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タイトルは最後の主人公のセリフです。




 その夜、僕は宇宙人に出会った。


 なにを唐突にと思うかもしれないが、まあ聞いてほしい。そいつは空から降ってくるでもなく、宇宙船から降りてくるでもなく、道路の端っこに立っていたのだ。

 立っていた、という表現もあまり似つかわしくない気がする。兎にも角にも、会社から帰宅する途中で、僕はそいつと出会したのだ。

 見た時は幽霊かと思った。酒を飲んだわけでもないのに酔っているのか、とも。街灯の光を受ける姿は粘土の塊のようで、しかしてそいつの足は地面に触れてはいなかった。髪も服もない、手足もわからない。リス、あるいは蝶に似た形をしていた、ように思う。

 普通黒くなるはずの影の色は目を引いた。修学旅行で行った、沖縄の海のような色をしていたのだ。とっくに沈んでしまったはずの太陽が、そいつの影の向こうにあるのではないかと思った。

 そんな光景を、僕以外に眺めている人は居なかった。残業に残業を重ねて深夜二十三時。もうすぐ日付が変わるという頃だったのだ、他に通行人がいる方が珍しい。平日ともなれば以ての外だ。朝方ならばもう少し人通りもあるのだが。僕の営業時間を気にしてくれた人が居たなら礼を言おう。

 閑話休題。そいつの横を通り過ぎる必要があった僕は、正直相当狼狽えていた。角を曲がったら、ほんの数メートル先に未知の物体があるのだ。肝が据わっているわけでも、正気を失っているわけでもない僕は思わず立ち止まった。本能が警戒したのだろう。優秀なものだと思う。

 足を止めた僕を、そいつはゆっくりと振り向いた。振り向いた、ように思うだけで、実際のところはわからない。ゆらりと揺れた粘土の塊に、悲鳴こそ上げなかったものの、僕は本気で怯えていた。敵わないと、漠然とそう思った。

「         」

 突如、そいつは音を立てた。浴槽にお湯を溜めるときのような音だった。何かを話している、それもこちらに声をかけてきている。そう思ったのは、漠然とではない。そいつが、そう思わせてきたのだ。なお、これは後で知ったことである。

「   、   ?」

 ゆらり、ゆらゆら。そいつは姿を変えた。音もなく、粘土の塊は鏡になった。目の前に立つそいつは、僕と瓜二つの格好をしていた。そのくせ言葉は発せないのか、今度は卵の殻を砕くような音を立てた。

 そいつが尋ねてきた事柄を、僕は五秒ほどかけて理解した。

「僕は、この星の住人です」

 なにを言っているのか、自分で混乱したものである。それでも、確かに僕は、そいつが僕に尋ねた言葉を理解した。否、させられたのだ。恐らくは、貴方はこの星の住人なのか、と。

「  、 この   の、ぼく ?」

「この星を、僕達は地球と呼んでいます」

そいつは口を動かして、いくつか聞き取れる単語を落とした。学んでいる。学ばれている。その感覚は、畏怖にも近いものをもたらしていた。

「 ち、僕    の この、ます  ちきゅう」

「へえ、そうなんですか」

全くわけがわからないと思うが、僕はこの時、そいつから星の名前を聞いたのだ。そいつが、地球のことをなんと呼んでいるのか。発音は難しくて、ついぞ覚えることは出来なかったが。

「そう、です⋯⋯はじめまして。突然、話しかけてしまってすみません、僕は遠い星からやってきたのです」

いきなり流暢に話すものだから、別の誰かが現れたのかと思った。ゆっくりとお辞儀をして、そいつは笑みを浮かべてみせた。写真で見た自分の顔よりも、そいつの笑顔は上手だった。

姿勢も同じ、発音もピッタリ。ただ一言二言、問いかけに答えて相槌を打っただけなのに。会社に出向いても誰も違いがわからないだろう、家族でも判別が出来ないかもしれない。見せていない笑顔を真似され、お辞儀も謝罪も、なにもかも。人間を、奪われた心地だった。

「どこか、貴方とゆっくりお話ができる場所はありませんか?」

そいつの影はちゃんと黒い。僕と同じ色をしている。

思えば拒否権はあったように思うが、こんな非日常を、僕は死んでも離したくなかったのだ。



ファイル1


「此処が貴方の家ですか?」

「はい。正確にはこのマンションの、三階の一室ですが」

「三階、の」

「入ってみれば分かりますよ」

駅から徒歩十分の場所にある高層マンションの、三◯五号室が僕の家だ。コンビニとドラッグストアが近くにあるもので、なかなか立地も良い。

「この空間にも名前が?」

「エレベーターといいます」

大人しく僕の後を着いてくる姿に、好奇心はないように思えた。キョロキョロすることもなく、不用意に色んなものに手を伸ばしたりしない。する必要がないからなのかもしれないが。

「これはなんですか?」

「鍵ですよ。これを使って扉を開けます。僕だけが入れるように」

そいつはなんでも知りたがった。特に物の名称は、どうにも俺の思考から勝手に読み取れるものではないらしい。

「別の扉を開けるものとは形状が異なるようですが、全て鍵というのですか?」

「扉を開けるために使うものは、おおよそ鍵と呼ばれます」

表札には九条と書かれている。僕以外に住人は居ない、一人暮らしである。マンションはペット禁止だ。

「此処で靴を脱いでください」

「分かりました」

見様見真似で姿だけ模したのかと思いきや、そいつはちゃんと靴を履いていた。よくよく見れば靴についた傷も同じ。真似というよりは、コピーに近いもののようだ。

「ここが、貴方の家なのですね」

「はい。好きなだけ見ていってください。僕に答えられるものがあれば答えます」

リビングと寝室、あとは風呂とトイレとキッチン。収納スペースが少しと、テレビやソファ。仏壇はないものの、人間の、ひいては日本人の家としてはごく一般的なものだろう。

さて、なにから質問するのだろうか。一番目に付くのは、やはりテレビだろうか。それともカーテンだろうか。鞄を置いて、夜食にカップラーメンでも作ろうかと思いながらそんなことを考えていた。

「では、まず貴方のことを教えてください」

「⋯⋯そういえば、自己紹介がまだでしたね」

言われて漸く思い至った。確かに僕達は自分について話していない。出会した場所から此処までが近かったために、まとまった時間が取れなかったのだ。興味がないのかとも思っていたが、成程。ゆっくり話が出来るところで聞きたかったのかもしれない。

「改めまして、九条柳といいます」

「くじょうやなぎ」

「はい。数字の九に、条件の条。柳は僕の名前です」

それだけ言うと、そいつは一度口を噤んだ。数字に言葉に名前。全て知っているのか、それとも全て知らないのか。名字と名前が分かれているのも、人間特有かもしれない。

「わかりました。では、柳」

「はい」

「僕の名前は      といいます。柳には発音が難しいでしょうから、キリとでも呼んでください」

「キリ、ですか?」

「この二文字の発音が、好ましく思えたので。好みではありませんか?」

「いいえ。その名前で呼ばせてもらいます」

どうやら地球上の生物以外にも、好みというものは存在するらしい。確かに、濁りのない凛とした発音は心地の良いものがある。僕の承諾に、キリは笑みを浮かべてみせた。

「柳のこと、もっと沢山聞かせてください」

「はい、勿論」


そうして、僕達は互いに色んなことを話した。僕の歳を話せば、年月について尋ねられる。星の自転、公転、閏年についてなんかも話した。血液型を話せば人体の構造の話になる。血液型占い、なんてものがあることも話した。

キリの話も聞いた。キリの星がどれくらい遠くにあるのか。どうやって来たのか。目的は何か。桁違いな光年の先にある星から、人間のいうところのワープをしてきたのだと。今は、一人で色んな星を旅しているのだと。

次の日が休みだったこともあり、僕は眠気も空腹も忘れて話をした。キリに眠気や空腹があるのかはわからないが、声色は楽しそうに思えた。話が一段落した頃には、丑三つ時に差し掛かっていた。



ファイル2


「⋯⋯あの、すみません⋯⋯話の腰を折るんですけど、少し食事を取ってもいいですか?」

「はい」

虫の鳴き声のくせに、話し声よりも大きかったのだ。まったくもって恥ずかしいことである。が、人間相手ではないのだ。丁度良い、日本人がアメリカ人にするように、人間の文化を知ってもらうのも悪くないだろう。そう思った。

僕が何故俺が謝るのか、分かっていないような顔でキリは頷いた。あるいは、話の腰を折るということが分からなかったのかもしれない。

「カップラーメンなんですけど、良かったら食べますか?」

「どんな食べ物か、見てからでも構いませんか?」

「はい、構いません」

戸棚からカップラーメンを取り出して、食器棚から小さな器を取り出した。ソファから腰を上げて漸く気付いたが、話に夢中になって、なんとスーツを脱ぐことも忘れていた。笑える話である。小さな鍋に水を入れて、コンロにかけた。

「食べる前に、スーツをハンガーにかけましょう」

「スーツ、ハンガーとは何ですか?」

「スーツは今着ているもの、ハンガーはこれです。スーツにしわがつかないようにするものです」

プラスチック製の黒いハンガーを渡して、僕とキリはスーツを脱いだ。ネクタイを外して、靴下も脱いで、キリがそれを真似した。

「よければ僕の部屋着を着てください」

「これを、部屋着というのですか?」

「部屋の中で着る服をまとめて部屋着といいます。単体ではこっちはトレーナー、こっちはズボンといいます」

僕は黒いトレーナーを、キリは青いトレーナーを着た。色褪せたズボンをそれぞれ履いて、スーツはクローゼットに仕舞った。真似をしているとは思えないほど、キリは慣れた手つきで僕に続いた。

「そろそろお湯が沸いた頃でしょう」

「料理ができたのですか?」

「いいえ、まだです。あと三分かかります」

キッチンに戻って火を止めた。とめどなく泡を吐く湯は、みるみるうちに大人しくなる。半分ほどカップラーメンの蓋を剥がして、お湯を注いでタイマーをセットした。

「キリはお腹が空かないんでしたよね?」

「はい。この星では」

「僕の姿を真似していても、ですか?」

「はい。身体の機能を真似するのには、手間をかけます」

「どれくらい手間がかかるのですか?」

「まずは遺伝子の配列を、今の僕の作りと置き換える必要があります。すぐ戻れるように今の僕と同じものを作ってからの方が手間が省けるのですが、この星では重力が足りません。また、細胞分裂を繰り返すためのエネルギーをこの星で作るためには──」


タイマーの音がするまでの間が、やたらと長く感じられた。

「三分が経った音ですか?」

「はい、これで出来上がりです」

「⋯⋯問題なさそうです」

「それは良かった」

どうやって問題がないと判断したのか。蓋を剥がしただけのカップラーメンを眺めながら、満足そうにキリが呟いた言葉。それを、頭がパンク状態にあった僕は一切言及しなかった。問題がないならなによりである。

麺とスープを少しずつ移した器を、箸と一緒にキリに渡した。日本人の多くは好きであろう味だが、お気に召すかはわからない。

「箸はこうやって持つんです」

「こうですか?」

「そうです。それから、食べる前にはいただきます、を言います。手を合わせて、食材に感謝をする言葉です」

「いただきます」

「いただきます」

飲み会に付き合わされて、誰かと一緒に食事をすることは珍しくない。それでも、いただきますを一緒に言うのは久々だった。食べ慣れたカップラーメンも、その時はなんだか美味しく感じられた。

予想通り、なんの問題もなく箸を扱うキリは、しかし一向に食べようとしなかった。ラーメンを口元に持っていったところで、手の動きを止めてしまったのだ。

「キリ、どうかしましたか?」

「⋯⋯ああ、気にしないでください。これが僕の、食事の取り方なのです」

どうやって食事をしているというのか。キリは麺を口に含もうとしないし、スープを飲もうともしない。スープからは変わらず湯気が立ち上っている。匂いでも食べているのだろうか、と、思ったときだった。

「あれ?」

キリの器の中が、少なくなっていることに気付いた。

「僕には胃も消化液もありませんから、こうして分解しながら自分の中に取り込んでいるのです」

麺が短くなっていって、スープが減っていく。直視していても気付かない程ゆっくり、滞りなく。口に含んで咀嚼するのではなく、直に分子や原子レベルまで分解しているのだと、気付くのに時間がかかってしまった。

そのとき、ふと、頭の中に疑問が浮かんだ。

「それは美味しいんですか?」

「美味しい、とは何ですか?」

やはりか。無理もない、原子一つ一つに味がするなんて、聞いたこともない話だ。味覚がなくてもおかしくはない。

「味覚のことです。甘い、苦い、と感じたことはありますか?」

「ありません」

「人間は、味覚という感覚を持っています。食べ物にはそれぞれ味があって、人間にはそれを感知する味蕾という細胞があります。ラーメンは塩辛い味がします」

スープを一口飲んで、麺を啜った。ずるずると音を立てながら食べるのが苦手なので、せっせと箸を動かして食べる。キリほど静かには食べられないが。

「自分の好みの味がすれば、それは美味しいということになります」

「成程」

僕が食べ終わる頃には、キリの器は使う前のように綺麗になっていた。



ファイル3


「飯食ったら眠くなってきた⋯⋯」

「就寝ですか?」

「そうですね⋯⋯キリは眠くなるんですか?」

「この星では眠りにくいです。眠る必要も今はありません」

食器を洗って、ソファに腰を下ろして、五分も経たない頃だった。くあ、と欠伸をしながら目を擦る僕を、キリは興味深いといった様子で見てきた。欠伸はうつらなかったようだ。

眠気とは恐ろしいもので、自分の意志など聞いてくれない。思考が、ぐらりと揺れる。

「ああでも、もう少し話をしてたいんですよね⋯⋯」

瞼が鉛のように重くなって、指先からは熱が逃げた。思い返せば何十連勤したことか。毎日のように残業を繰り返して、ろくな休みもないままで。ハラスメントの数々に耐えながら働きっぱなしだったのだ。自覚してしまえば、夥しいほどの疲労が眠気と共に押し寄せてきた。

しかして、そのおかげでキリと出会うことが出来たのである。普段恨めしいばかりな会社にも、たまには感謝しなくてはならないようだ。

「キリ⋯⋯まだ、此処に、いますか?」

「はい」

キリの声色は変わらない。自分で発する僕の声とは、ほんの少し違う声。電話口で聞く声は、こんな感じに聞こえるのだろうか。

違う、違う。そんなことを考えている場合ではない。このまま眠ってしまったら、キリはどこかへ行ってしまう。話をするために家に来たんだ。まだ、日常に戻りたくはない。どうしたら、キリを繋ぎ止めていられるのだろう。

ぐらり、ぐらぐら。焦りが、眠気に続いて頭を揺さぶった。

「なにか、したいこととか、知りたいこととか⋯⋯あります、か?」

「この世界の知識と法則が知りたいです。したいことは、それを知ってから、出来ることをするでしょう」

うつらうつらと船を漕ぎながら、キリの声をただ聞いていた。眠たくて眠たくて、それでも、キリと隔たれることが嫌だった。まだ話していたい。まだ知りたいことが沢山ある。

「この世界、の、知識なら⋯⋯図書館、とか、ネットとかですかね⋯⋯」

「この家にあるものですか?」

「⋯⋯パソコンも、なんでも、使っていいです⋯⋯図書館、は、いまはあいてない、から⋯⋯」

まだ、眠りたくない。キリがどこかに行ってしまう。行かないでほしい。こんなに、楽しいことは久々だった。友人も居なくて、家族ももう遠くて。

誰かと、話をすることすら。

「⋯⋯だから、まだ、⋯⋯ここにいて、ください⋯⋯」

じわりと、目頭が熱を帯びた。


目が覚めたとき、僕はベッドの上で横になっていた。

「⋯⋯⋯⋯キリ?」

声は少し掠れていた。部屋が乾燥しているせいだろう。喉が渇いて、頭がぼんやりとする。時計を見れば九時になろうとしていた。休日は、午後まで眠ったままでいることが殆どだ。まだ眠いはずである。

「⋯⋯キリ、⋯⋯?」

もう一度名前を呼んでみる。返事はない。ああ、ああ。だから、眠りたくなかったのだ。ざあ、と眠気が引いていく。静まり返った寝室には、僕一人。おはようという言葉を、教えることが出来なかった。もういない。キリがいない。また、一人になってしまった。

それでも、ほんの少しの希望に縋りたかった。この先に居はしないだろうかと。青いトレーナーを着たキリが、ソファに座っていないだろうかと。のそのそと起き上がって、まだ熱の残る手で僕は、リビングへの扉を開けた。


「⋯⋯⋯⋯は?」

ソファと、テレビが一つずつ。簡素なリビングが、目の前にある筈だった。

「おはようございます、柳」

「⋯⋯おはよう、ございます⋯⋯キリ?」

「はい、私です」

目の前には、何台ものパソコンが宙に浮いていた。家のパソコンは寝室にあった一台だけのはずだが、そこには、形も違う様々なものが並んでいた。

「すみません。呼びかけは聞こえてたんですけど、身動きすることが難しかったので」

「そ、そうでしたか⋯⋯」

「この星の全てを知るためには、パソコン一台では足りなかったので、テレビと洗濯機をお借りして幾つか作らせていただきました。これらは後で私が元の形に戻しますので、心配しないでくださいね」

宙に浮くパソコンのキーボードを、叩く指は存在しない。キリは一人、部屋の中央に座っているだけだ。それでも画面は忙しなく動いて、見たことない言語を映し出している。一つは論文、一つは動画、一つは図鑑のようなものを。瞬きの間に動画は終わっていた。

パソコンにばかり目がいっていたが、キリは先程、一人称を私にしていた。キリの姿は眠る前と同じである。人間の構造を話したときに性別はないと言っていたが、どういうことだろう。

「日本の図書館は閉まっていたので、図書館の開いている国へ行ってきました。日本語の辞典をいくつか読んで一人称が他にもあることを知りましたが、私というのがこの国では一般的なようなので使ってみました」

「⋯⋯なんか、饒舌になってますね」

「沢山知識が入るとテンションが上がるので」

いつの間にそんな単語まで覚えたというのか。キリが居たことには安心したが、変わりようには少しついていけない。ただ昨日と変わらず居るだけなら、それはもう涙を流して喜んだだろうが、まさかここまで変わっているとは思わないではないか。

「どうぞお気になさらずお過ごしください。もうじき終わります」

「そ、そうですか⋯⋯」

「冷蔵庫にお土産も入っています。お好きに召し上がってくださいね」

「えっマジですか」

「本気と書いてマジと読みます」

誰だキリにそんな言葉を教えたのは。困惑と喜びの狭間で溜息を吐きながらも、キリの邪魔をしないようにと心ばかりの遠慮として足音を忍ばせた。

冷蔵庫にはよくわからない魚の刺身が入っていた。


「それと、柳。今日の予定はなにかありますか?」

「え? いえ、なにもありませんが⋯⋯」

「では海へ行きましょう」

「へ?」



ファイル4


キリはどうやら僕の夢を覗いたらしい。

「柳の夢に海が見えました。修学旅行に行ったときの光景でしょう」

「ああ⋯⋯言われてみれば、そんな感じの夢を見た気がします」

恐らく、昨夜のキリを見たときの影響だろう。キリの影が、沖縄の海のように青く鮮やかな色だったことは記憶に新しい。修学旅行に行ったのはもう十年は前の話だというのに、夢に出てくるとは。よく覚えているものだ。

「夢の中の柳は、とても懐かしんで、楽しんでいました。行きたくなければやめますが」

「行きたくないわけがないです。でも、もう昼ですよ。飛行機が⋯⋯」

「大丈夫です」

自信満々といった表情で、キリは僕の手を取った。キリの手はじんわりと温かくて、炊きたてご飯からのぼる柔らかな湯気みたいだった。

それから、僕は沖縄に行くための準備をした。明日には仕事があるので、勿体ない気もするが旅行は日帰りだ。沖縄は星が綺麗に見えるため長居したくなるが、致し方ない。行けるだけで充分過ぎるほどだ。

財布とハンカチと鍵、携帯と充電器。他に何を持てばいいか分からなくて、ひとまずこの五点を鞄に入れた。持ち物が少な過ぎると不安になるのは僕だけではないだろう。

「で、どうやって行くんですか?」

「地下を通っていきます。さっき掘りました」

「さっき⋯⋯⋯⋯」


キリの掘ったトンネルを、キリの作った車で通った。車と表現していいのかわからないが、タイヤのようなものが四つ付いているので車と呼ぶことにする。運転手は居ない。完全自動運転である。

どこまでも真っ暗なトンネルを、真っ直ぐ、真っ直ぐ走っていく。車内は明るいが、ライトはついていない。エンジン音も、騒音の一つもない。暗くて、静かで、振動もない。僕とキリは向かい合った状態で、座席に腰を下ろしていた。食事の時と同じだった。

「車を作る材料はどこから?」

「多くはゴミ処理場からです。後は、砂漠の砂や海底の石など、使っても害のないものを選びました」

「こんなのがゴミから出来るんですね⋯⋯全然匂いもしないのに」

「消毒はしてありますよ。海を汚すのはいけないそうなので、空気で綺麗にしました」

キリはなんでもできる。一晩で、海を跨いで地球を知り尽くした。洗濯機とテレビから何台ものパソコンを作り上げて、それを元の形に戻した。一瞬で論文を読み、教科書に載っていない冗談を言うようになった。沖縄までの深くて長いトンネルを掘って、ゴミから車を作り出した。

ふと、一つが脳裏に浮かぶ。キリにはもう既に、地球に用はないだろう。キリは、この地球上のなによりも強くて賢い。確信を持ってそう言える。ウイルスも核爆弾も、キリには絶対に敵わないだろう。どんな博士やコンピューターより、ずっとずっとキリは賢くて。そうなれば、もうこの星は退屈なのではないだろうか。

「キリは、一晩調べ物をしてましたが、なにかわからないことはありましたか?」

「いいえ、なにも」

なにも、わからないことはない。無知の知は大事だ。自分の知らないことがあるということを、知る。ソクラテスの言うことはもっともだと思う。

それでも、キリは、本当にわからないことがないのだろう。人が人を傷付ける理由も、動物が話す言葉も、人間やコンピューターが知らないことも。全て、わかっているのだろう。

「もう、この星に居るのは退屈ですか?」

口をついて出た言葉は、不安の色を纏っていた。

頷く姿を見たくなかった。キリにとっては退屈だろうが、僕にとっては一生に一度とない機会だった。ずっと一緒に居たいとすら思うほどの。

「私の答えを、柳はもうわかっているでしょう?」

キリは、なんでも知っている。僕の考えることも。僕の願いも。僕が、わかっていることも。

──だから、貴方はそんな顔をするんだ。


沖縄に着いたのは二時過ぎだった。

昼食がまだだったため、近くのレストランにて食事を済ませた。僕はソーキそばを食べて、キリは水を飲んだ。なにか頼んでもいいと言っても、キリは遠慮をした。

「美味しいという感覚を、私はあまり好ましく思わなかったので」

味覚も、どうやら知っていたらしい。どうやって知ったのかはわからないが、良いものではなかったようだ。好き嫌いがあるのは意外だと言えば、一緒に食べられなくて申し訳がないと言った。


「潮風の匂いはわかりますか?」

「はい。味覚よりは、好ましく思います」

僕達は食事の後、僕が修学旅行で来た場所を訪れた。寄り道をしたくもあったが、少し距離がある。歩いて歩いて、時々辺りの景色を楽しんで。辿り着いた景色が、あの頃と変わらないのか、それとも。それは僕にはわからなかった。

人の居ない砂浜をスニーカーで歩いて、波打ち際に視線を落とした。まだ日は高い。寄せては引いていく波が、白い泡を立てて騒いでいる。砂が透けるほど透明なのに、視線を上げればエメラルドグリーンが広がっている。

宝石のような色だと思った。太陽の光を浴びる波模様は繊細で、一瞬だって同じ顔をしてくれない。水平線の向こうまで続くその色は、春に散らばる新芽と空の一番高いところを、水晶の器で混ぜたような色をしている。淡くて神秘的で、写真で見るよりずっと綺麗だった。

「恩返しになりましたか?」

「⋯⋯はい、とっても」

「それは良かった」

キリの横顔は変わらない。僕と同じところにある黒子が目についた。シワが見える。いつの間にか、僕も随分と老けてしまったようだ。

「⋯⋯キリはこの海を、綺麗だと思いますか?」

「はい。綺麗です」

僕を見て、キリは微笑みながらそう告げた。

「柳に、もう一つしたいことがあります」


キリには色が見えていないという。

「私の感覚を、少しの間柳と繋がらせます。そうすることで、私の見ている世界を、柳にも見せることが出来ます」

「僕にも色のない世界が見えるということですか?」

「はい」

色のない、要はモノクロの世界ということだ。白黒写真のようなものだろうかと、そう考えると少し虚しいような気がする。目も眩むような宝石が分からなくなるのは、無論白黒でも波の動きは綺麗だろうが。

「嫌であればしませんが」

「⋯⋯いえ、大丈夫です。お願いします」

しかし、これが終わればキリは帰ってしまうのだ。少しでも長く居たいと、足掻くのは不様だろうが知ったことではない。それに、少しでもキリを知ることが出来るなら、どれだけ嬉しいことだろう。

「では、目を閉じてください」


僕は、なにもわかっていなかった。それでも、おそろしいことをしたと、それだけが目を開かせた。


「開けてください」


なにも、わかっていなかったのだ。知らなかった。知ってはいけなかった。僕が知るには、僕はあまりに下等だった。

「⋯⋯っぁ、ひ⋯⋯っ、ああ、ぁ⋯⋯」

その光景を、人間の言葉で表すことはできなかった。空から降り注ぐ幾千もの星の輝きを、この世の誰だって見たことはない。引いて寄せる波を喩えることはできない。新芽や空だなんて、そんなものじゃない。太陽の光はこんなにも弱いのに、白よりも明るい空気が泳いでいる。黒よりも暗い海が、星からの視線に歌声を差し出している。無数の静寂が空へと逃げていく。

口を両手で覆っていなければ、啼き叫んでいたに違いない。見開いた目が潤んだことに殺意を覚えた。瞬きすら惜しい。一瞬でも世界を閉じたくない。

モノクロなんてものじゃなかった。色がないからと、白黒写真なんてものじゃあなかったのだ。世界は、こんなにもおそろしかった。絶望と快楽を飲み込んだ感覚だった。深く深く落ちてくる空は、息をすることすら忘れさせる。海に溺れたい。息をするのが不敬だ。足元に広がる砂は、嗚咽が漏れるほどに満ちている。

世界の少しだって人間は知らなかった。知らないことを、知った気になっていた。視覚が全身の感覚を支配している。記憶も常識も意味をなさない。誰にもわからない閉塞が、音楽が、安寧が、絶佳が、呼吸が、片鱗が、最弱が、恍惚が、不穏が、意味が、背徳が、犠牲が、絶頂が、終末が、円環が。


「どうして」


こんな世界を、僕に見せたんですか。


「哀れだと思ったからですよ」

「僕達は、人間は、罰がいりますか」

「それは私のすることではありません」

「キリは、ゆるしてくれますか」

「ゆるします。この星のことも、柳も」

「こんなものは、あまりに可哀想です。僕が可哀想です」

「見たくないものでしたか?」

「そんなもの、そんな、知らないです。こんな、ものがあるなんて、どうして僕なんですか。どうして、僕に見せたんですか。僕は、この世界しか知らないのに!」

「柳を救いたかったんです。それだけです」




「生き返りたいですか?」





そういうことです。

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