは家名を保つためではない。

 未来を託すに足る者。つまり妹のセリーナまだその家に残されていたからだった。


 彼女には罪がない。 それが、ラディウスなりの決断だった。



 そして当然のことながら、アルディアの王子との縁談も白紙となった。

 政略の土台が崩れた以上、王宮がその名を必要とする理由もまた、消え去ったのだ。


 結局の所、今回の事件はあくまで一人の女の“暴走”として処理された。


 真実がどうあれ、それを公にすれば、両国の溝は深まり、修復不能な亀裂が生まれる。


 双方の国の重鎮もその取り決めに対して口を出す者はいなかった。


 結果、和平は辛うじて保たれた。

 かすかな亀裂を抱えながら、それでもなお。


 控えの間では、窓を開け放ち、風が花の香りを運んでくる。


 エリシアは机に向かい、淡く彩られた便箋に筆を走らせていた。


 その傍らで、リーナがそっとお茶を注ぎながら尋ねる。


 「……お嬢様。これから、どうなさるんですか?」


 エリシアは少しだけ筆を止めて、空を見やった。

 どこまでも澄み渡った青が、果てしない未来のように広がっている。


 「何も決まっていないわ。でも、今は――それでいいと思ってるの」


 リーナは目を瞬かせた。


 「え……?」


 「これからの事なんて今から考えていたら、身体に毒よ」


 エリシアは肩の力を抜くように、ふっと微笑んだ。


 「しばらくは……何も決めずにいようと思うの。ただ、今日という日を丁寧に過ごしていきたい」


 「良いと思いますよ。 あの事件からずっと張り詰めてましたから」


 リーナはそう言って、そっと窓の外を見やった。

 春の風に揺れる木々の葉が、淡く陽を透かしている。


 「だから……こうして、ただ穏やかに過ごせる時間があることが、すごく嬉しいんです」


 エリシアも、小さく頷いた。


 「ええ。私もよ。やっと、息ができる気がする」


 エリシアは静かに微笑みながら、湯呑を置いた。


 するとリーナは笑顔でうなずき、大量の封筒をエリシアの手元に差し出した。


 「でもまずは、お手紙終わらせないとですね!次の文はどうなさいます?」


 「そうね……“こちらは穏やかな日々です。ようやく、春が来ました”――ってところかしら」


 二人は顔を見合わせ、微笑んだ。

 差し込む光は、まるでこれからの道を照らすかのように、暖かく室内を満たしていた。


 ペンを取ったエリシアの表情は、どこか晴れやかだった。


 その横顔に、ようやく訪れた安らぎの時間が、そっと寄り添っていた。

ここまで読んで頂きありがとうございました!

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― 新着の感想 ―
短編を読んでいたはずなのに、読み終わってからほっとついたため息は深い。とても長い時間が過ぎたような気がします。
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