はんこ
・・・目の前に押印しなければならない書類が山積みになっている。
今日は午後から会議。明日は日帰りの出張。戻ってきたらまた会議。
本部長のW辺は忙しさに気が狂いそうであった。そんな彼がなんとか正気を保っていられるのは、部長秘書のS木、彼女がとても有能だからであった。
今、押印しているのはとりわけ契約書などの重要書類という訳ではなく、むしろどうでもいい回覧の類や定例会議のレポートなどの決まりきった形式の書類ばかりである。
先々週から社外会議や出張が続き、とても忙しく手が回らなくなってしまったのだ。 うち、いくつかはS木が処理してくれた物もあるようだがそれでもなかなか減らない。さっとでも目を通さなければならないのだが、もうやめた。 大した内容ではないし、目がとても辛い。・・・今、彼は目薬をさしつつ、ふせんの貼られた押印箇所にただただ、はんこを機械的に押印している。
ふせんは留守の間に、S木が気を利かせて貼ってくれていた様だ。おかげではんこを押す場所を探す手間が省けている。
(これだけ多いと間違えることもありうるからな。)
黙々と作業していると、ふいにデスクの脇にコーヒーカップが置かれた。見上げると、当のS木がにっこり笑っていた。
「順調ですか?」 「ああ、何とか。」「それはよかった。この前、切らしたとおっしゃってた名刺もすぐに手配しましたので今週には届くかと。」
おお、忘れていた! さすがS木。ぬかりない。 思わずお礼を言う。
「いつもありがとう。本当に助かるよ。」 すると、S木は一瞬だけ目を丸くした後、こう言った。
「・・・いえ、部長のお役に立てるのが私の喜びですので。」 と。
そして、何となくもじもじした様子で照れたような仕草を見せた後、お辞儀をして早足でその場を去って行った。
(いい子だな)S木はしっかりしているが、自分よりはずっと年下である。たまに今のようにほめると困ったように可愛らしく笑うので、初々しさとあどけなさを感じることもしばしば。
さて、ちょっと一息入れるか。
そんなS木の後姿を微笑ましく見送りながら、W辺は彼女の淹れてくれたコーヒーをひとくち飲むことにする。
・・・マグカップに顔を近づけた時、疲れたまぶたに湯気がかかり、ほっと心が和らいだ。
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それから数日後の事である。
部内会議がひと段落し、フロアに戻ろうとして席を立ちあがりかけた時。課長が衝撃的なひと言を放った。
「そういえば、部長って再婚されるんですか?」
突然のことに彼はその場でつまずきそうになった。
するとなぜか、周りの者たちも急に騒ぎ出した。”やっぱりそうなんだー”、”えー、おめでとうございます”、などなどと次々に言い始める。
「・・・・なんの話だ?」
たしかに、W辺は離婚している。別に隠してもいない。しかしそれはもう何年も前のことであり、今更もう再婚など毛頭する気はない。・・・・寝耳に水である。
「俺は誰とも結婚しないぞ。」 しかし、課長は笑いながら続ける。
「とぼけないでくださいよー。秘書のS木さんと結婚するんでしょ?少し前に婚姻届け出したって本人から直接聞きましたし。もう総務部は全員知ってるみたいですよ。彼女、めっちゃ嬉しそうだったなあ。水くさいじゃないですかぁ、同じ部署の僕らには何も言わないなんて!」
完