【1】
「『お母さん』を探すのを手伝って欲しいの」
唐突な藍の台詞に、目の前の婚約者は一瞬言葉を失ったように見えた。
「……え、と。君のお母さんて亡くなってる、よね? あ、もしかしてお母さんの想い出を辿る旅とかそういう意味?」
ようやく口を開いた貴幸は、藍の真意を量りかねているらしく探るように返して来る。
「ううん、違う。亡くなった母とは別に、──私には『本当のお母さん』がいるんじゃないかって。夢を見たのよ」
藍は真顔のまま静かに続けた。
まだ桜も散りきらない、着るものに迷うような四月。
季節の変わり目で不安定だったからもあるのだろうか。あの、夢は。
「夢って──」
「真面目に聞いて! 夢、だけじゃないの」
笑い混じりで彼が言い掛けるのに、強い調子で言葉を被せる。
「ごめん。僕は別に茶化したわけじゃなくて、あんまり突拍子もなかったからつい。……だけど、藍が真剣なのに失礼だったね」
謝ってくれる貴幸に、藍も慌てて頭を下げた。
「……私も突っ掛かるみたいな言い方してごめんなさい。話、聞いてもらえる?」
「もちろん」
変わらず穏やかな調子の彼に軽く顎を引いて感謝を示す。
「夢の中で私はまだ小さくて、……はっきりしないけど、たぶん幼稚園に上がる前とかそんな感じ。母じゃない人の膝に抱っこされて、『母ちゃん』って甘えてる、みたいな」
ひとつひとつ思い返すように話し始めた藍に、貴幸がすかさず疑問を呈してきた。
「『母ちゃん』って、藍のお宅にはあまりにもそぐわない気がするんだけどなぁ。昔観たホームドラマなんかと混同してるとか、じゃなくて?」
「……確かにそうね。親のことは『お父さま、お母さま』だし。周りのお友達にも多かったからこれが普通だと思ってたけど、違うらしいのも今は知ってるわ。でも──」
貴幸の問いに答えて、藍は言葉を繋ぐ。
「夢見て目が覚めてから、なんか急にぱーっと思い出したの。その、抱っこされてる時だけじゃなくて、他にもいろいろ。私が『母ちゃん』て呼んだら、その人は『藍ちゃん』て返してくれるのよ。だから実際にあったことなんだと思う」
どうして忘れていたのか不思議に感じるほどに、一気に蘇った彼女に纏わる一連の記憶。
鮮明とは言えず曖昧な部分も多いのだが、すらりとした長身だった母とは似ても似つかない、小柄でふくよかな、気の良い笑顔の『小母さん』。
今になって藍の脳裏に浮かぶ彼女は、常にエプロン姿だ。
母とは掛け離れた、家庭的な印象の女性。
「貴幸さんの言うとおり、私の家で『母ちゃん』なんて言葉を使わないのは間違いないわ。テレビくらいでしか聞いたことない。だから、──その、言葉は悪いけどそういう家で生まれて、今の両親に引き取られたんじゃないのかな、って」
「……藍。自分が何言ってるかわかってるよね?」
窘めるような貴幸の声にも気分を害することはなかった。藍自身、後ろめたい思いを拭いきれていない。
己が発した内容の意味するところは十分承知なのだから。
「そういえば、藍パスポートは当然持ってるだろ? 高校の修学旅行もアメリカだったって言ってたし。パスポート取るときって戸籍が要るんだけど」
それ以上藍を責めることはせず、貴幸は角度を変えて話題を振って来た。
「パスポートは子どもの頃から持ってて、手続きもずっと親がやってくれてたから。今は、高校の修学旅行のときのがまだ有効だし。……戸籍なんて見たことないわ」
彼の考えは不明ではあるものの、藍は正直に事情を話す。
「本気ではっきりさせたいんなら、戸籍を確認してみる? 藍はもう成人してるんだから自分で取れるよ」
「……うん」
より現実を見据えている貴幸の提案を、藍は少しの逡巡の末に承諾した。
藍の自宅を管轄する区役所を二人で目指す。
「ちょっとごめんね」
移動する電車の中で、貴幸が藍に断ってスマートフォンを手にした。
戸籍の取り方でも調べているのだろうか。
普段藍と会っているときは端末を取り出すこともない彼にしては珍しいと思いつつ、藍は無言で車両の窓ガラスを見つめていた。
大学四年生になる今まで、藍は役所を訪れたことなどはない。温室育ちの自覚は十分にあった。
さすがに社会人三年目の貴幸は、そこまで世間知らずではないだろうが。
区役所に着き、藍は隣に立つ貴幸に指示を受けながら交付請求書を作成した。その書類を窓口の職員に提出して、彼と並んでロビーのソファに座って待つ。
「七番でお待ちの新藤さん」
呼ばれて窓口に出向き、藍は出来上がった個人事項証明書を手数料を払って受け取った。
敢えて手の中の書類から顔も気も逸らして、足早に貴幸の待つソファに戻る。
彼の横に腰を下ろし、藍は証明書の両親の欄に恐る恐る目を走らせた。
────────
父 新藤 俊博
母 新藤 紫子
続柄 長女
────────
「……お母さま」
母親の欄に記載されているのは、紛れもなく亡き母の名だった。知らず止めていた息を大きく吐く。
安心したのか、それとも内心信じていなかったための衝撃か。
それさえも判別できないままに、藍は身体に力が入らない状態で、腰掛けていたソファから立ち上がることもできない。
貴幸に支えられるようにして区役所を出て、二人はすぐ傍のカフェに落ち着いた。
「あの、さっきは両親の名前だ、ってだけで頭がいっぱいになっちゃったんだけど。特別養子縁組? っていうの、本当の親とは完全に縁が切れて新しい親の子どもになるってテレビで観たことあるわ。私もそれってことはないかしら」
ふと思いついて告げた藍に、貴幸は静かに首を振った。
「実際に確かめるまでは、って黙ってたけど。その場合も、『養子縁組』の文字はなくても民法第何条~みたいに書かれててよく見ればわかるらしいよ」
藍が思い当たる程度のことは、貴幸も想定して調べていてくれたらしい。
役所に来る前に、彼がスマートフォンを触っていたのはこのためだったのだろうと今になって気づいた。
「でも、もしかしたら何か方法があるのかもしれない。貴幸さんのお家もそうだけど、お金も、──そういう普通じゃ無理な力みたいなのもあるんじゃないかと思うし」
往生際悪く言葉を重ねる藍に、貴幸は少し呆れたように返して来る。
「藍、そこまで行ったらもう妄想の世界だよ。なんとか自分の思い付きに現実を当て嵌めようとしてるみたいだ。いくらなんでも、誰が産んだかとか戸籍の記載まで歪める権力なんてないんじゃないかな」
反論はしないものの、藍が完全に納得してはいないのも承知なのか。
貴幸は仕方なさそうに話を続ける。
「えーと、あくまでも仮定として聞いて欲しいんだけど。もし君が、お父さんがその、外で作った子どもだとして、引き取るなら生まれてすぐじゃないかな?」
「……あ」
今まで藍の頭にはなかった、しかし論理的な回答に思わず声が漏れた。
「自分たちの子として育てるつもりがあったのなら、言葉が話せるようになるまで産みの母親の元にそのままなんてちょっと考えられない。興味がないならお金で片付けて放っておくんじゃないか? ……くれぐれも、藍のお父さんを貶める意図はないからね」
遠慮がちに、時々口籠りながらも貴幸が話す内容は藍にもすんなりと理解できる。
先ほど藍自身が口にしたように相手が階層の違う家の人間だとしたら、確かに無策で放置しておくとは思えない。
「その通り、だと思う。もしお母さまに子どもができなくて、お父さまが他所の女の人とって話ならすぐに取り上げる筈だわ。最初からそのつもりなんだろうし」
「……こういうのって、どうすべきか、何が正しいかの問題じゃないからさ。でも、シンプルに考えたらそうなんじゃないかな」
跡継ぎが目的なのだから、まったく関係のない他人の子を養子にするくらいなら血縁的に親戚から貰うことを考えるのではないか。
だからこそ貴幸も、最初から「赤の他人」ではなく「藍の父の婚外子」を想定して話したのだろう。
そもそも落ち着いて考えてみれば、生まれてすぐからの写真が家にはちゃんとあるのだ。その時点で、「生後間もなく引き取った」のでなければ藍の仮説は成り立たない。
解決したとは到底言えないものの、とりあえず藍もこれ以上突飛な空想に固執するつもりはなくなった。
今日、貴幸と約束して会った本来の目的は、藍の母方の祖母が暮らすホームを二人で訪れることだった。
区役所を経由したことで想定より遅くはなってしまったものの、祖母には明確な時間は告げていなかったため問題はない。
「おばあちゃま、こんにちは。なかなか来られなくてごめんね」
「いいのよ、来てくれて嬉しいわ」
広々とした居室に通されて挨拶した孫娘に祖母は喜びを表していたが、斜め後ろに立つ貴幸を見て不安そうな表情を浮かべた。
「……その方はどなた?」
「柏木 貴幸さんよ。私、来年大学卒業したらこの人と結婚するの。おばあちゃまにもお話してたでしょ? お式に来てもらえるといいんだけど。どちらにしても、一度会ってもらおうと思って」
朗らかに婚約者について説明する藍に、祖母はみるみる顔色を変えた。
「だめよ、紫子。あなたは俊博さんと結婚するんですから! ごめんなさいね、紫子。お父さまのためにお願い……」
そしていきなり取り乱して声を上げたかと思うと、彼女は俯いて娘に詫びる言葉を繰り返す。
「おばあちゃま、どうしたの? 私は藍よ、お母さまじゃな──」
わけもわからずに否定し掛けた藍を、貴幸が肩に手を置いて止めた。咄嗟に見上げた彼は、神妙な表情で首を左右に振っている。
「すみません、今日は失礼しますね」
貴幸は祖母に暇を告げて、藍の手を引いて部屋を出る。案内してくれたスタッフに声を掛けて祖母の後を頼み、二人でその場を離れた。
「私の両親は所謂政略結婚だったらしいの。母は短大を出てすぐに、十歳も年上の父に嫁いだのよ。家同士の関係で、ほんの子どもの頃から決まってた、みたいに聞いたことあるから」
ホームの外来者向け喫茶室に腰を落ち着ける。
飲み物のカップを両手で包み込むようにして、藍は貴幸に自分が知る事情を淡々と話した。
「私と貴幸さんも、両親みたいな『許嫁』じゃないけど略式のお見合いみたいなものだったじゃない? パーティで紹介されて、って自然を装ってたけど両方の家にそういう思惑があったのよね? 私は婿入りしてくれる人じゃないと無理なんだし」
貴幸は四人兄妹の三男なのだ。
兄二人と妹に挟まれた彼は、「昔から、僕なんて家にはいなくてもいいんだと思ってたよ」といつか藍に話してくれた。
笑顔と何気ない口調に安心しつつも、やはり子ども心に感じるものはあったのだろう、と返す言葉に困ったのを覚えている。
一人娘の藍が家を継ぐために、家柄が釣り合う中から婿養子に来てくれる相手を見繕っていたのは容易に想像できた。
大学に入学してすぐ、当時大学四年生だった貴幸と引き合わされたのだ。おそらくは藍の世界が広がって、高校までとは違い男性と関わりが増えることを危惧してのことだろう。……父というよりは親族が。
しかしそれでも藍自身は、己の置かれた状況は重々承知している。
何不自由なく大切に育てられたのも『そういう家』に生まれたからこそだと運命を受け入れていた。
親や大人の思惑がどうであろうと、藍も貴幸も「道具である自分」を完全に払拭できないままで生きて来た。
彼と打ち解けられたのも、きっと互いが相手の中に同じものを嗅ぎ取ったからだ。
貴幸と想いが通じ合えたのは結果として幸いだったに過ぎないのだとしても、それこそが重要だとも感じている。
「君は嫌だったの? もし家とか親のために我慢してるんだったらそんな必要ないんだ。藍が言い出せないんだったら、僕が気が変わったってことにして破談にするよ」
藍は何の含みもなく話したのだが、貴幸はそうは受け取らなかったらしく気遣わし気に申し出て来た。
「違うの! 私は貴幸さんとはたまたま出会いが紹介だっただけで、普通に恋愛して結婚すると思ってる」
彼の誤解だけは解かなければ、と慌てて貴幸の言葉を否定する。
「だって父も、しつこいくらいに『家のことは考えなくていい。お嫁に行ってもいいんだ。自分の思い通りにすればいい』って。……あ、それも母とのこと、後悔してる、から?」
「藍、また暴走しかかってる。勝手に人の気持ちを決めつけない方がいい」
また思わぬ方向へ転がり始める藍の思考に、彼は冷静に釘を刺して来た。
「でも。戸籍の通り私が両親の実の子だったとしても、もしかしたら母は私なんか欲しくなかったのかもしれないわ。……好きでもない人の子どもなんて、要らないと思っても仕方ない、し。だから、誰かに預けてた、とか」
疑心暗鬼に囚われて、次から次へと悪い予想ばかりが湧き出てしまう。
「それが『母ちゃん』? でも、それもおかしいよ」
堂々巡りにも根気良く付き合ってくれる貴幸は、内心は窺い知れないものの表面上は相変わらず落ち着いていた。
「たとえお母さんが育てたくないって言っても、大事な子どもを手放す筈ないんじゃないか? 実際、藍は一人娘で新藤の家の跡取りなんだしさ。逆にそういう話になったら、えっとごめん、子どもが生まれたんだから用はないって、いっそお母さんの方を外に出すのはあり得そうだけどね」
僕がそう思ってるわけじゃないよ、と断りながら貴幸が持論を述べる。
頭の中が飽和状態だ。
所詮一人で、あるいは貴幸と二人では答えを出せない問題に翻弄され、藍は疲れ果ててしまった。
「こんな風に考えてたってどうにもならないから、思い切って父に訊いてみる。母の本当の気持ちなんて、どこまで探れるかわからないけど」
「……藍がどうしても気になるって言うんなら、それしかないだろうね」
とりあえずの結論を出した藍に、貴幸は諦めたように呟いた。




