侯爵令嬢と、大浴場。
「ここが浴場にござる」
翌朝、というか、もう昼近く。
遅めの朝食……オニギリというライスの塊と、ミソシルというスープだった……を摂った後に、ミスティカとイスネがニンジャに案内されたのは、巨大なバスルームだった。
昨夜、ニンジャに与えられた、少々臭うけれどひんやりとした薬膏。
また悩んだ末にを足に塗り込んで貰って眠ったのだけれど、翌朝、とても楽だった。
今まで、こんなに楽だったことがないくらいで驚いたのだけれど……ミスティカは今、それよりも驚いていた。
「……一人で住む屋敷のバスルームを、こんなに広く作る必要があるのですか?」
「風呂は広ければ広いほど良いもの。外に露天風呂もあるでござるよ」
と、起きても変わらず黒づくめで顔を隠したニンジャは浴室の方を指差した。
一人で入るには、全てが広々とし過ぎている浴場。
ノレンという名前らしい布をくぐった先にあった脱衣所には、いくつものカゴと棚が置かれている。
湯煙の立つ浴室も何人もの人々が体を洗い、湯船に浸かれそうな広さだった。
見ると、木で出来た浴場の片面には絵画が描かれている。
中央には大きく、青い山肌に山頂に雪が積もった山があり、周りには空や緑が精緻に描かれていた。
「あの山は?」
「フジの山。某の故郷周辺で、最も巨大な山にござる」
「何故浴場に描いているのです?」
「む? 見ていて気持ちが良いであろう?」
言わんとすることは分からないではないけれど、それが浴室に絵画を描く理由になるのだろうか。
ミスティカが首を傾げていると、彼はさっさと説明を始めた。
「服はそのカゴに入れると良いでござる。石鹸は浴室に備えてある故。それと体を擦るのはそこの手拭いを使い、体を拭くのはもう少々大きな身拭いがそちらにあるでござる」
そうして指差し終えた後、ニンジャがくるりとこちらを振り向き、最後にまた衝撃的な一言を付け加える。
「そもそもこのヒノキ作りの大浴場は、仲間や友人と入って寛ぐための場所故、侍女殿と共に入るが良いでござるよ」
「使用人と一緒に、湯に浸かるのですか?」
体を洗ったり拭いたりということを任せる為に、浴室に共に赴くのは当然だけれど、そうした場合に湯船に浸かるのは主人のみである。
「何か躊躇う理由があるのでござるか?」
「こちらにそのような風習はございません」
ニンジャが首を傾げるのに、そう答えると。
彼は少しの間沈黙した後、その黒い瞳で真っ直ぐにこちらを見据えた。
「ミスチカ・サン」
「何か」
「それは、どのような理由で守る必要のある風習なのでござるか?」
「……?」
問いかけの意味が分からず、今度はミスティカが眉をひそめると。
「某に足を晒すは恥、傷を晒すは恥、着物の着替えに手が足らぬ。……それは、そなた自身の名誉の為であったり、某の配慮の欠けた点でござった」
ニンジャは真剣な、しかし睨みつけるでもなく澄んだ目のままで、淡々と言葉を重ねる。
「しかし主人であるミスチカ・サンの為に、我が身を死地に投げるに等しい覚悟で、躊躇いなく某について来ることを選んだ侍女殿との裸の付き合いを拒絶するは、矜持に関わる点であるようには思えぬのでござるが」
「……!!」
言われて、ミスティカは固まった。
イスネに裸身を晒すのが恥ずかしい、訳ではない。
そんなことは、今まで実家の屋敷で入浴する場合も当たり前のことだった。
ーーー守る、意味?
従者と生活を共にはしても、食卓や入浴などを共にしない、というのは、当たり前の話過ぎて意識したこともなかった点だった。
「そなたにとっては、ただ一人その身に負った傷を晒せる程に信頼する者よりも、己の常識の方が大切でござるか?」
さらに続いたその問いかけに、ミスティカは答えられなかった。
「この屋敷の主人は、某。そして我が故郷においては、信のおける者と風呂を共にするはごく普通のこと故。某はミスチカ・サンを客人として尊重するが、無意味と思える配慮までするつもりはござらん」
「……」
「某にとっては、侍女殿も客人故。共にせぬのであれば、一人で自らの身の回りの世話をして入浴するか、あるいは入らぬ選択をするが良いでござる」
ミスティカは狼狽えた。
ニンジャの言うことの方が正しいように思え、どう答えたら良いのか分からず、イスネに目を向ける。
「そんな言い方をされると、照れますねぇ〜……」
ちょっと恥ずかしそうに頬に手を当てるイスネは、相変わらずで。
そんな『いつも通り』の彼女が、決して当たり前ではないことに、ミスティカは今さらながらに気づく。
ここは、侯爵家の屋敷ではないのだ。
ニンジャがどのような人物であるか、おそらく無意味に人に危害を加えるような者でないのだろうと知ったのは、こちらに来てからのこと。
イスネが誘われた時に、彼女はそれを知らなかった筈だ。
それでも……下手をすれば、ミスティカが既に殺されて打ち捨てられているかもしれない状況で、イスネは。
「某は、己の全てを投げ捨ててでも望みを叶えようとした、真の高潔さを備えたそなたであればこそ、侍女殿も心より忠誠を捧げているのだと思っていたが……見当外れでござったかな」
「む! ニンジャ! 貴方今お嬢様を馬鹿にしましたか!?」
「しておらぬでござる。昨夜既に常識外れの行動をしているにも関わらず、矜持や生活に関わらぬ風習に拘泥する理由は何か、と疑問に思っているのみ」
ニンジャの言葉に。
ミスティカは、だんだん腹が立ってきた。
「貴方に、何が分かるというのです……!」
突然現れて。
人を誘拐して。
その目的も全く分からない。
自分の方が常識外れな行動をしている相手に、何故そのような説教をされなければならないのか。
「貴方に、わたくしの何が分かるのですか!!」
ミスティカさえいなければ、あの二人は結ばれるのだ。
ミスティカの傷跡さえなければ、あの二人が自分の気持ちを押し殺すようなことにはならなかった。
「貴方の言うその風習を守らなければ、皆が悪様に言われるのです!! わたくしだけでなく、わたくしの周りにいる人々が!!」
ギリギリの部分だったのだ。
嫌味や立ち振る舞いで、人を拒絶したり当て擦ったりする程度なら、他にミスティカが隙を見せなければ、ミスティカ自身の評価が下がるだけで済む。
だって皆がやっていることだから。
でも、それで済まなかったから。
「わたくしは、完璧でなければならなかったのです! これ以上無様を晒しては皆に申し訳が立たぬのです!!」
「お、お嬢さ……」
「そなたは、無様などではござらん」
イスネが狼狽えながら上げた声を遮って、ニンジャがそれまでで最も圧の強い声を上げた。
その声はよく通り、まるで国王陛下がお声がけをなさった時のように、ピン、と空気が張り詰める。
「誰よりも風習に縛られているのは、そなた自身。『守らずとも良いのだ』と考えれば、命を捨てる以外の道も多く残されているのでござる」
「まだ、知ったような口を叩くのですかッ!」
「某は外様。そんな某に分かることは『人がどのように行動したか』ということのみでござる」
ニンジャは、あくまでも静かな声で、静かな瞳で、言葉を重ねる。
「守りの傷は誉れ。そなたの行動は誉れ。慈しみに殉ずるは高潔。そう感じればこそ、そなたをあの場より連れ出した次第。どこに無様があるというのでござるか。この国の風習を外してしまえば、どこに無様を感じる要素が?」
「……ッ」
「淑女の体に傷など、と。そなたの婚約者が口にしたでござるか。足の不具合を無様と、そなたの友人が口にしたでござるか。そなたを醜いと、侍女殿が顔を歪めたでござるか」
「ニンジャ! それ以上は……!!」
「某は、ミスチカ・サンと話をしているのでござる」
イスネが慌てて間に体を挟むけれど、その小柄な体の頭越しに、ニンジャの視線はこちらを射る。
「胸のうちを曝け出すことを恐れる者の内心など、真の分かることは誰にも出来ぬでござるよ」
『人がどのように行動したか』。
カーシィ殿下が、スウィが、イスネが……その結果を責めたことがあったか、と。
ーーーわたくしは。
言葉で、それを彼らに示しただろうか。
自分は分かる……『看破』の力があるから。
でも、カーシィ殿下にも、スウィにも、その力はなくて。
遠ざけ、悪様に言い、その結果自分を見限ればいいと、そう思って。
ーーー逃げて、いた?
風習を盾にして。
風習に縛られて。
「真に守るべきものは何か。そなたは今一度、考える必要があるでござる。……侍女殿とのんびり、湯にでも浸かりながら」
そこでニンジャはクルリと背を向けて、ノレンを潜った。
「では、某はこれで。ごゆっくりでござる。ニンニン」
続きは明日の昼12時更新です。
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