ニンジャと、勇敢な少女。
―――かつて、王城で魔獣襲来事件が起こった日。
テスタム王国との友好の為に来日していたワズナ皇国皇太子クサナギは、婚約者候補であるという『スイ・テイオ』という名前らしい侯爵令嬢と面会していた。
翌日には、もう一人の候補である『ミスチカ・サルヒス』侯爵令嬢との面会予定がある。
少々面倒ではあるものの、国を預かる者として必要なことであるのは理解していた。
会った時から俯きがちだったスイ嬢は少々引っ込み思案なようで、会話はあまり弾まないものの、人柄が良さそうな少女である。
だがそんな彼女が、申し訳なさそうに口にした言葉の意味は、クサナギには正直よく分からなかった。
「わたくしは、『無能』なのですが大丈夫でしょうか……?」
「無能とは?」
聞くところによると、この王国では12歳の時に、女神とやらから『祝福』というものを授けられるらしい。
「私はそれを得られなかったのです。近しい人は誰もそれを責めたりはしなかったのですが、その……」
「ふむ。王国でどうでも、某は気にせぬでござる。そもそもワズナでは、誰もそのようなものは持っておらぬ故」
「そう、なのですか!?」
「うむ」
そもそも、ワズナ皇国の宗教思想は『万物に八百万の神が宿る』というものである。
名のある神や祟り神などは無数にいるものの、人に対する加護という点で言えば『お守り』のようなものを介して得られる神威くらいであり、人に何らかの能力を与えるような神々ではない。
故にその『祝福』というようなものをワズナの人々は持たない、という話をクサナギがすると、スイ嬢はホッとしたような顔をした。
「……それなら」
が、やはりどこか憂いを帯びたような部分は晴れない。
しかし、その意味をクサナギが問う前に。
『殿下ッッ!!』
甲高い叫び声が遠くから響いてきて、同時にクサナギは魔獣の気配を察した。
「む?」
「今の声は……ミスティカ!?」
スイ嬢の叫び声に、クサナギは目を細めた。
どうやら、もう一人会わねばならない少女が魔獣に襲われているらしい。
「む。スイ嬢。少々御無礼でござる」
「え?」
クサナギはニンジャ刀を腰から引き抜き、瞬時に声が聞こえた方へと駆け出した。
跳躍して目の前の柵の上に乗ると、さらにそれを足場に高く空中へと身を躍らせる。
上から見下ろすと、居た。
「ミスティカァ!!」
「お嬢様ぁ!!」
剣を引き抜き、倒れた少女の上に乗った二匹の魔獣に切り掛かるカシイ殿の姿と、青ざめた侍女が一人立っている。
「参る」
クサナギは落下しつつ、足に噛み付いている魔獣に狙いを定めた。
カシイ殿がミスティカの背中に爪を突き立てて乗っている魔獣を斬り伏せるのと同時に、もう一匹の魔獣の首を一息に刎ねる。
「……!?」
「無事でござるか、カシイ殿」
言いながらクサナギは残った魔獣の体を蹴り飛ばし、ミスチカ嬢らしき少女の体に目を走らせた。
酷い怪我である。
さらに、毒の気配を感じた。
流れ出している血を止めると同時に、全身に毒が広がらないようにせねばならない。
「こちらは、不味いでござるな」
クサナギは足を紐でキツく縛った後、気絶しているミスティカの服の背中部分を慎重に手で裂いた。
「おい!? 何を……」
「静かにするでござる。一刻を争う故」
次にクサナギは、円形の金属で出来た器に入れた癒しと魔祓いの効果がある薬膏を取り出す。
パカッと蓋を開けると、独特の強い臭気を放つ緑色のそれ大量に掬い取り、まずはその白い背中に傷口を厚く覆うように惜しみなく塗り込んだ。
効能によって傷口の血が固まっていくのを確認しながら、次に足に目を向ける。
そして深い噛み傷の一つ一つに、やはり同じように塗り込んだ。
「……傷が健に至っているでござるな。薬膏による処置が早い故、回復すれば歩ける程度にはなろうが、おそらく彼女はもう走れぬでござる」
「……!!」
絶句するカーシィを置いておき、クサナギは次に、丸めた敷物と非常用の『仙丹』と呼ばれる丸薬を懐の中から取り出した。
「今、どこから出した!?」
「忍法でござる」
答えつつも、クサナギは手を止めない。
仙丹も万能ではないが、こちらは内的な力を活性化させて回復を促すものである。
敷物を敷いてミスチカ嬢を仰向けに寝かせたクサナギは、彼女の顎を掴んで口を開かせた。
仙丹を歯の隙間に押し込むと、竹筒の水筒から水を口に含み。
そのまま、口付けて思い切り吹き込んだ。
「くっ……唇を……!?」
何やら驚愕しているカシイ殿が先ほどから騒がしいが、それより重要なのはミスチカ嬢の方である。
仙丹が喉奥に押し流され、気絶している彼女がゴクリと喉を鳴らして飲み込んだ。
「よし、これで命に別状はなかろう」
そこで、スイ嬢が彼女についていた男の従者と共に姿を現した。
「ミスティカ……!!」
血溜まりと状況に悲鳴を上げた彼女が、ミスチカ嬢にすがろうとするのを、クサナギは手で制した。
「あまり激しく動かしてはならぬでござる」
「私を庇ったせいで……クサナギ殿下、彼女の傷は、治るのか……!? ミスティカは助かるのか!?」
「命は助かるでござる。が、傷痕までは流石に消えぬでござるな」
事実をそのまま伝えると、カシイ殿が絶望的な顔をした。
助かると言っているのに何故でござろうか、とクサナギは首を傾げる。
「それより、休ませる部屋の準備を。運んで寝かせて差し上げねばならんでござる」
「……今すぐはダメだ」
「何故でござるか?」
「令嬢の体に、傷が残ることが広まれば……彼女は、もう婚姻が叶わなくなる。人目につかないように運ばせなければ」
ーーー面倒でござるな。
薄々思っていたが、この王国はよく分からない風習が多過ぎる。
スイ嬢のことにしても、傷の件にしても、そのように色々縛り付けていては息苦しくはなかろうかと思いつつも、郷に入りては郷に従え、とクサナギは飲み下した。
「ふむ。では、ニンニン!」
と、クサナギは〝忍法:雲隠れ〟を使った。
本来『雲隠れの屋敷』に道を通じさせる忍法なのだが、これで林の門に移動すると姿が隠せるのである。
周囲に霞が立ち、この場にいる者たちを覆う。
「そこの従者」
「はは、はい!」
「そなた、名は?」
「ライディンと申します!」
「うむ、ではライデン。このクナイを持ち、門を抜けて霞の途切れまで向かうでござる」
と、クサナギは外に繋がる門の向こうを指差した。
「城が見えたら、地面にクナイを突き立てるでござる。さすれば、それが入り口となる故。他の場所からはこの中に入れぬようにしておるでござるからな」
「分か、分かりました!」
「部屋だけ準備すれば、某が人目につかぬように運べる故」
『雲隠れの屋敷』の運んでも良いのだが、それだと一緒に連れ帰ることになってしまうので、それなら動かさない方が良いだろう。
「私もライディンと共に行く。……感謝する、クサナギ殿下」
「人として当然のことでござる」
そうしてカシイ殿下と従者ライデンが駆けていくと、ボロボロと涙を流している侍女が問いかけてきた。
「お嬢様は……お嬢様は本当に助かるのですかぁ〜!?」
「大丈夫でござる」
「よ、良かったですぅ〜……お嬢様……こ、これからはもっと、もっと誠心誠意お仕えしますぅ〜……!」
へたり込んだ彼女とは対照的に、立ったまま両手を口元に当てて泣いているスイ嬢が、肩を震わせていた。
その顔には、心の底からの安堵と心を引き裂かれたような悲しみが同時に浮かんでいる。
―――ふむ?
どちらもミスチカ嬢を心配する本心と取れるが、別の悲しみもその中に浮かんでいる気がした。
「スイ嬢は、一体何を憂いておられるでござる?」
「憂いて……? 何のお話でしょう?」
「そなたはミスチカ嬢の命とは別の何かを、少々悲しんでいるように見受けられるが」
「……!」
クサナギの問いかけに彼女は大きく目を見開いた後、恥入るように目を伏せる。
「いえ……大したことではないのです。……カーシィ殿下はきっと、ミスティカを婚約者に選ぶと……そう思ってしまったので……。こんな時に、申し訳ありません……」
「なるほどでござる」
何故ミスチカ嬢を選ぶのかはよく分からないが、彼女がそう言うならそうなのだろう。
スイ嬢には深い知性と何らかの力が秘められているのを感じるので、おそらくは何かクサナギには見えないものが見えているのかも知れなかった。
クサナギとしては、どちらかと言えばスイ嬢より、魔獣を前にしてカシイ殿を庇う胆力のあるミスチカ嬢の方が好みなので、彼女と婚約したいところである。
仰向けに眠る顔立ちも好ましく、そして何となく、カシイ殿下にはスイ嬢の方が相応しいだろうとも思えた。
―――ま、帰ってから父上に相談するでござる。
スイ嬢の内に秘められた力と人柄もそれはそれで国としては有益であろう、とは思えたので、一応その点も伝えることにした。
そして、魔獣の件があってそれどころではなくなったので、ミスチカ嬢が目覚める前にクサナギは皇国に帰国したのだ。