7. 不思議と激しい
不思議と激しい悔しさはなかった。観客席をみやると、暁を除けばたった四人のチームメイト達がよくやったと拍手したり唇を噛んで頷いたりしてくれる。
(……こういうのもいいな)
それっぽくて、と微かに胸にじんときてしまった暁だった。生まれ持っての、いや生まれる前からの仏頂面に、他人がそうと読み取る隙はなかったけれど。それはそうと、と畳の外を見回すと、ヘッドガードを外してくしゃくしゃの短髪をさらした童顔が、今しもこちらに振り向いたところだった。
闘いに高揚して微かに潤んだ大きな目と目が合う。まだ活性化しているアウラのせいだろうか?体育館の強い照明を浴びて、あの頃のようにギラギラと宝石のように輝く彼の虹彩までよく見える。板敷に大股で踏み出すと、こちらの考えを読んだようにあちらもまた近寄ってきた。逸らしたら負けだとばかり、がっちり視線を結んだまま。
様子を客席から見ていた部員達が、とうとう正面衝突かとつい声を上げるほどの勢いで、二人は間合いを詰める。裸足の爪先のつくかつかないかの位置まで出張って鼻先を突き合わせたかと思うと、先に軽く頭を下げて高めの声を張ったのは光太郎の方だった。
「あっシタ‼︎これで空手始めたばっかって、すごいね⁉︎」
「経験者がマウントとったつもりか?俺を誰だと思ってんだよポンコツ」
闘いの場以外では存外に懐っこくて幼げな笑みを浮かべたあの天使と寸分違わない、小さな唇をそっと持ち上げて微笑んだ光太郎に、暁は万感込めて呟いた。
「神の使い・伝言者・闇裂く光ジブリール・ヌール。この日をずっと待っていたぞ」
「…………」
「……」
「………………」
目の前の青年の曖昧な笑みと沈黙が続いて30秒が経った頃に、さすがの暁も異常に気がついた。
「……?」
「…………?」
訝しげな長身のイケメンに、つられるように訝しげにことりと首を傾げて、光太郎がやがて精一杯のさりげなさをひりだして言った。
「あの、ごめん……俺あんま最近のゲームとか漫画とか知らなくて」
「?ああ……俺もだ」
一時期は俸給の大部分を注ぎ込む勢いで、裏ルートから漫画を買い漁っていた者同士の会話とは思えないな、と暁が自嘲する。それを見た光太郎が突然憐むように眉を下げ、言い放った次の一言は。
「まじかよ、暁くん。それ……オリジナル設定なの?さすがにやばくね?せっかく顔とかかっけーのに、台無しじゃん?」
「……⁉︎」
「いやわかるよ?俺も小学生の時に授業中にふと思いついた巨大ヒーローロボのネーミング口走っちゃったことあるし。『ギャンガリオン……』つって、ギャングのギャンで絶対かっこいいだろって、でもまあ今はさ……もう高二じゃん?さすがに人前では言わないよ、せいぜい部屋で一人ん時ちょっと呟くくらいでさ。架空の名前なんて!」
そのあっけらかんとした一言に殴りつけられたように、暁は思わず一歩よろけて後ずさった。
試合中に食らったどんな打撃よりも重く激しい一撃で、頭を割られた気がした。
(こいつ……記憶が)
だが相手から前世の記憶が消えていること自体より、数千年の記憶を蓄えた老練たる青年・暁煉人のショックの大部分を占めていたのは。
(それならそうと先に態度で示せよこのポンコツーーーー……‼︎)
なんだったんだよあの試合前の思わせぶりな微笑みは⁉︎素か⁉︎あれが素なのか⁉︎割と誰にでも宿命のライバル風の態度取れちゃうタイプか⁉︎それが絶対王者として下々の者にかける情けなのか⁉︎クッソ、リア充男子高校生怖ぇ‼︎これみよがしにアウラ放出したのもまさか無意識⁉︎『俺たちようやく再会したな』的な眼差し何度も感じちゃったのも全部勘違い⁉︎つまり俺はまったく初対面の経験の厚い空手の大先輩相手に公衆の面前で『試合前にインフルかかるなんてポンコツ』って難癖つけて、挙げ句の果てに『ジブリール・ヌール』とか自分設定の名前で呼びかけてライバル宣言した死ぬほど痛い残念な長身イケメンキャラに成り下がったということ…………
「死のう」
「えっダメ。自殺。絶対」
ちょっと直球で言いすぎたかもと慌てて両手を振ってフォローに入ろうとする光太郎の気遣いが、余計に暁を惨めにさせた。
(記憶……ねぇのか)
「元気出しなよ、大丈夫、誰もがちょっとずつ恥ずかしい厨二経験を経てきたんだから。ギャンガリオン以外のエピソード聞きたい?聞きたい?」と真剣に眉を凛々しくする相手を見下ろしながら、暁は拍子抜けした頭の中でぽつりと思う。
(それならそれで……よかったのかもしんねぇ)
拍子抜けしなかったと言えば嘘になるが、ようやく一つ荷が降りたような気分でもあった。ようやくこれで、全て思い出にできるような。完全に新しい自分で再出発できるような。暁の冷たい顔立ちがわずかに緩み、光太郎がおしゃべりをやめて不思議そうに見上げた。
その時。
「…………なんの音だ?」
不意に形の良い弧を描いた暁の眉が歪み、出入り口の一つに目をやる。
「……?わかんない。赤ちゃんの声……違う、猫……?」
光太郎もつられて視線を逸らす。いくつかのコートを隔てた、ちょうど反対側の出入り口だ。低い、さぞかし毛を逆立てているであろう怒った猫の声が微かに聞こえる。この巨大な体育館の真ん中で。一匹ではない。数匹。いや、十匹?それどころではない、数十、数百の人ではないものの呻き声が建物の内外から響いてくる。審判員や大会参加者、客席の観客も気付いてどよめき出した。向かい合ったまま反射的に丹田に力をこめて両足で床を踏ん張り、二人は言葉も視線も交わさないまま今度こそ直感を共有した。
(何か来る)
少なくとも、暁の背負ってきた荷を少しも軽くするものではなさそうだった。
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