5. それから三ヶ月
それから三ヶ月が経った今である。
インターハイ地区予選を兼ねた大会の開会式の待ち時間に、高身長に道着の堂々たる態度で、暁は強豪・桁山学園の空手部員たちのたむろする観客席通路に大股で近寄った。その落ち着き払った風格からは、とても空手を始めて数ヶ月とは思われなかったに違いない。ただその腰元には初心者マークである白帯が燦然と結ばれているわけなのだが、この際関係なかった。
狡猾な蛇の一族であった名残なのか、家族で暁だけが目の端が切れ上がっている。その視線の先にはただ一人。幼なげな輪郭がほんのりと纏う後光のような輝きに、誰も気がつかないのが不思議なくらい、目指す青年の雰囲気にはただならぬ(そしていけすかない)清廉さが漂っていた。立ち止まって薄い唇を開く直前、傍らの部員が彼に向かって耳打ちするのももちろん見逃さない。
「苫馬高の暁煉人だ。四月の大会組手でいきなり優勝した」
ドリンクボトルを片手にこちらをじっと見つめる、色素の薄いどこか透明な印象の大きな瞳に、脳を揺さぶられる気がした。銀の砂を詰めたようだった強烈な光線を放つあの瞳が、今生でこちらを見返している。
(数奇な巡り合わせってやつか)
当たり前と言おうか、生まれてから前世の知人に出会うのは初めてである。まして相手とは並々ならない因縁があった。戸惑いと同じくらい大きなある種の期待に、唇の両端を釣り上げ八重歯を覗かせて笑うかつての癖をつい蘇らせながら、暁はけれん味たっぷりに言い放った。
「インフルで病欠とかまじでポンコツだな」
案の定、相手の周囲は色めきたつ。血気盛んな坊主刈りの部員が、即座に「てめぇ誰に口聞いてんかわかってんのかコラ」と外股で近寄ってきて、顎の下から睨み上げてくる。知らないはずがない。この会場にいる全員が荒野光太郎の名前を知っている。小学生の頃から激戦の都大会で負けなし。中学、そして高校と全国でも常に上位に入賞する小柄な強者。だがこの四月に開催された別の地区大会では、直前にインフルエンザ陽性が発覚し、無症状ながらも暁の初試合を見ずに棄権した選手である。
「あんたじゃない。ソイツに言ったんスよ」
「ビギナーらしいじゃん?調子乗ってんじゃねぇぞ」
話の通じないチンピラ風情と、少年漫画以外で初めて接する暁が、つい感銘を受けてまじまじと相手を見つめたその瞬間。
「やったん、いいよ」
電光石火だった。暁の道着の襟を掴みかけたチンピラの手を、白い小さな手ががっちり掴んで止める。
「こ……コーチンは出てくんな、やめとけ」
あまり『やったん』ぽくない彼が、たちまち凶悪そうな毛量豊富な眉をさげ、わずかに取り乱したようだった。それに同調するように周囲から「やめとけ光太郎」「試合前だぞ」とたしなめる声がかかる。彼が味方からも相当に恐れられる猛者である証拠だろう。
(上等だ、不足はねえ)
すぐ傍らに立つ、頭ひとつ分近くも背の低い彼と視線を合わせる。好戦的に煌めくはしばみ色の瞳が上目に睨み上げ、生意気そうな童顔がゆっくりと、暁にだけわかる程度に微かに微笑む。まるで石膏のクピド像のような淡麗さで。まだどこか半信半疑だった暁は、完全に理解した。彼こそ因縁の宿敵、地獄を照らし灼く者、楽園最高峰のアウラ量を誇ったジブリール・ヌール本人。
何もかもわかっていると言わんばかりの懐かしい眼差しのまま、光太郎は一つ咳払いをしてから、もったいぶった啖呵を切り出した。
「俺をバカにしたければすればいい。でもな、」
あれだな、『仲間をバカにするのは許さない』のカードを切る気だな、と脊椎反射で暁は予測する。むしろ心から待望する。スマホを荷物に置いてきたことを後悔し、今日帰ったらやはりライターサイズのボイスレコーダーを買おうと心に決めたその時、迷いのない唇が滑舌の良い声できっぱりと宣言した。
「インフルのことをだせぇとか言うな」
「えっ……」という空気と、「だめだ……」という諦めの空気がなぜか桁山の部員たちの間に満ちてからようやく、暁は期待が裏切られたことに気がついた。一瞬、『インフル』という名前の仲間がいるのかとすら思った。残念ながらそうではなかった。
「インフルエンザは恐ろしいウイルスなんだぞ、こうしてる今も変異?を続けて細かく分けると世界中に何千種類も存在すんだって、その中から毎年頑張って流行りそうなやつを考えてワクチン作るんだけど、あいつら進化のスピードが早すぎて薬が効かない菌、あの、たい……にんたい……たいへん……なんだっけ?」
「……耐性菌か?」
医学部志望の暁がつい助け舟を出すと、光太郎は素直にパッと顔を輝かせた。
「そう!そのたいせい菌がどんどんできてて。だからえーっと、インフルは凄すぎて予防するしかねぇんだぞってことで、え?なにやったん腕引っ張んないでちょっと待ってこの人にわからせてやんねーと、俺今回すげー勉強したから弟たちに教えるために、まぁその弟から感染されたんだけど、えー要するに何が言いたいかっていうと」
長広舌を振るっているうちになにがなんだか分からなくなってきている風な光太郎が、チームメイトを振り切って、やめればいいのに大きく声を張り言い切った。
「そうだ‼︎インフルをバカにするってことは、自分をバカにすんのとおんなじだぞ‼︎気を付けような‼︎」
「……」
そうして僅かに誇らしげな兄貴ヅラで再び暁を睨みつける。喧嘩の買い言葉のように見せかけて、意外に思いやりに溢れた結論に終わった彼の言葉に、暁は今更気がついた。
(こいつ……まさか俺と部員たちの間に立って、荒んだ雰囲気をはぐらかそうと……?)
らしいと言えばらしい元・慈愛の使いの心遣い。だが一度戦火の火蓋が切って落とされれば、戦闘に特化した天使の野蛮ぶりは悪魔でさえ目を覆うほどだ。目の前で不敵に微笑む光太郎と改めて視線を合わせ、暁は懐かしい嫌悪感に内臓を焼かれながら内心呻く。
(この偽善的でしたたかなポンコツ天使が……!)
目と目で宿縁の火花を散らす二人の間に割って入り、やったんが「てめぇコーチンに当たる前にうちの誰かが試合でボコボコにすっからな!」と、光太郎のに比べればはるかに体裁の整った捨て台詞を吐いて部のエースを引きずって行く。他の部員が口ぐちに「光太郎を試合の前に喋らせんなっつったろ」「完全に舐められますもんね……」「ちょっと頭がな……アレだからな……」と肩を落としながらこちらに背を向ける。まんまとジブリールの策に乗せられている人間共に、(頭がアレだと?)と歯痒い思いもしつつ。それでこそ我が宿敵と、暁はますます闘志を漲らせたのだった。