悪役令嬢と、入浴。
カコーン、と、遠くでシシオドシの音が響く。
湯煙の中、露天風呂……外でお風呂に入る様な度胸はなかったので見ていないけれど……がある方の壁に向いて座り、イスネと並んで湯に浸かったミスティカは、ポツリとつぶやいた。
「イスネ。わたくしは、どうしたら良いと思いまして?」
「どうしたら、とはどういう意味ですかぁ〜?」
何となく幸せそうな様子で座っているイスネが、コテンと首を傾げる。
「……このまま戻らぬのが、最良とわたくしは思っているのですが」
ニンジャの目的が全く分からないのは、変わらないけれど。
このままミスティカが戻らなければ、全て上手く行くのではないかと薄々思っていたのだ。
元々、不敬で囚われて死ぬつもりだったところに、あのニンジャが現れた。
けれど。
「貴女まで、それに付き合わせる訳にはいきませんわ」
侍女には幾つか種類がある。
貴族令嬢の行儀見習いであったり、結婚相手が決まらない、後継ぎでもない令嬢の働き先であったりなど。
その中で、イスネは少し事情が違った。
彼女自身は元々幼い頃に貴族令嬢であったけれど、実家の没落と共に売られるようにしてサルピス侯爵家に入った少女である。
そして側付き侍女となり、これまで共に過ごしてきた。
言うなれば、ミスティカの所有物である。
だからニンジャに言われるまで、意識したこともなかった。
同い年のこの少女が、自分が最も信頼する侍女であったことを。
いつでも明るく、ミスティカに尽くしてくれた彼女にだけは、何一つ隠すことなく今まで過ごしてきた。
だからこそ、この先どうなるか分からない状況に付き合わせる訳にはいかない。
そのことをミスティカは、全く考えていなかったのだ。
「私はぁ〜、お嬢様について行きますよぉ〜!」
けれどイスネは、あっけらかんとそう答えた。
「何故です?」
「私がお仕えする相手は、サルピス侯爵家ではなくお嬢様だからですぅ〜! そのお体を撫で回……清めるのを別の誰かに預けるなど、とてもとても!」
「今貴女、撫で回すと言いかけましたか?」
「き、気のせいですぅ〜!」
目を逸らす彼女の後頭部をミスティカがジッと見つめていると、チラッと振り向いたイスネが、自分の慎ましやかな胸元を隠すような仕草を見せた。
「そんなに見られたら、恥ずかしいですぅ〜! きゃ!」
「別に体を眺め回していたわけではありません」
イスネは、本当に変わらない。
「真面目に話しているのですが」
「真面目な話、お嬢様がいたら私は別に、そこがどこでも構いませんと言っているのですぅ〜」
彼女は唇を尖らせた後、少し真剣な顔になって上目遣いにこちらを見上げる。
「お嬢様が帰らないと決めるなら、それでも良いですけどぉ〜、私は気になっていることがあるんですよねぇ〜」
「どのような?」
「お嬢様はその、ご自身の体の傷がどのようにして出来たものかを……あのニンジャに話されましたかぁ〜?」
問われて、ミスティカはハッとした。
「……話していませんね」
「でも、何だか知っている様な口ぶりだったじゃないですかぁ〜。昔会ったことがあるとかですかぁ〜?」
「いえ、ない、と思いますが」
あんなに特徴的な話し方をする人物にも、お茶の時にチラッと見た彼の顔にも覚えはない。
ーーー確かに、何故?
色々と衝撃的なことが起こったり、頭に血が上っていたりして気が付かなかったが。
思い返してみれば、彼は最初からミスティカの傷のことを知っている様な素振りを見せていた。
「それに〜、私にはもう一つ気になることがありましてぇ〜」
「はい」
「ニンジャの言う通り、お嬢様はもうちょっと、ちゃんとご自身のことを話した方が良いと思いますよぉ〜。どうせバレバレですしぃ〜」
「……バレバレ?」
言われて、ミスティカは首を傾げる。
「何がでしょう?」
「それはもう、王太子殿下とティオ侯爵令嬢に、お嬢様が何でそんな風に振る舞っているかが、ですぅ〜」
イスネの言葉に、ミスティカは衝撃を受けた。
「そ、そんな筈は……!」
だって、ミスティカはちゃんとあの二人に分からないように、演技をしていた筈である。
イスネははぁ〜、と深いため息を吐いてから、額に浮かんだ汗を、濡らした手拭いで拭きながら口を開く。
「ええ、演技はお上手でしたよぉ〜。でも、あれだけ仲良くしていて明るかったお嬢様が突然態度を変えたら、誰だって理由があるって分かりますよぉ〜。ましてお二人の恋の相談に乗っていたじゃないですかぁ〜」
「……!!!」
そんな馬鹿な。
「……う、嘘でしょう?」
「そんなことで嘘をついてどうするんですかぁ〜? お嬢様って、そういうところ本当に天然ですよねぇ〜」
でも、だったら。
「分かっていたのなら、な、何故それを言わないのです!」
「私は口を挟める立場じゃないですぅ〜。それに殿下もティオ侯爵令嬢も、お嬢様の考えなんて丸わかりだから困っていたんですよぉ〜」
ーーーそんな。
まさか、あの二人にバレているなんて、全く考えていなかった。
あれも知らない、これも知らない、それも知らない。
もしかして、ミスティカは何も知らないのではないだろうか。
『看破』の力があるから、自分に向けられた気持ちや色々な事情を分かっていると思っていた。
けれど考えてみれば、そう、何故彼らが我慢しているのか、その気持ちの意味を、考えたことがあっただろうか。
よく考えたら。
ミスティカの『看破』の力は、自分に向けられた気持ちや、誰かとの関係に関する気持ちが分かるだけで、何を考えているかが分かる訳ではないのだ。
「分かっているのなら、尚更、我慢する必要なんて……」
「じゃあもう、この際言いますけどぉ〜、お嬢様は『自分のせいであの二人が結ばれなくなった』と思っているじゃないですかぁ〜。それをお二人に言いましたかぁ〜?」
「……言っていない、わね」
「じゃあお二人もぉ〜、お嬢様が変わってしまったのが『自分のせい』だと思っているから、言えないじゃないですかぁ〜」
もうミスティカは、ぐうの音も出なかった。
イスネの指摘はいちいち正しい。
そして、ニンジャの言葉も。
『胸のうちを曝け出すことを恐れる者の内心など、真の分かることは誰にも出来ぬでござるよ』
ーーーわたくしは。
言わなかった。
言えなかった。
だから、気づいて欲しいと。
相手に、行動して欲しいと。
ーーー逃げて、いた?
話し合うことを拒絶して。
もし言っていれば……お父様にではなく、直接彼らと話し合っていれば……別の、道が。
『命を捨てる以外の道も多く残されているのでござる』
自分の気持ちを、正面から伝えていれば。
「お嬢様!? い、言い過ぎましたかぁ〜!?」
イスネが慌てたように体を寄せてきて、目元に布を当てられたことで、ミスティカは自分が泣いていることに気がついた。
「わたくしの、せいで……」
「お嬢様のせいではないですぅ〜! 魔獣の件に関しては誰にもどうしようもないことですぅ〜!」
「いえ、違うの。違うのよ……」
間違ったのだ、とミスティカははっきりと自覚した。
友人だから。
幸せになって欲しいから。
そう思うのなら、遠ざけるのではなく……ちゃんと、話し合うべきだった。
自分の気持ちを伝え、相手の気持ちを聞いて、全員で、一番良い答えを見つける、努力をしなければならなかった。
その最初の一歩を間違えたのは、ミスティカだったのだ。
「イスネ……」
「はい」
「わたくしが……話をしたいと言えば、ニンジャは、場を用意してくれるでしょうか?」
「分からないですけどぉ〜、言うだけはタダですよぉ〜」
「殿下と、スウィは、は、話を……してくれるでしょうか……」
「それは普通にしてくれると思いますけどぉ〜。そろそろお湯から上がりましょう! 顔が真っ赤ですぅ〜!」
そうして、イスネと共に湯から上がったミスティカは、ポカポカと温かい体を少し冷ましてから、再びドレスを身に纏う。
するとそこで、ノレンの外からニンジャの声が聞こえた。
「御無礼、ミスチカ・サン」
「何か」
ミスティカが応えると、彼は要件を口にした。
「この屋敷の入り口に仕掛けた鈴が鳴った故。おそらく、侵入者にござる」




