本職(プロ)悪役ヒロインには、溺愛も執着も無用です! でも「真実の愛」は、いちおう用意しておいてください!
<「本職悪役ヒロイン」とは?>
①王族や上位貴族としか付き合わない。ピンク・ブロンドに碧眼で、容姿端麗。子爵家あるいは男爵家の令嬢らしい。
②社交界にデビューしているはずだが、人々の記憶に残らない程度。あるいは、社交界デビューをしていない。
③サロンや茶会、慈善パーティなどには、いっさい現われない。上流社会において、存在をほとんど認識されていない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
観劇終わりの人々の和やかなざわめきに水を差すように、冷え冷えとした男の声が、歌劇場のエントランスホールに響き渡った。
「キャロライン、残念だが、君との婚約はなかったことにさせてくれ! わたしは、『真実の愛』を見つけてしまったのだ! わたしの心は、ダイアナのことでいっぱいだ。君の居場所はもうない!」
芝居の続きではない。本物の婚約解消宣言だ。
キャロライン・ブレアムは、その場に泣き崩れた。
彼女に婚約の解消を告げたアラン・カニングは、傍らに立つ男爵令嬢ダイアナを抱き寄せた。
ピンク・ブロンドの豊かな髪、透き通った青い瞳――。ダイアナは、最近流行の愛憎小説に登場する、主人公から婚約者を奪い取る男爵令嬢そのものだった。
その場に立ち会った者は誰一人として、小説そっくりの成り行きを不自然に思うことはなかった。
「所詮は、親が決めた政略結婚だったのだ。これからは、お互いもっと自由に生きていこう!」
とどめを刺すようなアランの一言を聞くと、憎しみに満ちた視線をアランとダイアナに向けながら、付き添いの侍女は、キャロラインを抱き起こして、逃げるようにエントランスホールから去って行った。
「ああ、また今日も――」誰からともなくそんな声も聞こえたが、やがて、人々はそんな騒動などなかったかのように、それぞれの話題に興じつつホールを離れていった。
所変わって、ここは、歌劇場から程近いカニング侯爵邸の居間――。
婚約解消劇の主役の一人アランは、大きな溜息をついて長椅子に腰を下ろした。
もう一人の主役ダイアナは、そのかたわらに黙って立っている。
「お疲れ様でした、ダイアナ。これでキャロラインも、わたしのことを気にせず、従僕のパトリックと駆け落ちすることができるはずです」
「アラン様が悪者になられてしまいましたが、これで、よろしかったのですか?」
「いいのです。どちらかが悪者にならなければ、この関係に終止符は打てません。それぞれ思いを寄せる相手ができたのなら、世間体など気にせず早く別れるべきなのです。
それに、この後わたしには、結局はダイアナに捨てられ、傷ついた心を優しく癒やしてくれたクリスティアナと結ばれるという結末が用意されていますから、そう悪く言われることもないでしょう」
「確かにそうですけど――」
クリスティアナというのは、アランの幼なじみで夫と死に別れて実家に戻ってきた、デラニー伯爵家の令嬢だ。
アランは、古い友人として、クリスティアナを慰めるために伯爵邸に通っているうちに、わりない仲になってしまったらしい。
まあ、幼い頃から互いに憎からず思っていたのだが、家格の違いで結婚が許されず、仕方なく二人ともほかの相手と婚約・結婚したということなのだろう。
キャロラインにしても、いろいろと複雑な事情があるようだ。
アランの前で泣き崩れていたが、あれは、侍女に疑われないために、わざとやったことに違いない。
彼女にも、屋敷に戻り婚約解消を嘆き悲しんでいるところを、従僕に優しくされて――、という筋書きがすでにできあがっているという。
もちろん、数年前から、人知れず二人は愛を育んでいたのだけれど――。
アランから報酬の金袋を渡され、ダイアナはカニング邸を辞した。
そして、表に迎えに来ていた辻馬車に一人乗り込み、逗留先の宿へ向かった。
馬車の中で、右手の薬指にはめた指輪の青色の石を、くるりと一周回す。
ダイアナの煌めくピンク・ブロンドは暗い栗色に、そして、スカイブルーの瞳は榛色に、瞬く間に変化した。
そして、指輪の石も、青色から榛色に変わった。
今日も、無事に自分の役割を果たすことができて、ダイアナは満足だった。
ピンク・ブロンドで青い瞳の男爵令嬢は、また、一組の婚約者たちを別れさせた。
しかし、多くの人々にとってそれは他人事だ。
歌劇場でのハプニングとして面白おかしく語られ、あっという間に忘れ去られていくことだろう。ダイアナという名前だって、明日になれば何人が覚えていることか――。
それでいい。いや、そうでなくては困る。
ダイアナ――、いや、ローナ・ゴールウェイは、本職悪役ヒロインなのだから。
「ローナさん、お疲れ様でした。本日のあなたの取り分です」
ローナの下車を手伝いに来た御者が、ローナが手渡した金袋と引き替えに、もう少し小振りな袋を渡してきた。
「ありがとうございます。ではまた――」
ローナはそれだけ言って、彼女の代理人である御者と宿の前で別れた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ローナ・ゴールウェイは、ゴールウェイ男爵家の四女である。
アレックスという、少し年の離れた弟がいる。
三人の姉たちは、三年前、同じような家格の貴族や新興の実業家のもとに、相次いで嫁いでいった。
そのために男爵家の少ない蓄えは、あっという間に消えてしまった。
男爵家のささやかな領地からの実入りは年々減っていて、何とか貴族の体面を保ちつつ暮らしていくので精一杯だった。
お金に換えられるような、高価な宝石や美術品などもすでになかったので、王都の小さな屋敷を売りに出し、貴族学院へ入学した弟の教育費を捻出した。
ローナは、両親と一緒に領地の古い屋敷に移り、得意なレース編みや手紙の代筆で僅かな収入を得て、男爵家の家計を助けることにした。
貴族の子女の多くは、十五歳で社交界にデビューするが、ちょうどその頃に領地に引き上げてしまったローナは、結局、社交界に顔を出すことはなかった。
だから、同じ年頃の貴族の子息と知り合う機会もなかった。
何の刺激もない領地での暮らしも、二年が過ぎていた。
ローナは、もうすぐ十八歳になるが、貧乏男爵家の娘に興味を持ってくれるのは、貴族と姻戚になることを狙う商人や年若い後妻を求める隠居した老貴族ぐらいだ。
結婚どころか、恋愛とも無縁なローナだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その日、できあがったレースの付け襟を街のレース店に届けに来たローナは、帰り道で小さなチョコレート店を見つけた。
まもなくアレックスの誕生日だ。
十三歳の少年は、チョコレートなど喜ばないだろうが、ずっと前、誕生日に渡したチョコレートの詰め合わせに、目を輝かせていた弟の幼い顔が思い出され、つい、ウィンドウに目をやってしまった。
―― コトン……。
何かが転がってきて、ローナの足に当たった。
見下ろすと、指輪が一つ、足のそばに落ちていた。
ローナは、指輪を拾うと、急いで辺りを見回した。
落とし主が探しているかと思ったのだが、それらしき人物は見当たらなかった。
深く考えることもなく、指輪を右手の薬指にはめてみた。
ぴったりだった。
鈍い金色の台に、名前も知らない榛色の石がはめられていた。
高級品ではないようだ。落とした人が、気にもとめないような品物なのかもしれない。
それでも、拾った物を自分の物にすることは憚られたので、ローナは指輪を抜こうとした。
ところが、どうしたことか指輪は指に貼り付き、いくら引っ張っても回しても抜けない。
困っていると、一人の青年が声をかけてきた。
「おおっ! その指輪! お嬢さん、あなたこそ、わたしが探し求めていたお方です!」
「えっ?! あの、この指輪は、わたしの物ではないのです! 拾って、思わずはめたら、抜けなくなってしまったのです! ごめんなさい! 盗むつもりなどはなくて――」
上位貴族の家の執事か家令のような、きちんとした出で立ちの青年は、穏やかな笑みを浮かべて、ローナの言い訳を黙って聞いていた。
「お嬢さん、それは、もはやあなたのものです。その指輪が抜けなくなったということは、あなたの指輪になったということなのです。あなたこそ、指輪が求める『本職悪役ヒロイン』です。指輪の持ち主として、どうぞ、わたしの話を聞いてください」
ローナを誘って通りに面したカフェに入ると、青年は、本職悪役ヒロインについて、次のように語った。
「社交界と無縁なご様子のあなたは、ご存じないかもしれないが、上位貴族の間では、いまだに家どうしのつながりや親の約束で、本人の意思など無視して、婚約・結婚するということが当たり前のように行われています」
ローナの三人の姉たちは、幼なじみや茶会で知り合った気の合う男の元へ嫁いでいった。三人とも相手のことを好いていたし、今もとても幸せそうだ。
でも、それは、ローナの家のような下位の貴族にしか許されないことらしい。
「決められた相手との婚約・結婚が嫌だとしても、貴族府に届け出て国王からの許しも得たものを、簡単に覆すことはできません。世間体もありますしね。
そこで、婚約・結婚を解消したい上位貴族たちが目を付けたのが、昨今大流行している『愛憎小説』です」
「『愛憎小説』……、ですか?」
そう言えば、姉たちがよく薄い帳面のようなものを、回し読みして興奮していた。
結婚してからも屋敷に帰ってくると、必ず「愛憎小説」を話題にしている。
最近は、母までこっそり読んでいる様子だ。
小説よりも詩が好きなローナは、全く関心を持てなかったのだが――。
「愛憎小説そっくりな設定を用意し、修羅場を演出して話題をつくり、婚約・結婚の解消を何となく周囲に納得させてしまおうという作戦です」
「まあ、小説を演じてしまうのですか?」
「ええ。愛憎小説では、魅力的なピンク・ブロンドの男爵令嬢が、美貌の王子や貴族の令息と親しくなり、婚約解消の原因を作るという展開がよく見られます。
ですから、今、王都の社交場では、ピンク・ブロンドで男爵令嬢を名乗る女性が現われたら、きっと誰かが婚約者を奪われ、婚約が解消されるに違いないと誰もが思っているのです。そうなることを期待していると言った方がいいかもしれません。
しかし、ピンク・ブロンドで青い瞳の男爵令嬢なんて、愛憎小説のように、やたらにいるものじゃありません」
「まさか……、それで、本職を用意するようになったのですか?」
「そうです。あなたが拾った指輪。それには、ちょっとした魔法が施されておりまして、相応しい人物が見つかるとその指におさまり、本職悪役ヒロインに変身させるという仕組みになっています。
実は最近、先代の女性が引退しまして、わたしは、指輪を持って国中を廻り、次の女性を探していたのです。先ほど、財布を開けた途端、その指輪が転がり出て、追いかけていったところあなたに出会ったというわけです。
どうでしょうか? 引き受けていただけませんか? 十分に満足いただける報酬をご用意します。お嫌なら、『わたしは悪役ヒロインなんかになりません!』と言っていただければ、指輪は抜けると思います」
(本物の男爵令嬢だけど、お金に困っていたわたしは、指輪にとって格好の持ち主だったのかもしれない。
抵抗を感じることもなく、こうして、この人から本職悪役ヒロインの仕事について聞くことになってしまったしね――)
青年の荒唐無稽な話は、退屈な日々を送るローナにとって、どこか刺激的で興味深いものだった。
定期的に王都に行き、別人に変身して小説そっくりな解消劇を演じ、多額の報酬を得ることができる――、ローナは、青年の話を信じ仕事を引き受けることにした。
そのときから、ローナは、世界でただ一人の本職悪役ヒロインとなった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
あの日から二年――。
ローナは、本職悪役ヒロインの仕事を十回ほどこなしてきた。
新しい仕事が入り、今日は王都へ出かけることになっている。
「お父様、お母様、アレックスの様子を見に、十日間ほど王都へ行って参ります」
「ローナ、いつもすまないね。ついでに、王都の友達にでも会ってゆっくりしてきなさい」
「そうですよ。何か流行の物の一つでも、買っていらっしゃいな」
両親への挨拶をすませ、屋敷の前に待っていた辻馬車にローナは乗り込んだ。
「ローナさん、今回もよろしくお願いいたします」
御者は、乗車を手伝いながら、ローナの耳元で囁いた。
ふた月に一度ぐらいの割合で、ローナは領地から王都へ出かける。
貴族学院に通う弟の様子を見に行くことが目的だが、それは一日ですむ。
年頃の弟は、ローナが訪ねてくるのを喜びはするが、友達の手前、まめまめしく世話を焼かれることを嫌がるようになった。
ローナが寮を訪ね、貴族学院の様子を聞き、二人で夕食を食べに出かけ、門限までに別れる――、近頃は、いつもそんな感じだった。
残りの時間は、本職悪役ヒロインとしての仕事に費やすことになっている。
王都へ向かうためローナが乗っている辻馬車は、実は、あの青年が御している。
王都での滞在費や衣装代も、すべて彼が出してくれている。
彼は、代理人を名乗り、ローナの仕事先から金銭を受け取り、その一部を報酬としてローナに渡してくれる。
ローナにとっては、びっくりするような金額で、それについての不満は全くない。
近頃では、報酬の一部をローナの名義で投資に回してあったとかで、仕事の報酬とは別に、投資で得た利益までもらえるようになった。
両親には、レース編みや代筆で得た僅かな収入を王都で運用したところ、思わぬ利益が手に入るようになったと話している。
この分なら、屋敷の使用人を増やしたり、弟を隣国へ留学させたりすることも可能ではないかと思われた。
あるいは、街で小さなレース編みの店を出すこともできるかもしれなかった。
(そろそろ潮時かもしれない。一財産作れたことだし、きりの良いところで、この仕事から手を引くことを切り出さないとね――。
上位貴族の人々の世界ものぞけたし、結果的に人助けができた。それもこれも、この指輪とあの人のおかげだわ。田舎のさえない貧乏男爵令嬢のわたしに、素敵な夢を見せてくれた。でも、人は、いつか夢から覚めるものだから――)
王都へ向かう馬車の中で、ローナは、そんなことを考えていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「えっ?! こ、これはどういうことですか?」
てっきり、いつもの逗留先である王都の宿へ行くものと思っていたローナは、木々に囲まれた立派な邸宅を目の前にして、たいそう驚いた。
いつの間にか、御者を務めていた青年は姿を消してしまい、ローナは、五人のメイドにかしずかれ、辻馬車から降ろされて邸宅の玄関へと案内された。
玄関には、銀縁の片眼鏡をかけた壮年の執事が、微笑みを浮かべながら待ち構えていた。
彼の後ろには、メイド頭と思われる中年の女性が、これまた笑顔で控えていた。
「ようこそ、おいでくださりました、ローナ様。わたしはこの屋敷の執事で、ブレントと申します。後ろに控えておりますのは、メイド頭のネリーでございます。
故あって、我らが主についてお話しすることはできませんが、主よりあなた様を最上級のお客様としておもてなしするよう仰せつかっております。
お部屋の用意も調っておりますので、まずは長旅のお疲れをおとりください。何か、お望みのことがありましたら、ネリーやメイドたちに何なりとお申し付けください」
ブレントがローナを案内したのは、贅を尽くした豪華な客間だった。
広い居間と寝室のほかに、衣装部屋や浴室、侍女の控えの間まで備えていた。
調度品は、それなりの年代を経たもののようだったが、カーテンや寝具などは、明らかに新たに誂えたものであった。
何より、ローナを驚かせたのは、衣装部屋に用意された、たくさんのドレスだった。
ドレスの中には、かつての仕事でローナが身につけたものもあった。
菫色の絹地に、黒と金のレースをあしらった豪奢なドレスは、ある公爵家の三男が、恋人ができた婚約者に泣きつかれて、夜会で婚約解消劇を演じることになったときに着ていたものだ。
別に、婚約解消劇などしないで、婚約者と別れればいいだけのことだが、公爵家の三男は、あくまで自分が「真実の愛」に気づいて、婚約者を切り捨てたという形にして、体面を保ちたかったようだ。
ローナが、ピンク・ブロンドを揺らして、公爵家の三男にしなだれかかったり、「わたくしを選んでくださって、嬉しゅうございます」と言いながら、もと婚約者を見下したりしたものだから、婚約解消劇は大いに盛り上がった。
だれもが、これほどの美女になら、心を奪われてもしかたがないと、内心では三男を羨ましく思いながらも、捨てられた婚約者に同情した。
しかし、その後が大変だった。
公爵家の三男は、ローナをひどく気に入り、本当に新しい婚約者になってくれと迫ってきたのだ。
馬車で待っていた青年が、公爵家の居間に飛び込んできて事なきを得たが、ローナは、本職悪役ヒロインを、本気で慕ってしまう者がいることを始めて知った。
そして、憤然として、三男に詰め寄る青年の凜々しさも――。
その後、青年は、公爵家に通常の料金の倍の金額を請求し、そのほとんどを慰謝料としてローナに渡してくれた。
もう二度と、このような恐ろしい思いはさせないと誓ってもくれた。
それ以来、ローナは仕事に徹し、行き過ぎた演技で、相手に変な感情を抱かれないよう、気をつけて接するようになった。
菫色のドレスは、大事な経験をさせてくれた、記憶に残る一着だった。
「今日のドレスは、こちらにするようにと、主から申しつかっております」
いつの間にか、ローナの背後に来ていたネリーがとりだしたのは、真珠やレースがふんだんにあしらわれた真っ白なドレスだった。
「素晴らしいドレスですけど、白というのは、まるで花嫁衣装のようですね」
「でも、主からの命令ですので、どうか、このドレスをお召しになってください」
ネリーは、連れていたメイドたちに命じて、ドレスに合わせた靴や手袋、コサージュなども寝室へ運ばせた。
そして、全員総出でローナを磨き上げ、今夜の仕事に備えたのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ローナは、辻馬車ではない、上位貴族の家の豪華な馬車に乗っていた。
代理人の青年は、黒字に金の刺繍があしらわれた、舞踏会用の衣装を身につけて、ローナの前に座っていた。
「ローナさん、そろそろ着きますので、今のうちに指輪の石を回してください。今夜のあなたは、クラーク男爵家の令嬢アナベラです」
青年に促され、ローナは手袋を外すと、榛色の石をくるりと回した。
青年とローナが降り立ったのは、王宮の玄関だった。
目を丸くするローナを連れ、青年は入り口へと向かった。
黒ずくめの青年と真っ白なドレスのローナという取り合わせは、玄関ホールにいた人々の注目の的となった。
ローナが耳を澄ますと、「ピンク・ブロンド」とか「悪役ヒロイン」とかいう囁きと共に、「オーウェン様」とか「魔道士侯爵」と呟く声も聞こえてきた。
ローナは、優雅に彼女の手を取り隣に立った青年の顔を見上げたが、謎めいた笑みを浮かべるばかりで、何も答えてはくれなかった。
二人が、今夜の夜会の会場である広間へ入ってからも、人々のざわめきがやむことはなかった。ようやく静かになったのは、侍従によって、王家の人々の入来が告げられたときだった。
ローナは、王宮に来るのも、王宮での夜会に出席するのも、王家の人々と対面するのも、何もかも初めてだった。
これまでの仕事を通して、こうした夜会でのマナーは身につけていたが、王家の人々を前にすると、味わったことのない緊張感がローナを襲った。
腕にかけたローナの手を、青年がもう片方の手で優しく包んでくれた。
馬車の中で相談したとおりに、今日もあなたは、本職悪役ヒロインとして、自分の役割を果たすだけですよ――青年の手が、ローナにそう語りかけているようだった。
国王により、夜会の開会が宣言されると、広間の灯りが一斉に消えた。
小さな悲鳴や驚きの声が上がったが、多くの人々はこうなることを知っていたようで、動じる様子はなかった。
ローナも、黙って今夜のもう一人の主役の登場を待っていた。
どこからともなく、緑色の光の固まりが飛び込んできた。
人々をからかうように、光の固まりは広間の中をくるくると飛び回った。
やがて、広間の中央で止まると、光の固まりは小さな人間に姿を変えた。
「デリック王子! 二十歳の誕生日おめでとう! 約束通り、そなたの婚約者が迎えに来たぞ! そなたは今宵より、この森の魔女・ホーデリーフェのものだ! さあ、森の館に用意した臥所へ、わたしと共に参るのだ!」
広間の中央に立っていたのは、伝説の森の魔女・ホーデリーフェだった。
代理人の青年によれば、今から二十年前、なかなか子宝に恵まれなかった王妃は、その水を口にすれば必ず子が授かるという森の泉へ出かけたそうだ。
泉の持ち主である、森の魔女・ホーデリーフェは、王妃に水を飲ませる代わりに、あることを約束させた。
「もし、泉の水を飲んで王子が生まれたら、わたしを王子の婚約者にしろ。そして、王子が二十歳になったら、わたしと結婚させ、わたしをこの国の王妃として迎えるのだ。生まれたのが王女なら、そのまま育てて誰と結婚させてもかまわない」
国王夫妻は、王女の誕生を願ったが、生まれてきたのは王子だった。
王子が生まれた晩に、ホーデリーフェは王宮へやって来て、約束通り王子との婚約を迫った。
そのとき、そこに居合わせたのが、魔道士侯爵と呼ばれた、エヴァン・バーリス侯爵だった。
侯爵は、自らの魔力を神に返す誓いを立て、ホーデリーフェの約束へ縛りを与える力を得た。
「もし、王子が、二十歳の誕生日に、十人以上の男を婚約者や妻から奪い、婚約や結婚の解消に追い込んだ希代の悪女を妻に選んだのなら、約束は反故にされおまえの野望は潰えるだろう!」
「王子が魔女より悪女を選ぶというのか?! 面白い! ただし、その悪女は、まだ二十歳にもならぬ、乙女でなくてはならぬぞ!」
そして、二十年の月日が流れ、約束の日がやって来たのだ。
「アナベラ! ここへ!」
王子の呼びかけに応えるように、ローナは王子の元へ走り寄った。
王子は、ローナを抱き寄せると、ホーデリーフェに向かって、高らかに宣言した。
「我が婚約者、ホーデリーフェよ! わたしは、おまえとの婚約を解消する! ここにいるアナベラこそ、わたしの妻となる人だ! おまえの魔力が本物なら、彼女が条件を満たした人物であることがわかるだろう!」
ホーデリーフェは、フードの陰から灰色の瞳を煌めかせ、ローナを値踏みした。
「むむむっ! この女、ピンク・ブロンドと青い瞳を武器に、数々の男に『真実の愛』を語らせ、婚約や結婚を解消させてきた悪女に間違いないようだ! よくぞ、魔物のような女を見つけてきたものだ! こんな女が本当にいたとはな!」
悔しそうに歯噛みするホーデリーフェに向かって、ローナは叫んだ。
「森の魔女・ホーデリーフェ! 王子様は、わたくしのものですわ! 年老いて、暗く湿った森に隠れ住むおまえなんか、妃の器じゃありません!
髪も瞳も灰色のおまえは、王子様の隣に立っても陰のようにしか見えないわ!
わたくしのように、ピンク・ブロンドを風になびかせ、輝く青い瞳で王子様を見つめられる女こそ、妃として王子様の隣に立つべきなのです!
分不相応な望みは捨てて、灰色のぼろクズは、とっとと森へお帰り!!」
ローナのピンク・ブロンドが、炎のように立ち上がって揺らめいた。
青い瞳は、宝石のように輝き、ホーデリーフェの灰色の目を射た。
右手の指輪の青い石から溢れ出た光は、呆然とするホーデリーフェを包みこむと、青い光の玉となってどこへともなく連れ去った。
「ローナさん!!」
部屋に灯りが点り、明るさが戻ったとき、ローナに真っ先に駆け寄ったのは、代理人の青年だった。
「あ、あなたは、いったい何者なのですか? わたしが作った『姿変えの指輪』に、あんな力を与えてしまうなんて?! あれは、魔力以外のなにものでもありません!」
「わ、わたしには、何の力もありません。あなたがおっしゃるように、今日も自分の役割を一生懸命果たしただけです。今日が最後の仕事になる気がしたので、王子様をお助けするだけでなく、少しでもあなたのお役に立ちたいと思ったのです」
青年は、ローナをひしと抱きしめた。
彼の本当の名は、オーウェン・バーリス侯爵。魔道士侯爵と呼ばれた、エヴァン・バーリスの一人息子だった。
魔力を神に返上した父に代わり、魔道士としてこの国を支えてきた人物だ。
彼は彼で、ホーデリーフェと王子の結婚を阻もうと、『姿変えの指輪』を創りだし、本職悪役ヒロインを育て上げることに力を注いできたのだった。
最初に指輪が見つけた女性は、あろう事か二度目の仕事で、婚約を破棄させた大金持ちの伯爵の子息と結ばれ、指輪も仕事も放り出してしまった。
国中を旅して、ようやく指輪が見つけたのが、ローナだったのだ。
ローナは、家のため、弟の将来のために、二年間ひたむきに仕事に励んだ。
そして、どうにか、今日に間に合わせることができたのだった。
彼女の仕事ぶりを近くで見守り、力を貸すうちに、オーウェンはいつしか、仕事が終わっても彼女を手放したくないと思い始めていた。
「おい! オーウェン! 彼女は、わたしの『真実の愛』の相手だぞ! なぜ、おまえと抱き合っているんだ?!」
ようやく事態を理解したデリック王子が、二人の所へ近づいてきた。
「王子! もう、大丈夫です! ホーデリーフェは、おそらく森へ封じ込められました。二度と出てくることはありますまい。万が一出てきても、わたしとローナで必ず魔力を押さえて見せます!」
「ローナ? 何を言っているんだ?! 彼女は、アナベラだ! わたしが『真実の愛』を捧げる新たな婚約者だ! 早く彼女から離れろ、オーウェン!」
ローナは、オーウェンの腕から抜け出すと、右手の指輪を左手で握り、ちから一杯叫んだ
「わたしは、悪役ヒロインなんかになりません!」
ローナの指からするりと抜けた指輪は、左手からこぼれ落ち、広間の床を滑るように素早く転がっていった。
人々は、目をこらしてその行方を追ったが、指輪は姿を消してしまった。
栗色の髪の毛、榛色の瞳に戻ったローナを見て、王子は腰を抜かした。
その王子を見下ろしながら、ローナは、本職悪役ヒロインではなく、家族思いの貧乏男爵家の令嬢として王子に言った。
「王子様、あなたが『真実の愛』を捧げようとした、ピンク・ブロンドの髪で青い瞳のアナベラは、もうここにはおりません。
ここにいるのは、栗色の髪で榛色の瞳のローナ・ゴールウェイです。
そして、わたしが求める『真実の愛』は、あなた様ではなく、オーウェン様のものなのです!」
「ローナ!」
オーウェンは、再びローナのそばに寄ると、先ほどよりも力を込めて彼女を抱きしめた。
ローナの体からあふれ出す、温かな魔力と愛を彼は確かに感じ取っていた。
その様子を見て、王宮にいた人々は理解した。
この国は、ピンク・ブロンドの髪と青い瞳を持つ本職悪役ヒロインと、王国を我が物にしようと企む伝説の森の魔女を失った。
しかし、栗色の髪と榛色の瞳を持つ、心優しい新たな魔女を得たのだということを――。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
何にでも「プロ」と呼ばれる人はいるものだなあ――と思い、パパッと書きました。
ゆるほわな設定のお話ですが、楽しんでいただければ幸いです。
※誤字報告ありがとうございました! お世話をかけました。いつも助かっております。